何にかいいかけた殿村が、出しぬけに
「勝様、屋外《おもて》へ出て下さい」
といった。小吉は無言で、刀を鷲づかみにすると先きに立ってどん/\出て行った。ちらりと見たら裏口の暗い土間に四、五人侍らしい姿がうごめいている。
右手遠くに境町の辺りの灯がちら/\と見えるが左右は柳島の畑地、しかも細い道をへだてて鼻っ先きには光明寺だの普門院だの大きな寺が並んで、境内の森が、真っ黒く空から頭へ押しかぶさるように見えている。
途で小吉はふり返ってうしろについて来ている殿村を見た。殿村はすぐ
「勝様、あなたはかねて聞きしに優るお方だ。この殿村がどんな奴か、もう心底をお見届け下さったと思います」
「いや、わからねえよ」
「いゝえ、わかっていらっしゃる。だから申上げるのだ。わしは、元来あんな|かげ《ヽヽ》富の寄加持など、いかゞわしい事の嫌いな人間です」
「ほう」
「ふと金銭の慾に迷ったというのがそも/\わしの愚かさだが、実はあの渡辺兵庫にすゝめられた。一度柳島の白蛇の妙見へ押しかけて渡辺が睨みをきかせあれをやると、たやすく金が入ったのでその後はちょい/\加持の押し売りをして歩いた。そうしている中に、いつ何処できくものか毎日のように渡辺を訪ねて、いろ/\な風のよくない浪人が集って来ましてな」
「おい、殿村、あ奴ら一人残らず、みんな本当の侍じゃあねえよ」
「あゝ流石だ、お目が高い」
と殿村は大仰に首をふって
「当人達は結構上手に化けたつもりでいるが、何にかにつけてちょい/\尻っぽを出す。上総下総辺りのばくち打ちもいるようだし、甲州の大工くずれのやくざの化けたのも居る事がわしも感づけた」
亀戸から天神橋まで来て、小吉はぽーんと殿村の肩を叩いた。
「もういゝよ。わかった/\。事の成行とは云いながらお前があ奴ら小悪党共に喰いつかれ、心にもないいかさまばくちの寄加持などをやり廻っているはきいて見ると気の毒だ。兵庫がみんなをおっぽり出し、何んにも云わずたった一人で何処かへ行って終ったは、お前と同じにやっぱりあ奴らのあくどさに閉口しての事だろう。悪党は小《ち》っちえ奴程脂が強い」
「小っちゃい奴程脂がねえ。そうなんでしょう。いやもうほんとに堪らない。わしもあの人達に今のまゝでいつ迄も取巻かれていたのでは、遠からず自分で自分の首を絞めるような事になるのだ。どうしたらいゝか」
「いゝ鴨になっているという奴だな。因果応報、自業自得。よくある奴よ。まあ当分病気とでも云って加持祈祷などには何処へも行かぬ事よ」
「わしもそうも考えるが下手に奴らに楯をつくと命が無くなる。わし許りか妹も危ない事になりそうでしてね」
小吉は早口にさゝやいた。
「あ奴らどうやら後をつけていやがる。お前、気をつけてけえるがいゝよ」
そういわれて殿村が、ふり返ると、如何にも横の畑道の低い林の蔭から四人見えがくれにやって来るのがわかった。みんなさっきの奴らだ。
「お前もいかさまの寄加持などで、堅気の者のふところを痛めつけていた事だから、少しはその酬いはある筈だ。ぱったりとその悪事のきずなを断切れば、その後は罪も消えうるさい事もなくなるよ」
「あゝ、如何にも仰せの通りだった」
「とにかく気をつけて帰るがいゝね」
殿村は一礼して引返した。あれに万一の事があっては、あのいかさま浪人達が明日から喰えなくなる、間違っても殿村兄妹へ何んという事のある筈はない。何処の馬鹿が金蔓を|ふい《ヽヽ》にする筈はなし、何にかしようとしているのはおれに対してだと小吉はにや/\して天神橋を渡るとすぐ横十間川に沿って川ッぷちを左へ切れた。川幅が丁度十間あるということになっているが本当は十四間位だった。本当の名は横十間川だが、土地《ところ》の人は天神川という。すぐ側に亀戸天神があるからだ。
風もないし、川面《かわも》が星を一つ/\はっきりと映してそれが珠のようにくっきりと光り輝やいている。
橋を渡ったところに信州飯田の堀大和守の広い下屋敷があってこの辺は殊に真っ暗だ。小吉が見ると、背中を丸めて逼うような恰好をして橋を渡る四つの影が星明りでかすかに見える。
「馬鹿奴、あんな事で隠れたつもりでいやがる」
ひとりごとをいい乍ら暗がりの川ッぷちへ突立って悠々と小便をやり出した、川へ映った星が砕ける。
いつの間にか四人がすぐうしろへ来ていた。小吉は小便をしながら振返った。
「みんな一緒にやったとて川の水あ溢れねえ。遠慮なくおやり下さい」
四人は、ごくりと唾を呑んだようだ。
「おい、勝、手をひけ」
一人がいやに鼻につんぬけて、それでも当人は一応凄味を利かせたつもりの声をかけた。
「何んの事だよ」
と小吉はやっと小便が終った。
「呆《とぼ》けるなッ。岡野孫一郎の一件からだ」
「わたしは怖い事は大嫌いでね。何にも好き好んでの事ではないよ。実はとんだお気の毒なお人から頼まれてねえ。だから手を退くという訳には行かねえのだ」
「それが御節介というものだ。黙って手をひけ」
肥った大柄な丸顔な男だ。
「出来る事ならそうしたいがねえ。どうも」
小吉はにや/\笑っていた。
「とにかく行者の殿村南平の身辺には近寄るなという事なのだ」
また別の奴がそういった。
「それはいゝだろうが、それは却ってこっちで」
と小吉の声は尻上りに次第に強くなって行って
「云いたい事だ。聞いていれあ言葉の訛はあっちこっち、どいつもこいつも田舎ッぺえだがお前ら一体、何んだ」
「何?」
一人が耳の裂けるような大きな声で怒鳴りつけた。
「おゝ、びっくりした、静かにおしよ」
小吉はいよ/\へら/\笑って
「風態は侍だが、刀が腰で遊んでいる。二つ三つから腰にして育った者の真似を、きのう今日田舎から出たばくち打ちやら土百姓が何んでからだにつくものか。侍に化けるは一番愚かな話だ」
「何、この野郎」
いきなり刀をぬいて斬りつけて来た奴があった。
「はっ/\は」
その利腕を小吉はまるで子供でも押さえるようにしてちょいとつかんで
「おいッ。こゝを何処だと思ってやがる。江戸だぞ。しかもおれあ天下の御旗本だ。肥桶をかついで慾張る外には物を知らねえ新田《しんでん》の甚次郎兵衛たあ訳が違う。はい御無礼を致しましたと黙って詫びれあそれもよし、然《そ》うするが嫌やなら、川ん中へ飛込んでこの刀で鰻の首でも斬って来い」
夜が更けている。投り込まれた水音が凄かった。次の奴、次の奴、懲り性もなく立向って実に他愛もなく続けざまに四人が四人。十間川へ投込まれて、どうした訳か、その後は四辺が妙に薄気味悪くしーんとして終った。
小吉は川を覗き下ろした。誰も顔を上げない。浮かんでも来ない。向う岸へ泳いでもいない。満潮で六尺、干潮の時は三尺とない浅い川だ。
「ひょっとしたら」
小吉は脳天から|ひばら《ヽヽヽ》でも打って、死んじまいやしないか、そう思って今更不覚にもぶる/\ッと身慄いした。出しぬけに座敷牢へ入れられたあの深川料亭若戸の庭で金子上次助擲殺一件がはっきりと見えて来た。と一緒に麟太郎が朝日を受けて御城へ登って行ったあの時がぱっと眼の前に浮かび出て来る。彦四郎の顔が、そしてお信の顔が——。頭の中で燃え盛った焔のように渦を巻いた。
「失敗《しま》った」
小吉はきょろ/\四辺を見廻した。人の気配もなかった。
柳島の本通りを法恩寺橋へ向って夢中になって駈出していた。
「こ、こ、こんな奴らと心中をして堪るか。ど、ど、どうせおれはいゝ。が、麟太郎はどうなる」
小吉は実に唐突に自分でもわからない不思議な恐ろしさに襲われて駈けている脚が時々がくがくッとして前|倒《のめ》りそうになったりした。
駈け乍ら何度も/\うしろを振返る。法恩寺の前へ来た。門前の高い大きな題目塔の前で犬が喧嘩をしていた。
小吉は、側へ行って
「しッ、しッ」
その喧嘩を取鎮めでも出来るような手恰好をしたが、犬の喧嘩はもつれ合って橋の方へ行って終った。小吉は黙って立っている。
「おれはあんな蠅見たような奴らと餓鬼共のような喧嘩をして終った。何んてまあ馬鹿だろう」
このまゝすぐ家へ帰る気にもなれない。今になって考えて見ると、はじめから充分こんな覚悟でわざ/\梅屋敷へ出て行ったのだ。今更何にもびく/\する事はない筈である。
「おれあこの馬鹿故に、ひょいと麟太郎が出世の邪魔でもしては——」
流石の小吉もしょんぼりとして、殆んどぶら/\と法恩寺門の潜りを入った。何んという考えもない。足が自然にそっちへ行く。門から本堂までずっと石畳、その左右には子院が黒い門を構えて並んでいる。その合間々々に、大きな銀杏だの、松だのが枝を張っている。
小吉はあっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、大銀杏の下には、ずいぶん長く幹へ背を持たせて立っていた。
「どうなりゃがったろう。死んだら死んだで今頃あ町方の奴らでも出張っているかも知れねえ」
ぴーんと衣紋を直して、左手は内ぶところ手。やがて半刻もして法恩寺を出ると、またさっきの道を逆戻りに横十間の川ッぷちへやって行った。
しーんとして、川へ映った星の色だけがさっきに増して冴えている。何んの変りもない。
橋を渡って向側を、ずっと川下まで覗き乍ら歩いた。こっちへ引返してまたずーっと竪川の旅所橋《たびしよばし》まで行って見たが、変りもない。人一人出てもいない。
小吉は肩を窄《すぼ》めた。
「おれも臆病よ」
ふゝんと鼻で笑って、今度は別人のように大手をふり、肩をゆすって大股に家へ帰って行った。
次の朝。小吉は寝起きに
「お信、岡野さんが来たら、出たっきり戻りませんといって断ってくれ」
といった。お信はにこっとして
「でも、じかに庭からお通りでございますから、居留守などは通じませんでございましょう」
「ほい、そうだ——あすこの潜りを釘づけにしようかね」
「入口出口は一つだけでは御座りませぬ、それは無駄でござります。岡野の殿様は逢うといったら、どのような事をなさってでもお逢いなさる御気性でございますから」
「御大身の悪いところ許りを身につけているなあ」
「ほほゝゝ、御旗本衆はどちら様も、そのようでは御座りませぬか」
小吉は黙って終った。まご/\してあなた様も御同様ではござりませぬかといわれぬだけが拾いものだ。
この日は岡野から二、三度、間をおいて鼓の音が聞こえた。昨夜の事などはけろりと忘れたか、こっちへは世話になった挨拶などは爪の先程もない。
「いるな、何にか云って来なければいゝが。おれは、もう/\喧嘩は嫌やだ」
小吉はしみ/″\そう思った。
それから四日ばかり、鼓の音が聞こえない。何事にもくゎッとする性質《たち》の人だ、あの女行者のところへ行っているのだろう。もし、あの四人が川へ投込まれて死んででもいたら何にか知らせがありそうなものだ——小吉はたゞそれだけがいくらか気になった。
あれ以来、奥様もぷっつりとやって来ない。岡野家は大体が少し身勝手な人達ばかりではあるが、奥様は割に並のお方だ、おかしいなあと思ったりしている。
早春らしいいゝ日和で、青空の白い雲が何にか陽炎のような暖いものを降らせているように思う。
「お信、おれあ今日は亀沢町へ行って来る」
「これはお珍しゅうございますね、兄上様のおところへ」
「いやあ兄上がところは行かねえが、精一郎が方へ行くのよ。こゝのところ何んだか、からだの周囲《まわり》がべた/\と薄汚ねえようで、とんと気持が悪くていけねえのでな」
「御尤もでございます」
「道場の冷めたい板をこの素足に踏み、あの精一郎の如何にもすが/\しい立派な物腰を見たくなったわ。お信、あ奴はね、追々は先ず剣聖というところだ」
「さようでございますか」
「直心影流を天下の流儀にする人物。この間、下谷車坂の井上伝兵衛先生に逢うたら、わしは父程に年も上だが、あの人の前へ出ると自然に頭が深く下がる。あなたはどうですかと訊かれて、わたしは冷汗をかいた。井上先生は有難い。精一郎を本当に見ていて下さるな。おれもな、その頭の下がる気持は同じだが、この頃ふと、一度木剣の手合をして見たい、兄上のお言葉ではないが、あ奴の木剣を、がちりと受けて見たら、おれの性根もいくらか変り、べた/\したようなこの気持も一度にさっと洗い流されたようになるかも知れない」
「ほほゝゝ。それもおよろしゅう御座いましょうが、精一郎どのがお手合など御承引ならぬでござりましょう」
「いや、おれがたってと申したらやって呉れるかも知れぬ」
「今日のお出ましはそれでござりますか」
お信は丁寧に小吉を送り出した。小吉は一度ふり返った。が、精一郎の道場の板を踏むどころか、正面へ向き直った鼻っ先きに岡野孫一郎の酒焼けのした肥った脂っこい顔があった。
「勝さん、万事、うまく行っているよ」
往来もかまわず大きな声である。小吉はあきれ顔であった。
「それは結構です」
「唯、おかしな事はねえ。あの家にいつもごろ/\して、酒ばかり飲み、夜になると新吉原ならばまだしも、入江町の切見世の女を買いに出ては喧嘩口論、刃傷の沙汰、いやはや手もつけられなかった|ごろつき《ヽヽヽヽ》侍共が、一人残らず寄りたからなくなった事だ」
「一人も来ない? へーえ、何処かで殺されでもしたのだろうか」
「そ奴もわからぬが、清明——ほら清明というのはあの女だよ。あれのはなしでは、あの手無しの奴が、下総の笹川とか須賀山とかにいると風のたよりをきいて、そっちへ行ったらしいとの事だ」