——いまニューヨークは夜中の三時半、十二時半にベッドに入り、すぐ寝ついたのだが、三時に目が覚めどうしても寝つけそうになく、それならいっそと、起き出して君に手紙を書くことにする。
いつもはバタンキューで、寝ついたら朝まで目の覚めない私がこんな状態になるのはいうまでもなくジェットラグ(時差ボケ)のせいだが、十三時間近いニューヨーク直航便の肉体的影響は年と共にひどくなる一方で、いつまでも若いつもりでいい気になっていてはいけないという、天の警告かも知れない。
年に一度会議のためにニューヨークにやってくるようになってもう七年になるが、いつも、泊っているホテル以外といえば、訪問先のビルかレストランくらいにしか足を運ばないから、いつまで経《た》ってもニューヨーク通になんかなれそうにもなく、大きなことは言えないのだが、それでも来るたびに新しい変化に刺激を受ける。
目抜通りの五番街やマジソン街には来るたびに大胆な新しいビルが出来上がっていて目を見はらされるが、そういう変化でなら東京の方がはるかに激しく、その意味ではいまのニューヨークはどちらかといえば古い貫禄の重みの方をより強く感じさせる大都会なのだが、面白いのは街を行く人々の装いだ。
人種のルツボという別称を持つニューヨークのことだから、それぞれの人種なりに服装に特徴があるし、それに誰が何を着ていようと気にする人間など一人もいないから、こんな気楽な街もないといえそうだが、よく注意して眺めてみると、われわれ他所《よ そ》者《もの》には分らないこまかなケジメが随分とありそうだ。
たとえば、五番街、アメリカ・オブ・アベニュー、パーク、マジソンといった、東京でいえば丸の内から銀座あたりのような中心街を行き交うビジネスマンと、わずかワンブロック東隣のレキシントン街、西隣の三番街のそれとではあきらかに違い、同じニューヨーカーと呼ばれるマンハッタンのビジネスマンにも、一分の隙もない伊達《だ て》者とドブねずみの二種類があることが歴然と分る。
ウォールストリートは、“ブラックマンデー”と呼ばれた大暴落のショックの名残が消えず、なんとなく活気がなかったが、それでも“ヤッピー”なるヤングエリート達の身じまいはやはりひと味違う誇りを漂わせている。
今度来てみて(おや?)と思ったのは、そのニューヨーカー達の身じまいが、復古調というのかピシッと折り目正しくなった点だ。去年までは、出勤時に五番街を急ぐキャリアウーマンが、着ている物はかなりいいスーツなのに、足許はと見るとスニーカーといった、妙な粋がり方をしているのが目についたのだが、ところが今年はほとんどそれを見かけなくなった。いかに流行とはいえ見事な変わりようなのだ。男の方もそうで、東京の原宿あたりでよく見かけるDCブランド風のダブダブしたシルエットのスーツ姿を、エスタブリッシュメントと呼ばれる連中に見ることはまずなく、濃紺のピシッとしたテーラードのスーツにワイシャツは白、ネクタイは赤の分量の多いストライプ柄が流行のようで、胸に入れているハンカチーフは白のスリーピークが多数派のようだ。
どちらかといえばイギリス風に近いのだろうが、むしろ東部風とでも呼ぶべき格調を際立たせようという意識が強く窺《うかが》われ、服装にまで誇り高さを漲《みなぎ》らせようというこの国のエリート達に、ちょっと鼻白まないでもなかったが、見ていて男がピッシリ、シャッキリしているのはなかなかに気持のいいものだ。
それにひきかえ、ニューヨークの日本人はどうか。それも旅行者ではなく駐在員のような居住者のことだが、これがなんとも情けない格好なのだ。それはたしかにチビで短足で猫背というわが民族特有のスタイルのせいもなくはないが、それをいうなら日本人以外にもスタイルのいいとはいえない民族もいる。だが彼等の中のエスタブリッシュメントは、やはりそれなりにピッシリ、シャッキリしているのに、残念ながら日本人でそんなのにはついにお目にかかれなかった。しかもけっして金がかかっていないわけではないのに、見ばえがよくないのだから、その人間の内面の問題としかいいようがない。
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——そこで思うのは、男の身だしなみについてだ。それもビジネスマンという仕事師の仕事着に限定しての話だ。
私のこれまでの実感を総合して思うことの第一は「らしさ」ということだ。
いまの世の中はやたらと個性個性と言い募るが、誰もが個性とやらを抑制することなく出し放題にしたまま集団を組んだら、それこそオモチャ箱をひっくり返したように収拾がつかなくなる。仕事が芸術家のようにその人間一人によって自己完結するのなら、誰憚《はばか》ることなく個性を思いきり主張し続けられるが、ビジネスの世界はどんなに規模は小さくとも群れを作って事に当らない限り成就はあり得ない。その群れに加わるというのは、とりも直さず、群れのルールに合わせて自分の個性を抑制することでもある。
いまの若い人は小利口だから、その辺のことは先刻承知のつもりで、会社訪問とか面接とかには、紺のスーツさえ着て行けばいいのだろうと、これまでは自分らしさを何がし服装に込める努力をしていたくせに、出来の悪い金太郎飴みたいに小さな自己顕示まで放棄して、いわゆるリクルートルックに百パーセント身をやつす。だが、これは行き過ぎであり、ビジネスマンの服装に対する本質的な誤解なのだ。
ビジネス世界の求めるものは、その群れに属する最低条件としての個性の抑制であって、肝腎なその人なりの固有の能力ないし個性のゼロ化ではない。むしろよき個性を「らしさ」をこわさない程度に主張し生かして欲しいのだ。
だから銀行員には銀行員らしさがあって、それは商社マンのそれとも、役人のそれとも明らかに違う。だが同じ銀行員でもよく目を凝らして見れば、凡庸にして消極的な銀行員と意欲的なそれとでは違うし、中間管理職、役員クラスでは、また自らなる差異がある。それは身分の差による所得によって服装にかける金が違うからそうなるのではなく、意識がそうした変化をもたらすと考えるべきなのだ。
だから、たとえ同じ新入社員であっても、「らしさ」さえ守ればいいというのと、その「らしさ」にさらに自分らしさをどうつけ加えるかということに腐心するのとでは、見る人によっては天と地ほども違って見えるからなおざりに出来ないのだ。
さらに、「らしさ」が自然に身についてきたら、次には「目立たないこと」を、ビジネスマンたるもの瞬時も忘れてはならない。
よくパーティーなどで、平服という指定なのに、舞台衣裳のような派手なディナージャケットで現われる人がいるが、芸能人や芸術家といった人達がそうであるのは、誰も格別な目で見ようとしないが、ビジネスマンという属性に身を置く人間が同じことをやったら、ヒンシュクを買うばかりで羨《うらや》まれることなどまずない。
ビジネスマンとは、九時から五時までにしろ、パーティー会場にしろ、派手にしろ無造作にしろその場で妙に目立ってはいけないものだということを常に心掛けなければならない。そして、ほとんど完璧に「目立たないこと」に徹しきったとき、見る目のある人は、その人間を「目立つ男」と評価してくれるものなのだ。
ニューヨークで見た日本人達は、その「らしさ」もなく、悪しき「目立ち」ばかりが目についた。お互い自戒しようではないか。
——いま四時半、なんだか猛然とねむ気が襲ってきた。
今夜はこの辺で。