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男とは何か25

时间: 2020-09-27    进入日语论坛
核心提示:第二十五信「早婚」について 君の高校時代からの親友Y君が結婚するということで、さっき君はかなり心配して僕に意見を求めてい
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 第二十五信「早婚」について
 
 君の高校時代からの親友Y君が結婚するということで、さっき君はかなり心配して僕に意見を求めていたが、その場に母さんもいたことだしはっきりしたことが言えなかったので、手紙に書くことにする。
 なぜ母さんの前で言い難かったかといえば、それは私達が早婚だったからだ。といって、早婚それ自体に対してけっして否定的というわけではないのだが、やはり母さんの前では話し難い。そのことで私がハンデを背負ったのはたしかだし、母さんもそれなりに苦労があったに違いなく、それを今更蒸し返すのは大人げないし第一無神経だ。
 私達が一緒になったのは、私が二十一、母さんが二十だった。昭和二十九年、戦後の食糧難時代はすでに終ってはいたが、まだまだ戦後の苦しかった頃の名残は消えきっていなかった。
 当時結婚披露宴をいまのようにホテルの宴会場を使って派手にやるといったのはごく一部の人達だけで、第一日本人の使えるホテルはほんの数えるほどだった。その頃たいていの人達がそうだったように、私達もちょっとした料理屋の座敷を借りきり、親きょうだいとほんのひと握りの親しい友人だけという小ぢんまりとしたつましい宴を持っただけだった。
 新居とは名ばかりで、六畳一間の木造アパートはトイレも台所も共用という侘《わび》しいものだったし、新婚旅行も熱海へ二泊しただけで三日目からは早くも勤めに出た。
 私は学校には籍を置いているだけで、小さな新聞社の記者の真似事のような仕事にほとんどの時間を取られ、母さんは当時の洋裁学校を出て、銀座の洋裁店で働いていた。
 共稼ぎには違いなかったが、二人の収入を合わせても、給料前になると日曜日に映画に行くどころか、晩ごはんのおかずが湯豆腐だけという日が何日も続くといったぐあいで、時計やオーバーがしょっちゅう質屋ののれんをくぐる明け暮れだった。
 それでも二人が寄り添っていられるだけでよかったのは二十一と二十という若さのせいだった。着るものが粗末だろうと、電車賃が怪しくなろうと笑っていられたという私達の蜜月《みつげつ》が現実に引き戻されたのは、私達の間に最初の子供が出来たときだった。
 その頃私は大学を出ていまの会社に入ったばかりだった。すでに結婚しているということだけでも肩身が狭いのに、その上子供が出来ましたともいえず、会社には隠していたのだが、困ったのは、産むとなれば母さんが勤めをやめなければならず、それはそのまま私の新入社員の給料だけでやっていくということであり、しかも産まれた子のミルク代その他の出銭がふえるのだから喜んでばかりはいられなかったのだ。
 私は心を鬼にして母さんに「堕《おろ》そう」と提案したのだが、母さんは明るく笑って「なんとかなるわよ」と言って応じようとはしなかった。私はなんの成算もなかったが、それを押しきれないまま、「うん」と頷《うなず》いた。
 そうやって生まれたのが、いま二人の子の母になっている君の上の姉さんだ。
 私達の結婚は、早婚ということで両方の実家に背いての、いわば駈け落ちに近いものだったから、子供が産まれるからといって親に泣きつくというわけにはいかなかった。それでも初孫ということで、母さんのおばあちゃんがおじいちゃんに隠れて出産費用その他についてそっと助けてくれたが、月々の生活費まで援助して貰うわけにはいかなかった。それでも母さんは急に苦しくなった家計をどうやって切り盛りしたのかは知らないが、笑みをたやさず頑張った。それを横目に見ながら平気な顔もしていられず、私も出来る限りの協力をしたものだった。
 毎晩の食膳に一本だけではあったが必ずついていた酒を断った。学生時代から読み続けていた総合雑誌や文芸雑誌を買うのをやめただけでなく、馴染《なじ》みの本屋の前を素通りすることを心に誓った。
 その当時会社には社員に回り番で宿直が義務づけられていたが、それを嫌がるのがいると進んで代わってやったのは、その手当が莫迦《ばか》にならなかったからだ。
 喫茶店や縄のれんの一杯につき合うゆとりもなく、同年輩の連中は当然ながら独身で、若い女子社員を映画に誘ったりといった按配で年相応のラブアフェアに憂き身をやつしているのに、私はといえば十年先輩の人達以上に世帯じみて、家と会社のダイレクトな往復に脇見もしなかったのは、たしかに大きな偏りだった。
 しかし、仕事だけは同輩に負けまいと頑張った。生来の負けん気もあったが、与えられた仕事にムキになって取り組んだのは、やはり少しでも早く上から認められてしかるべき処遇を受けることで、母さんを楽にさせてやりたいという気持が強かったからだろう。
 だが、いまその頃の自分をふり返ってみると、身が竦《すく》むような気分になる。なりふりかまわずガツガツしていたに違いないからだ。そしてその習性がいまもって消えきっていないのではないかという不安だ。
 人間というものには、年代なりの生き方というものがあって、自然にそれに従い、年と共に成長変化していく方がいいにきまっているというのに、それに逆らって無理をすればどうしてもその人間に歪みをもたらすということを、この年まで生きてくると紛れもなく思い知らされるのだ。
 私はたしかに他人と較べれば働き者かも知れない。同期入社の人間より出世が早い方だったのもたしかだ。しかし、ぬくぬくとノンキな若い連中を見ていると反射的に苛立《いらだ》ちを覚えるのはどうも普通ではない。
 要するにゆとりに欠けるのだ。他人に対してどうしても寛容になれないのだ。一人前の社会人になりながらいつまでも学生気分を引きずって遊び半分なのがどうにも許せないのだ。
 私は、そういう自分を意地の悪い目で見ることがある。あの頃、まるで遮眼帯をつけさせられた競走馬のように、脇目もふらずただひたすら前だけ見て突っ走るだけだった前半生の偏狭の結果がそれではないのかと、冷たくつき放したくなるのだ。
 母さんの前では言い難かったということの一つは、まだ二十代後半にさしかかったばかりの、客観的には十二分に魅力的なはずの母さんに対し、早くもまったく異性としての魅力を感じなくなったのを、早婚のもたらしたマイナスではないかと、当時思い屈したことだ。
 結婚して七、八年経《た》った頃だろうか、私はしきりと恋に憧れた時期があった。
 同じような年代の独身者が、恋愛を結婚につないでいくのを見せつけられることに刺激を受けたせいではない。早過ぎた恋の成就の酔いが醒《さ》める時期が、まだ三十前という年頃とかち合った不幸かも知れない。
 私が母さんや君達を初めて裏切ったのは丁度その頃だったが、それは新鮮な異性への好奇心に発する浮気心とは本質的に違う、少年のそれに似た恋心だった。
 相手は地味で目立たないこれといった取柄のない十九歳の同じ職場の娘だった。私は自分が学生時代に戻ったように、手を握る勇気もないまま夜毎《よごと》その娘と暗い町を歩き、テープレコーダーのように思いのたけを語るだけのデートを繰り返した。
 いっそ男と女の関係になってしまった方が罪が浅かったのかも知れない。抱きしめることもないまま、私の“恋に恋する”口説の毒に冒されたその人は、私が一人身でないことを呪《のろ》い、苛《さいな》まれて強度のノイローゼになって家に帰っていったままで、それが別れだった。
 ——今夜の私はどうかしている。あの頃の自分を思い起すとどうしてもセンチメンタルになってしまう。あるいは年のせいなのだろうか。もうそろそろ二時だ。明日に差し支える。この続きは次の機会に譲ることにしよう。
 
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