岡野の殿様はあれっきり姿を見せないが、小吉が、心の中で自分の家の事のように心配しているのがお信にはよくわかる。寝そべっていて時々思い出して
「とんと鼓が聞こえねえね」
とひとり言をいったりした。
一日二日の内には御老中の方の話がつくだろうと思ったのが、五日も経って、岡野が例の通りにや/\しながら庭へ入って来た。小吉は木剣の素ぶりをやった後で、縁側でお信が背中の汗をふいてくれているところだった。ゆうべはひどく寒さが強くて、今朝はまだ日蔭は霜柱が立っている。岡野は小紋の綿入に真綿を包んだ白い羽二重の襟巻で肥った首根っこを埋めて
「勝さん助かったよ。隠居よ」
といって、いつもの癖で忙がしく眼をばち/\した。
「そうですか」
「大久保加賀守がひどくむずかしい顔をしていたから、切腹とでも来るかと思ったら隠居さ。思う壺よ」
「思う壺? そうですかね」
「家督はそのまゝ主計介《せがれ》。名前も代々の孫一郎として、あれが千五百石の主どのだ。わしは今日から江雪と隠居名にしたわ」
「ほう」
と小吉は、じっと岡野を見ていた。
「何にはともかくお上り遊ばしませ」
お信が一ぱいに胸の迫る顔でいう。
「上げて貰おう」
岡野はすぐに座敷へ通った。ちらっと見えた横顔はいつもに似ない真面目なものであった。
小吉が肌着を着替えている間にお信は茶を出した。岡野はしげ/\と見つめて
「こゝの夫婦は羨ましい事だな」
あとしんみりいって、やがて前へ坐った小吉へ
「勝さん、奥とせがれが事はくれ/″\も、おのしに頼む」
といった。
「え?」
「わしはぷっつりと屋敷を出る。後はせがれが蒔直した。力を貸してやって貰いたいのよ」
「奥様《おまえさま》は?」
「あれはせがれの処へ残りたいそうだ。まだ夫人《おく》も迎えない愚かな奴を唯一人手ばなしては置けぬという。尤もだ」
「ふーむ」
「なあ勝さん」
いつも不行儀な岡野は珍しく両手を行儀よく膝へおいた。
しかし、そのまゝじっと無言でいる。こんな姿をこれ迄小吉も見なかったし、ましてお信も見た事はない。
岡野の頬にちらっと淋しいほゝえみが流れた。ふうーっと深い息をして
「わしがこのような馬鹿で、せがれがまたあのような馬鹿だ。可哀そうなのは奥ばかりであった。人は女に生れるな、吉凶禍福悉く他人によるとかいう古い言葉があったなあ。そのまゝだ。わしがような処へ嫁入ったばかりにあれも一生を悲しく送って終うたわ。な、勝さん、おのしはそういう事のわかる人だ。後々のこと切に頼み入り申す」
「殿様」
と小吉は膝を前へ寄せて
「そこへ心がつかれたら、これから、奥様《おまえさま》をお仕合せになさることだ。奥様はどのような者にいたわられるより、やっぱり、殿様にいつくしんでいたゞくが一番うれしいに相違ないのだ」
「いやあ、事こゝに到ってはそれも無駄よ。わしがいては岡野の家は親類縁辺悉く対手にはしないわ。せがれの差替の腰の物の融通もつかぬはみんなその為めさ。わしが威張っていればいるだけいっそ困る事よ。さっきもな、奥へそう云うた、岡野孫一郎という男は、酒に酔いしれて川へでも落ちて死んだ、浅ましい男だったと諦めてくれとな」
小吉も思わずうつ向いた。こんな本当の人間らしい言葉をこの殿様からきこうとは、かつて一度も思った事もなかった。あゝ、祖父様があんなに世にときめいたのに自分の代になって突然寄合に入れられた。思えばその不服を放埒に托して生涯を棒に振って終われたのだ。小吉は眼がしらが熱くなって来た。
「いや、邪魔をした。もう当分——いや、ひょっとすると一生、おのし方夫婦には逢えぬかも知れぬ。壮健でな」
岡野は出しぬけに帰って行く。
「殿様、殿様」
小吉が追おうとしたが、岡野は一度振返ってにこっとしただけで、急ぎ足に庭をよぎって行って終った。
お信がうつ伏して泣いた。小吉も坐ってじっと腕を組んでいる。
「いつか、おれにいったわ。わしは賄賂の使い方を知らなかったので、寄合に落されたとなあ」
「それにしてもお屋敷の後々は如何になるのでござりましょう」
「主計介という男は女の外にはとんと情の冷めたいしかも滅法勝手な奴だ。困ったら泣いて来る」
「それにしても、あの奥様にはお尽くし申しておやりなさらなくてはお可哀相でございますよ」
「ほんとうに、お気の毒に生れつかれたお方だ」
年の瀬が迫って、小吉は、夜、男谷道場の戻りに、どうしていやがるだろうと、弁治の長屋の前を然《さ》りげなく通ったら、若いお弟子のお針子が大勢いて、弁治と女房の小新が並んで縫物をしているのがちらりと見えた。界隈の噂でも、近頃はとんと真面目にやっているようだし、刀剣講の歩金も纏って入った事だろうから、いゝお正月を迎えるだろう。
「おや?」
長屋の角のところにしゃがんでいた男が一人、俄かにぱた/\と駈け出して行った。ちらりと見たがどうもやくざな奴らしい。
「足を洗ってあゝっているんだ、真逆岡っ引でもねえだろう——あゝ、わかった」
小吉は眉を寄せて立停って
「正月の見世物に大阪下りの綱渡りがかゝるときいたが、ひょっとすると、あ奴らが」
急に踵を返して、がらりと弁治の格子戸を入って行った。
「弁治さん、ちょいとこっちへお顔を貸して下さい」
といった。弁治も小新もびっくりした。
「か、か、勝様」
と思わず吃って大あわてだ。
「内緒で頼みたいことがあるのだ。おかみさんはいゝ、弁治さんだけ、ちょいと手間を欠いて下さい」
暗がりの中に、小吉弁治を抱くように寄って
「大阪の綱渡りが来るようだ。お前にはおれというものがついているから、真逆な事はしめえと思っていたはこっちの自惚れよ。どうやら手を廻している様子だ。気をつけろよ」
「へ、覚悟はしております。女房もその気で、いつどんな奴が飛込んで来ても見っともない殺され方はしますまいと云っております」
「今、そこに変な奴がしゃがんでいやがった。おれがきっぱりと、筋目の立った渡りをつけてやるから、それ迄は、夜なんざあ間違っても外へ出るな」
「へえ」
「それだけだ。嬶を大切にせ」
小吉はもう行って終った。その小吉が入江町の曲り角で。やくざ風の奴が二人、それに着流しの浪人風の奴が一人、何にかぶつ/\いゝ乍らこっちへ来るのに出逢ったのはそれから直ぐである。
小吉ははゝーんというような恰好をした。
「おい、お前らひょっとして、勝小吉という男を探しているんじゃあねえのか」
「え?」
一人が動悸《どき》っとしたらしく調子っぱずれの声を出した。
「若し、そうなら、おれがその勝小吉だよ」
小吉はへら/\笑った。
「そうでなけれあいゝんだが、路地が入組んでいるからねえ、剣術遣いの小っちゃな家なんぞを探すは大変だと思ってお節介よ」
「ち、ち、違います」
一人のやくざはがく/\して一寸慄えているようだ。
「そうか。余計な事をしたな。が、この辺は滅法物騒なところ故、うろ/\していて、斬っ払われる事がよくあるよ。気をつけたがいゝね」
それっきり、すうーっと後も見ずに行く。三人は何んという事なしに立ちすくんだ。
暮の二十五日。まだ朝だ。
新しい半纏を着た若い者を一人つれて、大阪下り綱渡り「二代目玉本小新」の太夫元がごつごつした紋付に袴をはいてやって来た。
この前、お世話になった礼をくど/\といって、弁治兄イと五助兄イをまたお頼み申したいとお探し申しましたが、どうしてもおところが知れませぬ。もし御存知ならばお知らせ願い度う存じます。就きましては、初代玉本小新が脱座いたしましたため、今度二代目を引きつれて参上いたしました。これはほんの御神酒料でと、真面目な顔つきで水引のかゝった包みを差出した。
「ほう。太夫元、呆《とぼ》けるはいゝ加減におし、あ奴らの業を知らない事はないだろう」
「え?」
「だいぶ前から妙な奴らが、弁治のところを狙っている。弁治ばかりか、このおれがところも狙っているのさ。馬鹿だねえ」
「えーっ?」
太夫元は鬢の辺りの白髪をふるわせて、ぐうーっと反るような恰好で、顔色も変った。
「はい、案の定、そんなところか」
と小吉は
「実はおれもそんなところだろうと思っていたよ」
「へ?」
「何あにな、変な風態の奴が、この間中から弁治をつけたり、おれが家を覗きに来たりする。商売ものの玉本小新を奪《と》られたと、恨みの半分もけえす気で、ふところには危ない物を呑んでいる事だと、おれも早合点をしていたわ」
「さようでございますか。いや、然様な事がございますかも知れませぬ。わたくしにも思い当ります」
「お前、小新はどうしていると思ってるえ」
「はい、あれはあなたのお身内の弁治さんの女房にして貰っていると思っております」
「お身内はないだろう——がまあその通りだ」
「あなたがついていて下さる、仕合でござりましょう」
「仲好くやっているようだ、ところで——」
と小吉は
「お前は、余り話がわかりすぎるが」
太夫元は、わかり過ぎるという事はございませんでしょう、小新とて、いつ迄、元結渡りをしていられるものではありません、所詮は身を固めなくてはならない、固めるならば花の中です、わたくしはしがない渡世は致しておりますが、一座の損得と、人の生涯の仕合とを釣合にする程わからず屋では無いつもりで御座います。小新の実父道化口上の半八から、次第によっては斬るなと突くなと思召し通りにして下さい、父親として勝様という御旗本の後楯のある娘の仕合を潰す事は出来ませんと涙ながらのいちぶを明かされて、思わず貰い泣きをして終いました。でござりますからあの子の事について不服を称えようの邪魔をしようの害をしようのという気持は毛頭ございませんよと、終《しま》いには笑って終った。
「ですけれども勝様、出しぬけに小新がぬけ、姿をくらまして一座のものに|けじめ《ヽヽヽ》を食わせたという事については、わたくし共のような渡世の者には殺さぬ迄も脚一本指一本片輪にするという厳しい掟があるのでございます。そのまゝであゝいゝわ仕方がないわという訳には参らないのでございますよ」
「そうだろうの」
「それで一座の者がやかましい。その上二代目小新はまだ/\芸も拙《つた》なし器量も前の小新程には参りませぬから従って人気も立たず、お客のお出でも少ない。自然一座のもののふところ工合もよくないという。殊に当用《りんじ》とは申せ弁治兄イも一座に加わった事でございますから掟の仕置をしなくてはならぬと、いやもう一時は火が燃えたような騒ぎでございました。それをわたくしがやかましく申しやっと下火になりましたが、この度二度のお招きにより東下についてこれがまた烈しく燃え上ったのでござりましょう。太夫元は勝様を恐れている、勝様とて鬼神でもあるまいにと、とんとわたくしを除け者にいたしております」
「そうか、お前がその気でいてくれるなら、おれが乗込んで何んとかみんなを鎮めてやろう。弁治はな、実あ元は巾着切だ。そ奴があゝして堅気になり、夫婦仲むつまじくやっているを打壊しちゃあ、第一、天理に背くというものだ」
「はい」
「時に、小新のおやじは今度も来ているか」
「参ってはおりません。一座の者がどうしても承知をせず、それに少々病気のようでもありましたのでな」
「そうか、太夫が未熟なり、あの評判の道化口上がいないでは、それあお前も滅法気の毒だな」