三ツ目橋の竪川に沿って花町。その中頃に石津屋という鰻屋がある。ぼんやりと角行灯がともって荒格子の前に赤錆の浮いた鉄の用水桶が置いてあった。
東間が茶の暖簾をわけて先きに入った。
「勝先生が見えられた」
そう声をかけると、俄かに人の立騒ぐ気配がして土間近くには、上下で平川右金吾とそれに並んでもう一人肩の盛り上った上下姿がいた。そのうしろに、紋付を着た侍が七、八人、ずっと下ってやくざ風の奴も四、五人いる。それに鰻屋の亭主やら女中まで交っているから大そうな賑わいだった。
小吉はじろりと見渡して
「おや、これあお久しい。小野さん」
右金吾の隣りへ声をかけた。津軽藩十万石の家中でやっぱり剣術遣いの小野兼吉という。
「東間が是非立会人になって呉れというので参ったが、とにかくまあ話は奥で」
「立会人たあ、何んの立会だえ」
「何にはともあれまあ/\」
広くはないが奥にはもう席が出来ている。小吉は刀を床の間へ立てて上座へ坐ってじっとしていると、小野が東間と平川を連れて改まって末座から入って来た。
今日は道場で大層な御無礼をして終った。考えて見るとそも/\東間と右金吾が男谷先生の御留守中に些細な事にいゝつのって喧嘩をしたのは誠に面目なく、その上行司をお願い申した先生にいい懸って、あんな事になったのは幾重にも悪い。重々不心得を悔悟いたしましたから、どうぞお許しをいたゞきたい。今後、東間も平川も、あなたに対して如何なる場合に間違っても、彼是申したら、首を差出しますというのだ。さてそれについて
「わたしに確と立会人になってくれというのでね。勝先生、先ず斯ういう有様だ。前非を詫びているのだから、許してやっていたゞきたい」
と小野がいった。
「別に謝る事もなし、立会などと大仰は実におかしいが、まあ結構な事だ」
「早速御寛容をいたゞいて誠に有難い。さて、こゝに一つお願いがあるのだ」
小野はちらっ/\と東間と右金吾を見て
「この二人、あなたのお弟子にしていたゞきたいという」
「何にをいってるのだ。二人は男谷精一郎の門人。おれがような者の弟子になりたいとはどういう事だ」
東間と右金吾が頭をかいて苦笑した。小野は
「まあ/\、あなたへお詫びが叶えばそれでいゝのだ。二人にそういう気持があるというだけで、後は立入って申さなくともあなたにわかって貰えるだろう。な、もう、何にもいうな」
といって目くばせした。
酒が出たが小吉はのまない。
「おい、東間さん、おれは元来が貧乏人だから、弱いもの苛めをする奴は嫌いでね。上の奴が下を苛める、侍が百姓町人を苛める。みんな大の嫌いさ。お前は、どうだえ」
「はあ」
「ちいーっと、こゝら辺がわたしたあ違うだろうね」
「いや、そんな事はない」
「そうかねえ、噂じゃあいろ/\きくが——噂は当てにならないからねえ」
「はあ」
小野は横から
「まあ/\、そういう話は止そうではないか。とにかく東間、平川両氏が、勝先生の後楯をいただけるようになったのだから、今夜は大いに飲みましょう」
そういって、一座の酒盃はいよ/\賑やかになった。
酔って来て、乱れて来た。一番酔ったのが立会人の小野である。酒癖の悪い男のようだ。
「勝先生、わたしは刀が好きで、出来るだけいゝ物を用いている。これは」
と横にある刀を膝へ持ち上げて
「相州物で二尺九寸だが、あなたのは、見受けるところ、きゃしゃなようだが」
「まあそんなところだ。二尺九寸五分、池田国重。信州小諸で牢破りをした子分の二百人もある奴から召上げてやったのだから」
「え? 池田国重、それあ名代の剛刀だ」
「おのし、きゃしゃらしいというからみなの手前、顔を立ててそうだといったのだ」
「これあお人が悪い」
そういったと思ったら、小野兼吉はぷいッと立って出て行って終った。東間と平川は、びっくりして後を追ったが、小野は
「小癪な奴だ」
と捨科白を残しただけで、二度と席へは戻らなかった。小吉はにや/\している。
二人が戻って来た。
「お前らの親分はあの人かえ」
「そ、そういう訳ではない」
東間があわてた。
「わはっはっは。何あに図星よ。お前ら、剣術の流替をしたように、うまくおれがところへ来る気らしいが、あの人の方が馬が合うよ」
「飛んでもない」
右金吾が顎を突出して来た。
碌で無しの侍や、やくざらしい奴が、目を丸くして一人々々小吉の前へ出て来ては、手をついて、飛蝗《ばつた》のようにぺこ/\した。
「お前ら、みんなそんな悪党でも無さそうだが本所深川《ところ》で弱い者苛めはいけねえよ。ところはいい人ばかりなんだからね」
「はあ」
誰か野太い声を出したら、みんなそれにつれて一斉にお辞儀をした。
帰る夜道を、今度は上下をぬいだ東間と平川が送って来た。
「小野先生もどうもお酒がよろしくないので困りますな」
と東間がいった。
「酒あいゝが、お前さんら一体何にをたくらんだのだえ」
「は?」
「田舎っぺえは恐ろしいからねえ。あの人も小野派一刀流の中西忠兵衛先生の門弟だからその中にはおれと手合をしたいとでも云って来るだろうよ」
「真逆そのような」
「いゝや」
と小吉は声を出して笑って入江町の時の鐘の前まで来た。
「もうけえって呉れ。おれがところのお信はきついから」
二人を帰して一人になった。
家の前へ来たら、門の横へしゃがんでいる奴がいる。暗くてよくわからない。小野の馬鹿奴が、闇討にしちゃ早過ぎる、小吉は呟いて
「おい、門前にいるあ誰だ、勝は今けえって来た」
暗闇の奴は不意に立ち上って、小吉へ飛びつくように近づいた。
「何んだ、巾着切か」
「えーっ」
といって
「巾着切あ止しておくんなせえよ。弁治ですよ」
「おう、こいつあ、大きに悪かった。そこで何にをしていた。門前に糞などしちゃあいけねえね」
「御冗談でしょう。飛んでもない。実あ五助と二人でめえりやしたがね、五助は強いので、御新造《ごしん》さんのお駕のお供をしてめえりやした」
「利平治でも悪いか」
「そうなんです。玉本小新の軽業が閉場《はね》てからは毎日観音堂へ行っているんですが、こうなると、わたしと五助ではどうにもなりません。それに利平治とっさんも、うつら/\とする度には、勝様のお名前や御新造さんを呼ぶもんですから、こ奴あいっそ迎えに行くがいゝ。ひょいとしてとっさんはお名残惜しさに冥土へ行けずにいるのではねえかという事でしてね」
「お信はもう行ったな。駕たあ気がついたな」
「あっしは、ああたをお待ちしていました」
「直ぐに行く」
「じゃあ」
「駈けろよ」
真夜中に谷中の観音堂へ着いた。お信は煎餅のような蒲団へくるまってねている利平治の枕元に坐っていた。
炉に火をもやして、淡い煙が一ぱいに立ちこめている。
小吉は久しく利平治のところへは来なかった。何にかのたよりは弁治や五助からきいて、凡その見当はついていたが、ひょいと顔を見ると、唯、それだけで、胸へこみ上げて来た。
「ずいぶん痩せたなあ」
その声をお信は目で制した。利平治はたった今すや/\とねむったところである。
「下谷には大塚常俊といういゝ医者がいるが、呼んだか」
お信は五助の方を見てうなずいた。
「何んと云ったえ」
お信はそれには答えず黙って立って外へ出て行った。小吉もすぐうしろへ随《つ》いた。
真っ暗な中で、夫婦が身をすり寄せて立った。
「お医師は、明日の朝まではむずかしいと申されました」
「え? そ、そ、そんなに悪いのか」
「手遅れで、今となっては施す術《すべ》もないとのこと」
小吉は、ぱっとお信をはなれて
「弁治、五助、ちょっと来い」
「へえ」
二人が傍へ来たと思うと、ぱっ/\と頬っぺたを引っぱたかれた。倒れそうになった。
「すみません」
五助が謝った。
「馬鹿奴、何にを謝っていやがるのだ。お前ら、何故、おれに知らせず、こうなる迄もほったらかして置きゃがった」
「全くは、とっさんは何んにも云わず、些かも存じませんでした。先日、ちょいとお耳に入れましたが、あれから一度元気になり、まあこの分だと大丈夫だろうと喜んでいましたら、昨日また俄かにがっくりと来たのです」
「大馬鹿奴!」
「へえ、すみません」
小吉のいってることは無理だ。が、無理と知ってて、そういわなくては済まない気持であった。
ほの/″\と夜が明ける頃になって利平治はふと眼を開いた。小吉のいるのを見て、びっくりしたようであったが、一と言も物をいわなかった。たゞ後から/\と留め度もなく湧いて出る涙が眼尻から枕へ伝わった。
「利平治、小吉はな、一生を小普請でくだらなく終りそうだが、麟太郎はな、一位様な固より春之丞君にも大そうなお気に入りで、夜も春之丞君のお次にやすみ、一|刻《とき》もお側をお離しなさらないそうだ。御城へ上ってまだ一度の宿下りもおゆるし遊ばされぬ、親共も子の姿を見たかろうが辛抱せよと、勿体なくも一位様が直々に阿茶の局へ仰せられたそうだよ。喜べ、やがてさん/″\お前が骨を折った勝の家にも春は来る」
小吉も泣声になった。
利平治は涙を流しながらにこっとした。そしてやっと
「お目出とう存じます。本当にうれしいお土産をしっかりと胸に抱いて冥土へ行かれます。本当に永あい/\間、お厄介をおかけ申しました」
といった。
「何にをいう」
小吉は叱ったが利平治は外には何に一ついわず、唯、両掌を合せて小吉を拝み、お信を拝んで、医師のいった通り、朝|七つ半《ごじ》に静かに息を引きとった。小吉とお信はいつ迄も/\その死顔を見詰めていた。
この悲しみを忘れさせるように春は一日々々と濃くなって行く。本所《ところ》界隈の水はぬるんで、小吉が今日見たら大横川の時の鐘の岸に、小さな魚の何万という群れが泳いでいた。柳はもう真っ青に芽を吹いた。
「いよ/\精一郎が道場の故団野先生追悼会も近づいたなあ。何んにしても四百近い諸流剣士の集まりだ。無事にすんで呉れればいゝが」
小吉はふとそんな事を思って、珍らしくじっと縁側へ坐って、ちか/\するような春の青い空を見ていると、これはずいぶん久しぶりだ、岡野の家から、ぽん/\という鼓の音が聞こえて来た。
「おや、ゆうべも奥様《おまえさま》が見えて、あれっきり戻らねえと云っていたが、殿様はかえって来ているな」
「そうのようで御座いますね」
お信もにこっとした。
「岡野の殿様も御自分のお屋敷をお忘れなさる事もないでございましょう」
「何にか困った事でも出来たのさ。おれに横ッ面をぶたれた事なんぞはもうとっくの昔に忘れてるから今にきっと呼びに来るよ」
「ほほゝゝ」
「おれはこれから谷中の五助がところ迄出て行くから留守になる。困るだろう」
「ほほゝゝ。あなたも殿様をおぶちなされてもうその時のお憎しみなどは忘れてお出でなさる。女と違い殿方というは、とんと気のお軽いものでございますねえ」
「ほい、此奴はやられたわ。が、積っても見ろ、あの殿様をいつ迄憎めるものか」
「ほほゝゝ」
小吉は出て行った。刀の柄がしらに陽が当ってきら/\している。
谷中の観音堂は、利平治の歿後、五助がついだ。若いのに今からそんな事でどうなるものかと小吉は何度も叱ったが、女房もあり子もあり、まして摩利支天の神主吉田蔵人の妾だった妹のおせつというのがとかく病身だから二、三度水茶屋へ出してもすぐ駄目になるので、どうも激しい稼ぎには出してやれない。
これに堂前へ縁台をならべた茶見世をやらせ、寒い間は自分はまた夜になったら本所へ飛んで行って夜泣蕎麦を売って歩く。若い間は身を粉にしても稼ぎますという決心が殊勝だから、小吉も一先ずそういう事にしてやった。
「暫く行かねえが、どうしやがったか」
それで小吉は出かけたのだ。