次の朝、男谷精一郎は上下を着て供に贈物を持たせて小吉の家へやって来た。小吉もちゃんと羽織袴で改まって迎えた。
「お目出度う」
そう無造作にはいったが心の中は甥を労わるいろ/\なものが溢れるように動いていた。
精一郎が昨日の小吉に謝して、暫くは手をあげない。
「しかし、お前もそうであろうが、おれもこれで肩の凝《しこ》りが取れたような気持になったわ」
「仰せの通りです。叔父上のお蔭でありました。父上も昨夜はお眼をうるませて繰返し/\およろこびでして、今朝もわたくしと共々、こちらへ参るというので、そのつもりでおりましたところ、思いもかけず外桜田の酒井|右京《つるが》亮様から御駕でお迎いでしてね、小吉にはわしからもくれぐれも礼を申したと伝えよとの事で、そちらへ参りました」
「ほう、そうか。酒井|雅楽《ひめじ》頭様お屋敷へは、時々御対手に行っているときいたが、近頃は右京亮様へもか」
「そのようです。国主《だいみよう》方では牛込横寺町の柳沢伊勢守《えちごくろかわこう》様にも三味線堀の柳沢弾正少弼《えちごみつかいちこう》様方にも参り、御家来様衆にも大勢お手直しを申しているようです」
「大慶至極よ」
「それやこれやの事もあり、お手直しを差上げる諸侯方の御推挙で近々には小十人頭にお進みのような噂もあります」
小十人頭は戦さの時は親衛隊だがふだんは将軍が城を出る時に供奉をする役だ。彦四郎は現在西丸裏門番頭で七百石であった。
「小十人頭は千石高だ。兄はいよ/\おっかなくなるねえ」
「はあ」
精一郎は素直に笑った。小肥りの白い柔和な頬に笑靨が出る。
「しかし兄上の文字は酒井雅楽頭などという頑固大名を虜にする程そんなにうまいのかねえ」
「はあ、虞世南を奉じてその堂に入っているのは日本に父上お一人ですから」
「へーえ、虞世南たあ何んだえ」
「唐朝随一の書家で殊にその楷書は前古未曽有というのです。七十歳で書いたのが有名な孔子廟堂之碑文でしてね。字《あざな》を伯施と云います」
「ほう、こ奴あ驚いた。お前、御城へ上る外はいつも剣術ばかりやっていると思ったら、いつの間に、そんな学問をした」
「はあ、御承知の通り父上があのように厳しいものですから」
小吉は急に笑い出して、
「虞世南かねえ。はっ/\、おれなんぞはもうどんな恥をかいてもいゝが、麟太郎もそれ位の事は知らなくてはいけないねえ」
片頬を毬のようにふくらして、これをぴしゃ/\と軽く叩き乍ら、それから暫く黙っていた。
やがて精一郎は帰りかける。小吉はおれも今夜は挨拶に出るから、またあちらで逢おうといっていたら、玄関へ客があった。丁度お信がいなかったので小吉が自分で立って行った。
「あゝ、これは、これは」
そんな声がして再び戻って来た時は客の車坂の井上伝兵衛を案内していた。伝兵衛は四十五、六。眼の鋭い鼻の高い人だ。号を玄斎。元来幕府の御徒組だがこれを養子に譲って、今は剣術で余念もない。
昨日の男谷道場での小吉の行司が余りに見事だったので、わざ/\その喜びに参ったという。丁度、男谷先生のいられたのは幸いであるといって、祝儀の言葉を述べてから
「きかれたか。竜慶橋の酒井良佑先生が何にやら俄かの病いで御稽古の際に倒れ、もう望みは虚しいとのことだ」
「そうですか」
と小吉は
「惜しい事」
と眼をつぶった。
「門人の話に、あんな時に本当に人を斬るようではおれの剣法はまだ/\未熟だと頻りに囈言《うわごと》に云っていたという。どういう事でしょうかと、わしに訊いていた。勝さん心当りがないか」
小吉の眼底には、渡辺兵庫と向い合ったあの弥勒寺の夜の決闘がまざ/\と浮かんでいるが
「さあ」
といっただけだった。
お信が帰って来て、井上へ酒の膳を出した。
「好物、好物」
そういって大きな眼を細めて、井上は酒をのみながら、少し酔って来て、またくど/\と小吉の行司を褒め、精一郎の何事につけても控え目にしかも格調の高い剣法をほめちぎって一刻ばかりで帰って行った。いゝ機嫌の足どりであった。
この日の暮近く小吉は彦四郎へ行く為めに、家を出てびっくりした。向うから、真っ先きが弁治、並んで五助。縫箔屋の長太。そのうしろから東間陳助、平川右金吾。それに続いてぞろ/\ぞろ/\、界隈ばかりか深川へかけての浪人、やくざの無法者が目白押しに並んでやって来る。
こっちの姿を見ると弁治と五助が地べたを転がるような恰好でふッ飛んで寄って来た。
「か、か、勝様」
しがみつこうとする。小吉はとーんとこれを押して
「何んだいお前《めえ》ら、祭礼でもあるか」
「お祭じゃござんせんよ。余り心うれしいもんですから、みんなでお祝いに上ったんです」
と五助も近々と顔を寄せた。
「何んのお祝いだ」
「余り勝様のきのうの評判がいゝもんですから、いやもう、みんなじっとしちゃあいられなくなったんです。縫箔屋なんざあ、渡世がら日頃女の腐ったようにじめ/\してる奴ですが、あ奴迄が、がた/\がた/\慄えてやがるんだ、あの野郎、うれしくなると慄え出すてえ事をはじめて知りました」
「馬鹿奴。こんなにぞろ/\つながって来て、界隈の方々は火事ででもあるかと吃驚なさるわ。おれはこれから兄がところ迄急用で行く途だ。かえれ、かえれッ」
「だ、だって、勝様」
「だっても、褌《ふんどし》もあるものか。側へ寄ると斬っ払うぞ」
「えーっ?」
「東間や右金吾も、とんと悪い人達だねえ、こんな奴らをおだてちゃあいけないよ」
東間が前の方へ出て来た時は、小吉は、くるッと踵をかえして、矢のように入江町へ飛んで来た。
玄関から飛上って、驚いているお信へ
「おい、銭を貸してくれ、一両ねえか」
「一両? ございませぬ」
「頼む、あるだけ貸してくれ」
「でも」
「いゝよ、すぐに何んとか工面をするから、貸してくれろ」
お信はにこっとした。そして箪笥の小抽斗から財布を出して
「勝の家の棟には夜も昼も貧乏という憑物《つきもの》がおりますからねえ」
「そういうな、兄上の云い草ではないが、時が来れば花が咲くとよ」
財布を鷲づかみに引返した小吉は
「おれがところのお信は偉いねえ、銭を持っていたわ」
ふゝンと笑って、弁治の前へ行くと鼻っ先きへ財布を突出し
「これでみんなで一ぺえやれ」
「飛んでもない」
と弁治は
「金なんぞは、こっちに腐る程あるんです。勝様から一文貰ったって罰が当る」
「第一ね」
と元はゆすり屋の五助が横から口を出し
「それじゃあ、|たかり《ヽヽヽ》になる」
といった。
小吉はのけ反るようにしてぷッと吹出した。
「|たかり《ヽヽヽ》とはそういうものかねえ五助兄貴。おれは知らなかったよ」
といって
「何んでもいゝから、黙ってこれで飲みやがれ。おれがところに在るだけの金だ。取らなけれあ、さっきもいった通り立ちどころに斬っ払うぞ」
「へ、へえ」
「東間は知っているだろう、おれが刀は津軽家の小野兼吉が口惜しがった二尺九寸五分池田の国重、斬れるぞ」
「じょ、冗談じゃあございませんよ」
弁治は五助と顔を見合せて、頭をかき乍らうつ向いた。
「お前ら斬られたら、家で女房が嘆くだろう。さ、早くとれ」
財布を無理に渡して、小吉は、横丁を小旗本屋敷の塀に沿って、空地へ出て、三ツ目の通りから竪川ぶちへ曲ると、後も見ずに、駈け出して行って終った。東間や右金吾やところの者が、あッという間であった。
彦四郎は、立派な膳を座敷へ並べ、心待ちであった。しかし逢うと例のように深く眉を寄せてのっけに
「小吉、麟太郎はな、お次の間からこの程は夜は御寝所の御内に御添い申しているというぞ」
「有難う存じます」
「それについても、度々お前のよからぬ噂を耳にするが、それで宜しいのか」
「は?」
「精一郎が道場の天井の打砕いたあの穴は何んだ」
「申訳ありません」
「お前はどうも、ごろつきの性根がある。春之丞君は、いよ/\近々に一橋御相続、民部卿にならせられるというに、親が市井無頼のやからに立交って身状甚だ宜しからずとあっては麟太郎はどうにもなるまい。お前は辛抱をする、腹の虫を押さえるという事はどうしても出来ぬ人間なのか」
「恐入ります」
「学問のないは皆々そういうものかも知れぬが、わしにはどうしてもお前の性根がわからぬわ」
「は」
彦四郎はぽん/\と手を打って側仕えの女を呼ぶと
「先程申しつけた書幅を持って来い」
といった。
やがて女中が立派な幅物の入っているらしい桐箱を捧げて戻って来た。
「あれへ懸けよ」
彦四郎は床の間を指さした。
小吉はじっと見ている。立派な幅が次第に下って来る。大きな字であった。
「流水不逆——為弟小吉——燕斎孝」
傍らで精一郎が頭を下げた。
「小吉、剣術は逆うか」
「は」
「体のこなし、心の動き、何んに逆う」
「は」
「お前の総行司の礼心じゃ」
この書幅の箱をかゝえて、小吉は暗い道を入江町へ帰って来る。雪駄の音が時々ふと途に止まり、またふと歩いた。今宵は月もなく星もなく雨催いの雲が低く垂れていた。
「体のこなし、心のうごき、何んに逆う」
あの時彦四郎は少し口を曲げていったあの言葉が、いつになく腸にしみる。
帰って来た小吉を見ると、お信はにっこりした。
「兄上様に何にか申されましたか」
「何あにいつもの叱言よ。これを貰うたわ」
書幅の箱を渡して
「流水不逆と書いてある」
「わたくしも拝見させていたゞいて宜しゅうございますか」
「べら棒奴、床へかけたら嫌やでも見ずばなるまい。さっき精一郎のいうた唐の虞世南とかいう奴の筆法さね」
「それは御見事でござりましょう」
「お恥しいがこっちは明盲さ」
夏になった。
男谷の家は父の彦四郎が躑躅之間詰小十人頭、黒たゝきの槍を立て馬で登城する。鬢髪は一と頃よりいっそう白くなり頬の皺も刻んだように深くなった。
精一郎は書院番。若党一人をつれてこれは徒歩。前後して登城するこの父子の姿を町家の者さえ羨ましそうに見送った。まして界隈の小普請の御家人などはみんな妬ましそうにそッと見ぬふりをして見送っていた。
秋になった——。
大気が澄んで入江町の時の鐘はよく聞こえるが、本所中の木の葉が散って終うからだと、町人達が湯屋での話になる。
鏡のような月が出ていた。
その晩、小吉は久しぶりに、ふところ手でぶらりと能勢の妙見堂へ顔を出した。何にか世話役達が集って寄合をしていたが、小吉の姿を見ると、みんな一斉に
「ほう、噂をすれあ影だよ、ほーれ勝様だ」
と声をかけた。
「とんと御信心を御退転の御様子故、勝様がお見え下さるなどとは夢にも思いませんでしたよ。これもひとえに妙見大菩薩の思召し。勝様、本当にようこそお詣り下されました」
堂守は相好を崩して畳へ両手をついた。小吉はじろりとみんなを見渡して
「お前ら、慾ばかり張って、|かげ《ヽヽ》富など集っちゃあ碌な事をしねえから、おれは久しく出て来なかったが、今夜は神願の筋があって来たのだ」
といった。