小吉はそういってから突然大声で笑って、
「こゝでお前と剣術の論をしていても仕方がない。機会《おり》があったら邪魔に出る」
といったのは、急に目まいがするようで、何にか物を嘔きたくなって来たからである。何れにしても麟太郎が帰る迄は、こゝで待たなくてはならぬ。そのまゝ急いで兄の屋敷へ入ろうとして、足元がぐらついた。
「粗相をしてはならん」
小吉は腹の内でそう思って、ぐっと力を入れたが、その時、すでに精一郎がうしろからしっかりと抱いてくれた。
「大した事はないが、ちょいと風邪《かぜ》の塩梅《あんべえ》だ」
「いけませぬ。暫くお臥《ふ》せなさるがよろしゅう御座いましょう」
「そうさせて貰おう」
男谷の屋敷の一と間に臥せて、女どもに命じて精一郎が薬湯などをすゝめると、小吉はいつになく素直にのんで、そのまゝとろ/\としたようであった。顔が次第に紅くなって、汗を一ぱいかいたのを精一郎が枕元をはなれずに介抱した。
彦四郎と麟太郎が帰って来たのは夕の|七つ刻《よじ》であった。駕が門を入る時に入江町の鐘が響いた。
この気配を知ると、小吉は飛び起きてあわてて上下姿になり、廊下へ飛出して手をついて迎えた、斯うしなくてはいられない不思議なものが胸の中に咄嵯に渦を巻いている。精一郎はすでに玄関へ出て行っていた。
彦四郎の足取りは軽かった。すぐうしろにくっついて麟太郎は子供に似ず落着いた瞳を輝やかせていた。
「小吉、上乗の首尾だ」
「上、上、上乗の首尾?」
「奥へ参れ。ゆるりと話す——これよ誰ぞ祝儀の用意をいたせ」
怒鳴りつけるような調子でそういうと、もう歩いていた。麟太郎は
「父上」
と小吉の前で
「御城はお広うございますねえ」
といった。小吉は唯瞼をうるませて、呟くように
「上乗の首尾——」
と繰返した。
障子を開けるとところ/″\に雪を残した広い美しい庭が見える。故平蔵が縁近くに出て、若い女どもに酌をさせ乍ら、よく月などを見ていたあの座敷の一番上座に、彦四郎は麟太郎を坐らせた。
小吉|父子《おやこ》が、入江町の家へ帰ったのは、もう|五つ《はちじ》に近い頃だった。お信は小紋紋付に着かえて出迎えた。
「お帰りだ」
小吉はそういって
「お信、麟太郎は二十四日から御城へ上る事になったぞ。春之丞君家来だ。もうおれらが子であって、おれらが子じゃあないよ」
途端にがく/\と膝が崩れて、そのまゝ上り端へ前|倒《のめ》るようにしがみついて行った。
それっきり、何にも彼も夢うつゝで、ひどい高熱は流石の小吉の正体を全く無くして終っていた。
夜の|八ツ半刻《さんじ》になって、川から上ったように汗をかいて、ふと小吉はおのれに返った。枕元のお信をみて
「お前起きていたのか。おやすみな。どんな高熱だろうが何んだろうが、ほったらかして置いたところで勝小吉が、こゝでぶちのめされて堪るものか」
「さようで御座りますとも」
「麟太郎はどうしている」
「先程までお城の大奥のおはなしなど申して居りましたが、眠らせましてございますよ」
「びく/\しちゃあいないか」
「びく/\どころで御座りますものか。従一位様《いえよしさま》は、こういうお顔、春之丞様は斯ういうお顔、御家来衆は斯う/\、御女中衆は斯う/\、お小姓がこういう拵えの立派な御刀を捧げてうしろについてなどと詳しく話して居りました」
「落着いてやがるなあ」
「その上阿茶の局様は大叔母上との事ですが、どうして麟太郎がところへはこれ迄遊びにも見えないのかなどと」
「こ奴あ閉口だ。お前何んといったえ」
「お局方などはなか/\町々へお退りの事などはないものだと申しましたところ、麟太郎も御城へ上ったら、やっぱりこの家へは来れないのですかと訊きました」
「で?」
「そうだと教えましてござります」
「そうか。お信、ひょっとしたらあ奴は鳶が生んだ鷹どころか、天へ登る竜かも知れねえよ。はっはっは」
一と言いっても息が切れる。固より早急に熱の下がる事はないのだが、小吉はむく/\と起き上った。
「何にをなさるのでござりますえ」
「夜が明ける迄にゃあまだ半刻《いちじかん》の余はあるだろう。おれは、妙見堂へ行って来る。お礼言上だ」
「そ、そのおからだでそれは御無理でござります」
「といって、頼む時は頼んだわ、首尾はいゝわで、さて知らぬ顔でいられるものか。罰が当る」
いくら小吉でもこれは無理だ、玄関を出ない中に、どうしても諦めなくてはならなかった。
夜が明けて来る。前の日一日雪晴れの暖かさで、その前夜の雪はもう日蔭の辺りに忘れられたように残っていて、今日も天気か空が銀鼠色にぱあーっと光っている。
お信はとう/\まんじりともしなかった。庭へ出て、明けて来る空をじっと見ていると、いつの間にか、それが、あの帰って来た時の小吉の如何にもうれしくて堪らないというような笑顔に変って来る。麟太郎のこうぐっと肩を張って、わが子ながら、びくともしない胆の坐った顔つきに変って来る。
何処からか彦四郎の声が聞こえてくる。——花は時が来れば咲くものじゃわ——と。
お信は泣けて来た。
朝になって、粥をすすめたが小吉はとても喰べられない。麟太郎は御飯がすむとすぐに出て行こうとしたが
「これ迄とは事違って、お前は大切なからだ、御城へ上る迄は、もう、何処へも出てはなりませぬ」
とお信にとめられた。
「お母上、それは困ります。麟太郎は、今日は約束があるのでございます」
「どなたと何んの約束?」
「この間横堀の御賄組屋敷の奴らと小梅代地の奴が一緒になって入江町のものへ喧嘩を売ったのです。その時、わたしの方は大勢いたので勝ちましたが、多勢《たぜい》で勝ったのだ、入江町の奴らは弱い弱いと大層法螺を吹いていますので、今日はこちらは唯十人だけで乗込み、あ奴らを叩きのめす事になっているのです」
「こらッ!」
ねている小吉が鐘を割るような大きな声で怒鳴りつけた。
「馬鹿奴! 尊いお方様の御家来が、町家の奴らと一緒になり、喧嘩たあ何事だ、麟太郎、こゝへ来い」
「で、でも——それでは侍の子が嘘をついたとみんなに笑われます」
「笑われてもいゝ、喧嘩なんざあ、馬鹿のする事だ」
お信は、小吉の横顔をちらりと見て、にこッとした。
ところへ
「男谷様からの仰せ付けによりまして駿河町の越後屋から参上いたしましてござります」
もう腰を二つに折っているらしい人の声がした。
小吉とお信が眼を合せた。そして、二人ともほっとした面持があり/\と見えた。彦四郎からの話のあった日から、二人とも互に何んにもいわないが、もし麟太郎にそんな目出たい日が来たら、一体これはどうしたらいゝのだろう。今の貧乏ではとても御城勤めをする仕度は出来ないのである。それが、こうぐうーっと二人の胸に棒を立てたようにつかえて、互に話し出す事が怖くて——といって、話さずにはいられない切羽詰った事なのであった。
小吉は、ふっふっふっふと苦笑した。
「兄上が越後屋をよこしたわ」
お信は手を合せる恰好をして、一寸、眼を閉じすぐに立って行った。
「江戸一の呉服屋が、おれがところへやって来た。とんと兄上には、頭が上らなくなりゃがった」
彦四郎は阿茶の局と打合せてすでに細かく指図をしてある様子。年をとった番頭と若い手代が二人、麟太郎をおもちゃのようにして衣裳一切、下帯の果てまでの寸法をとって帰って行った。
このどさくさで、麟太郎はとう/\喧嘩に出て行く鼻をくじかれて、そのまゝ有耶無耶で家を出る事は出来なくなって終った。ひどいふくれっ面で、その日ばかりか次の日まで不機嫌でやゝともすれば大の字に引っくり返って駄々でもこねる気配であった。
二十五日は初天神。
その前日の二十四日に麟太郎は、彦四郎と駕で御城へ上って行った。仕度荷物の吊台が三台、後へつゞいた。小吉も風邪はどうやら癒ったというものの、まだ顔色も蒼かったし、腹に力がなく足許もふら/\したが、この駕側へ供侍のような恰好でついて行った。
麟太郎は明日の初天神に春之丞君の御対手御供をするのが御奉公初めで、それからはずっと大奥の御側に起臥《ねおき》して入江町へは一年に一、二度位よりは帰れない事になる。送り出す時に、お信はきっとしていたが、却って小吉の方が今にも泣きでもしそうな気配であった。何処からきいたのか大勢近所の者が集って、麟太郎の日頃の喧嘩対手の子供達も、みんな土下座をして送った。そのわい/\いう人のうしろには、弁治もいたし五助もいたし、金太郎も緑町の長太も確かにいた。
屋敷では大名同様の仕度い放題をしている彦四郎だが供侍をつれて駕で御城へ上れる身分ではない。御門のずっと手前で下りて肩を並べて御城へ向って歩いて行く麟太郎と、彦四郎が、いい合せでもしたようにふと一緒にうしろを向いた。小吉ははっとして礼をした。お櫓に朝日がさして、それを背景にそこに立つ麟太郎の姿は親の目には一人前の大きな立派な/\侍に映った。
「おゝ、竜が登るわ、登るわ」
小吉は心の中で思わずそうつぶやいた。
彦四郎が御城を下って来たのはお昼近く、途中で待っていた小吉を睨むようにして
「わしは阿茶の局の取りなしで遥かこなたの御廊下端で拝したんだが、春之丞君が御老女と共にお待ち兼の御様子でな、御書院御縁までお出ましであったぞ。小吉、斯くなってはお前も今迄のような事ではいかん。自分は僅か四十俵の小普請だが、伜は尊いお方の御家来。もう自儘は出来ぬ。立派な侍らしいその日を送らなくてはならぬ。いゝか、これからは剣術ばかりではなく学問に出精しろ。わしがいゝ師匠へ添状をつかわす」
といった。
入江町へ帰って来た。
「おかしなものだなあ、奴が一人いなくなって火が消えたようだな」
いわれたお信も如何にもがっかりと力がぬけた顔つきをして
「あれの素読の声が耳についていて離れませぬ」
といった。
「素読で思いついたが兄上はおれに学問に通えという。この年でとんと文字のねえおれが、子供のような物を教わるも気まりが悪いが、麟太郎が偉くなって、おやじが文盲も閉口しようからなあ」
「学問をなさるはよろしい事でござります」
「だが本当をいうと、おれや嫌やなんだ」
「え?」
「死んだ父上が、兄上を、あ奴は生きた本箱だといった。おれも学問をしたとて、所詮は兄上のようなもんだろう」
「それは違いましょう。学問というはそれを積んだ人間によって、生きもし、死にもするとよく御父上様がおっしゃりました。お前さまは生きた学問をなされませ」
「そうだなあ」
しかし、何んだかんだといっては小吉は彦四郎へ添状を貰いに行こうともしなかった。それで何にをしているかといえば何んにもしない。唯朝からぼんやり家の中でごろ/\している。妙にこう深い水の底のように淋しいのである。お信とて気持は同じ事だろうが、小吉はとてもいつ迄この辛抱は出来そうではなかった。日がくれかけるといっそ淋しい。近所の子供達の歌う声などが、ぴん/\と耳へ入って、時々、いきなり、表へ出てっては
「うるせえ」
と大声で怒鳴ったりした。その度にお信にたしなめられた。
行灯を中に針仕事のお信と向い合っている時など、ほんとうに麟太郎のいない淋しさは、小吉でなくてはわからなかったろう。
よくこんな時には、小吉は突然家を出て、大横川ッぷちを真っすぐに四町ばかりの、妙見堂へ飛んで行った。
みんな講中などがいる時はそのみんなが——能勢家の人々は固より堂守なども
「勝様だ、勝様だ」
そういって下へも置かぬもてなしをする。大勢に取囲まれて居心地がいゝし、第一、麟太郎今日の出世は、御利益だと時々不意にそんな事を思ったりもする。小吉はこゝにいる事が多くなった。お信にはその気持がよくわかる。が、いっこうに学問の師匠への添状を貰いに来ない小吉を、彦四郎がまた怒り出した。
道場へ精一郎を呼びにやった。そして精一郎を見るや否や
「お前、小吉奴をぶちのめして呉れぬか」
といった。精一郎はほうーというような顔をした。
「あ奴は馬鹿ではないが、父に甘やかされて育ち剣術に憑かれているから、今日に至るも心が大地を踏めぬのだ。一度死ぬ程ぶちのめされたらきっと正気づくだろう」
彦四郎は本気でいっているようだ。