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男とは何か14

时间: 2020-09-27    进入日语论坛
核心提示:第十四信国際人について 今度の旅は体に堪《こた》えた。 モスクワ経由のパリ行の飛行機に十五時間近く坐らされ、夜着いたその
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 第十四信国際人について
 
 今度の旅は体に堪《こた》えた。
 モスクワ経由のパリ行の飛行機に十五時間近く坐らされ、夜着いたその翌日は朝から夜まで昼食の間も仕事の話という会議が続き、その翌日もまる一日その延長で、慣れないフランス語に耳を澄ますだけでも大変なストレスだった。さらにその翌朝、先方の幹部とニューヨークヘ飛び、また朝から晩までの会議を、今度は英語に悩まされながら二日ぶっ続けでこなした揚句、成田への直航便で帰ってきたのだから、五十代半ばを過ぎた体に疲れがどっとたまるというのも無理のない話かも知れない。
 もっともそのおかげで例のコンコルドを初体験させて貰うという思いがけない余禄もないではなかったが、普通六時間かかるところを四時間足らずで飛んだせいで、ジェットラグ(時差呆《ぼ》け)にさらに拍車がかかったのは間違いない。
 それにしても、仕事柄年に一度はそうしたハードスケジュールの海外出張に出かけるようになってもう十年近くなるというのに、いつまで経《た》っても“国際人”になりきれない自分を、つくづくもどかしく情けないと思う。
 一つには、私のような戦前生まれの島国根性がしみつき過ぎた人間に限っての偏りなのかとも思うのだが、どうもそれだけではなさそうな気がする。
 断わっておくが、それはなにも私が外国語に弱いというせいだけではなく、海外出張の回を重ねるごとに、かえってアチラとの距離を大きく感じるのだから、その根はもっと深いところにありそうに思えてならない。
 飛行機の中や向こうの町で、丁度君と同じくらいな若い日本人達をよく見かけるのだが、いかにも屈託なげに振舞っている彼等を眺めながら思うことは、私達が感じている溝をすでに彼等は本当に越えているのだろうか、という疑問だ。
 君も大学三年のときに英語の勉強ということでひと月半ほどアメリカにホームステイしたことがあったが、いまの若い人達でパスポートを取ったことのないというのは、もはや少数派になってしまったほど、どんどん出かけていく。アルバイトをする目的が海外旅行の資金づくりというのはまだいい方で、親の懐《ふところ》が当てに出来なければ、学生向けに就職してから返せばいいというシステムのローンもあるとかで、それを借りてでも行くというくらいだから、海外旅行が珍しくなくなるのも当然なのかも知れない。
 私はなにもそんないまの若い人達を非難しようと思ってこれを書いているわけではない。むしろ逆に、動機や資金捻出法がどうであれ若いうちにそういう経験が出来るというのは結構なことだという考えだ。ひと月やふた月で英語の勉強が出来ると思ってはいないが、少なくとも私達のように、耳で英語を理解するのではなしにいちいちそれをスペルに置き換え、それでやっと分るという非能率からは解放されるに違いないからだ。
 だが一方で、どうせ出かけるなら、折角のその機会にもう少しいろいろと身につけてきて貰いたいと思うのだが、実状はただボケーと行ってきただけというのが多いのではないか。その証拠に、そうやってかつて海外旅行経験のある人間を仕事で行かせてみると、それがよく分るからだ。
 たしかに乗り物に乗ったり、レストランに入ったり、ショッピングをしたりという行動にさほどの不自由を感じない程度には外国慣れをしてはいるが、要するにそれだけなのだ。ホームステイしてちょっとの間向こうの人達と生活を共にしたとしても、いざ“仕事”となるとおそらくその程度の“慣れ”と“馴染み”ではどうにもならないことにやがて気づかされるはずだ。
 なぜか。それは“仕事”というのは常に闘いであって、欲望の押しつけ合いという対立劇だからだ。金を使ってくれて自分に利益をもたらす相手には、それがかりにほとんどしゃべれないとしてもなんとかして先方の意に添おうとしてくれるが、勝ち負けを競う場ではありったけの“我”をむき出しにする。問題はその“我”なのだ。
 日本人同士なら相手の“我”は芯から底まで見えるが、外国人の“我”となると、上っ面以上には容易に窺《うかが》えない。
 ふだんナアナアでつき合っているときは、肌や目の色が異なり、言語習俗がどのように違っても人間に変わりないのだなと思えたのが、ひとたび立場を異にすると、物の考え方がこれほどまでに違うものかと、取りつく島のないような絶望感に襲われることがある。その“我”に辟易《へきえき》しながらいつも思うことは、我々日本人がいかに特殊かということだ。
 もちろん彼等同士の場合でも相当な開きがある。アメリカのビジネスマンのソロバン高さと誇り高いフランス人の“我”はしばしば対立を起すし、ドイツ人とイギリス人もその思考様式にはかなりな差がある。だが、彼等は長い歴史の中で互いの違いを充分に承知しており、その上で断固譲らないというところがあるが、日本人はそうはいかない。我々は自分だけが特殊だと思って、ついつい後ずさりして、相手の意を汲《く》もうとしてしまうからだ。
 そういう姿勢を謙虚ということも出来るが、相手に対する無知と、鎖国コンプレックスの現われに過ぎないともいえる。
 たしかに大陸から孤絶した小さな島国という地理的特性が、われわれ日本人を世界できわめて特殊な存在にしてしまったということはある。それも開発途上国ならいざ知らず、いまではアメリカと肩を並べる経済大国にのし上がり、先進文明諸国であるECを向こうに回してヒケを取らないまでに力をつけた。
 ところが同じ土俵に上がって勝負を競い合わなければならないというのに、日本だけがその競技の伝統や精神はもちろん、ルールにまで疎《うと》く、ただ力ずくだけで闘うしかないという比喩が当てはまる“よそ者”なのだ。
 われわれはその意味で遅れてきた異人種《エイリアン》であることはたしかで、それだけにただ力さえあればという態度では、永遠に彼等に対する疎外感を埋めることは出来ないのではないか。
 だが私達オールドタイマーは、それを埋める作業を始めるのには、あきらかに年をとり過ぎ、手遅れの感を否めない。だからそれだけに君達次の世代には、そのための具体的努力を怠って欲しくないのだ。
 一つには、世界史をもっと深く学び直すことではないかと思う。
 私達の世代は、肝腎な中学高校時代を戦中から戦後という事実上閉校に近い状態の中で送ったせいで、まさに無学といわざるを得ないが、君達のように恵まれた学習環境の中で学んだ世代はどうかというと、社会科という偏ったカリキュラムの下で、受験一途の丸暗記でしか歴史を勉強してこなかったのではないか。その意味では、いまわれわれに求められる世界的規模での歴史知識は、この日本ではどの世界にも共通してきわめて稀薄だということができよう。
 さらにわれわれに欠落しているのは“宗教”に対する知識と理解だ。
 ヨーロッパのように、中東からアフリカにつながる地域では、長い時間をかけて、異教徒同士が戦い合ってきた歴史を持っているだけに、異教に対する知識は一般常識であり、その宗教観に基づく倫理や道徳の違いについてもよく心得ている。いわばさっきの“我”の差異の根本を知悉《ちしつ》しているのだ。
 それに対してわれわれ日本人は救いようもなく無知であり、理解の手がかりさえ持っていないというのでは、国際性などいつまでたっても身につきようがない。
 これからは嫌でも海外の交流は深まる一方なだけに、君達には遅ればせながらその勉強にかかって欲しい、私達の分までも。
 
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