昨日はあんないゝお天気だったが、今日は思いもかけず、朝から雨だ。
小吉は縁近くへ寝ころがって、のんきに雨でも聴いてる恰好だが、内心は右金吾のやって来るのを、今か今かと待っている。それが、もうお昼近いにまだやって来ない。
「どうなさったのでございましょうねえ。鑑定《めきき》のお刀もこちらに置いてございますのに」
そういうお信をちらりと見て起きながら
「行って見る」
仕度をすると傘をさして出て行った。
三ツ目通りの古道具の市は、丁度市日で大勢集って大層なさわぎをしている。世話焼の栄助とっさんがすぐに見つけて人をかきわけて飛んで出て来た。
「三両貸しては貰えまいか。質形にはこの刀をおいて行く。明日の晩までに銭を持って来なかったら、刀を売っても文句はいわないよ」
「な、な、何んというまあ水臭い事をおっしゃいます。勝様、これが三千両三万両ならわたしの力ではどうにもなりませんが、三両とおっしゃるに質形もなにもございませんよ。え、この栄助が日頃の御恩返しにお願い申してお使捨てにしていたゞきます」
「馬鹿をぬかせ。あるなら貸して貰おう。さ」
と小吉は例の池田国重を腰からぬこうとするのを、栄助は、押さえつけて、もうぽろ/\涙をこぼした。
「あ、あ、あなたは、そのような冷めたい——」
「よし、わかった。それでは有難くお借り申して行く」
小吉は三両をふところにすると、かち/\と高足駄を鳴らして行って終った。
御蔵堀から舟にして、山谷堀へこぎ入れた時は雨がやっと止みかけて空が明るくなっている。吉原の廓は、二た月程前に火事があって、方々に仮宅でやっていた。
山之宿の佐野槌へ、傘もすぼめずに入る小吉の姿を見ると妓夫や仲まわりの男たちが飛蝗《ばつた》のようにお辞儀をした。
「頼みがあるのだ」
「へえ/\」
「何処かに平川という侍がゆんべの銭の不足で居残りに捕われている筈だ。探し出して連れて来てくれ」
「へえ。承知を致しました。何れにもせ、どうぞ先生お二階へ」
「うむ」
「しかし先生、ずいぶんひどいお見限りでござりましたねえ」
「銭がねえからさ。こゝへ来るには銭が要るが瑕よ」
「相変らず、おからかいがきつう御座いますね」
「何にを云っている」
二階へ上って、萩障子を開けて空を仰いだら、もう青いところが見えていたし、淡い煙が棚引いたような眼の先きには顕松院だの妙音院だの、一の権現だの、森の中から寺から寺が甍を重ね、門を連ねている。
佐野槌は二階は狭く一組とか二た組の客よりとれなかったが階下は相当広かった。小吉は枕を借りてごろりとねている。半刻ばかりすると、右金吾が小さくなって、這うようにして入って来た。
眠っていると思った小吉が
「馬鹿奴!」
眼をふさいだまゝ大きな声で怒鳴りつけた。
「つ、つ、つい飲み過ぎましてね」
「お前は酒をのむと何にもかもわからなくなる男だ。え、千五百石の御用人が、仮宅の行灯部屋へ打ち込まれて鼠のようになっている態《ざま》ああるか。直ぐにけえれ」
「は」
小吉は連れて来たこゝの女将や妓夫の鼻先きへ、三両ばらっと投げ出して
「それだけより無えのだ。足りなかったら少々の間貸して置いてくれ」
「と、飛んでもございません。一、一、一両でもおつりが参ります」
「そうか。そんな吝ん坊でこ奴、居残りにとられたのか。はっはっ。実はその三両、おれが無理をいってこゝへ来る途で借りて来たのだ。そう云わずにまあ取って置けと云えばお前らの前で大層器用だが、それでは後が滅法苦しくなる。お、右金吾、二両こっちへ戻せ」
「は」
小吉がその二両を受取った時であった。
どか/\と階段の下で大勢の人の騒ぐ声と、それに交って、女達が頻りにこれを留めている甲高い声が渦を巻いた。
仲廻りの婆の切羽詰ったような声が跡切れ跡切れ聞こえた。
「何んだ?」
という小吉の顔つきに女将が
「先生、毎日のようにこれで難渋を致すのでございますよ。仮宅故御覧の通り二間よりない二階、そこにお客様がお出でなさろうがなさるまいが、おきき入れなく——」
「何処の奴だ」
「橋場の銭座お役人大瀬熊之丞とおっしゃるお方でございますよ」
「何んだ、小役人か?」
云っている間もなく、まるで角力取のような大きなからだで、しかも大きな眼で朱をそゝいだように真っ紅に酔った男と、うしろに取巻らしい小役人風が一人と破落戸風の奴が二人ついて、ずか/\と小吉の座敷へ入って来た。
右金吾がすぐに立膝で構えた。
「これ、じっとしていろ」
小吉はそういってから、にや/\して
「どうだ、居残りの垢流してお前、飲み直すか」
「は」
右金吾は顔色を変えている。
熊之丞が押しつけるようにいった。
「座敷を開けて貰おう」
「これから飲み直すところだ」
小吉は笑い乍らいった。
「おれ達が飲むのだ。階下では暑くていかん、こゝを空けて貰おう」
小吉も今日までいろ/\無法な奴には出逢っている。しかし、馬鹿といおうか、阿呆といおうかこ奴程目端の利かない人も無げな振舞の者は見た事がない。不思議なものだ。こ奴実に世にも珍らしい気に喰わない顔つきだなと小吉は思った。一と目見ただけでもう腹の虫が納まらなくなった。こんな奴と何んのかゝわり合いもなく往来で逢っても青痰を吐きかけてやったかも知れない。胸の中が熱くなってからだががく/\慄えて来た。そ奴がずばっと側へ寄って来た時は、小吉は同時に、すっと立って、胸へぴたりと喰っついて終っていた。
「きけば銭座だそうだが、うぬのようなは骨身にこたえなくてはわかるまい」
「何んだと」
拳をふり上げて力一ぱいに横顔へ打込んで来たのと、つれている破落戸の一人が
「勝小吉だ」
とうめくようにいって階段を飛下りて逃げたのとが一緒だった。が熊之丞にはこれが耳へ入らなかった。ぱッと一度体をかわされて、すぐに二度目を殴り込んで来た。
その腕を押さえて、ぐん/\と表通りの障子際へ押して来たのは瞬きをする間である。
一度ぱッと腕を放して、放したと思ったらどーんと胸をついた。
「あッ」
熊之丞は大きなからだで、両手を八字に開き、もんどり打って、往来へ仰向けに落ちて行った。
「見ろよ、右金吾、あの態《ざま》を——お役人様のあの態をよ」
大地へぶッ倒れて、熊之丞は大きく口を開けて気絶して、ぬかるみの泥が大あばたのように顔一面にはね返っている。
見ると、小役人と一人の破落戸が、夢中になって何処かへ駈けて行く。もう一人はどうしたものかすでに影も形もない。
「せ、せ、先生、大丈夫でござりましょうか」
「喧嘩は馴れているお前が、そんな事では仕方がない。ひょっとしたら死んで終ったかも知れないが、何あに、その時は、ほら、そこにいる平川右金吾が腹を切って下さるわ」
「お、お、お腹を」
「一人でいけないとなら、おれも切るよ」
「ま、まあ」
女将は立てない。
平川は
「先生、一旦この場を立退きましょう」
「おれも、あ奴の面にむかっ腹を立て、大人気ねえ事をしたが、根はとんと臆病だ、逃出してえは山々だが、そうなったらこの佐野槌が迷惑する。まあもう少し落着いていよう。きっと今の二人がおなかまを大勢引っ張って出て来る。それからの掛合よ」
小吉は萩障子へ背をよりかゝるように坐って、にや/\しながら時々往来を見下している。下はいやもう大変な騒ぎである。人があっちへ走り、こっちへ走り、女たちがわめき立てて走る。
そう斯うしている中に、橋場の銭座役所かららしい同じようなこすっからそうな顔をした侍が四、五人やって来て、白い眼をむいて二階をにらみ上げ乍ら熊之丞を引っ担いで帰った。この様子を見て
「はゝーあん、あ奴は死ななかったな」
と小吉がつぶやいた。
「もう帰りましょう先生」
右金吾がまたいった。
「待て。お前が一人で岡野へ行っても口上に困ることだ」
「は」
「ほら見ろ、来た来た。こ奴あ妙だ、手に手に長|鈎《かぎ》鳶口は、これあ町火消の奴らだよ。ほら、ざっと三十人だ」
「先生、あ奴ら、この辺の者じゃあない、中組八番の伝次郎の人足だ。顔見知りが沢山いる」
「おゝ、あの犬の一件の奴か」
「そうです」
「どうしてあんな遠くの奴がこんなに早く加勢に来たか、この間中から何にやら蔭でごそ/\やっているときいていた。一つこの辺で、見せてやるもいゝだろう」
女将をはじめ、佐野槌の者達は、先生早くお逃げ下さいと、泣き叫んで頼むが、小吉は落着き払って、着物の肌をぬぐと、袖っきりの筒っぽの肌じゅばん一枚に袴のもゝ立ちをとって刀をさして
「はっ/\。まるで道場の稽古だわ」
大笑した。
その中に、佐野槌のまわりはぐるりと長鈎鳶口の人足達に取巻かれた。
「右金吾、裏手を見ろ。浪人者の五人や三人は伏せてある筈だ」
右金吾があわてて引返して来て
「いる/\。五人いる。その中一人の片目の奴は何んだか、見覚えがある」
「そ奴が大将だろう」
小吉はみんなへ大きな声で
「家の者は外へ一歩も出てはならないよ、怪我をするぞ。みんな二階から見物してお出で——はっはっ、慄える事はねえ、すぐに片がつくわ」
刀の鍔元を親指で押さえて、一歩々々と静かに階段を下りて行った。
二階の人達の眼の中からほんの少しの間、小吉の姿が見えなくなったと思ったら、ずばっと往来へ出て来た。
もう黄昏に間もない。
「来やがった」
甲走って叫ぶ声がした。
「そーれ」
途端に小吉の刀が閃めいた。
まるで斬反《きりかえ》しの稽古をするように刀を左右に長鈎の中へ飛込むと、その度にざざーっと、津浪でも引くように人足達は慄え上って退いて行った。山之宿から六軒町へ人波が流れる。
「中組八番の若え者が、そんな事でどうする。さ、誰か踏込んで立派に消口をとる者あいねえのか」
大川に沿って今戸橋まで追込むと、出しぬけに瓦町の角の二八蕎麦屋のうしろから、刀をふりかぶって五人かたまって、月代を延ばした浪人が斬込んで来た。
小吉はさっと真っ先きの奴を胸元から斬下げた。例の片目の奴だ。着物の前が切れ、帯が切れ、真二つに引裂かれたようにそれがばらッと地に落ちて、対手は褌一本の帯脱《おびと》り裸になった。それでいて身には糸をひいた程の疵もなかった。小吉はにやっとした。
次の奴も全く同じに斬った。
これを見ると、然《さ》らでだにおぞけ立っている人足達は、雪崩を打って橋へ押込み、橋の欄干をこぼれて、山谷堀へ二人も三人もころがり落ちた。五人の浪人の中、三人全く同じに帯脱り裸に切られた。たった一人だけが、ほんの蚤にさされた程の切っ先きのかすり疵を受けた。
そこへ吉原の会所役人や、廓の口利きが大勢で飛込んで来て
「まあ/\」
といって仲裁する。こういう事には馴れているから、騒ぎがこんなに大きかった割に極くあっさりと双方が一先ず手をひくという事になった。
もう暗くなって、瓦町から今戸の方まで近所一帯はこの騒ぎで灯もつかないが、遠くの街々、大川向いは、ちら/\と美しく、空にはぱらりと星が見える。
小吉と右金吾は、会所から駕で送られた。駕へのる時に、会所のものが
「改めましてお屋敷へ参上いたします」
といった。小吉はびっくりして手をふって
「飛んでもない。お前らなんぞに来られて堪るものか。真っ平御免だ」
といった。
「で、では、どう仕りましたらば宜しゅうござりましょう」
「どうも斯うもない、これで何もかもお終《しま》いよ。今日はおれもいい稽古が出来て思わぬ仕合せをした」
「え?」
「何、こっちの事よ。間違っても屋敷などへは来てくれるな。そんな事をすると、今度あ門人共を引連れて、仮宅一軒残らずぶち壊すぞ」
「ご、ご、御冗談を」
会所の者達が顔を見合せている中に
「やれ」
小吉が駕屋を怒鳴りつけた。