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男とは何か35

时间: 2020-09-27    进入日语论坛
核心提示:第三十五信人生の濃密期について 近頃つくづく思うことは、月日の経《た》つのがあまりにも早いことだ。いや、早いというのも正
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 第三十五信人生の濃密期について
 
 近頃つくづく思うことは、月日の経《た》つのがあまりにも早いことだ。いや、早いというのも正確な表現ではない。単純なパターンで一年一年があっという間に過ぎていく感じなのだ。
 譬《たと》えていえば、プロ野球で優勝のきまった後の消化試合のようなもので、意気込んでみたところでなんの意味もないし、そうかといってやめるわけにもいかない明け暮れの連続が、もう二十年も続いているという実感なのだ。
 こんなことを書くと、いかにもやり甲斐《がい》を失った定年間際の窓際サラリーマンの愚痴のように聞えるかも知れないが、そんなつまらない繰《く》り言《ごと》を事改めて君に聞かせるつもりはない。私が言いたいのは、仕事のし盛りの三十代半ば以降、四十代、五十代と「あっ」という間だったという振り返っての実感と、その意味で一年一年がずっしりと重かったのは、二十五から三十くらいまでの僅か五、六年に過ぎなかったという、人生の道程における充実のグラデーションの再確認なのだ。
 私自身、そういう意味で三十数年に及ぶサラリーマン生活を振り返って考えてみると、丁度いまの君の年からせいぜい六、七年の間が最も濃密だった。
                             *    *    *
 私の最初に配属されたセクションは総務部だった。大学が文科系でしかも国文という、いってみればなんの専門性もない人間だからそうなったのだろうが、後になって考えてみるといい部門に回されたと感謝している。
 それというのも、私の仕事は総務の中の文書課で、いまでいう広報的業務だったから、会社全体のことが分っていなければ手も足も出ず、いきおいさまざまな勉強を求められた。まだ西も東も分らない新入社員としては、頭が破裂しそうなくらいいっぺんにいろいろなことを頭に叩き込まなければならないから、家へ帰ってからもノンキに本を読んだりなんていう暇はなく、それこそ月々火水木金々の毎日だった。
 しかも覚えなければならないのは会社内部の事だけでなく、新聞や雑誌といったマスコミ、ミニコミ相手の渉外業務が多いだけにちょっとしたジャーナリスト並みに世間の動きに目を光らせていなければならないから、厖大《ぼうだい》な量の新聞雑誌に目を通すことが日常的に義務づけられた。
 入社して二年くらいは無我夢中で、分らないことだらけだから、ただ毎日毎日クタクタにくたびれるだけの日々だったが、ようやく仕事のペースをのみ込みかけてきたのは、さっきも書いたようにいまの君の年あたりからだった。
 とはいうものの、広報の仕事というのはそう簡単にマスターできるような生易《なまやさ》しい仕事ではなかった。規模が大きかろうと小さかろうと業種がなんだろうと、会社なんてものはどこでもそうだが、外部に知られて欲しくない弱みや恥部があるものだし、一方で金を出して宣伝するのではなしに自分のところに有利な記事を新聞雑誌に書かせるようにし向けなければならず、海千山千のジャーナリストを相手に狐と狸の化かし合いみたいなことをやってのけなければならない。また、“取り屋”と呼ばれる、いまでいえばブラックジャーナリズムとか総会屋といったハイエナのようなスレッカラシを捌《さば》くのも仕事だから、まだ年端もいかないその頃の私のようなヒヨッ子にとってこれは並大抵の仕事ではなかった。
 しかし私にはもう一つ大きな幸運があった。それは、私が入社して一年程経《た》ってから、私達の仕事の責任者として外部からスカウトされて入ってきた人に出会えたことだ。その人は一流新聞の経済部で二十年程記者をやっていた人で、いかにもジャーナリストらしく機敏で目配りが行き届いていた。
 私の二十四歳から三十歳までの五、六年はこの人から吸収し学び、そしてそれに付いていくだけの日々ではあったが、その時期に得たものはいま考えてみると大変な量と質で、機械の小さな歯車のようなサラリーマンには願っても得られない広い視野を育《はぐく》んでくれた。
 いまになって考えてみると、その頃の毎日は実にバラエティー豊かでスリリングで、しかも濃密だった。毎日毎日会社へ行ってみないと何が起き、何をしなければならないかさっぱり分らないという、不安といえばそうもいえるが、いい意味での緊張に満ちていた。それだけに、月日の経つのはあっという間なのだが、それから後の単調さとは比べものにならない変化と充実があったから、いまになって振り返ると同じ一年でも四倍にも五倍にも感じられる重さであり長さなのだ。
 私は三十二でそのセクションを離れ、営業に回ったが、その時期身につけた物事に対する目配りや対人関係技術で、少しは同僚に水をあけることが出来たような気がする。つまり、営業第一線のコマンドになっても、会社のトップが何を考え、どっちを向いてどうやろうとしているのかが、なんとなく見当がつくのも、広報時代に身につけた広角視力のおかげだ。
                             *    *    *
 さっきも書いたが、サラリーマンというのは所詮《しよせん》一コの小さな歯車に過ぎないのは紛れもない事実だ。しかし、その歯車として機能する以外に、もう一つ別の目がしっかり働いているかいないかでは大きな違いなのだ。いわばこの複眼を持てるかどうかが、先へ行って大きな開きになるのを、私のような年になると否応《いやおう》なしに思い知らされるものだ。
 私の場合は、最初にやらされた仕事、そして実に恵まれた師匠のおかげで少しはそれが出来たが、いま反省することは、そんな環境に恵まれなくても、若いうちに意図的にそういう姿勢を持つようでなければいけないということだ。つまりそれが“並み”とキャリアの分れ道でもあるからだ。
 だいたいキャリアとノンキャリアを出身校で分けるのがおかしい。役人の世界はまだ当分の間はそうなのだろうが、少なくともビジネス社会におけるその選別は、もはや学歴ではなくなった。つまりは、さっき書いた二十代後半から三十代の初めまでのほんの五、六年の時間をどれだけ濃密に充実させられたかどうかでそれがきまるのだ。
 いまの君達の世代を見ていて思うことは、その真只中にいながら、実にノンキに、というよりはもったいない時間の送り方を、この人生の重要な“濃密期”にやっているという点だ。
 これは、すべてのスポーツについて言えることだし、学校の勉強も同じで、初期から中期にさしかかる時期の集中濃度の違いがそのまま先へ行ってからの埋めようのない差になって現われる。
 もっとも、人生なんてものは、そうやってガツガツやって少々人に抽《ぬき》んでたからといってタカの知れたことで、そんな世俗的な立身や栄達と無関係に貧しくとも優雅に自分流を貫くという生き方もあっていい。だがそれが多く怠け者の自己弁護でしかないのは、そうやって世間に背を向けるしかなくなった人間の殆《ほとん》どが恨みがましく愚痴っぽいことで証明している。
「自由」とかマイペースとか、人は簡単に言うが、すべてのしがらみから解き放たれるということに耐えられる人間なんてそうそういるものではなく、誰もいない見はるかす大草原を一人で走り続けるあてどなさと同じで、よほど悟りきったつもりでいてもいざとなると軽蔑しきっていたはずの俗世が恋しくなるものだ。
 いま六十を間近にした私達のような年代の男達が、等しく今更してみたところでどうしようもないその“人生の濃密期”への後侮と、その頃への懐しさに浸っているという事実を、いまその真只中にいる君に知って貰いたいと思ってこんなことを書いた。
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