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受精02

时间: 2020-09-30    进入日语论坛
核心提示:2 朝七時にアパートを出て、勤め先には八時少し前に着く。まだ誰も来ていない。ヤカンをコンロにかけ、コピー機のスイッチを入
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 朝七時にアパートを出て、勤め先には八時少し前に着く。まだ誰も来ていない。ヤカンをコンロにかけ、コピー機のスイッチを入れる。その間に室内の床を掃く。机の上も軽く雑巾《ぞうきん》がけしてやる。社員は二十名いるが、事務関係はそのうち五分の一で、あとは現場担当などで、一日顔を見せないこともある。
 母方の遠縁にあたる社長が一代で築きあげた内装会社が、不況のなかでも倒れずに生き抜いてこれたのは、事業を拡げない手堅い方針のおかげだ。扱うのはビルの配管工事が主体で、注文主はホテルが多かった。とくにミヤコ・ホテルは、その揺籃期《ようらんき》からの得意先だ。大きくなって系列ホテルをもつようになってからも、水まわり関係の仕事は一手に任せてくれている。それほど仕事の出来上がりがいいという証拠には違いない。ミヤコ・ホテルからの注文には社長自身が出向いて陣頭指揮をとる。客室の水漏れや配管変更のため、夜間作業になることが多い。それでも他の注文を後回しにしてでも仕上げてしまう。ミヤコ・ホテル受注工事の魅力は、何と言っても工事完了時の現金決済で、これは他のどの取引先でもやってくれない芸当だ。
 高校を出て二年間専門学校に通い、パソコンと経理を習った。就職先を探していたとき、母がこの会社で事務員を募集していると知らせてくれた。母の伯父《おじ》のいとこかなにかで、遠縁ではあるが、他人に少しばかり毛がはえた程度としか自分では思われなかった。ひとり採用するのに十人も求職者が来て、そのなかには四年制大学を出た子もいたそうだ。そんな難関をパスしたのだから、縁故採用なのかもしれない。給料は、アパートを借りて自炊し、母にも小遣いを送り、自分の身のまわりも飾れるくらいには、出してくれた。
 舞子が就職するまで、その会社ではパソコンなどなかったのだが、社長の鶴の一声でさっそく富士通の機械がはいった。機器の選択も舞子に任せてくれた。但し、予算は小さく、企業用のものは買えなかった。
 パソコンがはいると、それまで各自が手書きにしていた書類が、持ち込まれるようになった。見積書を出すのに、手書き文書だと受けつけない会社もあって、是非とも頼むと言われ、引き受けると、加速度的に作業量が増えた。まるでパソコン専属の事務員だ。肚《はら》を決めて、見積書や請求書、報告書など、書式を決めて簡素化し、仕事がしやすいようにした。いうなれば、他の大きな企業がとっくの昔にやっていたオフィス革命の小型版を、二十年遅れでやったようなものだ。その分、社長には感謝された。
 会社には、それまで女性事務員はひとりしかいなかった。社長の二号さんで六十代半ば、経理を一手にひき受けていて、社員はひそかに�五十万婆さん�と陰口をたたいていた。給料の手取りが五十万円だからだ。高給取りのくせに、彼女の仕事といえば社員の給料の計算だけで、その他諸々の経理は税理士まかせ。出社してもやることがないので、十時頃出て来ておもむろに書類をひろげるともうお昼。持参の弁当をゆっくり食べて、また丁寧に歯磨きをする。午後も、三時頃から帰り仕度をして、四時には退社する。その脇《わき》で伝票の整理やら書類作成で、どんなに舞子が大童《おおわらわ》であろうとお構いなしだ。
 五十万婆さんは、舞子や他の若い社員がクーラーを安易につけたがるのも嫌がった。腰が冷えて具合が悪くなるかららしい。外回りの社員にとって、涼しい会社に帰ってくるのはオアシスに辿《たど》りつくようなものだろうが、室内が屋外とさして変わらない温度だから落胆する。自分が寒いのならセーターでもオーバーコートでも着て仕事すればいい、と社員はまた陰口をきく。
 そういう社員の陰口も反発も、全く歯牙《しが》にかけないところが、また彼女のすさまじさでもあった。
 これだけ働いても、給料は彼女の半分にもならないのだと、五十万婆さんを見るたび、舞子は全身から力が抜けていく。同時にその恨めしさは社長にまで向き、どこが良くてああいう女を二号にしているのかと、腹立たしさよりもむしろ軽蔑《けいべつ》を覚えた。
 そのうち社員は、今まで五十万婆さんのところに持ち込んでいた書類を、舞子に依頼するようになり、こともあろうに五十万婆さんまでも、ちょっとした計算を舞子に頼み出した。こんな仕事もしないで一体あなたは何をしに会社に来ているのですか、と喉《のど》まで言葉が出かかるのをぐっとこらえた。いきおい仕事は舞子のほうになだれ込み、その分五十万婆さんはますます暇になる。
 暇になるからといって、彼女になにか趣味がある様子でもなかった。旅行好きでもない、観劇に行くわけでもない。お茶や踊りをしている話は聞いたことがない。かといって衣裳《いしよう》道楽でもなく、春夏秋冬その時々で、着古した洋服を取り替えるだけだ。ひとり暮らしで、貯め込んだお金をあの世まで持って行けるわけでもなし、どんなつもりでいるのだろうと、舞子はよけい腹立たしくなる。
 勤め出して三年目、給料がさして変わらないのに業《ごう》を煮やして、舞子は社長に談判した。入社した頃と今では仕事の量は二倍に増えているのに、給金は横這《よこば》い、少しは考えてくれと訴えた。比較の対象に五十万婆さんのことも口にしようかと思ったが、それはやめた。
 社長は舞子の直訴に驚いた様子で、当惑しながらも、考慮してみようと歯切れの悪い返事をした。しかし翌月もその次の月も、給料袋の中味は変わらず、夏のボーナスにほんの少しだけ色がついただけだった。
 この黙殺には五十万婆さんがひと役買っているとしか考えられなかった。社長が彼女に相談するのは当然の成り行きであり、そこで舞子の評価がいろいろ取沙汰《とりざた》されたに違いない。
 そう考えると、給料が変わらないのは彼女のせいだと思われてならない。気にかけまいと自然に振る舞っても、彼女の動きが目についてしまう。
 五十万婆さんの机は舞子の左後ろにあったのだが、そのうち左肩だけが凝るようになった。朝のうちは何ともなかったのに、帰る頃になると左の後頭部から左肩にかけて、板のように固くなる。
 思いあまって、郷里の母に電話をした。この十年スーパーのレジでパート勤務を続けている母親は、会社はそうしたもの、給料が思うようになる会社なんてない、何事も辛抱が肝腎《かんじん》と、却って説教を垂れた。一足す一が二にならないのが社会、能力のない者が上に立って法外な給料を貰《もら》うのも社会。母親は単純に割り切っていた。
 比べるからいけないのだ。五十万婆さんを部屋の置物だと思えばいい。置物なら仕事もしないし、じっと坐っているだけ。その置物が五十万稼ぐと考えるからよくないのであり、社長が毎月そこにお供え物をしているとみなせば、さして気にかける必要もない。──舞子はそう考えることにした。
 置物だから、たまに先方が口をきいても、答えなくてもいいのかもしれない。聞こえないふりをすべきだ。暑い時は暑いですと言って、断固クーラーのスイッチを入れればいい。社員が次々と頼んでくる仕事に対しては、できないものはできないと断固|突《つ》っ撥《ぱ》ねるべきだ。手当がないのだから、残業までして仕上げることもない。
 そうやって戦線をたて直し始めると、身体の不調はいくらかやわらいだ。
 そんな頃、アパートの近くにフィットネスクラブが完成した。基礎工事が始まった頃は、ホテルでも建つのかと思っていたが、工事現場はさして高くならず、二階建くらいで停まったので妙だなと思っていたのだ。
 建物の外壁が整い出した頃、郵便受にチラシがはいった。今申し込めば入会金なし、年間二万円でプール、アスレチックとも自由に利用できるというのがうたい文句だった。二万といえば、月二千円にもならない。しかも通常なら入会金は三万円だという。はいらなければ、馬鹿をみると思い、その日のうちに仮事務所に支払いに行った。
 払いを済ませたあとで、もしかしたら取り込み詐欺みたいなものではないかと心配になった。建物は完成せずに倒産になり、払い込んだ金は返ってこなかったという新設ゴルフ場の記事が新聞に載っていたからだ。
 しかしその半月後の土曜日に、無事フィットネスクラブは出来上がり、舞子は午後になって出かけてみた。ちょうど桜の咲き初める頃で、辻《つじ》公園の桜を眺めて横切り、新装なったクラブまで足を運んだ。時計で正確に測っても、アパートから七分しかかからなかった。
 クラブは一階が受付とプール、二階がカフェテラスとアスレチックになっていた。初日だったからか、更衣室は人で溢《あふ》れ、子供たちが走り回っていた。いざ水着に着替え、キャップをかぶってプールサイドに出てみて、予感は見事に適中した。真夏のリゾート海岸なみに混んでいたのだ。二十五メートル、十二コースは、子供用、初心者用、その他と区分けされており、ようやくその他のコースだけが、比較的空いている。
 舞子は老若男女が泳ぐのを眺めながら、型通りの準備体操をした。イチ、ニ、サン、シと口の中で唱えながら手足を動かしていると、中学、高校生の頃が突然思い出された。中高一貫教育の女子高だったが、プール施設は完備していて、夏場の四ヵ月くらい、体操と言えばプールに駆り出された。高跳び込み用のプールや、シンクロ用のプールも併設され、それぞれの運動部は、全国大会にも出場するくらいの技術をもっていた。
 だからコーチ陣も揃《そろ》っており、中学入学のときはカナヅチでも、六年後に卒業する際には、たいていの競泳型はこなせるようになる。舞子自身も、専門学校の合宿で海に行き、友人たちの目の前でバタフライを披露《ひろう》し、えらく感心されたのを覚えている。
 プールサイドで手を振り上げ、膝《ひざ》を折っていると、そんな学校時代の光景が次々と頭に蘇《よみがえ》ってくる。
 しかしあの頃と違って、担当教師の命令に従って身体《からだ》を動かさなくてもよかった。手足の動きを多少はしょっても、叱《しか》られはしない。ガラス張りの壁にあった椅子《いす》が空いたのでそこに腰をおろし、足首を丁重にまわす。こんな具合に手で足を振る動作も、久しく忘れていた。そこに足がちゃんとついている事実さえ、就職している間に頭から消え去っていたのだ。
 高校や専門学校時代に比べて、腿《もも》と腰に肉がついているのにも改めて気がつく。下を向くとき、下腹に皺《しわ》ができるし、太腿を動かす際、肉の揺れ方がひどいような気もする。
 それでも、舞子は自分のスタイルには自信があった。首から肩、上腕にかけてのなだらかな線も気に入っている。襟元の広く開いたTシャツを好んで着るのもそのためだ。乳房の形にも自信があった。バストは八十六か七くらいだが、アンダーバストは七十そこそこだ。学生時代よりも乳房が大きくなったのか、自分ではそれまでCカップだと思っていたのに、あるときランジェリーショップの店員に試着を命じられ、改めてDカップですよと注意された。小さ過ぎるブラジャーをつけていると、形が崩れるという。コンロに手が当たったくらいびっくりした。店員が持ってきたDカップは、なるほどそのほうが胸の谷間までぴったりと密着してくれる。それ以来、少々高くはつくが、Dカップだ。
 高校時代、足を揃えて起立すると太腿の間に隙間《すきま》ができていたのが、今ではほんのかすかだが腿が触れ合う。それでも人形の足のようにまっすぐな脚には、自分でも感謝している。ミニスカートは恥ずかしいからはかない。しかし短いキュロットなら何着か持っている。Tシャツに短いキュロット、今日もその装いで来た。
 体操を終えて、プールにはいる。水は冷たいが跳び上がるほどではない。この程度の水温が丁度良いのは分かっている。足で弾みをつけ、胸元まである水面に浮かび、ゆっくり手足を動かす。力みすぎると、先行する中年の男性に追突するし、あとから泳いで来る女性に水をかぶらせることになる。
 二十五メートルを泳ぎ切っても息は切れていない。隣のコースに移って、また同じようにクロールで泳ぐ。
 二往復ばかりしたところで、さすがに息が上がり始めた。そのままやめるのはしゃくだったから、さらに一往復し終えてプールサイドに上がった。たった百五十メートルで疲れを感じるなど歯がゆい。就職している間に体力が落ちていたのだ。五十万婆さんの顔が浮かび、自分の身体がなまってしまったのも彼女のせいのような気がした。
 その後も、週三日、水土日と欠かさず通った。当初混んでいたプールも、倦《あ》いた連中が出はじめたのか、週末の午後でさえさして混み合わなくなった。体力も少しずつ回復してきて、千メートル泳いでも平気でいられる。
 通い始めてひと月もたった頃だろうか。最後にバタフライで二百メートルを泳ぎきり、水から上がった。
 椅子に掛けたタオルで身体を拭《ふ》いているとき、横あいから話しかけられた。
「本当にお上手ですね」
 グレー無地のパンツとキャップをかぶった背の高い男性だった。「よくお会いするので、泳ぎっぷりをずっと勉強させてもらっていました」
 はにかみがちに言い、隣の椅子に腰をおろした。舞子はどう答えていいものか、頭のなかで考える。毎回見られていたとは、気味悪くもあり、何か嬉《うれ》しくもある。
「もうずっと泳いでいなかったものですから」
 笑いながら舞子は答えた。無理に笑ったのではなく、自然に笑顔になったのは、その男に嫌悪感を感じていないのだと気づいた。
「ぼくなんか、プールで泳ぐのは十年ぶりです。近くにこれができたので来てみました」
 ひょっとしたら自分と同じ動機でプール通いを始めたのかもしれないと、舞子は思った。しかしここで住所や電話番号を訊《き》かれても、気安く口にしてはいけない。
「じゃ、ぼくもひと泳ぎ」
 こちらの警戒心とは裏腹に、男はさっと立ち上がる。毛深い足が目にはいり、舞子は見てはいけないものを目にしたような気になる。一瞬視線をそらしたが、プールにはいる前の男の方をまた見てしまった。筋肉隆々というのでもない。ぶくぶくと肥ってもいない。
 男は、キャップの上にあげていたゴーグルをおろして目をおおう。どことなく優しくみえていた顔がきつくなり、鋭さを増した。
 泳ぎはクロールだ。形は整っている。前後の人の列に配慮しながらゆっくりと泳ぐ。息継ぎでこちら側に顔を上げるとき、見られているのではないかと思ったが、舞子はそのまま眼をそらさない。見つめていると、男が腕を前方に伸ばすたびにあらわになる黒々とした腋毛《わきげ》が妙に気になり出した。今までは、男性のその部分を見ても平気だっただけに、驚く。坐《すわ》っていられなくなって舞子は立ち上がり、プールにはいる。
 男と同じクロールにするのは悪い気がし、平泳ぎは蛙《かえる》の形になるので嫌だ。かといって背泳だと、大きなバストを誇っているのだと思われる。それならまたドルフィン泳ぎしかない。しかし男まさりの泳法ではある。これも気がひけた。
 仕方なく無難なクロールにした。手足を動かしながら、そんな堂々巡りのことを考えるなんて頭がどうかしていると反省する。気にしないことだ、と息を継ぐたびに自分に言いきかせた。
 プールから上がると、男の姿はなかった。
 シャワーを浴び、髪を乾かす。ほどよく疲れ、爽快《そうかい》だったが、どこかに忘れ物をしてきたような感覚があった。
 確かに、それまでなまっていた筋肉はすみずみまで賦活されている。肺の中に澱《よど》んでいた空気でさえも、全部入れ替わった感じがある。しかしそれでも、何かおさまりのつかない感情がしこりのように残っている。
 キュロットとTシャツの上にカーディガンを羽織ってカフェテラスに行ったのも、そのままアパートに帰りたくなかったからだ。
 螺旋《らせん》階段を昇るとガラス張りのカフェテラスがある。混んではいないなと視線を浮かしたとき、ガラスの向こう側で手が上がった。プールにいた男が笑っていた。
 ガラスの仕切りに接してテーブルが並べられ、そのひとつに男は坐っていたのだ。舞子は思わず、手をあげていた。足はひとりでにそのテーブルに向いた。
「ここに来ると思っていました。いや、来てもらいたいなと考えていたんです」
 男はちょっと照れて、窓の外を指さす。
 ビルの谷間に夕陽が沈みかけていた。両側とも十五階くらいの、ガラスをふんだんに使った建物で、直方体ではなく、側面に凹凸のある造りをしている。異なる形の積木をくっつけた形だ。
 二つのビルの間は、低い建物ばかりで、夕陽はそこにぴったりとおさまって沈みかけている。西の空全体が茜色《あかねいろ》に染まっていた。
「ほら、のっぽのビルが、何かイースター島のモアイみたいに見えるでしょう」
 そう言われると、そんな具合に見える。夕陽を背にして、ガラス造りの巨大なモアイが向かいあっている。
 男が待っていたというのは自分そのものではなく、この風景を見せたかっただけなのだと、舞子は少しばかり落胆する。
 気がつくとウェイトレスが注文を待ってじっと立っていた。レモンスカッシュがあるかどうか訊くと頷《うなず》いた。男はオレンジジュースを飲んでいる。
「レモンスカッシュですか。なつかしい。じゃぼくも、それを追加」
 男は笑った。舞子も、初めからレモンスカッシュを飲もうと思っていたわけではない。それどころか一年以上は口にしていない。不意にそれが飲みたくなったにすぎない。
「こんな景色があったのですね」
 舞子はまた窓の外を眺める。夕陽の位置がぐっと下がって、下縁が民家の屋根に接触している。
「この近くに住みながら、今まで気がつきませんでした。都会の巨大モアイ。この名所は人に言わないでおきましょう。あ、ぼくは布川です。布川明生」
 男はぴょこんと頭を下げた。
「北園《きたぞの》舞子です」
 下の名前まで言う必要はなかったかもしれないと後悔した。
「マイコって、舞子さんのマイコですか。いい名前です」
 明生は心底感心したような顔をした。「ぴったりです」
「以前は嫌いだったのです」
 答えると、明生は不思議そうな顔をした。
「何か軽薄なようで」
「軽薄ではありませんよ」
 真顔で明生は否定する。
 名前が好きになったのは専門学校にはいってからで、複数のクラスメートから「素敵。とりかえたいくらいだけど、こればっかりはね」と言われた。気に入り始めると、名は形を表わすで、沈み込んだり、小さく縮こまったりするのは、自分にふさわしくないと思うようになった。
 しかしその後、あの会社に勤め出してからは、そうではない。明るく軽快に、の反対になりつつあるのだ。
「プールでの泳ぎぶりは、名前そのものでした」
 明生はレモンスカッシュのストローに口をつけ、上目づかいに舞子を見る。「さっき螺旋階段を昇ってくるときも、そうです」
 意外だった。泳ぎ疲れて、ステップにかける足だって重く感じたのだ。しかし明生の口ぶりには冗談も皮肉も混じってはいない。
「ぼくの名前は、明るく生きると書くでしょう。小さいときは別段何も考えなかったのですが、この齢になると、名前に助けられます。ほら、上を向いて歩こうとか、唇に歌をとか、心に太陽をとかいう、決まり文句と同じです。決まり文句も捨てたものではありません」
「明生、明るく生きる」
 舞子は笑いながら口に出して言う。
「そうです。悪くないでしょう」
 レモンスカッシュは少し味が濃すぎる。厨房《ちゆうぼう》係がまだ慣れていないのか、レモンスカッシュの注文が少ないからだろう。帰りに、ひとこと注意しておこうかと舞子は思った。いやそれはまた別の機会にしよう。そんな気の強い厚かましいところを明生には見られたくない。
「実際ぼくの仕事場は、言ってみれば陰気くさいところです」
「何をされているのですか」
「土掘り」
「土木関係?」
 舞子は少しがっかりする。明生にあのダブダブズボンは似合わない気がした。
「いえ、恰好《かつこう》つけて言うと考古学、平たく言えば穴掘りと土掻《つちか》きでしょうか」
「面白そう」
 舞子は思わず目を輝かす。考古学という言葉に修学旅行で見た正倉院の外観を思い浮かべ、そのあと、どこかの歴史史料館に陳列してあった素焼の土器が目にちらついた。おわんを大きくしたような土器を二つ重ねたのはカメ棺とかいう名がつけられていたような気がする。
「骨も扱うのですか」
 棺の中には茶色になった人骨もあった。舞子は自分の背中が冷やりとしてくるのを感じる。
「骨は宝物です。人でも犬でも、魚の骨でも、出てきたときは心のなかで万歳を叫びます」
 明生の目が子供のように光る。「陰気くさい作業も、そのときはパッと明るくなります」
 骨が宝なら、それはそうだろう。舞子は妙に納得する。
「この前は、トイレが見つかりました」
 身を乗り出して言ったあと、明生はスイマセンと詫《わ》びた。
「平気です」
 興味を覚えながら舞子は先を促す。
「トイレも、貴重な情報がいっぱい詰まった宝物です。それこそ玉手箱。人間が食べて、完全に消化されないものが貯まっているでしょう。消化されたものでも、土壌成分を分析して、どんな食物を口にしていたか、大体の予想がつくのです」
「面白そう」
 また言ってしまう。
 実際、机についてパソコンを打ったり、伝票の数字の計算ばかりしているよりは、何倍も気持が沸き立つ仕事だ。
「ま、そんな宝物発見ばかり続けばいいのですけど。やっぱりどんな仕事にも嫌な面はありますよ」
 明生は音をたてて、レモンスカッシュを飲み終える。「この仕事、第一お金になるものではないでしょう。それに他人から見れば、馬鹿馬鹿しいものです。道路拡張や宅地造成工事の際、何か古墳のようなものが見つかったら、市や県の教育委員会に報告しなければならない法律があります。工事をストップして、調査をするため、ぼくたちが呼ばれます。これが行政発掘です」
 発掘光景は学生時代に見たことがある。道路拡張のためのブルドーザーが土を掘り返していたが、ある日を境にして工事が中断した。その日以後ブルドーザーやトラックの類《たぐい》は姿を消して、代わりに十数人の集団が、露出した土にへばりついて土をザルで集め始めたのだ。土木員の服装をした中年女性もいれば、大学生のアルバイトのようなジーンズ姿も見られた。土は既に一メートルか二メートル掘り下げられており、大小さまざまの穴が露呈していた。白くペンキのようなもので印をつけられている部分もある。雨の日には、青いシートがかぶせられた。
 人力による土の掻き出しは一ヵ月弱も続いただろうか。またある日を境に、ブルドーザーとトラックがやって来て、あたり一帯砂利が撒《ま》かれ、小火口のような穴は見えなくなった。
「発掘にもお金がかかるのでしょう。費用は誰が出すのですか」
「原因者負担です。道路建設中であれば、国道か県道か村道かで、出所が分かれます。団地が建設中なら、その造成をしている不動産会社、個人住宅を建てているときは、その個人」
「それじゃ、遺跡らしいものが出ても、工事主はちっとも嬉《うれ》しくないですよね。小判がザクザク見つかるのなら別ですけど」
「だから、ケチな施工主は、遺跡らしいものが出てきても、知らん顔でブルドーザーを動かすのです。あの馬鹿でかいショベルカーで土を掘り上げてしまえば、もうただの土くれですからね」
 明生の話に、熱がはいり始める。「でもそれが発覚すると罰金はとられるし、新聞には書きたてられるし、企業イメージがぐんと下がるので、この頃ではもっとズルい手をつかうようになりました」
「どんな手ですか」
「調査を早目に切り上げるのです。期間も短く、人員も少なくすれば、調査費用はぐっと安くなります」
 明生は言いさしたが、もっと話したげに窓の外を見やる。夕陽はビルの間に完全に沈み、空は鈍色《にびいろ》になっていた。代わりにビルの窓がところどころ明るくなっている。
「でも、そうなるときちんとした調査はできにくいのではないですか」
「そこです、現場の研究者が悩むのは。ぼくが勤める埋蔵文化財センターは、文部省認可といっても、役所ではありません。私的企業です。助成金や寄附はありますが、委託調査が大きな収入源です。あまり金のかかり過ぎる調査をしていると、建設業者から依頼がこなくなる。しかしいい加減な調査だと、ろくな報告書は書けない。建設業者は、とにかく発掘調査を依頼して、調べるものは調べたという証明書が欲しいだけです。内容なんかどうだっていいのですよ。
 センターの所長は大学の名誉教授で、考古学界の大御所ですが、今はもうセンターの財源をいかに豊かにするかが彼の関心事です。発掘は一兆円産業になっていますから、どこの研究機関でも、受注獲得に手を伸ばし始めています。お菓子に八方から蟻《あり》が集まってきている状態です」
「そうなんですか」
 舞子はびっくりする。
 発掘というと、俗世とはかけ離れた仙人のような世界かと思っていたが、明生の説明でヴェールがはがれた。
「センターの収入源のための発掘と、学術調査としての良心的な仕事。この二つはなかなか両立しません。ま、そんなわけで、このプールで憂さを晴らそうと思ったのです。来て良かった。舞子さんとも知り合いになれて。ありがとうございました」
 明生はぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ」
 舞子もつられて中学生のようにお辞儀をする。自分にも明生と同様にムシャクシャするものがあってプールに来るはめになったのだが、次元が違う気がした。自分のはたかだか五十万婆さんへのひがみが原因だ。とても明生に話せたものではない。
 フィットネスクラブを出、街灯の下を二人肩を並べて歩いた。街路樹がザワザワと音をたてていた。不思議に思って足を停めると、明生が「インコですよ」と言った。
「セキセイインコが繁殖して、何十羽と樹の中に棲《す》みついているのです。もうずい分前からですよ。このあたりでは、インコもスズメみたいに珍しくなくなりました。音は気味悪いが、インコと思えば風流ですよ」
 明生は樹の中を指さす。街灯の光が届くところに、小さな黒い影がいくつも蠢《うごめ》いている。そのなかの数匹に光があたり、確かにインコの黄色いくちばしと、鮮やかな羽毛の色が見分けられた。
 この道は、これまでも何度となく帰りを急いだはずなのに、一度も注意を払ったことがない。それだけ外界に気が向いていなかったのだ。会社のごたごたばかりが頭のなかを占領していた証拠だ。
「じゃまた、ぼくはこっちの方ですから」
 明生が不意に言った。
「おやすみなさい」
 自分も手を上げて別方向に歩き始めたが、胸の内が火が消えたようになった。もっと一緒にいたかった。こんな気持になったのは初めてだ。
 しかし、これからも明生には会えるはずだ。プール通いは何曜日と何曜日なのか訊《き》いておかなかったのが残念だった。
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