——はしがきにかえて
こうして君に手紙を書こうと思い立ったのには二つの理由がある。
一つには、数年前に出版されてベストセラーになった『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』(新潮社刊)という本を、遅ればせながら読んだからだ。
この本はキングスレイ・ウォードというカナダ人の経営者が、学校を出て仕事に就いて間もない長男に宛てて実際に書いた忠告と助言の手紙で、やはり日本とあちらでは随分と違うな、と思わされる部分もかなりあったが、父親としてわが子に言ってやらなければならないという一種の責任の果し方をつきつけられて、私は自分の怠慢に改めて気づかされた、ということが大きかった。
もう一つは、いつの間にか私と君はすっかり疎遠になってしまって、いまでは一つ家に住みながら、言葉をかわすとすれば「おはよう」「おやすみ」くらいしかなくなってしまった、ということについて考えたからだ。
振り返ってみると、君と私が密接だったのは、君が小学校五年くらいまでで、それからの十二年間は、それまでのように一緒に遊ぶなんてことはもちろん、ちゃんと話をすることさえ途絶えた。
しかし、これはなにも私達親子が特殊というわけではなく、父親と男の子という関係はそうなるのがどうやら自然であり普通のように思えるし、現に私自身がそうだった。
私が小学生の頃は戦争中で、食糧や衣料が乏しくなり始めてはいたが、まだ空襲もなく、どこの家にも静かな明け暮れがあった。朝、兄や姉、弟、妹のきょうだいが一斉に起き出し、洗面着替えを済ませて茶の間に集まると、すでに父と母が待っていて、皆で朝の挨拶《あいさつ》をかわした後、一斉に箸《はし》をとって朝食をしたため、すでに母が用意しておいてくれた弁当を持って、それぞれの学校へ向かって出かけていく。
夕食は七時頃だったろうか。大学に行っている一番上の兄も含めて、家族全員が定められた時間に茶の間に顔を揃え、それに遅れることは余程のことがなければ許されなかった。その席で父は、黙々と晩酌《ばんしやく》の盃を口に運びながら、子供達一人一人に何げなく目をやるばかりで、声をかけるようなことはなかった。
それは食事のときだけではなかった。考えてみれば私が子供の頃、父親と話をしたことがあるとすれば、叱られるときか、進学のことで父の許しを得たとき以外にはなかったような記憶しかない。だから、何か父の許可を得なければならないようなことが起きると母を通じて話して貰い、直接言うことなど、恐しくて考えることさえしなかった。
当時の父親はどこの家でもだいたいがそんなふうで、子供にじかに接触するのは叱るときくらいなものだった。それも母親の叱言《こごと》では利《き》き目がないような場合に限ったから、何か疚《やま》しいことでもあって父に呼ばれたりすると、それこそ背筋が凍るほどの恐怖に襲われたものだ。それも言葉だけの叱責ならいいが、体罰がプラスされることも珍しくなかった。幼児から小学校低学年の頃は食事抜きで戸外へ出されるくらいだったが、小学校上級あたりからは殴られるだけでなく、冬、庭の木に縛りつけられ、水を浴びせられるという厳しい罰を受けたこともあった。
もちろんめったにあることではなかったが、それだけに父の処罰は恐しく、それが怖さに悪い仲間の誘いに乗るのをためらうという効果はたしかにあった。
だから少年期の私にとっての父は、ただひたすら畏怖《いふ》の対象であり、暴力を振われたあとは真剣に殺してやろうかと思ったほどで、父親に肉親としての愛情を覚えたことなど一度もなかった。だから父の気持がなんとなく理解できるようになったのは、自分が子供の父親になってからで、それまでの間は父を理解できなかっただけでなく、エディプスコンプレックスに近い心情を父に対して抱いていた。
私は君達に対して、自分の父と正反対の対し方をしてきたのは、おそらく君達子供をその頃の自分のような気持にさせたくない、いや、君からそういう目で自分が見られることを惧《おそ》れたせいかも知れない。だが、いまの私は、私が君達にしてきたことと父の自分への対し方とを比べて、果してどちらの方が正しかったのだろうかと、よく考える。
私と君は仲のよい兄弟以上に仲よしだった。まだよちよち歩きの頃から、暇さえあれば君と遊び、寝つくときも添い寝をするくらいだった。小学校に上がると、野球やサッカーの手ほどきをしたのも私なら、流行《は や》りのゲームを君が口に出して欲しがる前に買ってきて、一緒にそれに興じたものだった。
もちろん遊びだけではなかった。そのときどきで随分と二人でいろいろなことを話し合ってもきた。しかしそうした関わりは君が中学に入ったあたりを境に、嘘のように消えてなくなり、君が何に興味を持ち、何を悩み、何を目指しているのかさえ、皆目見当がつかなくなった。といってそれ以後の私がそのことを淋《さび》しがっていたというわけではない。むしろ我が子に友達のように近づいていさえすれば、父子関係がいつまでも緊密に持続すると考えていた自分の愚かさに苦笑しているといった方が正しいかも知れない。
私は、私の父が昔そうであったように、君達とじかに言葉をかわすことのない日々を送るようになってみて、おそらくあの頃の父は自分と同じような気持でいながらなお、それではいけないと自ら戒め続けていたのではないかという気さえして、無理をして威厳を保っていた父をむしろほほえましく思い起す。
その父が私に、生涯に一度長い手紙をくれたことがあった。それは私が学校を出て就職したときだった。といって私はまだ両親の家にいたわけで、私に何か言いたいことがあるのなら面と向かってそうすればよさそうなものなのに手紙という方法を使ったのは、それまでの家長としての子への対し方を、そのことで急に変えられなかったからか、それともただ照れ臭かったそのせいかは知らない。
その長い手紙は、父が父なりに自分の長い体験を通して得たサラリーマン心得とでもいうべきもので、明治生まれの父だけに、戦後の社会には通じない古めかしさも随所にありはしたが、私はそのときはじめて父と私の間に通う温いものを感じて、胸が詰ったことをいまだに覚えている。
先週の日曜日、机を整理していてその父の手紙を抽出《ひきだ》しの奥に発見したとき、私は思わず自分を恥じた。この春君が学校を了《お》え就職したときにこの手紙のことを思い出し、父を真似て君に手紙を書くことを思いつかなかった自分が腹立たしく、君と言葉をかわさなくなり、そのことを後ろめたく思いながら父が私に寄越した手紙のことをすっかり忘れている自分に、子供を寄せつけようとしなかった父を非難する資格はないと思ったからだ。
——そこで、これから折にふれ思いついたことを君に向けて書くことにする。
といっても私は、『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』の著者のように功成り名遂げた成功者でもなければ、あの本に出てくるさまざまな引用を駆使するほどの教養の持主でもない。それに、自分の経験に照らしてといえるほど広範に及ぶ人生を生きてきたわけではないから、自信を持ってこうすべきだというつもりもない。むしろ自分がそれほどの大仕事をしてこなかった人間だけに、いやそれだけ過去に憾《うら》みを残しているからこそ逆に言えることがあるのではないか、といういささかの自負ならある。
仕事のことだけではない。あるいは女性とのことについても書くかも知れない。それもこれも手紙だからこそ照れずに率直に物が言えるのではないかと、私自身いま次の第二信を楽しみにしているくらいだ。