次から次とよくまあやって来る。岩瀬権右衛門が、小吉を憎さにこの暑いさ中を駈け廻っている態《さま》が月に見えるようだ。
「借主は千五百石の御旗本だ。気をつけて口をきけよ。仮りにも無礼を申すとひいては将軍家《だんな》を軽んずるも同じ事だ。唯事では済まなくなる。取立の強談を申して八丈へ流罪になった者も近年|幾人《いくたり》かある。心得ていような」
一番先きに、おれを誰だか知っているかときき、次には定ってこういった。そして扇子でくつろいだふところへ忙しく風を入れ乍ら、にや/\して
「重ねて申すが当方は御旗本だ。用人の岩瀬がどうもいろ/\な悪法をかいたやにも思われる。もし、そちらで貸した金と、こちらで借りた金とが合わない時は、どうする。いゝか、こちらは御旗本だぞ」
「へ、へえ」
八人来たが、一人残らず少ないのは一両、多いのは四両も違っている。何んでもいゝ、ただ金さえ手に入ればというだけで、利子がどうであろうが、こうであろうが、借りる金が何両であろうが無茶苦茶で、万端飛んでもない不始末になっている。
小吉は、あべこべに、貸した者から確かに何両お渡ししましたというような証文をとって
「追って金の出来次第沙汰をする」
追い返して、ほっとして衝立の蔭へ引っくり返って
「はっ/\。人間、無茶をしようと思えば結構出来るものだな」
と声をあげて笑った。風が無くて、暑い。
孫一郎も奥でこの様子は知っている。
やがてそこへ小吉がつか/\と入って来た。
「殿様のおふところへ入った金が〆めて三百五十両、借りた金は五百両。いかに屋敷の取仕切を用人に任せてあったからとて、これあちとひどい。勝はね、こんな事をしたとて一文の利得をしようというのではないんですよ。勿体なくも御隠居に手を合せて頼まれたからやるのだ。余計なお節介というなら、いつでも引下るよ。だが、失礼だが殿様も、人の道というものは御心得がありやんしょう。酒乱の果てが、たった一人のおふくろ様に乱暴をしたりなんざあなさらぬがいいね」
流石の孫一郎も、たった今迄の玄関の一件がある。黙ってうなずいた。
「それにしてもこの屋敷で用人がいないということも出来ない。気のきいた正直な、そして親切な人を見つけなくてはなりませんね」
「頼む」
「勝に任せますか」
「どうぞ」
「どうぞと云われると、さて、誰がいゝか」
小吉は首をかしげた。
奥様にも逢って話をした。
「こうした訳で、殿様から、用人を任されたが何んにしても、知行所のお借上げは手一ぱいだし、その外の借銭だけでも五千両が余でありましょう。並の人間ではとてもこの屋敷の用人は勤まらない」
といって、小吉が表門から往来へ出た時は、何にか埃くさく薄ぐもりのようで、まるで湯気の中へ入って来たようだ。汗がにじみ出る。
風鈴を鳴らして白玉売が前を通った。その横を年をとったてっぷりとしたおやじが、若い女の日傘へ入って歩いて行くのを見て、ふと隠居の江雪を思い出した。
「あれに相談して見るもいゝかも知れねえ」
小吉はあわてて、家へ帰ると、井戸ばたで、お信が、この脂照にてられて力を入れて洗い物をしていた。
「麟太郎のか」
「はい。余り脂臭くなりましたので」
「止せッ、おれが稽古着も、おれが手前《てめえ》で洗っている。麟太郎が物は麟太郎にさせなくてはいけねえよ」
「でも、あの子は、滝川先生の方もござりますのでねえ。御承知でござりましょう、毎朝あゝして陽の出ない中から本をよんでおります程で」
「それが何んだ。青雲を踏みはずした程の不運な奴が並々の修行位ではおれがような人間によりなれねえ。こんな人間になって一体まあどうするのだ。稽古着は必ずあ奴に洗わせろ」
「はい。それでは然様に致しましょう」
「おれはこれから柳島の江雪がところへ行って来る。岡野の屋敷もいや大変だわ」
「御苦労様でござりますねえ」
「ひょいとすると不在に、平川右金吾が、刀の鑑定《めきき》に来るかも知れないが、今夜出直すように云ってくれ。用がある」
「はい」
「ひょっとしたら、岡野の用人にしてやろうかと思っている」
「然様でございますか」
「あ奴、あれで剣術遣いに似ず少し|まめ《ヽヽ》なところがあるから」
そのまゝ出て行った。柳島の梅屋敷殿村南平の家へは久しぶりだ。南平が、白衣姿で、水を浴びたような汗だくで、大護摩をたいて祈祷の最中であった。こっちで、若い盲目娘とその両親らしい老夫婦が、一心不乱に念じている。
江雪も清明もいない。
仕方なく、上り端のところに、きちっと坐って、空っとぼけて見ていた。
信心の者が帰ってから
「暫くだったなあ、時に隠居はどうした」
ときいた。
南平はすっかりよろこんで両手をついて
「御隠居が、真言の行者になるとおっしゃいましてね。どうおとめ申してもおきき入れになりません。困っております」
「ほ、ほう、そ奴は面白い、望みならしてやるがいゝではないか」
「それがでございますよ。今、おりました盲目の娘がござりましょう。あれは目が不自由なばかりか気の毒に生れついてのお唖なのでござります。あれに惚れましてね」
「はっ/\は。こ奴あいっそ面白いわ。清明はもう飽きたのかね」
「さあ、どういう事でござりますか、仲はよろしゅうございますが、毎夜々々大喧嘩でござりますよ。全く困ります。御隠居は少々変っていらっしゃる」
「少々どころか、大変りさ」
「おれはこれ迄いろ/\な女と契ったがまだ目の見えない唖は知らない。どうしても一夜の契りを結びたい。それについては、先ずお前のような行者になり、神通力で、あの娘を納得させて見たいと申しましてね」
「はっ/\/\。見えず聞こえずだからなあ」
「そうなんで御座います。そのためにこの先きの真宗寺と申す小さな庵寺へ参りましてね、住持へ談じ込んで、もう御剃髪なさいました」
「え、坊主になったかえ」
「それに法衣。すっかり真言僧のお姿で」
「そうか」
と小吉は例の軽く頭を叩く所作で
「少々相談があって来たが、そんな事では話にもなるまい。おれは帰るよ」
「まあ、そうおっしゃらずに、とにかく何んとか取捌いてやっては下さいませぬか。わたしが困るどころか、あれでは清明も気が違います」
「知った事か、元々お前ら勝手に出来た事だ」
「そ、それはそうで御座いますけどねえ」
「清明のような世にも清らかな女は見た事がないといって、先祖代々の屋敷を弊履の如く捨てて出て来た江雪だ。並の人間の手におえるか」
南平のすがるのを振切って、小吉は外へ出て終った。
もう黄昏に近い。すぐ前に畑があって、蛍がすい/\と飛んでいた。
見ると、向うの畑の道をこっちへ来る二人がある。法衣を着た江雪とすっかり町家の女の姿をした清明。小吉はふふんと鼻で笑って、わざと脇道へそれて行った。
江雪が早くもこれを見つけた。
「おうい、それへ行くは勝さんではないか。おうい、勝さん、勝さん」
小吉は聞こえぬふりで、とっとと歩いている。江雪は畑を夢中で突切って飛んで来る。
江雪ははあ/\息を切って暫く立ったまゝで胸を叩いていた。
「法衣は着ているが岡野江雪だよ。おのしの来てくれるのを待っていたわ」
「ほう」
と小吉は大仰に反って
「坊さんになりましたか。連れた女が行者で、あなたが坊主、結構な事だ。わしが死んだら引導を渡して貰いましょう」
「まあそれはそれとしてじゃな。おれは、今度いゝ女を見つけたよ」
「盲目で唖でしょう」
「どうしてわかる」
「わたしは真言の行者がやる位の通力はある。御旗本だからだ。あなたはしかも千五百石の御旗本、通力があるにどうして坊主になんぞなりました」
「いや、わしは通力はない。思った女に誠が通じない」
「そうじゃねえでしょう。気が違っているからだ」
「何?」
「おい、清明もこれを見よ。人間が犬畜生を投げる図だ」
江雪の利腕をとると、小吉はいきなり引っ担いで、宙へ高くふっ飛ばし、畑の脇の肥溜《こやしだめ》の中へ投うり込んだ。溜は八方へぱっと雨のように散って、江雪は壺の中へ突立って、胸までひたった。
「な、な、何あんてえ事をする。乱暴もの奴!」
小吉は一度ちらっと見て、二度と振返りもせず、早足で夕靄の中に消えて行った。
「脚から落ちるように投げ込んだが、なまじ武術を知らぬだけに、その通りに落ちやがった。はっはっ、肥溜はいくらか弱るだろう」
弱るどころの騒ぎではなかった。何しろ清明にも手がつかない。大急ぎで殿村をよんで来て、桶で近くの小さな流れから水を汲んでは、江雪を素っ裸にして頭からざあ/\かぶせて汚物を洗い落した。
「ぷうーっ。あ奴、いゝ男だが惜しむらくは未だに乱暴がなおらぬわ」
江雪はにや/\笑って
「こら清明、お前、何んで、そんなうれしそうな顔をしている」
「あなた様は汚ない事がお好きでござりますから定めし御本望がとうれしくなりました」
「おれが何んで汚ないを好きだ」
「あなたは色情気違いでござります。これ程汚ない男はござりませぬ」
「な、何んだと、こ奴、無礼千万」
「わたくしの事が間違いと思召すなら、勝様に今度はお頭の方から肥溜へ投げ込んでいたゞきましょうか。お目がおさめなさるかも知れませぬ」
「何、何、何」
江雪は素っ裸のまゝいきなり清明へ打ってかゝった。
清明はその辺を逃げ廻る。息を切って江雪が追う。殿村は留めるどころか頭をかゝえて家へ逃げ戻ってあわてて護摩壇へ坐って、ほっとした。すぐ護摩をたいて、頻りに何にやら祈り出す。
とっぷりと暮れて、江雪と清明が帰って来た。江雪は剃り立ての頭の額の辺と頬に少しばかりの疵がある。
清明はすぐに裏土間にある風呂を焚きつけた。焚口から紅い火がちょろ/\と見えて、薄紫の煙がふんわりと静かな夏の夜に立ちこめる。
それ迄上り端へ裸でどっかりと腰をかけていた江雪へ
「さあ、お入りなされませ」
と清明がいった。
「すまないな。洗ってくれるか」
「はい」
江雪の湯へ入るのを、清明がまめ/\しく世話を焼いて、頻りに洗い流している。いつもの事だが、さっきのあの剣幕を見ていただけに殿村も、ちょっと首をふった。
帰って来た小吉が入江町の角の材木屋の前で、ぱったり平川右金吾に逢った。
「出直して参るところでした」
「そうか——。ところでどうだ右金吾、お前、岡野の用人になる気はねえか」
「え?」
「貧乏は底をついてはいるが仮りにも千五百石だ、面白いぞ」
「は」
「嫌やなら嫌やでいゝがやって見ろよ」
「あなたのお言葉なら何んでもやります」
「剣術の稽古をしてえなら、切戸からおれが庭へ入って来い、いつでもおれが対手をしてやる」
「はい。結構な事です」
「お前は女房もねえ一人ものなり、生《なま》じ碌に斬れもしねえ刀の売買で、僅かな金を稼ぐなどよりはこの方がいゝだろう。やれ」
「はい。いつから参りましょうか」
「今夜からだ。本所《ところ》でうろ/\している奴が一人減って、おれもおゝきに助かるというものだ」
「今夜はどうも——」
「よし。それじゃあ、今夜あ一つ、吉原へでも行ってゆっくり遊んで明日昼ごろ迄にはやって来い。丁度運よく、おれがふところに銭がある。ほら、やろう」
小吉は無造作に巾着をつかみ出して、右金吾へ渡して
「それだけで遊んで来い。夜が明けれあ千五百石の御用人だ、馬なんぞ曳いて来ちゃあいけねえぞ」
別れた。