弁治は肱でとんと五助の横っ腹を軽くついて、お前お話し申せというような顔をする。五助は五助で、一つ兄貴からお願い申して呉んねえなという様子で暫くの間埒があかない。小吉は家の方へ歩き出した。弁治があわてて袖を捕えて
「この野郎また飛んでもねえ失敗《しくじり》をやりやして」
といって、ごくりと唾をのんで
「猿江の摩利支天の講金を費い込みやがって」
と、今度は二人一緒にぺこりとお辞儀をした。
「おれにそれをどうしろというのだ」
「へえ」
といったが五助は当人だけにどうにもいい難い。弁治がじれて、
「こ奴の妹というのがなか/\別嬪でしてね。それが両国の水茶屋に出てましたが、もう二、三年も前から摩利支天の神主の吉田蔵人の妾になった。気だての優しい女なもんですから、大層可愛がられて、その縁で五助も摩利支天へちょい/\出入をしていました」
「逼出しをかけたか」
小吉はからかい顔である。
「飛んでもない」
と今度は五助が大きく手をふって
「逼出しどころか妹を可愛がっていたゞきてえと、こっちは滅法気をつかって、悪く思われまい、悪く思われまいで精一ぱい。たまには一杯飲めといってお金を下さっても固く辞退をして頂戴しなかったんですよ」
「ほう」
小吉は暗い中でじっと五助を見詰めた。
「本当にそうなんですよ」
弁治が勢いづいて
「それが半年ばかり前摩利支天もふところが余り良くねえといいましてね、亥の日講というのをはじめました。一人一と月三文三合。五助にもそれからそれと手蔓をもって、信心の者を加入させたら、いくらか小遣になるだろうとの仰せでしてね、こ奴が夢中になって駈廻った迄はいゝんです。歩合の事などではなく一人でも多く加入させて妹の顔をよくしてやりてえ一心なんだが、御承知のような貧乏、遂い知らず/\にその加入金を一文二文と費込んで終いましてね。今はにっちもさっちも行かなくなっちまったと申しますんでさあ。もしこれが神主にばれたら、折角可愛がって貰ってる妹に迄迷惑がかゝる、兄が悪い奴だからといって、もし嫌われでもしたらおのが身を切られるより辛い。何んとかして、|ぼろ《ヽヽ》の出ねえ中に、その穴を埋めてえという」
といった。
小吉は
「わかった」
と強い調子でいって
「摩利支天は侍の神様だ。そこら辺の剣術遣いを片っぱし引張り込めば、五助の費込みの穴埋め位はすぐに出来るだろう」
「へへーえ、存じませんでしたが摩利支天というのあお武家様の神様なんで」
と顎を突出すようにする五助へ
「馬鹿奴、何んの神様かも知らねえでお前講中へ人を入れたか」
「へえ」
「あきれた野郎だ。あれはな、お日さまの眷族だ。通力自在。昔から武家がこれを念ずれば一切の危難を免れる勝利の神様となっている。その神様の講金を費込んだのだから、今にきっと大罰が当るぞ」
「罰ですか」
「そうだとも。唯、そ奴を避ける法が一つある。お前、すっぱりと足を洗って堅気になり、名前もけえて神様をごま化して終う事だ」
「そんな事が出来やすか」
と弁治が顔をくっつけた。
「出来るとも。その代り、今迄堅気になりましたの足を洗いましたのといっては蔭でちょいちょい悪い事をやってやがる。それをやってると、やがて四ン逼いより外には歩けねえ犬見たような姿になるぞ」
「ほ、ほんとですか」
「嘘だと思ったら、好きなようにしろ」
やがて小吉に別れて戻る二人は、互に肩を抱合って、ぽろ/\涙をこぼし乍ら
「有難てえ/\」
と何度も/\くり返していた。
小吉が猿江の摩利支天へぶらりと拝みにやって来てから、もう三月《みつき》も過ぎて終った。少し夜更けになると冷え/\して、もう冬がすぐそこへ来ている。
神主は小吉の顔をみるといつも逼うように丁寧に礼をした。
「剣術をなさるお方々にお顔の広い勝様のお蔭で亥の日講も四百人にもなりました。来月の亥の日には、神前にて奉納の踊など神いさめを致し度く思いますから、何分にもどうぞ宜しくおたのみいたします」
「承知した」
小吉はうなずいた。誰にも一とこともいわないが講金の歩合は一文残らず五助に渡したし、四百の講中三百迄はみんな小吉が引入れた人達だ。江戸中の剣術遣いは固より、百姓町人、両国界隈の大道での小|商《あき》ン人《ど》、さては巾着切から掻ッ浚い、見世物小屋の若い衆までいる。固より弁治も骨を折ったし、幼馴染の緑町の縫箔屋の長太、深川油堀の前町蛤町の金太郎まで総出で骨を折った。
実はこの摩利支天は二、三年前どうした訳か不意に盛り出して、神主の吉田も金が儲かり、実弟の源太郎へ大竹という御家人の株を買ってやった。それから五助の妹を妾にしたが、それがまた妙なものでどう風向きが変ったものか、急に信心の者が少なくなったところへ今度また亥の日講をやって、忽ち盛んになったものだ。神主はいつも、勝様の方へは足を向けては寝られないといった。五助との関係は知らない。
十月の亥の日、朝起きたらそこもこゝも真っ白い霜だ。いつもより一と月早い朝霜だが、いゝお天気で、だが朝の中は時々頬を切るような冷めたい風がそよいだ。
その頃は本所猿江町といったが今は深川。小名木川に沿って猿江橋の舟会所前を通って左へ入ってもよし、菊川橋から真っすぐ東へ出て旗本の斎藤摂津守の屋敷に沿って右へ切れてもいゝ摩利支天堂。まだ霜の消えない中に、この前へずらりと大勢の小商ン人が見世を出した。
弁治が小吉を迎えに来た。紋付を着て来た。小吉はぷッと吹出して
「お前、紋付を着て参詣人のふところを掏るのか」
「ご、ご、御冗談でしょう。今日はあっしも摩利支天の世話人の一人、稼ぎどころの騒ぎじゃあござんせんよ」
「おゝ、お前も世話人か」
「三十八人の世話人、一人残らず紋付を着て来いというあゝたの仰せだから、いやもうあっちでもこっちでも大変な騒動だ。あゝたはね、あっしに足を洗え/\とおっしゃいますがね、どうしてどうして、うか/\とその口車にはのられませんよ。あっしと、五助と二人分の紋付を借りる損料屋の前金で、きのうまた久しぶりに稼ぎをしなくちゃあならねえ羽目になりましてね」
「馬鹿奴、そんならそうと何故おれがところへいって来ねえ」
弁治はにやっとしただけで無言だった。そこに利平治が立っていて、これもまた淋しそうに、にやっとした。
やがて二人が家を出る。出際に
「お信、お前もお詣りをさせたいが、麟太郎がひょいとして風邪でもひくといけないからね」
そういって行った。
摩利支天では神主は新調の立派なぴか/\した装束を着て正座に坐っている。講中がぞろ/\ぞろ/\入って行く。小吉は弁治と二人、門前の露店をひやかし乍ら
「賑やかだなあ」
「へえ、みんな摩利支天はじまって以来と眼を丸くしています。いゝ小前もンの助けになりますね」
この時丸髷の若いいゝ女が斜め横に立停って瞬きもせずにじっと小吉を睨むように見詰めていた。眦が切れ長に吊っている。小吉は知らない。
流石に弁治だ。これに気がついた。
「勝さん」
「なんだ」
「あ、あれ、あれを」
真逆指さす訳にも行かないので、ちょっと顎をしゃくって、その女の方へ眼を流した。
「おゝ」
「知ってらっしゃいますか。妙な怖い顔でこっちを見てますね」
「はっはっ。あ奴あな。おれが御|祖母《ばば》様にいじめられて家出をし、伊勢路で乞食をした時に道づれになった黒門町の村田ってえ紙屋のせがれの長吉というものの嫁になる筈だった女だが——いつかもおれがところへ不意にやって来たことがある薄っ気味の悪い奴だよ」
「立停って睨んでますぜ」
「参詣よ、ほっとけ」
小吉は、どん/\商《あき》ン人《ど》の前を通って摩利支天へ入って行った。
夕方になって催しが一段落になると、講中へ酒肴、後ちにはお膳が出てだん/\酔払うものがある。小吉は弁治と五助に
「お前ら、一ぱいも飲むなよ。こんな時の只酒に酔っ払うのは一番|見難《みにく》いものだ」
ときびしくいった。そんな事をいいながら見ると、神主の吉田がもう大変に酔っ払って、日頃はおとなしい人物なのだが、大声で喚き出している。
「この吉田蔵人には、かねてから金などは馬に喰わせる程もあるのだ。いくらでも飲み食いするがいゝ。この頃噂にきくと、亥の日講が盛って裕福になったなどといっているものがあるそうだが、こんな講中が何んだ」
弁治がもう顔色を変えて神主の側へ立って行った。
「もし神主様、あゝた、こういう席で申していゝ事と悪い事がございましょう。今日は亥の日講でございますよ。まして、あすこには勝小吉先生もいらっしゃる。お静かになさいまし」
「何?」
と神主はじいーっと弁治を見て
「お前は世話役の松坂町の弁治だな。世話役が何んだよ。勝先生が何んだよ。この摩利支天はな、常に神主の吉田蔵人と申すものの背に乗っていらっしゃるのだ。お前らには見ようとしても見る事は出来ないが、修行を積んだこのわしには何時でもお姿を拝ませるのだぞ。未熟のものにはお姿を見る事も捕える事も焼く事もぬらす事も出来ない。弓を持ち御剣を持ち天獣にまたがっていつも日の光の前を矢よりも早く駈けさせて来られる。そのこう/″\しいお姿を拝む事の出来ないお前らだ。講中が盛んになったのはそんなお前らの為めと思うたら飛んだ間違いだ。この神主の神通力によって、こうして人が集ったのだ。文句をいうなら、お前も、勝さんも、とっとと帰って終え。お前らがかえったって、講中が一人でも減ったら、吉田蔵人が江戸中を逆立で歩いて見せるわ」
いきなり、ぱっと平手で弁治の横頬を張った。
弁治が頬を押さえて引っくり返った途端に、小吉が神主の前へずばッと膝を揃えていた。
「おい、吉田、今の言葉をもう一度云って御覧」
「これは勝先生」
「おれは酒を飲まぬから知らぬが、生酔でも本性はあるだろう。おれがいなくなっても講中は一人も減らぬといったな」
「その通り。神の力で集ったものが、あなたがいてもいなくても、かゝわり合いのない事だ」
「そうか。それに間違いないな」
「間違いない」
「この大勢の人の中で、神主ともあるものが仮りにも講中の世話役を擲るとは不届千万。もう一度訊くが勝がいなくなっても講中は一人も減らぬな」
「減るものか」
「よし」
と小吉はすでに立ちかけて
「おい、勝小吉は御旗本だぞ。大人気ないが神主風情に然様《さよう》な太平楽を並べられて引込んでいては天下御威光に相かゝわる。おれは帰る」
といって、
「みんな、勝は唯今限り亥の日講はぬけた。お、弁治も来い」
堂の内はまるで蜂の巣をついたようになって終った。主立った講中は、みんな小吉の足許にまとわりつく、刀の鐺をつかむ。前へ立ちはだかる、袖をつかむ。
「酔っているんですよ勝様、勘弁してやって下さいましよ」
「いや酒が好きならいくらでも飲め。がその為めに取乱したからとておれは容赦は出来んのだ。この男の身状《みじよう》についてはいろ/\耳にした事もある。今日はもう勘弁がならぬ。勝は講をぬけた。みなさんは好きになさるがよろしい」
さっと振払って、もう小吉の姿は人々の渦の中にはいなかった。堂の段々を降りたところに、またあの長吉の許嫁だったお糸が立っていた。うしろから転がるようについて来た弁治が
「あの女、またいやがる」
そういったが、小吉はそっちを見向きもしなかった。
途中まで来た。
「真逆五助はついて来まいな」
「へえ。知らぬ顔でこゝにいろと叱りつけて来ました」
「お前にしてはそ奴は上出来。そうしなくてはいけない。あ奴の妹思いが無駄になっては可哀そうだ——が、弁治」
と暫くむっつりとしてから
「考えて見ると、おれもまだ一人前ではないようだなあ」
「え?」
「神主が西の久保で百万石も持ったような太平楽を並べるからとあんなところで腹を立てるようでは、はっ/\/\、兄に叱られるのが本当かも知れない」
が、心の中では何んだかおれもあの兄に似ているようなところがあるな、血の繋がりは争えぬものだと、ふと、そんな事を思った。