皆んな頻りにがや/\いうが、小吉はずばっと本尊の前へ向うと掌を合せ、堅く眼をつぶって終った。口の中で何にか称えている。
「勝様が御祈念遊ばす、御|付座《ふざ》申しましょう」
堂守が傍らの四十がらみの小粒な一人に、そういうと、みんな一斉に本尊の方へ向き直って、大きな声で題目を称え出した。小吉ははじめはそれが耳についてやかましかったが、だん/\落着いて来ると、不思議な静寂へ引込まれて行った。
何にもかも忘れている。唯々麟太郎の事だけを祈っていた。
「御利益によって麟太郎ももう一息というところ迄参って居ります。どうぞこの上の御加護をいたゞかせて下さいまし。その為めには今日が日、この小吉の命をお召し下さってもお恨みには存じませぬ、いや小吉ばかりか、お信も同様でございましょう」
同じ事を、繰返し/\している小吉は、うしろの人達のぐん/\ぐん/\波の寄せて来るような題目の斉唱が、次第に心にしみてうれしくなって来た。祈っても祈っても足りないような自分の力にみんながこうして加勢をしてくれている。そう思うと、何かしらほろりとなった。
祈念を終って
「みんな有難う」
と少し眼をうるませていつになく丁寧に礼をした。
「さ、勝様へお茶を差上げなされ」
堂守がいう。小吉はさっきからその傍にいる人をちらりと見た。
「おれはお前とは初めて逢うが、何処だえ」
「はい、わたくしは、一ツ目の道具市の世話焼おやじで御座います」
「道具市?」
「古道具の|せり《ヽヽ》市でございますよ」
「そうか。こゝへ来ている人達は、みんなとんだ慾深でな。|かげ富ばくち《ヽヽヽヽヽヽ》をやって、揚句が行者をよんで寄加持をすると銭がかゝるからと、それをおれにやれなんぞと馬鹿をぬかしゃがる故、暫く出て来なかったが、どうせお前もそんなものだろうな」
「は?」
「どっちにしたっていゝんだが今日はみんながおれに付座してくれた。有難く礼をいうよ」
みんながあべこべに一斉に手をついて頭を下げた。小吉も下げて
「いつもの神鏡講の講中の顔が一人も見えないが、どうしたえ」
堂守の方へいった。
堂守は小さく縮んでもじ/\している。世話焼も眼をぱち/\しながら
「はい。あれは講中の弥勒寺橋の勘太という人が、講金を一文残らず引攫って夜逃げをして終いましたとやらで、つぶれました」
という。
「勘太が」
と小吉はから/\笑って
「おい堂守、定めし慾深が驚いたことだろうの」
「はい、持逃げばかりか妙見堂の名を使って方々に沢山借財を致してありました事が追々に知れ、とんと困っておりますでございますよ」
「あ奴も煮豆売で貧乏ものだが、根がそれ程の悪党じゃあない筈だ。人間というはな、どんな奴にも心の中に三千の世界がある、だから固より悪心も巣喰っていて誘い水があれば勢いで吹出すものだと、おれが兄などはよくいうよ。勘太をそんな悪者にしたは、お前をはじめ講へ集った慾の深けえ奴らさあ。お前、わかるかえ」
堂守はだしぬけに
「勝様あ」
といって膝へしがみつくようにまつわりついて、わッと声を上げて泣き出した。小吉は苦笑して、とん/\と軽く肩の辺りを叩いて
「勘太がことは厄落しだ。その道具市の世話焼さんは、いゝ人らしいから、今度あみんなも|かげ《ヽヽ》富をやるような慾をかゝず、お前もその人を力にして真面目に信心を励ませる事よ」
小吉はもう立っていた。
「勝様、勝様」
堂守や世話焼をはじめ、ぞろ/\追いすがったが、小吉はやがて一人になって大横川ふちを歩いていた。
月が出て、虫が鳴いている。
入江町へ帰って来たら、岡野の屋敷で鼓を打っていた。
「おや、いるね」
お信が
「はい」
といって、にっこりした。
「さき程何にやらそれは/\大きな声でお怒りなさっていられるよう聞こえて参りましたが」
「ふーむ」
「殿様が、そのおなごにお嫌われなされて八つ当りでもなさってではござりますまいか」
「はっ/\。お前、とんと気が廻るようになったねえ」
「まあ」
「殿様が、あの女に嫌われては、可哀そうだよ」
お信はまたにこ/\ッと微笑した。
「どうしてでございますか」
「どうしてといって、おれがような木石には実は本当のところはわからねえのだろうが、殿様はもう何にもかも忘れてあの女で、唯々夢を見ているような塩梅ではないか。これから何にをどうというには年もとったし、あゝしてうれしがらせて置くがいゝだろうよ」
「さようで御座いますねえ」
「たゞ、こっちへ尻を持って来られるは閉口だ——今夜も妙見で」
といって
「おい、珍しいね、庭先きで鉦叩きが鳴いているではないか」
「ほんとに、さようで御座います」
澄み切った可愛い、いゝ虫の音だ。
「妙見でね」
小吉は
「おれが麟太郎の立身を祈念してたら、みんな題目の付座をしてくれたは有難てえが、すぐにあの勘太の奴が講金をどうしたとかこうしたとか、顔の真正面から浮世という奴がむき出しでぶっつかって来たわ。いやうるさい。おれはこの頃こういう事はとんとうるせえよ。はっ/\、やっぱり年をとると斯ういうものだろうから殿様も好きなようにさせて置くがいゝね」
と頭を叩いた。
「ほほゝゝ。あなたがお年を召されたはないでござりましょう。今からそのような事を仰せられては困ります。まだ/\これからで御座いますよ」
「馬鹿を云え。一間住居《ざしきろう》をさせられた小普請ものに、これからも、あれからもあるものか」
「と申しても、麟太郎が一人前になります迄は、あなたも、わたくしも、息災でいてやらなくてはなりませぬ。何にやらあきらめなさるようなお思召しはおやめなさって下さいまし」
「ふむ」
「亀沢町のお兄上様はもう五十四にお成り遊ばしました。それで小十人頭に御出精でございますよ。あなたは、まだやっと三十というに」
小吉はごろりと横になった。
「すが/\しい虫の音だ。御城にもこの虫が鳴いているかねえ」
「春之丞様御殿のお近くには如何なものでございましょうか」
更ける迄岡野の鼓が聞こえた。そして虫の音もやまなかった。
次の朝早く妙見堂で逢った道具市の世話焼さん栄助が堂守と連立って匐うような恰好で、小吉の家へやって来た。お信は
「ほほゝゝ、あなたのおっしゃる浮世とやらが参った様子でございます」
そういって立ちかけた。
「よし/\、おれが出て行く」
小吉は玄関で、二人を見ると
「知れるわ、また、何にか講中でも拵えてくれというのだろう。それなら、おれは嫌やだ」
二人は動悸《どき》っとして一斉に腰を折った。
「が、まあ上るがいゝわ」
「は、はい、はい」
座敷へ通すと、庭の片隅の青桐の大きな葉がすうーっと紙鳶の糸でも切れたような恰好で縁側へ落ちて来た。
お信は茶を出し乍ら小さく石のように固まっている二人へ
「勝を、どん/\お仲間へ引込んでやって下さいまし。口やかましゅうは申しますが、一刻も浮世を離れてはおれない淋しがり屋なのでございますから」
とにこ/\顔でいった。
堂守は度々の事でもう額にきら/\する程脂汗をかいていた。
話はやっぱり講の事である。妙見も勘太の大穴のために大変な事になって、一と頃集っていた正直な人達も飛ばっちりを恐れて、一人二人と減って、今は何れも昨今の信心だし人数も至って少ない。これからだん/\寒くなるにつれて堂の諸かゝりも多くなるから、どうしても一講中を拵えなくてはやって行けない羽目になっている。
寄るとさわると、勝様のお名前が出る。実は昨夜もその話が出て、どうしても勝様へおすがり申すより外はない、といっているところへ、お姿が見えたという次第で、これも妙見菩薩の御示現と今日は早朝から思い切ってお願いに罷り出ましたのでございますと、堂守などは声を慄わせて、吃り乍らいった。
小吉は、黙って顎を撫でている。暫くして
「堂守、お前らな、神仏の信心に銭金の慾があり過ぎるからいけねえのだ。あの|かげ《ヽヽ》富の態《ざま》あ何んだ。妙見堂に|ばくち《ヽヽヽ》の場が立ってどうなる。あゝいう事をやるから、うめえ利得《りとく》がねえとすぐにぱあーっと散って終うのだ」
「はい。仰せの通りでございました」
「骨にこてえたかねえ」
「はい」
小吉は、また暫く黙って顎を撫でている。
そこへ出しぬけに、庭の切戸口から、岡野孫一郎が片手を内ぶところへ入れた相変らずの恰好でぬうーっと入って来た。
「おう、勝さん、暫くだったねえ」
小吉はにやッとした。
「暫くもねえものだ」
そう呟いて
「ちょいと来客ですから、後程、こちらから伺いましょう」
といった。
岡野は、庭の縁の前へ突立ったまゝ二人をじろ/\見ていたが
「いよ/\おれは主計介《せがれ》に屋敷を追い出されそうだ。どうしてもおのしに力を貸して貰わなくてはならぬのでな」
という。
「まあ/\。何れ後程」
「本当に来てくれるか——いや、わしがまた出直して来る」
そういい乍ら、岡野ははじめて堂守に気がついて
「ほう、そ奴、妙見の堂守ではないか」
「はい、然様でございます」
小吉が横から
「堂守、忘れたか、寄合御席岡野孫一郎様だ。頭が高いぞ」
叱りつけた。堂守は飛び下って
「はゝーっ」
畳へ顔をうつ伏せた。世話焼も同じにした。
岡野は如何にも愉快そうに大口を開いて笑ってから
「また来る」
飄々として行って終った。お信がこれを見ていて、口を押さえて笑っている。
小吉はそれっきりでまた黙っている。
「勝様、お助けをいたゞき度う存じます」
世話焼のいうのへ、小吉はいきなり押っかぶせて
「お前、悪事をすれば斬っ払うがいゝか」
「はい。愚鈍でございますから間違いはござりましょうが、曲った事は致しません。曲事の際はすぐにお斬り下さい」
「よし。そう定まればきっと勝小吉が講を建ててやる」
「ご、ご、御承知下さいますか」
「町人は慾が深くていけない。今度は侍が対手だ」
世話焼と堂守が顔を見合せて
「と申されますと」
と堂守がやっと口をきいた。
「刀剣講というのだ。堂守はわかるめえが、世話焼は商売柄呑込めるだろう。おれが知っている水心子秀世という刀鍛冶は、大業物の正秀の孫婿で大そうないゝ腕だが、世の廻り合せが悪くてちっとも芽が出ない。それに本阿弥三郎兵衛が弟子の仁吉という研師、これも名人だがやっぱり芽が出ないのだ。自然大酒を喰らって自棄糞《やけくそ》な日を送っている。こ奴にどん/\刀を打たせ、講中の侍へ掛抜けに渡してやる。どうだ」
「えッ?」
世話焼は如何にもびっくりした面持で
「勝様、名代な暴れ者のあのお二人、そういう事が出来ますか」
「出来る」
「お、お、恐入りました」