もうすぐ単衣になる。
近頃の小吉は、一と頃すっかり良くなっていた脚気がまた出ていたが、多くは男谷道場で剣術を遣ってくらしている。夜など何にかのはずみで、来合せた彦四郎とちらりと顔を合せるような事があって、小吉は頭を下げるが、彦四郎は、いつもそっぽを向いた。
麟太郎は熱心に滝川先生に学問をしている。ある時、途で、先生と精一郎が逢った。挨拶の序に
「麟太郎は如何でございましょう」
ときいた。先生はにこ/\笑って
「先ずは恐るべき少年とも申しましょうか。あの子はいつもわたしの講釈の底をつかもう/\としているように見受けます。天稟でありましょう」
といった。文字に現れた学問の講義をきいてその文字の底に、姿をかくしている真髄を真っ正面からつかもうとする生れながらの不思議な見識を先生は口を極めてほめられた。ほめるというよりは驚いていられる様子であった。
精一郎は、これをそのまゝ小吉へ話した。
「文底秘沈と申す事がありましょう。文章の底にかくし沈めた秘密。麟太郎さんは早くもこれに気がつく迄に行っているようですよ。滝川先生は天稟と申されたが当ってますね」
「何あに先生のお世辞よ。お前だって、身びいきからそんな事を誠しやかに思うのだ」
しかし、小吉はにこ/\っとした。
「然様お考えならそれもおよろしいでしょう」
精一郎はそういってやっぱり笑っただけであった。
その麟太郎が、今宵はいつもより講釈が早く終ったので、五、六冊の本の包みをかゝえて入江町へ帰りかけていた。空地の草が道ばたへ折れかぶさるように延びて|六つ半《しちじ》を一寸過ぎた刻限である。針が転んでもわかる程に静かであった。
丁度空地のところを通りすぎて、向い側の松平筑後守の下屋敷の塀に沿って歩いていた。入江町の方から誰か来るのが薄闇で微かに見える。
突然、麟太郎の鼻っ先きへ、白黒ぶちの大きな犬が飛び出た。どっちから来たかわからない。一と声も吠えなかったが、姿を現すと同時に、物凄い勢いで麟太郎に咬みついて来た。
一度は自然にうまくからだをかわした。が、二度目に麟太郎は確かに、下ッ腹に、力一ぱいその犬がぶっつかって来たようなものを感じた。
「わあーん」
と、麟太郎は確かに自分があるだけの声を絞って泣いたのを知っている。
しかし、その後の事は、何にも知らない。
入江町の方から来た人影は、あわてて駈けつけて来た。いきなり、足で力一ぱい犬を蹴上げた。が、犬は今度はその男へ立向った。
草履を突っかけていたが、その草履の白い鼻緒が、薄闇の宙に躍ったと同時に、きゃん/\っと、今度は犬の悲鳴が高く聞こえて、二、三度きり/\舞いをしたと思ったら、尻っぽを尻の間にはさんで、小さくなって空屋敷の草原の方へ逃込んで行って終った。
麟太郎が大地へ打ち倒れている。
「どうした、どうしやしたえ」
その男が麟太郎を抱き起こすようにした時である。
「何んだ/\」
三ツ目の通りの方からやっぱり飛んで来た人がある。
「この子が犬に咬まれたんだ」
と云い乍ら、さっきの男が顔を上げて
「おゝ、何んだ、お前、縫箔屋の長太じゃあねえか」
「あゝ、十二番の松頭か」
先きの男は町火消北組十二番の纏持松五郎。後から来たのは、小吉とは馴染の緑町の長太である。十二番は緑町辺から花町、三笠町、吉田町、吉岡町辺まで十八カ町が持場で人足百四十八人。佐賀町辺を受持っている南組三番の百六十二人についで、川向いでは第二の大きな組合だ。
松五郎は落着いて、抱起した麟太郎を見ると、下っ腹から下へ夜目にも驚く程べっとりと血だ。
「おう、長太、こ奴あ犬に睾丸を喰い切られた」
「えーッ。そ、そ、それあ大変だ」
「何れにしてもこのまゝじゃあ命にかゝわる。何処の屋敷の子供衆かあわからねえが、とにかく、おいらがところへ運び込もう。お前、手を貸せ」
長太が首の方を持ち、松五郎が自分も血だらけになって、太股をはさみつけるように抱いて、三ツ目の通りを夢中になって花町の自分の家へ駈けた。
竪川の表通りから、一側裏へ入った長屋だ。腰高の障子に「纏」と筆太に書いた家が、見えるか見えないに松五郎は
「おい、お花、怪我人だ、戸を開けろ」
と大声で叫んだ。
「あいよ」
打って響くようにぴーんとした声がした、と思うと、途端にもう、戸が開いて、跣足《はだし》で土間へ飛降りて、すっと立っている女の姿が灯を背にしてくっきり見えた。
「何にを見ていやがる。早く床を敷きゃあがれ」
とこっちから松五郎が怒鳴った。
床へねせて
「もし、坊ちゃま/\」
松五郎が二、三度呼んだが、麟太郎はまだ人事不省だ。
「こら、お花、何にをぼんやり突っ立って見てやがるんだ。医者をよんで来い」
「あいよ」
「待て。あわてて駈出しゃあがったって何処へ行く気だ」
「津軽屋敷の前の外科の成田幸庵さね。藪だけど急場だからねえ」
「おいらが云うもそ奴だ。早く行け、大|どじ《ヽヽ》奴」
お花の足音が急がしく遠のいて行った。長太はさっきから頻りに首をふっている。
「お、松頭、はっきりわからねえが、この坊ちゃまはひょっとして、勝様の若様じゃあねえか」
「ば、ば、馬鹿奴、てめえは勝様の身内も同然だ。そ奴が、おいらにきいてどうするんだ」
「いやあ、何にね、そういわれりゃあ面目ねえが、掛違って、おれあ、ゆっくりと若様にはお目にかゝった事あねえが、どうも似てる。が、間違ったら大変だからね」
「それあそうとも。といってこう未だに正気づかねえ。縁起でもねえがこのまゝ死んででも終って、それが勝様の若様だったら、偉え事になる。お前、しっかりしろ」
「こ奴あ困った/\」
まご/\している中に、お花が成田幸庵を腕がぬける程に引っ張ってつれて来た。もう年配で、肥っている。
蒲団を積んで、それに麟太郎を寄りかゝらせると、麟太郎が、一度、うーんと大きな声で唸った。
「行灯だけでは足りない。蝋燭を十本もつけなされ」
成田は割に落着いていた。
「急所を犬に喰われたんだ」
という松五郎へ
「診ればわかる」
とちょっと怖い顔をして
「勝様へお知らせ申したか」
「え?」
「これは勝小吉様のせがれ殿じゃぞ」
「そ、そうか、やっぱり、そうか」
と松五郎は、拳骨で長太の背中をいやっという程について
「大馬鹿野郎。てめえがような間抜けの野郎は勝様に腕の一本もぶち落されろえ」
怒鳴られた時は、長太は、もう履物も忘れて跣足のまゝ、壊れる程に戸を開けて、しかも開けっぱなしで飛出して行っていた。
「あ、あ、あの大馬鹿野郎奴。途方もねえ野郎だ」
松五郎は吐きつけた。
成田は真面目くさって
「いや、然様にあわてる事はない。人間には持って生れた寿命というものがあってな。どんな小さな怪我でも死ぬ者は死ぬ、医方の上からはどうしても助からぬ筈の大怪我人でも助かる者は助かる——まあ、戸を閉めなさい、疵所《きずしよ》に風はいかん」
お花が急いで戸を閉める。成田は血だらけになっている麟太郎の前をまくった。
「ほう、これあ玉が下っている」
「え」
松五郎が見ると、成田の歯がかち/\と鳴って顔色がだん/\青くなった。ちらっとお花と顔を見合せた。これはまあ駄目だなと思った。
成田は、血だらけの衣類でまたその疵所をおゝいかくしただけで何んの手当もしない。
「せ、先生、何んとかならねえのですかえ」
「さればさ」
と成田はやっと口をきくように
「わしが手を下して、死んだとなれば、世上は——お前方もそうだろうが人間の寿命という事を考えずに、わしの手当が悪かったからだ、あれは藪じゃというだろう。わしはそれを考える」
「そ、それじゃあ、天下の医者ともあるものが、この子の死ぬのを、腕こまぬいで見てるのですかえ」
成田は何にもいわない。唯じっとしている。
小吉が一人で飛込んで来た。刀を鷲づかみにして、さしてもいない。草履をぱっとうしろへはね飛ばして、じろりと松五郎夫婦と成田を見て、立ったまゝ、で一礼した。途端にぐうーっと落着いたようである。
「松頭、世話になった」
「飛んでもござんせん」
小吉は
「こらッ、麟太郎」
その辺の物が皆んなひっくり返って終う程の大きな声で眼をむいて怒鳴った。
「父が来たぞッ」
前よりいっそ大きな声だった。そして、手をのばすと、蒲団へ寄りかゝっている麟太郎の前をまくって、じいーっといつ迄も疵を見ている。麟太郎がまた唸った。しかも三度四度、つゞけて——。正気づいたようである。
小吉の鋭い目が成田へ流れて行った。
「助かるか」
「先ずむずかしい」
「何故《なにゆえ》、何んの手当もしねえ」
「この子が後々天下の民に仕合を与える人間になるようなものを背負って生れて来ていれば、わしが放っておいても助かる」
小吉はぐっと唇をかんだ。成田は
「生きてこの世に何んの為めにもならぬ子ならば、わしが——いや、天下の名医がこぞって手当をしても助からぬ。これが神仏の配剤と云うのじゃ」
いった時である。
「馬鹿!」
小吉の平手は力をこめて対手の頬へ飛んだ。びっくりするような大きな音がして、成田はひっくり返って脳天を打った。
「坊主の御説教をききに来てるんじゃあねえ。疵をしたら手当をして、少しでも苦痛を無くするが、手前《てめえ》の職だ。助からねえ迄も助けようと手を尽くすが医者が仕事だ。利いた風な事をぬかして、玉の下った程の大怪我人をあっけらかんと見ているという医者があるか」
やっと起き上って来そうにした成田をまたも一度ぶっ倒した。しかも、今度はその上襟首をつかんで、ずる/\と引きずって土間へ下りて、腰高を開けて、どーんと突飛ばしてやった。成田は往来へ、腹ん逼いになったまゝ、暫くの間起き上られないようであった。
靄立って、空は暗く、蒸暑くなっていた。小吉は、松五郎へ
「お前さんらに、落着いて礼もせず、今のような乱暴を見せたは、少々、面目ねえが、お前さんらも、わが子がこういう事になれば、こうした事になるだろう、笑わねえで勘弁してくれ」
「いゝえ、御尤もでござんす。しがないあっし共にも御心中はわかります。で、勝様、若様は如何になさいますか」
「助からないかも知れないが、親の身とすれば出来るだけの事はしてやりたい。今、縫箔屋が戸板を用意して来る筈だから、とにかく入江町の家まで運ぶ気だ。お前へ迷惑をかけた埋合せはきっと後でするからね」
「飛んでもござんせん。勝様、溝《どぶ》っ浚いの人足でも、これでも江戸っ子の端っくれ。しかも本所《ところ》でお天道様を拝んでいる男でございますよ。埋合せだの何んだのとそういう事はおっしゃらねえでお呉んなせえ」
小吉は黙って頭を下げた。途端にこれがまるで別人のような怖い顔になって、いきなり、麟太郎を張り飛ばしたには、松五郎も固よりだがお花も顔色をかえてのけ反った。
「こら、麟太郎。侍の子ともあるものが、不覚にも急所を咬まれるばかりか、その態《ざま》は一体《いつてい》、何んだ。お前のおやじは勝小吉だぞ。しかもお前はこの間まで一位様の御殿に上って勿体なくも亡き春之丞君の御対手をした程の者ではないか。男の性根があるなら笑って見ろ、え、笑って見ろ笑って——」
ぱっぱっとまた二、三度つゞけ様に頬を張ったがさっき成田をやった時とは固よりいさゝか違っている。