流石の精一郎も、父のこの言葉にあきれ顔であった。
「とても/\」
といってから
「ぶちのめすどころか、叔父上はわたくし輩の仮初《かりそめ》にも打込める対手ではありません。いやわたくし許りではない、江戸中に大勢いられる諸流の師範にも先ず歯の立つ方はいられない。云わば古今の名手でございます」
にこりと笑った。
「ほう」
彦四郎は口をへの字にして暫く黙ってから
「ほんとか」
と顎を突出して訊いた。精一郎は
「父上にいつわりを申して何んと致しましょう。先般も父上に申上げました恩師団野真帆斎先生の年回追悼のためわたくし道場での諸流門の試合について、総行司《しんぱんちよう》はどなた様にお願い致すべきやと内々の相談をいたしましたところ、誰一人として、それこそ勝小吉と申さぬお方はありませんでした。これを以てしてもおわかりいたゞけるかと存じますが」
彦四郎はまた
「ほう」
今度は少し反って、同時ににこりとした。
「あ奴が——」
精一郎も父の心の内にこみ上げて来る微笑らしいものを早くも見て、自分もうれしそうにした。
「精一郎も、早く仰せによって叔父上をぶちのめす程の腕になりたいもので御座います」
「そ、そうか」
さっきは本当に怒って精一郎にあゝいったのが、いつの間にか、それを忘れた。また
「そ、そうか」
といった。
「実は叔父上に、わたくし道場へお越しをお願いいたしましても、父上より堅く出入を禁じられた身だと申してお出でがいただけません。父上から何んとかお言葉をいたゞきたいと思いますが」
「道場へ来なくては総行司《しんぱんちよう》は勤まるまい」
「そうです」
「そうですではない、道場へ来なくては総行司は勤まるまいというのだ」
「はい、わかりました」
「死んだ父が、わしを生きた本箱と蔭口をいっていたときいた事がある。小吉が剣術以外に取柄がないように、わしも学問以外に取柄のない人間かも知れんとこの頃時々思う事がある。剣術の事はな、道場の事はな、悉くお前に任せてわしは知らん、口出しはせんと先日も申したろう。あの道場がお前のものである上は、わしが禁じた事など何んになる」
「はい。確《しか》とわかりました」
彦四郎は精一郎のその言葉を小耳に一人で何度もうなずいていた。
文政十二年は正月十八日の江戸開府以来と噂された程の大雪をはじめとして、もう桜の咲く日を数えるというのに、よく雪が降った。春の雪は、さしている傘をさらさらとすべって、足許へさあーっと一度白粉をはいたようになると途端にすっと消えて行くという。
小吉ははじめの内は、彦四郎から学問の事で今日は何にかいって来るか、明日は何かひどい叱言があるかと、いくらかはそれが気になっていたが、あれっきりなので近頃はこっちもすっかり忘れて終った。
その日はまるで定《きま》り事のように、朝の中にさらっと淡雪が降ったが、それっきりお天気になって雪の跡形もない。小吉は縁側へ出て、爪をきっていると、ぽん/\と隣り屋敷の地主の岡野から小鼓の手の立ったいゝ音がした。
「お珍しく今日は岡野の殿様はお屋敷でござりますね」
とお信が居間の方から声をかけた。
「そうらしいな。千五百石とはいいながら、岡野がところもせがれの主計介《かずえ》が、父に輪をかけ滅法もねえ道楽だから、おれがところに優る貧乏だ。たまに帰って来れあ呑ん気そうに鼓を打ってやがる。その心根はうらやましいが奥様《おまえさま》ばかりが可哀そうだなあ」
「さようで御座います。主計介様に御番入の日勤をなさるお気でもあれば、御本家岡野出羽守様は固より御祖父様がお勤めなされた役筋の権門方に手蔓もあるに、いっこうその気もありませんのでは、昨日も奥様《おまえさま》がおっしゃって、ほろりとなされてお出ででござりましたよ」
「御祖父様は大そうな切れ者で、追々立身の噂だったが、乱酒が祟って亡くなってからは、今の殿様の女道楽がはじまって、家重代の目ぼしい物さえ売払うという有様ではもうどうにも法がつくめえ」
ほんの少しの間で鼓の音がぱったり止んだと思ったら、間もなく裏口からじかに庭へ廻って
「おい、勝さん、何処か面白いところはないか」
と、たった今噂をした岡野孫一郎が顔を出した。肥った目の大きな人だ。
「これは驚いた、あなたの面白がるようなところを、この勝が知るものか」
「いやあ、噂にきいたぞ。おのしこの頃は能勢の妙見で大そうな羽ぶりだというではないか。一つ連れて行ってくれ、その御威光にあやかりたい」
「これはます/\驚いた。神仏を遊びどころと思っていられるか」
「そうじゃあないさ。あすこは開運除厄の神というから、おれもあすこへお詣りをして、少々運を開いて貰いたいのだ。こう貧乏ではやり切れない」
どういうつもりか、小吉は
「よし」
と諾いた。
岡野は一度屋敷へ引返して仕度をすると、二人は肩を並べて出て行った。小吉は
「あなたは今日がはじめてだから、黙ってこの勝についていればいゝ。あすこはあれで慾の深い色々な奴が集るから下手に口出しをすると、どんな事が起きないとも限らない。心得ていて下さい」
「はい、はい。委細承知」
と岡野は上機嫌で大きく頭を下げた。雪はない。風は少し冷めたいが爽やかである。
妙見へ行くと、いつもに無く大勢人が集っていた。小吉が顔を出すか出さないに
「勝様だ、勝様だ」
早くもそんな声が聞こえた。岡野は如何にもなあというような顔をした。小吉は本堂へ上って、ひょいと見ると、法華の行者のような風態の四十がらみの男が、尤もらしい顔をして上座にずばっと坐っている。
「おい、何にがはじまるえ」
立ったまゝ堂守へきいた。
「はい。あの行者様は殿村南平様とおっしゃいましてな。真言の荒行を積まれたお方でございます」
「何にをするのだと訊いているのだよ」
「はい。今日は富ケ岡八幡の富の日でございます。皆様が|かげ《ヽヽ》富の寄加持《よせかじ》をしていたゞくとおっしゃいましてなあ。殿村様が清明様とおっしゃる女の行者様を使ってお寄せなさいます」
「云い出したのは誰だ」
「神鏡講の弥勒寺橋の勘太さんがかげ富の箱子をなさっていまして」
かげ富は富札の当りに賭けてやる|ばくち《ヽヽヽ》で何処かに胴元があって、八方へ箱子というのを出し自分拵えの札の好きな番を売って置く。これが当れば箱子が二分の手数料をとって買った札の十倍の金を届けて行く仕組である。当らなければ胴元の丸儲け、当ってもいわば二分の寺銭が上るようなものだから、手を代え品を代えて一生懸命売りつけるのだ。
「寄加持をして貰うと当るかえ」
「さあ」
「出鱈目放題か」
「そうとも定まりません、当る事もあり当らぬ事もあり」
「まあいゝ、その寄加持を拝見しよう」
小吉はにやっとして、傍にいる岡野の袖をひいて、二人並んで坐った。
殿村は、やっぱり行者の風態をして房々とした黒髪を紫の紐で結んでうしろに長く垂れた若い女を本堂へ廊下つゞきの別間から呼んで来た。面長な二十二、三のいゝ女であった。
「いゝ女だな」
岡野は早くも目をつけて、しかし流石に低い声で小吉に囁いた。小吉は黙っていた。
「これあ当世三美人両国の水茶屋難波屋のきさ女に似てるな」
またいったがやっぱり小吉は対手にしなかった。
殿村は女に幣束を持たせて妙見の正座に据え、一応の神いさめをしてからこれへ向って何にやらわからない祈りをしながら護摩を焚き出した。紅い火が焔を立てて、煙が濃く堂へ籠った。
神鏡講の人達が平伏して一緒に祈っている。小吉は顎を撫でて、にや/\しながら護摩を眺めていた。女行者清明のからだがだん/\慄えて来るようである。殿村の祈りの声も次第に高く大玉の珠数を砕けるように力強くすり乍らその声がやっぱり慄えて来る。女の声は遂に悲鳴のようになったと思ったら、突然叫び出した。
「本日は六の大目。富は六番、十二番、十八番よろし、よろし」
みんな、思わずうわうというような声を上げた。まるで講中が気でも違ったようなそのうめき声が静まるにつれて、殿村の寄加持の護摩も終って、女行者は悠々と立って廊下伝いに別間の方へ戻って行った。
「勝さん、あれあ全くあんな事をさせて置くは惜しいわ」
と岡野はまたいって
「顔の利くおのしだ。何んとかならぬか」
小吉は眉を寄せて、今度はじろりと岡野を睨んだが、すぐに余り馬鹿々々しいというような顔つきになってそっぽを向いた。みんなは、雪崩のように勘太の前へ行き、われ勝ちに六番のかげ富を買っている。
殿村が得意気に小吉の前を通って、やっぱり別間へ行こうとした。小吉は
「おい。殿村さんとやら、おれは、入江町《ところ》の勝小吉というものだが、今のを拝見していて、ほとほと感心した。しかし、こ奴あおれにも随分出来る事だろうねえ」
と声をかけた。殿村は振返って、ちょっとおどしつけるような顔を拵え
「いや俗衆が容易には出来ぬ」
嘔きつけるようにいった。
「どうしてだえ」
「寄加持は悉く法がある、修行をつまなくては出来ない」
「はっ/\、そうかね」
といって
「だがよく積っても見ろ、お前がような何処の馬の骨だか知れねえ者に、あのように器用に出来るを、おれあね、生れながらの御旗本だよ。そのおれが一心を誠にして寄せたら、神様は速やかに納受ある筈じゃあねえか」
殿村は眼を吊上げた。歯をがち/\鳴らして
「御旗本かは知らぬが、行者には行者の法がある。あなたは出すぎた事をいう人だ。神前、御無礼であろう」
「無礼か無礼でねえか、論より証拠だ。どうだお前、おれが前に出て両手をついて礼をしろ」
「え?」
「おれが許すといわねえ中に、お前の額が上ったら、おれは今日からお前の飯炊になる。さあ、来い」
余り剣幕が烈しいので箱子の勘太が真っ蒼になって小吉の前へ逼い出して来た。
「勝様々々」
掌を鼻っ先きへ合せて畳へ額をすりつけている。
「おい勘太、てめえは講中の世話焼きだが、この殿村という行者たあ所詮同じ穴のむじなだから、定めし困る事だろうが、勿体なくも妙見を餌につかった|いかさま《ヽヽヽヽ》は、おれは勘弁ならないのだ」
「そ、そ、そんな事はござりませぬ」
「てめえは、煮豆屋が渡世だというが、かげ富などを種にして、そんな悪事をするよりも、例え利鞘は少なくとも塵も積って山となるのだ、地道に稼ぐがいゝではないか。これ、それが堅気というものだぞ」
「へ、へえ、何にはともあれ、ど、どうぞ、この場はわたくしに免じて御勘弁を願います」
四辺の人達ががや/\騒ぎ出して、小吉との遣り取りのこんな言葉が殿村には聞こえなかったらしい。
馬鹿が少うし図にのって
「そんなことを云われて、わしもこのまゝ引っ込んではいられない。それ程に大言を吐くならば、さ、この目の前でそなた寄加持をして見ろ」
と吐きつけた。
「いゝとも。その先きに今の女に逢って来る」
小吉はすぐそこを立って奥の別間へ駈け込んだ。女は手あぶり火鉢の前にぼんやり坐っていた。
「こら女、貴様、何処の奴か知らねえが、小ばくち打ちの勘太を手先きにあんな行者と腹を合せ、今日は六の大目だなどと白っとぼけて目をよんで、堅気の人達をたぶらかし、富が開いたら違ってたと、まる/\あの銭をふところへねじ込む算段に定まっている。場末の講中をそれからそれと荒し廻っている野郎だろう。え、お、てめえ清明などと勿体ぶってあの行者の嬶《かかあ》か」
女はぶる/\慄えながら、ちらっと眼を廊下の南に向いた窓の方へ流してやった。小吉も自然それを追った。
窓に内ぶところ手の左の肱をかけ、土火鉢に右手をかけて知らぬ顔で外を見ている少しやつれた黒羽二重、月代の延びた侍がいる。渡辺兵庫だ。はゝあん、こ奴|懲性《こりしよう》もなくまだこんなところにまご/\してやがる。これが用心棒影武者か。小吉は内心少し驚いたが笑って
「おい、女。とにかく本堂へ来い。お前が来なけれあ、殿村も勘太も唯じゃあ済まないよ。これからおれが水垢離をとり寄加持の護摩を焚いて祈るから、お前、心に感じた目を云うのだ。さっき云った大目は六と思ったら、そう云ってもよし、違うと思ったらそっちをいうのだ」
小吉は本堂へ戻ると、下帯一つになってすぐに御手洗井戸へ下りて行った。行き乍らふり向いて
「堂守さん、新しい褌を一筋用意しておいておくれ」
といった。