脇できいている松頭までがぐっと腹にこたえた。この坊ちゃまは大したものだ、そう思うと自然に頭が下った。
小吉は、もう、けろりとして
「おい、水心子。飛んだ事をして終った。この刀は不承だろうが、おれに売ってくれ。おれが家は知っての通りの貧乏故金はすぐには払えねえが、きっといい値を工面する。頼む」
「嫌やでございます。差上げる為めに持参の刀、売るという訳には参りません」
「といって、おれは今、犬を斬った」
「察しておりました。とにかく」
といい乍ら、秀世は、今、小吉が縁側へおいた刀を持つと、そのまゝ、お信の方へ頭を下げて庭下駄をはくと、つか/\と石灯籠の前へ行った。すぐ脇に手洗の石鉢の水がある。落着いてそれを新身の裏表へさら/\とかけると灯籠の前に足を開いて、呼吸をはかって
「やッ」
さッと斬りつけた。水心子には試し物の心得はある。が刀は折れもせず、曲りもしないが、刃ががっくりと幾個所も欠け落ちてもう物の役には立たなくなった。
秀世は、みんなの方を見て、にっこりと笑った。
「勝様、水心子秀世が生涯をかけた作を捨てました。尾張屋さんのお言葉に任せ、刀などを持参したのがわたしの間違いでございました」
小吉は半分腰を立てた。
「まあ、来い、話をきこう。おれに出来ることなら、骨を折る」
秀世は一礼して俄かにこみ上げて来るうれしさを押さえつけるような顔つきで上って来て片隅へ手をついた。
「牧野長門守様は勝様の御親類との尾張屋さんのお話でござりますが」
「あゝ、伊勢の山田奉行をしている牧野長門守|成文《なりぶみ》か。あれは親類と云えば親類、親類でないと云えば無い。おれが祖父の男谷検校というものから別れた家でな。何しろ千五百石だ。屋敷も本所の相生町だが、ついぞ行った事も見た事もないよ。兄は如才なく出入をしている事だろう。それがどうかしたか」
「はい、その事なのでございます。今度山田奉行から長崎御奉行にお転役になりました」
「ほう、そうか。長崎奉行は滅法金になるということだ。牧野は大体金持だから、いっそう、大きな蔵が建つだろう」
「はい」
秀世はちょっと弱ったような顔で、頭をかいて
「その長崎奉行御転役について、尾張さんが御用達《こざし》を仰せつけていたゞきたいというのでございますよ」
「ほうお」
「牧野長門守様を御城から糸をひいていらっしゃるのが阿茶の局様だそうでございましてね」
小吉はぽんと手を打った。
「わかった。尾張屋が、おれに阿茶の局へ肝煎をしてくれろというのか。奉行の小差《ようたし》は大層儲かるというが、流石あ商売々々だ。そこ迄深く繋がりの糸をたぐって頼んで来るは、恐入ったものだ。それとこれとは別な事だが、世の役人という役人がまいない賄賂で、商人《あきんど》共の思う通りに働かされるは、所詮、このように、向うが役者が上だからだなあ」
「尾張屋さんはそういうつもりではないで御座いましょう。どうせ誰かが御用達を致さなくてはならぬ事。それならば、わたくしをというのでございます」
小吉は首根っこをぴしゃ/\叩いて大きな声で笑った。
「おい、水心子、お前が新身を犬なんぞの血で汚した。詫びをしなくちゃあならねえが、思えば、憎い犬奴だった」
「い、いや、それは別に」
横から松頭がにや/\しながら、そっと秀世の脇腹をついて
「さ、けえって御当人をおつれ申す事だ。尾張屋さんが勝様の前で、お頼み申しますと頭を下げれあ、きっとお引受け下さるよ」
秀世は大よろこびで帰って行く。後で小吉はむっつりして
「日頃高慢をいう侍が、新身で犬を斬るなんぞは、おれという男も余っ程馬鹿だ」
吐きつけるようにいうと、頭をかゝえてどーんと引っくり返った。
その一日、何んだか不機嫌でいると、夜になって、また水心子がやって来た。
「尾張屋さんがお目通りを願い出ましたが」
怖る怖るそんな事をいった。
「馬鹿奴、四十俵の小普請にお目通りはねえだろう。通るがいゝよ」
尾張屋亀吉は白麻に袴をつけて、きっちりとした立派な男であった。尤も年配も五十をとっくに過ぎているし、かねて小吉という人についてはよくきいていると見えて、自分が長崎奉行の用達《こざし》を願出るのは唯自分の慾ばかりではない、真実をこめて御奉公を申し、引いては公儀の御為めにもなりたい心願だなどと、行儀正しく丁寧な口をきいた。
「就きましては」
と尾張屋は、ふところから二十五両包みの金を二つ取出して、白扇へのせて小吉の前へすっと差出した。
「甚だ御面倒ながら阿茶の局様又は牧野様へ、勝様から何にかお好きな物を差上げていたゞき度う存じまして持参を仕りました」
「そうか、預かって置こう。が、おれは阿茶の局へ頼まずに直々牧野へ話を持込む気だ。長門守は顔も知らないが、あれの用人白石九八郎というものに頼まれて、せがれの成行《しげみち》というへ剣術を少し教えたことがある。余り筋が悪くて箸にも棒にもかゝらないから止したがいゝとやめさせたが、こんな蔓をたぐったら、ひょいとして物になるかも知れないよ。だが断って置くがねえ、一旦向うへ出した金は駄目だったからって、二度とこっちへは戻っちゃあ来ないよ」
「心得ております」
「じゃあ三日待って貰おう。返事はこっちから水心子がところ迄持って行く」
「へえ、何分ともよろしくお願い仕ります」
次の朝、薩摩上布の反物に帯などを三宝にのせ、その下へ小判二十両を入れて、小吉は相生町の牧野の屋敷へやって行った。白石に案内されて、成行の座敷へ通って、尾張屋の一件を腹蔵なく話した。
成行はもう十八、九で小吉にいわせると剣術は見込はないそうだが、気軽く引受けて、直ぐに長い廊下づたいに長門守の方へ行った。
ものの半刻も待った。
いゝ庭で、風も涼しいし、小吉は白石を対手にふところへ風を入れながら、秀世の刀剣講の話だの、自分の眼に映ったまゝの尾張屋という人物の話などをしている中に、成行が戻って来た。
「残念ながら駄目だった」
「は」
と白石がきくと、小吉に向って
「勝先生、長崎の用達《こざし》は昨日すでに確定したそうですよ」
といって
「父上も、所詮の事ならば勝の推挙によれたものをと申しておりました」
「そうですか」
と小吉は一寸困った顔つきをしたが
「そう仰せいたゞくだけで満足です。では御免を蒙ります」
と、そのまゝ入江町へかえって来た。
「如何でございました」
とお信がきいた。
「一日おくれよ。が、けえる道々おれは考えた。賄賂をふところに役人の小差《ようたし》を頼みに行くなどは、お信、おれも大層変ったなあ」
お信は笑って何んにもいわずにうなずいただけであった。
「おれあね、これから外桜田まで行って来る」
「でも水心子が今宵参るようなお話だったではございませぬか」
「悪い知らせだ、足を運ばせるも気の毒だ」
暑い日照の中を、小吉は出て行った。
尾張屋は大きな構えで、裏の別棟には十人位の人足が素っ裸でごろ/\しているのだが、これはこっちからは見えない。
小吉に来られてびっくりした。鄭重に客間へ通して、亀吉は遥かに下座に下って手をついている。
「面目ないが一日遅かった。他の者に定っていた。おのしへ鼻をあかせたような形で、とんだ悪い事をした」
「とんでも御座りませぬ。御面倒をおかけした上、御足労をいたゞきましてはまことに以て恐縮千万でございます」
「恐縮はこっちのことよ。尾張屋、二十五両無駄にした」
といい乍ら小吉は預かった金の残り二十五両をふところからつかみ出して
「二十五両かえす」
ずっと尾張屋の前へ押しやった。尾張屋は眼を見張った。
「おれは預かった金の頭を切る気で出し惜しみをしたのではない。かねて剣術の事で用人達とは懇意だからあの屋敷の風は凡そ呑込んでいるのでな。二十両でも百両でも同じことなのだ。さ、勘定をして受取って呉れ」
尾張屋は軽く息が止ったような顔をした。そして
「あ、あ、あなた様というお方は」
といってから
「飛んでもない事でございます」
と両手を胸の前へひろげて、これを突出すような恰好をして
「それは元々|水金《みずがね》でございます。五十両を一両残らずあなた様がお遣い捨て下さっても否やのないお金でございます。どうぞそのまゝそちらへお納め下さい」
「馬鹿を云っちゃあ困るね。そんな金を貰う筋はない」
「ございます」
「ねえよ」
小吉はもう傍らの刀をつかんでいた。
「御免」
立った姿へ、尾張屋は何んにもいう事は出来なかった。
「気の毒をしたな」
一礼して去って行く小吉を膝へ手をついてじっと見送っている。
その晩、秀世が入江町へ訪ねると小吉は本当に気の毒そうな顔をして
「頼まれ事が成就をしないで、買物や生《なま》で二十五両も金を無駄にし、お前も顔を悪くしたろう。が、話の持込みが遅れたのだ、勘弁しろ」
といった。
秀世もまた頭をかいて
「御迷惑をおかけしてお詫びを申すはこちらがことで御座いますよ。尾張屋さんは、いやもうすっかり恐入りましてね。わたしにくどい位に云いました。勝様に何事かあったらきっとおれのところに知らせろ、御武家様だからお顔を出されては不首尾なところもあろうから、そんな時は、何十何百でもこっちから人足を繰出して行く、お金の事も、使者をくれ、五十や百ならすぐにお届け申すからと」
と気がねをしながら小さい声でいった。
「おれも妙な事からあゝいう知られた男と近づきになり、こんなうれしい事はない」
「親方も申しておりましたよ。諸家は固よりお役人方にも多く出入はしているが、お侍にはずいぶん嫌やな思いをさせられ通しだ。勝様というお方にお目にかゝり、これ迄長い間胸につかえていたものが、一度にすうーっと下ったようないゝ気持だと」
「これ、お世辞も休み/\云え。お前がそんな事をいったのでは、お前の作る刀が泣く——はっはっ、それにしても犬を斬ったあの刀は惜しい事をした。小吉の短慮が、宝物をぶち壊したわ」
「滅相もない、明日からはまた新しい性根で、こんどは誰にでもない勝小吉様とおっしゃる御旗本様唯お一人の御用に、必らず後世に伝わる一口を打ちます」
仕立屋の弁治が訪ねて来たのは、殆んど水心子と入れ違いで、門の外ででも逢ったのではないかと思う位であった。
「何んだ」
と小吉はにや/\して
「お前は巾着切をぶっつりやめてから、不浄仲間ではないと、お信に許され大手をふっておれがところへ出入をするが、こんな時期にふら/\とやって来て、商売をおろそかにしちゃあいけないじゃないか。またお信に叱られるよ」
「へえ、仕立屋は夏分は暇なものでございましてね。いや、そんな事より、今日は妙な事をきいたので、心にかゝりますもんですから」
と弁治は声を低めた。
「妙な事とは何んだ」
「ほら、この間お斬りなさいました犬ね」
「あ」
「あれはね、竪川向いの徳右衛門町から菊川町、松井町、林町、あの辺一帯十六箇町を持場にしている中組八番の火消の頭取伝次郎というものの持犬なんです」
「そうかえ。籠壺《かごつぼ》の纏《とうばん》で名は売るが伝次郎というは町内の世話になっているに拘らず、|がえん《ヽヽヽ》破落戸《ごろつき》のような野郎ときいた事があるが、あの犬がそうだったか」