谷中の森はもう若葉で、みどりが音を立てて滴るように美しい。五助は強請をやった男などに似ずあれでなか/\まめだから、観音堂の境内はいつも綺麗に掃除をして、ところ/″\日蔭になった梨色の土に箒目がくっきりと見えたりしている。
花茣蓙を敷いた縁台が程良いところに出ていて莨盆なども置いてある。小吉がこっちから見たら妹のおせつが、色っぽい姿で、今帰って行った人の後片づけをしていた。
「すっかり丈夫になったようだな」
うしろから声をかけられて、びっくりしたおせつが、ひどくどぎまぎする。
小吉の眼が素早くちらりと堂守小屋を射た。
「五助はいるか」
「はい」
小吉はそのまゝ小屋の方へ行こうとしたが、何んと思ったか、急に踵を曲げて、端っこの方の縁台へゆっくりと腰をかけた。
「お茶を一ぱいおくれ」
「はい」
小屋の横に葭簀張を出して、こゝに銅磨きの大きな茶釜を据えたところへ行きながら、おせつは小屋の内に何にか早口で声をかけた。
途端に五助と弁治が飛出して来た。見ると五助なんぞは草履を片ちんばにはいている。それから少し遅れて五助の女房が鬢を撫で乍ら駈けて来た。
「どうしているかと寄って見たが、弁治もいたかえ」
「へえ」
「お前ら、まるで棒を呑みでもしたように固くなっているが、どうかしたか」
「へ、へえ」
「盆暮にだけ、顔を合せるという仲でもないだろう、しっかりしろ」
「へ、へえ」
弁治は顔は真っ赤だが少し慄えているようだ。
「何にかあったのか」
小吉が五助の方を見た。
「へ、べ、べ、別に」
「それならいゝが、おい、弁治、ちらりと見たが、堂守小屋にいゝ女がいるではないか。こゝへ連れて来たらどうだ」
弁治は黙って、膝がくた/\としたと思ったらそこの地べたへべったりと坐った。
五助は、女房やおせつと顔を見合せて、首をふって、それをねじ向けるようにしていった。
「兄貴、所詮は勝様へお隠し申しちゃあ置けねえ事だ、申上げた方がよくあねえか」
「う、うむ」
小吉はくす/\笑って、じいーっと弁治を見て
「人のふところをかすめるは、滅法|早《はえ》えときいていたが、お前、女も早かったのか」
「申訳ござんせん」
「薄暗がりだが小屋の内は、どうやら見た事のある女だ——さあ誰だったっけな。はっ/\/\」
五助が小吉の前へ出て
「勝様、決して弁兄貴ばかりが悪いと申すのではねえんです。実は女の方から——」
「馬鹿奴、詰らない事をいうな。出来た上は云って見たところで仕方あねえが、向うは大切な商売もの、あの子で一座を持っていたのだ。途中で消えて終われたのでは、その困りようも大方わかるし、一座にはやくざな奴も大勢いる。弁治だって唯事では済まされまい。そこらの覚悟はしているのか」
「へ、へえ」
「唯へえ/\じゃわからない。好きな女と一緒になるのは結構だが、半年一年経たない中に横っ腹でも突破られ何々信士と戒名がついて終っては何んにもならないではないか」
「へえ」
五助と弁治は一緒に頭を下げた。
「馬鹿奴、男というはな、外の事はいざ知らず、女の事だけは一生かけて、踏違ってはならないものだ。それで男の値打が定まるのだといつも云ったがわからねえのか」
「へ、へえ」
「女をこゝへ連れて来い」
弁治が五助の女房に支えられるようにしてしょんぼりと、堂守小屋へ戻るとやがて、薄暗がりから、うつ向いた美しい白い顔がぱっと見えた。
「勝様がいけねえとおっしゃれあ、例え死ぬ程に辛くても、かねて話してある通り、おれあお前と一日だって一緒に居る事あ出来ねえのだ。な、覚悟をすえて勝様の前へ出るんだぞ」
弁治は泣声で低くぼそ/\っとそういった。
「あい」
女は二重のくゝり顎でうなずいた。その姿を見るなり、小吉は大きな声で
「おうい、見世物小屋で見るよりはそうしているが別嬪だが、玉本小新ともある太夫がおれがところの弁治などという、とんと詰らない男と出来たではないか。さ、来い/\」
手招きした。
「両国が閉場《はね》て、大阪へ帰りますと太夫元が挨拶に出て来ていたが、お前だけ帰らなかったのか。それにしてはよくおれが目を今日までくらまして隠れていたな」
小新は小吉の前で手先が地へつく程に腰を折った。
小吉はじっとこれを見下ろしている。春らしい軟らかい風が若葉の間からさゝやいて来る。
「一度大阪まで戻りましてございます」
「それから抜けて来たか」
「はい」
「太夫元は知っているのか」
「太夫元さんは存じませぬ、唯実の父親だけが知って居ります。道化の口上を申して居りました半八と申しますのが実の父でござりました」
「おゝそうだったのか」
「おれのようなしがない道化の娘でいつ迄元結渡りの太夫をやっていても末は知れている、女はほんの一盛り、そんなにあの弁治さんのところへ行きたいなら一刻も早く江戸へ出て末長く仕合にくらすんだぞと、路用もたんと下さいました。父は泣いておりました」
小新はほろりと涙を落した。
「偉いおとっさんだが、後で困っているだろうの」
「はい、それを思うと、このからだが、ちぎれるような思いでござります。でも——」
「よし/\——」
といってから小吉はぐいっと弁治を睨みつけて
「これ弁治。性根を据えろよ」
「へえ」
「娘のためと、確と覚悟をきめているおとっさんの気にもなって見ろ。お前、どんな事があってもこの小新という人を不仕合にしては済まないぞ」
「へえ」
「行先どんなに困っても人のふところを狙ったりなんぞしゃがると、その飛ばっちりは必らず小新へ来る。間違ってもそんな事をして見よ、そのおとっさんになり代って、おれが承知をしない」
「へえ」
「玉本小新と、世の男どもにちやほやされ、並の奴なら何様にお成り遊ばした気にでもなろうという若い女が、末始終の性根をすえてお前みたような下らない奴でも、こうしてたよって来てくれた。有難てえと思わなくちゃあ罰が当る」
「へえ」
「しかし——」
と小吉は大きく口を開いてそりかえって、笑い乍ら、手を開いて自分の頭を押さえた。
「おれもこんな驚いた事はない。お前達がこんな風になろうなどとは夢にも思わなかったわ。おせつ、お前も早くいゝのを見つけろ。だが巾着切だの、兄がような強請屋などはいけないよ」
その夜、弁治と小新は、小吉と一緒に入江町へ来た。
「お信、弁治が早いところ女房を持ったよ」
と玄関へ立ったまゝでそう叫んだ。
「本当に困る事があったら、おれがところのお信に相談しろと、女には云ってあったが、それにゃあ及ばなかった。とんと世話無しよ」
しゃべり乍ら、上って来たが、弁治と小新は玄関のすみに小さくなって膝をついている。
「まあ」
とお信が出て来て
「こちらへお上りなされませ」
と女へいった。
「女軽業の玉本小新よ。弁治が、あすこへ手間取り稼ぎに行ってる中に、飛んだ事になって終ったのさ」
「さようで御座いますか。さあ、こちらへお出でなされませ」
弁治はふところ手拭で首の辺りの脂汗をふいている。却って小吉の前よりは余っ程怖い様子だ。
それから間もなくである。
方々探していたが、ひょいと手頃な裏店の長屋が横網に見つかって、四畳半と三畳に台所という手狭だが、弁治はこゝで手職の仕立屋をはじめる事になった。
巾着切で兄貴とか、時には親分とか、少々名前を売った土地で実は拙いこともあるが、やっぱり本所《ところ》にいなくては、何にかという時に都合が悪いし、殊に小新の一件でいつ何処からどんな無鉄砲な奴が暴れ込んで来ないものでもない。その辺の用心もある。
小新は、小吉がはじめてあの小屋の楽屋で見た時から気に入ってこういうところへいつ迄も置いてやりたくないという気持があったので、こゝで、こうして弁治と貧しくとも世帯を持ったのが、わがことのようにうれしくもあった。
「お信、あ奴らには心を配っておやりよ」
何度もそんな事をいった。
五月。よく雨が降る。が、昨日はぱったりそれが止んで、小吉は昨夜ちらりと三日月を男谷道場の奥座敷から見た。
「天気にしたいな」
対い合った精一郎を見てそういった。昼の間に車坂の井上伝兵衛先生が何にかと心を配って立廻って下さった。たった今は、本家の彦四郎が来て行った。
いよ/\追悼供養の試合が二日の後ちに迫っている。その最後の打合せでこゝのところ小吉は毎日道場へ詰めている。おかしな奴は東間陳助、平川右金吾の二人で、一生懸命で働く。飛び歩く。ところの剣術遣いやごろつき共にも手を廻して、当日は、ことりと物音一つ立たない静けさにするつもりらしい。
小吉の息のかゝっている本所深川《ところ》のやくざ、ばくち打ちは、まだ二日も間があるというのに、亀沢町界隈から相生町二丁目、三丁目、本多横丁の辺りまで、往来を隅から隅まで塵一本落ちてないように掃き立てて廻る。
四日五日、拭ったような五月晴れ。祝着登城の大小名の駕が御城近くに織りなして、空には吹流し、鯉幟。如何にも江戸らしいお節句であった。
六日。暮れて|五つ《はちじ》すぎに男谷道場の追悼供養の会は無事に散会した。みんな大きな土産物の白い風呂敷包を下げていゝ機嫌で道場から出て来る。駕で帰る老剣士もあり、三々伍々声高に話し乍ら、折柄の爽やかな五月の夜風に、酔った頬を吹かれて戻る人達もある。鎌のような細い月が出ている。
弁治と観音堂から出て来た五助が物の半刻も両国橋にいてこういう人達の自分の親分小吉に対する評判をきいた。はじめは別に聞くつもりはなかった。
道場のまわりにうろ/\していると帰って行く人が小吉の評判をした。知らず/\についてここ迄来たら次から次と来る人達がみんな噂をする。しかも、男谷の道場をこゝまで離れると、もう無遠慮な高調子になって話す。
「どうだ、大したもんじゃあねえか、五助」
「そうだって事よ、今の人の話じゃあ車坂の井上伝兵衛てえ先生の道場開きにも勝様が一本勝負源平の行司をなさって、それも大層見事だったが、あの時よりはいっそう立派になったとな」
「古い文句だが大地を打つ槌ははずれても勝様の行司に狂いはないといってたなあ。おれもううれしくって、うれしくって、人っこ一人通らなくなる迄は銭を貰ったって、こゝを離れる事あ出来ねえよ」
「おれだってその通りだ。ほら、また来たえ」
肥った武士が二人、だいぶ飲んだと見えて少し足許が怪しい。
「勝どのもあすこ迄行くと、江戸中にもうあの人の下知にそむく者はないだろう。実に立派なものだ」
「そうだとも。狸穴の下島丹後と、四谷御門外の木島帯刀との、手合などは、勝負何れにありや、実に決し兼ねるものだったが、勝どのは、下島に白扇を上げて不服の木島に、打合手数の説明をした。剣術もあすこ迄眼が利くは実に名人上手の域を脱してすでに神技と申すべきだろう」
「あれは並の行司では大もつれにもつれるところであったな」
「そうとも。先ずこれから先きは流儀の揉め合、各流弟子流替の争論など、あの人が顔を出せば、何れも円満に納まるだろう」
「そうだ。その為めに無用の流血などどれ位助かるかも知れん」
こんな話をきくと、弁治は思わず飛上って手を打った。武家は驚いて
「な、何んだ、貴様ら」
と怒鳴った。二人ともびっくりして、夢中になって逃げ出した。