吐く息が白く、毛糸の手袋の指がかじかむ。
口元に指先をもってきて、息をかけると、白さは霧のようにあたりに散った。舞子《まいこ》は明生《あきお》を思った。
あのとき蛾眉《がび》山の離れ湯まで降りて行く途中で、明生は不意に振り向き、抱きしめたのだ。互いの吐く息が混じりあい、舞子は明生の唇を受けとめた。目を閉じる直前、赤い椿の花が、庭灯の余光に浮かび上がった。
明生は口づけをする前に、何と言ったのだったか。
〈舞子さん好きだ〉〈舞子さんきれいだ〉それとも、単に〈愛している〉だったのか。
自分の耳が記憶していないのが恨めしい。
その代わり、離れ湯にはいってからの光景はすべてを覚えている。小さな裸電球に照らし出された湯の底にあった岩の石組みまで、思い出せそうだ。茶室のような造りで、湯舟が一坪、洗い場は畳一枚くらいの広さしかなく、軒下の窓からは、樹木の枝に積もった雪が見えた。湯は隅の岩の間から絶えず流れ落ち、〈飲めます〉という木札とともに、小さな竹びしゃくが置いてあった。
明生の前でそんなふうに全裸をさらすのは初めてだった。それまでは、明生のアパートでも別々に入浴し、抱かれるときでさえ明かりを消し、何かしら布をまとっていた。
しかしその湯殿では全裸こそが似つかわしく、一段高い所にある脱衣場に立ったとき、何の抵抗もなく羽織も浴衣《ゆかた》も脱ぎ捨てたのだ。
湯舟の中では遠慮がちに離れていたのに、「背中を流してあげる」と言ったのは舞子のほうだった。明生は嬉《うれ》しそうな顔で、勢いよく立ち上がり、洗い場のコンクリートの上にしゃがみ込んだ。舞子も上がり、タオルに石けんをすりこんで明生の背中に当てる。意外に力が要ることも初めて知った。「上手、上手」と言いながら明生は気持良さそうに背中を丸めた。身体《からだ》全部を洗ってやろうと思ったのはそのときだ。
前にまわってかがみ、明生の首から胸、腕と洗った。明生は黙って、されるがままにしている。「立って」と舞子から言われて、先生に命じられた生徒のように起立した。舞子は膝《ひざ》をついて、目の前の太股《ふともも》や臑《すね》にタオルをあてた。毛深くてまっすぐの明生の脚は好きだった。膝の後ろにも手をまわしてこすった。もうそのときには、明生のものが逞《たくま》しく突き出していた。舞子は自分でも知らないうちに、新たに手にした石けんをそこになすりつける。樫《かし》の木と同じだと思った。舞子の指の力では微動だにしなかった。
右側の木立のなかでバサリと音がする。雪ぼこりがたっていた。杉の枝に積もった雪が落ちたのだ。舞子は耳を澄ます。どこからか読経の声がしてくる。ひとりの声ではない。四、五人が唱和している声だ。
雪で覆われたゆるやかな石段。石段の両側に広がる杉木立のところどころに僧房があり、それぞれが独立した修行の場となっている。一般の参拝客は立ち入り禁止で、漏れ出る音で房内の様子を想像するしかない。
石段の雪には足跡がなかった。屋根に積もった雪との対照が美しい、朱塗りの山門をくぐった境内も、同様に、人が歩いた形跡はない。
コートの襟を合わせながら、足は自然に茶店の方角に向かっていた。茶店は閉まっていたが、その脇《わき》からの眺めはいつも見事だった。
かつて明生と一緒にその場に立ったとき、山裾《やますそ》から成沢《なるさわ》一帯の稲田の広がり、真庭《まにわ》湖までが一望のもとに見おろせた。平野は黄色を呈し、山肌には燃えるような紅葉と銀杏《いちよう》が点在していて、時の経つのも忘れて見入った。
いま、山も野も無彩色のなかに沈んでいる。真庭湖でさえ、黒っぽい塊でしかない。
舞子は襟元に合わせた両手に息をかける。明生が湯殿で抱いてくれた雄々しさが蘇《よみがえ》った。あのとき明生は、泡のついたままの身体で舞子を抱きしめたのだ。洗い場の上に舞子を仰向けにし、好きだ好きだと言いながら乳房に口をつけた。揉《も》みしだかれていくうちに、背中の下のセメントの硬さも、髪が濡《ぬ》れるのも気にならなくなった。樫の棒のような明生の一部がはいってきた瞬間には、アーッと声を上げていた。
明生の背は泡でぬめった。尻《しり》も同じだった。触れ合った両脚だけに、ゴワゴワと毛深さを感じた。激しい動きに、言葉さえ割れ、身体全体が揺れ続けた。初めの絶頂が来たあともそれはなかなか去らず、また新たな絶頂に襲われ、舞子は明生の名を呼んだ。気が遠くなるのをこらえていると、快感はよどみなく身体全体にいきわたり、自分が意識だけになったような気がした。
明生が何度か舞子の名を呼び、落葉が舞い落ちるように身体を預けてくると、自分はもう湖になっていた。さざ波の立つ身体で明生を抱きしめた。
あれがちょうど一年前だ。身体はまだ明生の形と温《ぬく》もりをそっくり記憶している。
舞子は椿堂に向かう。ひと所に立っているのが苦しかった。自分がつけたブーツの足跡のそばに、逆向きの跡を延ばしていく。
銅板|葺《ぶ》きの屋根が十センチほどの雪で包まれていた。まだつららも残っている。堂の左手にある椿は屋根の高さまで達して、無数の花をつけていた。葉上の雪と赤い花が色を競いあっている。
堂の正面は、左右に釣鐘の形をした火灯窓《かとうまど》が配され、中央に二枚の戸がある。手をかけると、あっけなく手前に開いた。
中は薄暗かったが、白一色の外側に対して、くすんだ木目が気持をなごませる。土間で足踏みをし、ブーツの雪を落とした。
暗がりに目が慣れてくるにつれて、仏像の輪郭が浮かび上がってくる。まるで舞子のために、奥の方から出てきたかのように、全身をさらけ出している。
不動明王は台座の上で跏坐《かざ》していた。弁髪を左に垂らし、右目を見開き、左目は半ば閉じ、口を一文字に結ぶ。右手で宝剣をまっすぐ支え持ち、軽く上げた左手には羂索《けんさく》を垂らしている。青黒く塗られた身体から発しているのは紅蓮《ぐれん》の炎だ。
木彫でところどころ虫喰《むしく》いのいたみがあるにもかかわらず、四肢体幹に漲《みなぎ》る力と、火焔光《かえんこう》に残る朱は周囲を威圧している。
「不動明王は大日如来《だいにちによらい》のもうひとつの姿だよ」
この場に立って、明生は言った。
舞子には初耳だった。寺はもとより、博物館にも稀《まれ》にしか足を運ばないので、どの仏像も同じにしか見えない。しかし不動明王だけは別で、数ある他の仏像とは、炎に包まれた異形《いぎよう》の顔相で一線を画していた。その不動明王が、優美な大日如来と同一人物であるのを知らされて、思わず明生に寄り添い、腕をとった。仏の世界が一挙に人の世界に近づいた気がした。
舞子は不動明王の左右に位置する童子の木像にも眼を移す。いずれも一メートルほどの高さで、初めの頃は朱や金で色付けされていたのだろうが、今では褪色《たいしよく》して鉄錆《てつさび》色になっている。
左側の童子は、やんちゃな餓鬼大将といった感じだ。捻《ねじ》れた棒を地面に斜めに突き立て、両手を重ね、その上に顎《あご》をのせてじっと前方を睨《にら》む。遠くからやって来る人間共を眺めながら、さてどんな意地悪をしてやるかなと思案しているような顔だ。
それとは全く対照的に、右にある童子はふくよかな表情で空を眺め、手を合わせている。いかにも子供らしい純真さと聡明《そうめい》さが出ている。不動明王の激しい炎と怒れる形相《ぎようそう》に接したあとでは、ほっとした気持になる。
明生と一緒に来た際も、舞子はこの童子に魅了された。明生には言わなかったが、結婚して子供を生むときはこんな子供をさずかりたいと内心で思い、ひとりで顔を赤らめてしまった。
明生がいなくなった今、もうそれは永遠にかなわなくなってしまった。
舞子は、不動明王を見、左側の童子に眼をやり、また右側の童子に見入る。涙が溢《あふ》れてくる。身体から力が抜けていき、立っているのがやっとだ。また振り出しに戻っていた。
何度も立ち直ろうと思い、いろんなことをした。もっとも、初めの三ヵ月はどうやって過ごしたか記憶にない。会社には行き、机の上に並ぶ書類をパソコンに作成し直し、見積書の計算もした。残業にも応じた。よくも休まなかったと思う。休めば、アパートの中に閉じこもり、死ぬことしか頭に浮かんでこなかった。これではいけないと思って、月曜から金曜日までは歯をくいしばって出勤した。その代わり、土日はパジャマも脱がずに、ベッドの上で寝ていた。目を閉じているうちに電話が鳴ると、はっとして明生からではないかと手を伸ばし、もう明生はこの世にはいないのだと気づき、愕然《がくぜん》とする。涙を拭《ふ》きながら、電話の音が止むのを待った。
しばらくたつと、買物や料理もできるようになった。しかし、商店街の人混みのなかで、スーツ姿の明生を見かけたような錯覚にとらわれた。知らぬ間に、明生の好物だったカラシレンコンを買ったりした。そんなときには買物を続ける気も失せ、そそくさとアパートに帰った。悲しみは、赤く焼けた炭火のようにいつまでも残った。
何度その繰り返しだったろう。月日は経っても、自分はその悲しみの出発点から一歩も動いていなかった。
蛾眉山に登ってみようと思ったのも、あるいはまた歩き出せるかなと考えての果てだった。ベッドの脇に重ねておいた郵便物の中味にふと眼がいき、その気になった。大判の一枚の絵葉書にすぎず、なぜそれが自分のもとに送られて来たかは分からない。明生の不幸があって後に届いたもので、舞子はそのままゴミ箱に捨てるに忍びず、枕許《まくらもと》に置いていた。ひとつはその山寺が、明生と一緒に訪れた場所であったからであり、絵葉書の写真が美しかったからでもある。うっすらと雪の降った朝に撮ったのだろうか、山の緑と雪の対比が鮮やかで、その山腹に僧房と山門、堂塔などが、枯山水《かれさんすい》の中の石のように配置されている。そして、石上に〈苦〉と〈悲〉の文字が小さく刻印されていた。
葉書の宛先《あてさき》は正《まさ》しく舞子の住所になっていた。明生と蛾眉山に登ったとき、どこかで記帳をしただろうか。いやそんな覚えはない。しかしそれ以上はこだわらず、舞子は会社に二日だけの年休を申し出て来てみたのだ。
悲しみから遠ざかろうとして、やっぱり出発点に立ち戻っていた。──不動明王と二つの童子を前にして、そう思う。
後ろで声がした。人を驚かせるような声ではなく、暖かい風がふっと襟元をぬけるような人声だった。
「不動明王が気に入りましたか」
顔は逆光になって判らなかったが、頭髪を剃《そ》り上げた僧で、どこか日本語に癖があった。
「はい。不動明王もいいですが、こちらの童子も好きです」
舞子は微笑しながら答える。僧衣の男性と口をきいたのは、生まれてこのかた初めてだ。
「そうでしょうね。あなたのようにどれかひとつ好きになってももちろん構いませんが、三つをひとまとめにして見ていただくと、不動三尊像の面白味が分かります」
舞子はこのときはっきりと、目の前の僧が外国人であることを確信する。〈ありがたみ〉と言わずに〈面白味〉という言い方をしたのだ。
案の定、窓から漏れる雪明かりに照らされた僧の顔は日本人ではなかった。鼻が高く、目が窪《くぼ》み、口のまわりに細かい皺《しわ》が刻まれている。年齢は七十歳前後だろうか。
「参拝する際、私共はまず左側の|制※[#「口+宅のつくり」、unicode5412]迦《せいたか》童子に眼を奪われます。あのこちらを窺《うかが》うような表情に、つい引き込まれるのです。そのあと、右側の矜羯羅《こんがら》童子の静かな合掌姿に眼が移り、そこでひと息つきます。可愛《かわい》げな慈悲の心に溢れるお顔ですが、まだ未完成の慈悲心でしょう。そしていよいよ、上目づかいに視線を上げると、不動明王の姿が立ち現れるのです」
僧は舞子の傍まで歩を進め、不動明王を見上げる。しゃべるときの口の動きは外国人のそれではなく、日本人の口の開け方になっている。もしかしたら自分が生きた年月よりも彼のほうが日本滞在歴は長いのではないかと、舞子は思った。
「この怒りの形相《ぎようそう》こそ、慈悲の窮極の姿です。炎は一切衆生の煩悩を焼き尽くし、私共の菩提《ぼだい》心を開発するのです」
「慈悲と怒りがどうして一緒になるのですか」
相手が日本人の僧なら訊《き》いていなかったかもしれない。外国人であれば、何か言葉を見つけてくれそうな気がした。
「慈悲というのは、棒のようにじっと立っているものではありません。戦うものなのです。外に向かっては魔障《ましよう》を寄せつけず、内に向かっては煩悩を殺さねばなりません」
僧は言いやみ、舞子を見やった。「それにしても、こんな仏の恰好《かつこう》は嫌だと、あなたは思っているようですね」
「いいえ」
舞子は首を振る。「このお不動様の本当の姿が如来様だと思うと、そのお気持が分かる気がします」
「知っていたのですか」
僧の口から意外だという驚きの声が漏れる。
教えてくれたのは亡くなった恋人ですと、舞子は胸の内で言う。涙がみるみるうちに溢れてきた。
僧は黙って舞子を見つめる。
「一緒に祈って進ぜましょう」
長い沈黙のあと、僧が言った。
木の柵《さく》を開き、中にはいる。草履を脱いで、不動明王の前に坐《すわ》った。小机の中から炉といくつかの壺《つぼ》を取り出した。
僧は舞子には理解しにくい言葉を吐いて、何度かぬかずく。しかしそのあとの語句は抵抗なく耳にはいった。
──観想せよ、如来の心はこれ実相、実相はこれ智火、炉はこれ如来の身なり。火はこれ法身の智火なり。炉の口はすなわちこれ如来の口なり。
お経には全く外国|訛《なま》りがない。張りのある低い声が堂内いっぱいに響き渡る。舞子は手を合わせた。
明生を思った。いつまでもあなたを忘れません。いいえ、できることならあなたのもとに行きたい。あなたのいないこの世など、生きていても無益です。
あのときの予感は正しかった。明生の交通事故死を聞いた瞬間、全身から血の気がひき、〈幸せはきのうまでで終わったのだ〉と考えた。時間がそこを境にして変質していた。目が見、耳が聴き、手が触れるものすべてが無意味になっていた。
それはまだ続いている。おぞましいくらいに続いている。自分は生ける屍《しかばね》も同然だ。
恐る恐る目を開ける。僧の前にある炉に火が燃え盛っていた。僧はその炎の中に、経を唱えながら、小さな木片を投げ込んでいく。そのたびに火焔が揺れ、色が変化する。
香が堂内にたちこめていた。僧が投げた香木が燃えているのだろう。
目の前の紅蓮の炎と読経の声、たちこめる香に舞子は恍惚《こうこつ》となる。
──想え、火天の御口より入って心|蓮花台《れんげだい》に至って微妙の供具となる。
──観せよ、この花、炉中に至って宝蓮花座となる。
僧は床に額をこすりつける。舞子も合掌したまま閉眼した。身体《からだ》が内側から熱くなっていく。まるで僧の唱える読経の声が、耳を通じて身体の中に燃えるものを投じていくかのようだ。
この読経がいつまでも続いて欲しい。この声と香のなかに立ちつくしている限り、身のつらさを忘れられそうだ。激しいリズムの音楽に身をくねらせているのと似ている。いやオーケストラの演じる静かな曲に身を浸しているのと同じかもしれない。どちらも明生と行った。〈ゼッタ〉というディスコには明生が連れて行ってくれたし、ウィーン・フィルの演奏も一緒に聴いた。明生と向かい合って踊るだけで楽しく、明生の隣に坐って二時間、好きな音楽が聴けると思うだけで心が躍った。こういう時間がいつまでも続けばいいと願ったのだ。
読経が終わっている。僧が立って段を降り、草履をはき直した。
「ついて来なさい」
僧が言った。命令口調ではなかった。舞子は僧の背中を見ながら、堂の外に出る。
雪が美しい。鈍色《にびいろ》の雲から白いかけらがこぼれるように落ちてきて、白一色の中に溶けこんでいく。雪のひとかけらが光の色を宿している。光が姿をとどめるために、雪になったのだ。
僧は、後ろを振り返らずに歩く。素足に草履だが、踵《かかと》が雪に埋まっては消え、また立ち現れる。くるぶしが桃色に染まっていた。
鐘楼の横を通るとき、甘い香りが匂《にお》った。舞子は立ち止まり、香りの源を探した。やはり臘梅《ろうばい》だ。まだ三分咲きくらいだろうが、白い雪をかぶりながらも、ひっそりと黄色い花びらを開いている。
「好きなんですね。この花が」
まるで舞子の足音を聞いていたように、初めて僧が向き返った。
「はい。梅よりも早く咲いて、匂いも豊かですから」
臘梅が好きだったのは明生だ。冬に咲く花は何でも愛《いと》しいと、まるで年寄りみたいなことを言った。あれは、もう先行きが短い自分の命を予感していたのだろうか。
僧は舞子の顔をしばらく凝視していたが、また歩き出す。黒い僧衣の肩に雪がうっすらと積もっていた。
岩肌のむき出した断崖《だんがい》が、目の前にそびえていた。二百メートルくらいの上方から、滝が段差をつくって流れ落ちている。水量も豊かで、境内の見所のひとつになっている。千日回峰行《せんにちかいほうぎよう》の際、この滝の裏側を必ず通るのだと、案内板に記されていたのを読んだことがある。
僧はしかし、滝の方向には目もくれず、左側の建物に向かった。手前に門があり、木の扉が半開きになっていた。立札には〈用なき者、立入りを禁ず〉と墨書してある。
僧は木扉を両側に大きく開いて、中に踏み込む。
「わたしもはいっていいのでしょうか」
舞子は訊《き》いた。
「あなたは用ある者でしょう」
僧は笑った。
門の内側は中庭になっていて、灯籠《とうろう》が四基左右対称に立っている。奥の方に大きな堂があった。
障子を張った戸が閉ざされていて、内部は見えない。
僧は雪の中庭に足を踏み込まずに、右側の回廊をたどった。三和土《たたき》に雪が降り込んでいる。僧の足元で、細かい雪が埃《ほこり》のように舞う。
「ここで履き物を脱ぎましょう」
正面にまわり、石段を上がったところで言われた。
ストッキングを通して触れた木の床は、しかし冷たくはなかった。ぶ厚い杉の板は、空気の温《ぬく》もりを吸い込んでいるかのように、ほんのりと暖かい。
二重の障子の内側にはいると、寒気が遠のく。部屋は三方が障子で、広さは二十畳か三十畳くらいはあるだろう。正面に金色のすだれがかかっていた。
障子とすだれの上方にある壁と天井は、すべて仏像の絵で埋めつくされている。曼陀羅《まんだら》を描いたものだろうか。一枚の絵ではなく、部屋いっぱいにそれがあることからすれば、この空間そのものが曼陀羅ともいえた。
僧はすだれの手前に正座した。舞子も膝《ひざ》を折り、坐った。
「ここは何をするところなのですか」
二人の間にテーブルも小机もないので、奇妙な気がした。
「このすだれの奥で、お経をあげます」
僧はじっと舞子をみつめる。静かな視線と、どっしりと坐って動かない身体は、そのまま仏像のように見えた。
「一日、ここで読経をしていると、自分というものがなくなってきます」
僧は微笑する。「この身体は確かにここに坐っているのですが、それも生きているのではなく、そこの燭台《しよくだい》、そこのすだれ、そこの柱と同じものになってしまうのです。生も死もない──」
「生も死もない」
舞子は思わず復唱していた。
「そうです。生と死の境なんて、もともとないに等しいのです。試しに、あなたの頭のなかには、生きているものだけがありますか」
僧は微笑したままの顔で訊いた。舞子は考えたあとかぶりを振る。頭を占拠しているのは明生の思い出だけだ。明生はこの世にはもういない。
「そうでしょう。頭のなかの意識というものには、生と死の区別がないのです。はじめから無なのです。あなたとこの私。この建物、外の雪。無です。夢そのものです」
「わたしが夢そのもの?」
「だって、夢は無そのものでしょう。あなたの夢を手にとって、誰か他の人に示せますか。あなたの頭のなかだけの現象。再現性がない。誰か他の人があなたを夢のなかでみるかもしれない。逆にあなたが、誰か他の人を夢のなかでみることもあるでしょう。その夢のなかには生きた人も死んだ人も区別なく出てきます。この世というよりも夢のようなものなのです。つまり無です」
僧の顔から微笑が消えている。舞子は惹《ひ》き寄せられるように僧の目を見つめた。
「無ですから、苦しみも悲しみもない。いや悲しみはあるかもしれません。無そのものに悲しみの味が秘められていますから。喜びさえも悲しみに包まれています。いや無や悲しみが外側を彩っているので、すべてが喜びの色合を帯びてくるのです。白く降り積む雪、鳥の声、岩清水の音、路傍の花──」
僧の優しい言葉づかいとは裏腹に、険しい表情が舞子の正面にあった。「逆に、無に裏打ちされない喜びなど、この世にはありません。万物の命は線香花火よりも短いし、笑いこけている劇場の床が抜けて、奈落《ならく》に落ちる。それが人の世です」
舞子は頷《うなず》く。あらゆる喜びと幸せにも結末があるという真実は、明生の死で証明ずみだった。あの瞬間、すべてが停止した。舞台の明かりが消えたように、一瞬にして舞台が見えなくなった。しかもそれは一時の停電ではなく、永遠の停電なのだ。
「無に気づくことが苦しみをやわらげ、生きている喜びを増すのですか」
「そうです。その境地が読経によってたち現れるのです」
「わたしにはできません」
舞子は力なく首を振る。
「読経は僧がするものです。あなたのような方は、読経しなくてもその境地に辿《たど》りつくことができます。簡単なことです。僧だから難しく、普通の人はたやすいのです」
まさか、と舞子は思う。僧が言うような高みに、俗世間にある人間が容易に到達できるなど考えられない。
僧は舞子の疑問を見透かしたように言い継ぐ。
「ただひとつ、信じさえすればいいのです。衆生の人々は、その信じる心だけが命綱です。あとは何にもいりません。信じる素直な心があれば、修行を積み上げた僧と素手で太刀打ちができます」
「何を信じればいいのでしょう」
「仏様です。一切の空を支えておられる仏様をです。仏様と言っても想像しにくければ、あなたがさっき見たお不動様でもいいのです。お不動様を通して仏様に近づけます。少しもむずかしくありません」
僧はまた微笑する。「そうすれば、ちょうど白黒の写真が反転するように、暗い世界が明るくなるのです。あなたがこの世で失った人々、あなたは、その人たちが、いま闇《やみ》の中にいると思っているでしょう」
僧の問いに舞子は頷く。正座している足が痛くなってよさそうなのに、どこにも苦痛を感じない。
「あの人たちは、闇のなかに葬り去られているのではないのです。ここに今も生きています。あなたが気づかないだけです。あの人たちはあなたを見、あなたに話しかけているのに」
舞子はほとんど失神しそうになっていた。明生がどこかにいて、自分に語りかけているなんて。
明生に会えるのなら、自分はどんなことだってする。
「いつでもおいでなさい」
突然、僧は話を打ち切るように言った。「一年間、休みをとることはできませんか」
「会社を休むのですか」
「そうです。いうなれば出家ですが、一年後には還俗《げんぞく》できます。あなたは何年生きてこられましたか」
「二十四年──」
「その齢で一年間、人生の小休止をするのは、素晴らしいと思いますよ。その後の人生がとてつもなく価値あるものになります」
その後の人生などどうでもよかった。明生を見ることができ、感じられ、その声を聞ければ充分なのだ。
「お金のことなど心配はいりません。仏様におつかえするのですから。あなたの信じる意志と身体《からだ》ひとつで山門をくぐって来なさい」
僧は立ち上がる。舞子の坐《すわ》っている正面の障子を開けた。
八枚くらいはある障子を、まるでスクリーンのように左右に滑らせると、さらに廊下の先に雨戸があった。一枚が幅一間分はある大きな戸だったが、僧が手をかけると、右側の方向に、いとも簡単に動き、すべて戸袋の中におさまっていく。
見事な雪景色だった。僧が招いたので、舞子は近寄り、廊下の手前で坐った。
岩と黄色がかった土塀だけの庭だ。一面に雪が積もっているので、枯山水なのか、苔庭《こけにわ》なのかは判らない。しかし目の前には三色しかない。岩と土塀の瓦《かわら》の原色、その上に敷きつめる白い雪。二つの無彩色を切り裂くように、黄橙《きだいだい》の色が高さ一メートルで横に走る。簡素きわまりない抽象画であり彫刻だ。
もう気持は定まっていた。