水の音がするとみんな首を縮めた。身にしみて寒くなった。小吉の祈念の声が大きく聞こえて、やがて飛んで戻って来た。
それからはさっき殿村がやった通り、幣束を持たせて女行者を据えて、護摩を焚いて何にやら早口に祈祷をした。大づかみにどん/\柴をくべるので、火炎も煙も大袈裟で、火の粉が本堂の天井へ飛んで行く。みんなはら/\している中に、小吉が慄え出し、女行者も慄え出した。脇差をさし、刀を傍へ引きつけた侍の祈祷姿は、まことに不思議だ。
小吉が途中でやッと烈しい気合をかけた。それに応じて
「今日は八の大目、富は八番、十六番、二十四番——」
女行者が口走った。
「あっ」
誰となくそう叫んで、堂の内の者はみんな呆っけにとられた。
「そ、そ、それではさっきの大目の六番はどうなる」
札を多く買ったもの程青くなって、みんなきょろ/\四辺を見ている。
小吉はすっと護摩壇へ突立った。
「どうだ、御旗本の御威光というものはこんなものだ。何にが真言の行者だよ。みんな——わかられたか。得態の知れねえこんな奴らの寄加持祈祷などとは凡そ|いかさま《ヽヽヽヽ》だ。加持祈祷で金が儲かれあ、誰が汗水かいて働くものか。え。さ、買った札を勘太に返して、すぐに金を受取んなさい。これから先きもある事だから、余り法に脱《はず》れた慾はかゝぬがいゝね」
殿村と女行者が、転がるようにして廊下を逃げた。
「おい、みんな勘太の奴は逃がさぬように」
小吉はそういってから、二人の後を追った。
「先生、渡辺先生」
殿村はまるで泣声だ。渡辺は刀を下げて立っていた。追って来る小吉は見ず、泣ッ面の二人へ
「おれは帰る」
「え? かえるのでございますか。あ、あ、あの男を此儘に」
「帰る。お前ら好きなようにしろ」
「そ、それあ殺生だ。先生、あ奴を、こゝでこの儘にしておいては、この先き飯が喰えなくなります」
「そんな事は知らん。帰る」
渡辺は二、三度、ぴく/\と頬をふるわせたが、そのまゝすうーっと出て行って終った。
小吉はにやりとした。
「おい、渡辺さん、帰るのか」
その声に渡辺は、一度ふり返ったが、何んにもいわなかった。
岡野が来た。
「勝さん、あれは何んだ」
「何処かの剣術遣いだろうね」
「妙に凄味にしているな」
「そのようだが」
殿村と女行者が逃げて行くうしろ姿が見えている。
岡野は少しあわてて
「惜しい女だ」
「どうだ。あなたもいかさま行者の仲間に入っては」
「何処へ行くか、わしは後をつけて見る」
「それも面白いでしょう」
「本当だよ」
どうも驚いたのは、如何に寄合でも千五百石の旗本岡野が、本気になってたった一人のそ/\と女行者の後をつけて何処かへ行った事だ。
小吉もこれには苦笑した。引きかえして本堂へ来て
「これ勘太、てめえ二度とこんな|いかさま《ヽヽヽヽ》を仕掛けて来ると、首を取るがいゝか」
怖い目でにらみつけた。勘太は慄え上って
「へ、へえ。別にそのいかさまの何んのという気持はねえんですよ。みなさんに一儲けおさせ申してえというわたしの考えが間違いの元で、——大目を六といったり八といったり、あんな行者達とは知らなかったもんですからね」
「黙りゃがれ。ぐるでやがるに——札を換えたらとっとと消えろ」
べっとり汗で勘太は身動きも出来ない。やがて帰って行く。本堂前の御手洗井戸の蔭まで行ってやっと堂の方をふり返った。
「余計な事をしゃがる。唯で置く奴じゃあねえのだが、何しろべら棒に腕っぷしが立ちゃがるから」
ぺっと舌を鳴らしてすご/\と姿が無くなった。
堂の方では講中の人達が、今度は小吉をまるで御本尊のようにあがめ出して、勝様々々と大層な人気だ。
「だが勝様が寄加持を遊ばすなんぞとは夢にも存じませんでしたね。あんな行者などを招くと、余計なお金もかゝりますし、当り番でも箱子に二分の手数をとられる。どうでしょう皆さん、これからは富の日には勝様に寄加持をお願い申し、大目を読んでいたゞく事にいたしましては」
如何にも慾の深そうなおやじがそういい出した頃は、小吉はもうそこにはいなかった。
その晩、お信と御飯をたべていながら、小吉はふと思い出して
「岡野の女好きもあれあ気違い沙汰だねえ」
「さようでございますか」
いってるところへ、例によって庭先きから、当の岡野孫一郎がぬうーっと入って来た。
縁の外から
「勝さん、頼みがあって来た」
「おや、岡野さん」
庭の障子を開けると、空は星が一ぱいで、天の川が息を吐いたように白い。小吉はにや/\笑って
「どうでした」
「それについて頼みがあってね」
「まあお上がりなさい」
岡野はのこ/\上がって、それでも少してれ臭そうにお信に一礼して小吉の上座についた。
「実は、女のいどころを確かめてな」
「で?」
「話の脈はありそうだが、おのしのような界隈に顔のきいた人に口をきいて貰わなくては後々うるさい事の出来るも嫌やだ」
「それが心配ならお止めなさるがいゝでしょう」
「いや、そうは行かん。元来おのしは、女には木石だ。兼好法師のいった珠の盃底無きが如しという人だから、ちと話難い対手だが、風流もまた男の本懐というものだよ。一つ、骨折を頼む」
「真っ平だ。小吉には女の事は苦手だ。それにあの行者にはどうやら悪い紐がついている」
「どんな悪い奴がついていたとて、こちらも千五百石の岡野だ。女の心はすぐにこっちへ通うて来る」
「それならなおの事、人手をかりる事はないでしょう。男女の事は他人を交えずその男女で取仕切るが本筋だ」
「まあそう云うな」
「嫌やな事だ」
小吉はちらっとお信を見た。お信は眉を寄せていた。
岡野はずいぶんくどくいう。が、とう/\嫌やだ嫌やだの一点張りで、やがて、岡野はとんだ不機嫌でぷり/\しながら帰って行った。裏木戸を力強くぱたーんと蹴るように閉めた音がした。
「麟太郎がいなくてよかったわ、あれあ不浄の第一だなあお信」
小吉もにや/\して
「岡野さんもいゝ年をしてとんと困ったものだ。馬の骨やら牛の骨やらわからねえ行者女なんぞに使う金があったら、家来の一人もふやすがいゝにな」
「さようで御座いますとも。全く困ったお方でござりますねえ。日々の物にさえお困りなさる奥様《おまえさま》の御苦労をお察しいたしますとほんに涙が出て参ります」
「うむ。ひょっとしたら、あの人は気が違っているのかも知れないなあ。お信、こ奴は或は困ったことになるかも知れねえぞ」
「どうしてで御座いますか」
「いつかおれが家へ担ぎ込んで来た手首のない剣術遣いの渡辺兵庫、あ奴が女のうしろにいる様子だ」
「あの不気味な人が? それは大変な事にならなければよろしゅうございますねえ」
小吉は少し考えていた。
「おれも、あ奴が事はとんと忘れていたが思わぬところで顔を合せてびっくりした」
とつぶやいた。
「でも、そうした人達の事には二度とお触れなさらぬが宜しゅうございます。兄上様のお耳にも入らば、きついお叱りを受けましょう」
「うむ」
仮りに兄などの事はいゝとしても、そんな下らない事が、何処をどう麟太郎の身の上に響いて行かないとも限らない。小吉が、今、お信の顔を見て、それへ思いつくと、背中が冷めたくなる程ぞうーっとした。天へ登りかけている竜へ、邪魔をしてなるものか。
「はっ/\は、桑原々々」
と小吉はぺしゃ/\頭を叩いて
「今日もおれは、ちょいと余計な事をしたかも知れねえ」
とひとり言をいった。
次の日、門の外で仲間を供に何処かへ行く岡野の伜の主計介に逢った。主計介は
「父上が大そう不機嫌でねえ、勝さんは薄情者だなどと一晩中ぶり/\云ってましたよ」
と笑った。
「そうかえ」
と小吉も笑った。
「わたしはね、次第によっては父上に隠居をしていたゞこうかとも思っている」
「え?」
主計介は行って終った。おのれが事を棚に上げて、実のおやじに何にをいってやがる、馬鹿奴。小吉はそのうしろから唾でも吐きかけてやりたいような顔をしてじっと見送った。
男谷精一郎が、勝のところへやって来たのは同じこの日である。もうすぐ御番入だが、今は一介の道場の主だから、これはいっこうに気軽だが、襟筋一つゆるがせにはしないきちんとした着こなしは、その人柄を現しているようであった。
お信の出す茶を
「頂戴仕ります」
といって押しいたゞいて一喫してから、笑い顔で
「叔父上、父はわたくしに、あなたを打《ぶ》ちのめせと云いました」
「ほう。どうしてだ」
「叔父上が学問をなさらぬは剣術に浮かれて大地に足がついていぬからだ、一度死ぬ程ぶちのめされたら正気づくと申すのです」
「はっ/\は。それは兄上の飛んだ間違いだ、おれはいかにぶちのめされても学問は嫌いだからしないよ」
「ところがその父も近頃は一飛躍いたしました。おれは雲松院《そふどの》から生きた本箱だと蔭口を云われた。小吉もそうなってはいかんから、学問はまあよかろうと申されます」
小吉は手を打った。
「そうか。それあ助かった。その代り今度はおれが兄上に生きた刀架とでも云われるかも知れないな」
「いゝえ、叔父上にはそうは申されませんでしょうが、わたくしのような剣術は、そう申されるかも知れません」
精一郎は、むしろ無邪気にくす/\笑った。
「ところで、兄上がやかましかろうに、今日はまたお前、何んでこゝへやって来たのだ」
「はあ、五月六日、御節句の次の日、団野真帆斎先生御追慕御追悼の諸流手合の会をわたくしの道場で開催いたしたいと思います」
「その噂は実はおれも内々できいていた。いゝ事だ。先生は有徳《うとく》の長者だったから諸流の方々も大勢御参加というではないか」
「はあ。今のところ三百七十余方」
「それあ豪儀だ。剣術遣いを集めるなら、予めおれにもそう云ってくれれば、蔭ながら何にかの手助けも出来たろうに、お前、とんと水臭せえね」
「そうではありませぬ。叔父上にさような事でお手数はかけたくなかったと共に、今度の手合総行司をお願いしたかったからでございます」
「総行司? お前、真剣でそんな馬鹿をいうかえ。兄上のおれを怒鳴る顔が、眼の前に見えるようだよ」
「わたくしの申すのをきいて、父上も結構とよろこんでおられました」
「へーえ。そ奴あ風向きが変ったねえ」
「はあ。父上も剣術というものに、多少御理解が参られたようでございます」
「仮りに兄上はいゝとして、諸先生方がうんと云いやんしょうか」
「参加諸先生方が一人残らず、叔父上を総行司に御推挙でございます」
「こ、こ奴あ驚いた。とんと手廻しのいゝ事だ。お前には叶わねえよ」
精一郎は、しっかり頼んで、お土産の鮨折を置いて帰ったが、小吉は、縁へ出るといつになくぴたりと、西に向って端坐して
「おい麟太郎や、今度あ、おれが総行司だとよ。故団野先生へはじめての御恩返しだ。この先きはおれもやる、お前には敗けねえぞ。お前も命かんまず御奉公、きっとおやじに敗けるなよ。聞こえるか、え、聞こえるか」
大きな声であった。
三日つゞいて雨が降った。
岡野の屋敷からは、あれから一度も鼓の音が聞こえない。
「どうしたろう」
ふと小吉がそう思った。