小吉が岡野へ行って待っていたら、どうした訳か|七つ《よじ》というのが遅れて|七つ半《ごじ》になって、如何にも月代を延ばした色の浅黒い浪人風の男が返事をとりにやって来た。
すぐに小吉が出て行って、
「殿様に少々家事方の急用がしったい仕りましたので御面倒ながらわたくしがお供をさせていただきます」
と鄭重に挨拶した。浪人はしかめっ面をして
「何、供をする?」
「お願いいたします」
「金子を渡すが不信用というのだな」
「飛んでもございません、毛頭そのような次第ではありません」
「金子は持参したか」
「は」
小吉は内心おかしかったが、白っ呆《とぼ》けて、やがて浪人について屋敷を出た。
大横川ッぷちを法恩寺橋まで二人とも無言だった。足元が何んとなく靄立って来て、黄昏が近い。
「お前は岡野どのの家来か」
「は」
「金子は確かに持っているな」
「はい」
浪人は橋を渡りかけてじろりと横目に睨んだ。うっそうとした法恩寺の森に幾組も/\鳥の群れが次から次とふるように下りて行く。
横十間川の天神橋まで来るとすぐ亀戸の天満宮。こゝの前から不動院の方へ曲ったら、本当に日が暮れた。
梅屋敷の奥にある院家には、もうぼんやり灯がついていた。
「あすこですね」
小吉がひどくおとなしい声できいた。
「よく知ってるな」
「何んだか、そんな気がしました」
浪人は小急ぎに、がたぴしした戸を開けながら
「岡野どのの家来が金を持って来たよ」
と内へ声をかけた。
「ほう、そうか」
誰か出て来る。小吉はぱっと浪人の先きに出た。びっくりして、うしろから引っつかもうとしたが、こ奴をぱっと払われて、浪人は打たれた手首を持ってのけ反って終った。
「静かにしろッ」
怒鳴りつけて、土間へ。小吉は、つゞいて出て来た二人の侍へぐん/\顔を押しくっつけるようにして、奥へ上って行って終った。侍達は刀の柄に手をかけたが、どうにもこうにも仕様がない。縮んで終っている。
さっきからの侍は剣幕に驚いて真っ青になった。
白の行者着で、殿村南平が出て来た。出て来てこれもまたいっそうびっくりした。
「お、あ、あ、あなたは」
「あなたはも無いものだ。お前も一かどの|いかさま《ヽヽヽヽ》行者で、荒い稼ぎをしてるにしてはとんと目端《めはし》の利かない人だよ」
小吉は肩をゆすって笑った。
「妙見へ岡野の殿様をつれて行ったはこのおれだ。それにおれは殿様の地借人《じがりにん》、塀一重の隣り合せだよ」
「うーむ」
「千五百石に相違はないが、こゝのところ人に云えない訳があって滅法界《めつぽうけえ》な大世話場でね。五十両は愚かな事、一両の金もあるものか。黙って殿様をおれへけえせ。その代りにはこの勝も、満更のわからず屋でもないつもりだ。折角お前が見込んだ山がみす/\崩れるも気の毒だから、今日明日とは行かないが、近い内にきっと何んとか外の事で埋合せはしてやるよ」
殿村は薄暗い中で瞬きもせずにじいーっと見ている。実は立ちすくんでいるのである。
「今日は渡辺兵庫はいないのか」
対手は声も出さない。小吉はさっ/\と襖を開けて灯のある方へ入って行った。
|しめ《ヽヽ》縄を張って、床の間に形ばかりの神祀りをした祭壇。その前に、岡野の殿様がもうぐったりと酔いしれて、きっちりと坐った女行者清明の膝にだらしなくもたれかゝっている。前にはうすよごれた膳椀に酒の徳利などが狼藉だ。
「殿様、勝だ。お迎えに来やんした。帰りましょう」
「おう」
岡野孫一郎は、はじめて正気づいた恰好で
「勝さんか」
と首をふって
「帰れ? いや、そうは行かんよ」
唇をなめた。
「殿村どのが大そうな馳走でな。それに、はっ/\/\、岡野、些か本望を達したわ。この男冥加の天にも昇るよろこびを、本来木石のおのしは知らん。十日二十日は帰らん、帰りませぬぞ」
「そうか」
「この人は天女じゃ。わしはこれ迄にいろ/\な女を知っている、が、このような女は知らぬ」
「そうか。が、あなたはお屋敷へ五十両この者に渡せと仰せでしたが、その金子は何処にあるのですか」
「わしがおらんでも千五百石にそれ位の融通のつかぬ事はあるまい」
「一朱の融通もつかぬそうだ。奥様《おまえさま》から確《しか》とさようにおことづけですよ」
「ちぇッ」
と岡野は、がくりと頭を下げて
「糞奴が」
と舌打をした。
「主計介《ごしそく》も、差替の刀もないといっている。金子の融通をなさるなら、やっぱり当主たるあなたが一番だ。だから一応帰りましょう」
小吉は、ぱっと岡野の側へ寄ると、素早く脇へ腕を入れて抱え上げた。
小吉は、すっかり度胆をぬかれてまだぼんやり立っている殿村へ
「南平、岡野さんには勝がついている事を忘れるな。その事を、渡辺兵庫にもしかと云ってお置き」
そういい乍ら、岡野をずる/\と引きずるようにして襖の前へ来た。さっきの浪人風の外に二人ばかり、何れも人相の余りよくない男が立ちふさがるようにした。
小吉は、くすッと笑って
「お前ら、田舎ッぺえだな。勝小吉を知らねえかえ」
といった。殿村は、その男達に、手出しをするなというように目くばせをした。
「お前らも、ちいーっと対手を見損った。岡野の殿様を金にしようなどとはとんだ量見違いだったよ」
この時、殿村が、急にきっとした態度になった。
「勝様、話がある」
「話? 謹しんできゝやんしょう」
殿村は、しかしいえなかった。
「よし、この場の仕儀では話したい事も話せまい。おれはこれから殿様を、お屋敷へおつれして奥様《おまえさま》を御安心おさせ申してから、すぐに引っけえしてまた此処へ出て来る。その時は話はおろか、浪人共を狩集めて斬るなと突くなと勝手放題。どうだ、それでいゝだろう」
小吉の顔を見たまゝ、諾いた。
岡野は頻りに何にかぶつ/\いっているが小吉は対手にせず、腕を自分の肩にかけて戻って来る。何気なしに、ふと振返ったら、院家の窓の下にしょんぼりと立って、こっちを見送っている女がある。どうも清明らしかった。
何んだかあっけない。小吉を算盤に入れずにあ奴らのやっている事もどう考えたって腑に落ちないし、あの院家に、間違いなく凄味を利かせているだろうと思って行った渡辺兵庫のいないのも少しおかしい。岡野に五十両持参の書面を書かせたにしてはやっている事が一から十まで馬鹿に辛子がきいていない。小吉がそんな事を思い乍ら肥った岡野を担いで来る。
天神橋へかゝった頃は、人の苦労も知らずに岡野はまるで下司の町人のように鼻唄かなんか唄っていたが、やがて鼾をかき出した。
小吉は少しむしゃくしゃして、その辺へおっぽり出してやりたい程だった。
馬へ乗ったきりっとした年配らしい侍が槍を立てて、提灯を突出した若党を一人つれ、法恩寺の門前ですれ違った。
小吉が梅屋敷へ引返したのはもう|四つ《じゆうじ》亥の刻であった。
「おい、殿村、約束通りやって来たが、外がいゝのか家の中がいゝのか」
戸の外からこういった。
内で静かな物音がした、そして戸が開くと
「お入り下され」
殿村が腰を折って頭を下げている。
「仰せの通りよ」
小吉はずばッと入ると、上り端に清明が手をついている。
「ほ、ほう、こ奴あ妙な塩梅《あんべえ》だね」
そのまゝ、さっきの奥の間へ案内された。綺麗に片づいている。
「渡辺兵庫はどうしたのだ」
「あの人はいない」
といって、殿村は
「勝様、わしは、あなたへお手向いをするような気持は少しもない」
「ほーう。妙見が時とは、だいぶ様子が変ったが、薄ッ気味が悪いんだねえ。ま、どっちにしても、とにかくさっきのお前が云った話というのから聞こうかねえ」
「先ず第一に渡辺兵庫先生、あの方は、妙見堂であなたにお目にかゝってから、どういう訳かここへもお寄りなさらず、そのまゝ何処かへ行かれて終った」
「お前の加持が偉《きつ》いから、天にでも昇ったか」
「さようなおからかいは困る。わしははじめの中は何糞ッとも思いましたが、あの時のあなたの御威勢にはすっかり恐入って終った。御旗本の御身についた御威光というは、大そうなものです」
「はじめてわかったか」
「以来、わしの気持も動きました。もう余りあくどいことは致すまいと決心をした。といって、寄加持をし、護摩を焚かなくては御飯をいたゞく事は出来ない。真言多少の修行に基きあれはあのまゝやります」
「それと、このおれが何んのかゝわり合いがある」
「この先きわしのあの加持だけは、見て見ぬふりをしていたゞきたい、そのお願いが一つ。尤も悪い事をした時は、すぐに斬られても否やは申さぬ」
「ほう、お前《めえ》、案外いゝ男だねえ。それにしては妹の女行者をおとりにして、岡野の殿様などをたらし込むはどういう訳だ。岡野はねえ、おやじと伜が揃いも揃った道楽もので、それあひどい貧乏だよ、お気の毒は奥様《おまえさま》お一人。お前にあの奥様の帯の前からぼろ/\と糸のたれているのを見せてえものだ」
いつの間にか隅へ入って来ていた清明が、ちらりと小吉を見て、その眼を南平へ流した。南平は割に大きな声で
「あの殿様をたぶらかそうなどという気持などは少しもござらん。あの殿様が余りの御執心なので、清明もそれにほだされたと申すだけ——五十両の御書面をお書きなさってお使を出されたのも、みんなこちらから一とこともいった訳ではない。殿様が御自分で|斯々《こう/\》となされた事で、わしは、お留め申した位だ」
「うむ?」
「殿様は、痩せても枯れても千五百石だ、屋敷には五十や百の金子はいつもある。清明にも行者などはやめさせ、女一通りの修行をさせてやるというお言葉で」
「はっ/\/\。殿様はな、決して悪い人ではないが、対手が美しい女となるととんと阿呆になるのだ。気違いさ。由緒ある屋敷を今の始末にしたもその女故のこと。清明さんとやらも若けえ身空だ、事一場の夢とあきらめ思い切るがいゝねえ」
殿村は、少し考えて
「実は殿様、こ奴は」
と頻りに清明の方へ気がねの様子で
「わしが申しても信用していたゞけぬかも知れないが今日まで男嫌いで通して来た。それがあの殿様にとう/\手折《たお》られて終うた。あの方の口説き上手、唯今、気違いさと申されたが、清明はあの殿様に敗けた。兄の身としてはこの縁はつゞけてやりたいのです。くらしの支えはさゝやか乍らわしが致す。殿様から一文のお手当が無くともいゝ。勝様、この事だけは見逃しておいてやって貰いたいのだ。このお話を申したく——お察し下さい。女心の不思議、兄の身として、これを断ち切る事は出来ないので——」
小吉は自分の頭を押さえた。
「いや、わかった。殿様もとんだ色男で、そ奴は仕合せな話だが、おい殿村、殿様はな、ひとり者じゃあねえんだ。貧乏屋敷を身を切る思いで遣繰りしている奥様《おまえさま》というものがあるのだよ。こっちはそれでよくっても、奥様の手前にこのおれが、何んとも返事は出来ないね。がどうせ女が病いの人だ。こゝんところで清明さんが、うまく轡をとってくれれば、どっちかと云えば大助かりさ。おれも、そっぽを向いていてもいゝかも知れねえ」
「お願いする。勝様、本心から慾得ずくではない事を信じて貰いたい」
この時、裏口の辺りで、こと/\と誰やら人のいる気配がした。殿村はそっちへちらりと目を走らせた。
「勝様、それにもう一つ——」