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受精03

时间: 2020-09-30    进入日语论坛
核心提示:3 境内の桜の蕾《つぼみ》がほんのり赤くなっていた。雪に覆われて厳しい外観を呈していた寺のたたずまいに、暖かさが感じられ
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 境内の桜の蕾《つぼみ》がほんのり赤くなっていた。雪に覆われて厳しい外観を呈していた寺のたたずまいに、暖かさが感じられる。靴底の下で鳴る砂利も、どこか弾んだ音をたてる。門の根にある植込みに、黄色い水仙が一本、花をつけていた。
 門をくぐると、右側は山茶花《さざんか》の生垣で、鮮やかな緑の葉の間から、白い花をいくつものぞかせている。その先に低い押し戸があって、中の庭と庵《いおり》がのぞけた。
 舞子ははいるべきか迷ったが、呼び鈴らしいものもないので、そのまま飛び石をつたって、庵の前に立つ。入口の木戸の脇《わき》に釦《ボタン》がついていた。約束よりは十分ほど遅くなっていた。押す。奥の方で小さく音が鳴った。
 応答がないのでもう一度押そうとしたとき、引戸が開いた。
「こんにちは」
 作務衣《さむえ》を着た僧が背をかがめ、舞子を迎え入れた。雪の日に見たときは七十過ぎの老僧だと感じたが、今はそれよりも十歳は若くみえる。
「よく来てくれました。さ、どうぞ」
 庵の内部は土間で、左に二間ほどの座敷、突きあたりは台所や水場になっているらしい。照明はなく、明かり窓から漏れる光だけが内部を浮かび上がらせている。
 舞子は上がり框《がまち》で靴を揃《そろ》え、畳を踏む。安手の畳とは違って、弾き返すような固さがあった。
「コートは脱がなくてもいいです。まだまだ寒いですから」
 そう言われてみると、庵の中の温度も外と変わらない。室内にも外気と同じような、凜《りん》とした空気が張りつめていた。
 僧は障子を二枚、左右に開け放った。縁側の向こうに、庭が広がっていた。
「熱いお茶にしますか、それともコーヒーにしますか。紅茶もあります」
 微笑しながら僧が尋ねる。舞子はこんな所で紅茶を飲むのも興があると思い、そう答えた。
 庭に向かって正座する。枯山水で、玉砂利だけの簡素な造りだ。幅が十メートル、奥行きは五メートルくらいだろうか。突き当たりは青々とした棒樫《ぼうかし》で仕切られていた。
 砂利には波の模様がついていて、四個ある石を結びつけている。その紋理をたどっていくうちに、ある形をなしているのに舞子は気づいた。
 庭の手入れをするのも、例の僧の役目だろうが、模様には何か意図があるのだろうか。
 樫の葉の緑と砂利の白が、見事な対比をつくっていたが、いかに常緑樹とはいえ、葉一枚、落ちていないところからすれば、ほとんど毎日、庭は清められているのに違いない。
「庭にはマンジ印が描かれているのですね」
 西洋風の紅茶|茶碗《ぢやわん》が出されたとき、舞子は尋ねてみた。
「右マンジではなく左マンジです」
 僧は答える。
「何か意味があるのですか」
「マンジというのは、梵語《ぼんご》の万の字です。功徳を意味します」
 さらりとした答えに、舞子はそれ以上訊けなくなる。本当は、右マンジと左マンジの違いや、どうしてこの庭には左マンジを使っているかが知りたかったのだ。
「私の名前はヘルムート」
 そう言って懐から名刺を取り出す。
 小さな和紙の上に〈辺留無戸〉とだけ印刷されていた。
「北園舞子です」
 舞子は素早くお辞儀をする。〈辺留無戸〉とは何ともお洒落《しやれ》な名をつけたものだと思う。世界の涯《はて》に留まり、戸などつけずに、誰へだてなく来客してもらう、くらいの意味だろうか。
「どうですか。しばらく通ってみることに決めましたか」
 僧が訊いた。
「まだ完全には決めていません。どうするか決めようと思って、来させてもらいました」
 舞子が恐る恐る言うと、僧は深々と頷《うなず》く。なじるような表情は微塵《みじん》もなかった。
 紅茶は、日頃口にしている味とは違い、数種類の香料が混じっている。シナモンかキャネルか考えているうちに、気持がくつろいでくる。眠気ではなく、肩の力が抜けていく感じだ。
 ほんの数分、石庭に向かって坐《すわ》っているだけなのに、もう何時間もそうやって庭と対峙《たいじ》している思いがする。いつのまにか自分自身が石になり、庭の一部と化している。
「舞子さん、あなたがここに来られて、喜んでいる人がいます」
 不意に横合いから言われて、我に返る。僧が穏やかな視線を送っていた。二人を隔てる距離は畳一枚だ。しかし声は、十メートルも二十メートルも離れたところから耳にはいったような錯覚があった。辺留無戸の外国語|訛《なま》りのせいだろうか。
「誰が喜んでいるのですか」
「若い男の人です。名前は分かりませんが」
「そんな」
 舞子は狼狽《ろうばい》する。自分が僧庵にやってくるのを、誰が喜ぶというのか。
「舞子さんは、強く心に思っている人がいませんか」
 真剣な眼がこちらに注がれる。僧の目の青い光彩まで見分けられた。
「います」
 金縛りにかかったように答えていた。
「その人は不慮の死に遭っているでしょう」
「はい」
 胸の内で何かがはじけ、目が熱くなる。涙が出そうになるのをこらえた。
「その人が喜んでいるのです。あなたがここに坐っているのを──」
 僧が低く、しかし強い声で言う。「彼はあなたを見ているはずです」
 どこから?
 そう尋ねようとして、言葉を呑《の》んだ。この空気が、目の前の庭が、明生なのだ。自分は明生に見つめられ包み込まれている。
「あなたも、それが分かるでしょう。彼は生きているのです」
「明生さんが?」
 思わず訊いていた。
「その方は明生さんというのですか」
 僧は納得したように頷く。「彼はあなたに会いたがっています」
「会えるのですか」
「会えますとも」
 辺留無戸は泰然と頷く。
 気を失いそうだった。明生を見ることができ、声を聞くことができれば、いやそうでなくとも、感じることさえできれば、すべてをなげ出してもいい。
「私について来なさい」
 辺留無戸は立ち上がり、石庭に沿った廊下を歩み、つきあたりの壁に手をかけた。土壁が戸になっている。上下左右を閉ざされたトンネルのような廊下が、ゆるやかな下り勾配《こうばい》で延びていた。床も天井も、側壁もすべて木板で張られている。真新しい檜《ひのき》の香がした。
「死というのは形の変化に過ぎません」
 辺留無戸の声が響いた。「現世の人間が勝手に名付けたものです。この宇宙の森羅万象からみれば、彼らにもやはり生があり、魂があるのです」
 二十メートルも歩いただろうか。二人が鉄の扉の前に来ると、足元を照らす間接照明がひとりでに明るくなった。
「ここをのぞきなさい」
 左側の板壁に、双眼鏡に似たものが突き出ている。舞子は目を当てる。展望台にある望遠鏡のような感じがする。暗かった視野が白くなり、赤い模様が浮かび上がる。先刻、石庭で眺めた左マンジだ。カチカチと鋭い音がし、模様が激しく点滅した。酒に酔ったように頭の中がしびれている。快いしびれ方だ。
 眼を離すと扉が開いた。先は真白に輝いていて、何も見えない。目を慣らそうとして立ちつくしているうちに、後ろで扉が閉まった。
「振り向かないように」
 背後で辺留無戸の声が制した。「私の言う通りに進めばいいのです」
 有無を言わさぬ口調に、舞子は思わず「はい」と返事をしてしまう。
 光に目が慣れると、前方にある物体の輪郭が浮かび上がってくる。すべてが透明な物体でできていた。迷路のように空間が仕切られているが、仕切りが透明なために遠近が判らない。壁はすべて曲面でできている。曲がった壁は一定のところで光を反射し、視野を遮っていた。
 舞子は方向を探ろうとして天井を見上げる。しかし天井らしきものは見えず、透明な曲面はそのままオーロラのように上に延び、その先は闇《やみ》の奥に消えている。
「通路をそのまま歩いて」
 声が言った。平らなのは透明な床だけだ。床の下も透けて、何もない。深海に張った氷の上を歩くような感じだ。
 壁に寄りかかろうとして、舞子は声をあげそうになる。右腕は何の抵抗もなく曲面を突き抜けていた。透明な壁には文字通り実体がなかった。
「見える通りに歩けばいいのです」
 辺留無戸の声は共鳴音を帯びている。幾重もの壁にぶち当たって響くように、残響が声のまわりにくっつく。
「恐いことなんかありません。私がついていますから。そう、通路のままに、左へ行き、右に曲がり、決して急がなくていい」
 身体《からだ》を左右に捻《ひね》り、足を踏み出していくうちに、舞子は自分が踊らされているような錯覚にとらわれる。ダンスの相手に動きを任せ、右に回転したり、また左に回ったり──。
 実際にはどれだけ歩いたか分からなかった。目の前に透明なガラスでできたテーブルがあった。テーブルにしては低いなと思ったとき、「そこに横になりなさい」という声がした。声の主を捜したが、周囲には誰もいない。
「迷うことはありません。横になって」
 空間のどのあたりに自分がいるのかは、全く見当がつかない。
 靴を脱ぎ、ガラス台の上に横になる。スカートの裾《すそ》が気になって、固く両脚を閉じた。四角いガラスの塊の上に頭部をのせる。上半身が少しずつ沈んでいく感覚がした。
 天井の高さが判らないので、建物の内部にいる感じがしない。大地の上にこしらえられた迷路に迷い込んだ気分だ。
 それでも妙に落ち着いていられるのは、何重にも周囲に重なっている透明な曲面の壁のおかげだろう。
「目を閉じて。ここで眠ると思えばいいのです」
 辺留無戸の声に従った。頭の周囲でまたカチカチという鋭い音がする。頭をフードのような物が覆ったような気配がした。
 あのときの感じに似ていると舞子は思う。顔が赤くなる。確かにあのときだ。明生に付き添われて産婦人科を訪れた。春の初めだ。あるべきはずの生理が、十日過ぎても始まらず、思い余って明生に打ち明けた。明生は一瞬真剣な表情になり、「はっきり診察してもらおう」と言った。
 産婦人科は明生が見つけてくれた。ビルの谷間にひっそりと建つ医院で、駐車場もない。院長一家は車は持たないのだろうかといぶかしく思ったのと、紅《べに》かなめの生垣の内側から、はっとするくらい鮮やかな紫色をした花蘇芳《はなずおう》が三メートルか四メートルの高さに伸びていたのを覚えている。産婦人科に、この生垣の朱色と蘇芳のどぎつい紫色はふさわしくないのではと、明生と並んで敷地内にはいりながら考えた。
 待合室に三人ばかり先客がいるのを見て安堵《あんど》した。明生は落ち着いた態度で、しかも目立たないようにソファーに腰をおろし、女性週刊誌に見入った。誰の眼にも新婚の若夫婦に映るだろうという気がして、舞子は明生がついて来てくれたことに心の内で感謝した。
 血液検査と尿検査のあと、改めて診察室に呼ばれたとき、明生が何故この医院を選んだのか分かった。院長は五十代半ばと思われる女性だった。暗がりで横になり下腹部を出して超音波の検査を受けるのも、相手が同性だと思えば、恥ずかしさも十分の一くらいになる。優しい声に従って診察台の上で足を開き、内診を受けた。これが男性医師だったら何倍もの屈辱感と羞恥心《しゆうちしん》を感じるに違いないと思った。
「妊娠はしていませんよ。生理が遅れているだけです」
 診察が終わって告げられた。舞子のほうではほっとしたのに、院長は若夫婦の期待が空振りに終わったのに同情する口調だった。
「一週間後には他の検査結果も出ますから、電話を入れて下さい」
 はいと答え、丁重に頭を下げていた。待合室に戻ると、明生が雑誌から顔を上げた。その瞬間、はかりごとを思いついたのだ。
 受付で料金を払う間も深刻な表情を崩さず、玄関では黙って靴をはく。
 庭の内側から眺める花蘇芳は、松の後方で、そこだけ原色の絵の具で塗りたくったように紫色に染まりきっていた。
「できているって」
 悲しそうでもなく、ましてや嬉《うれ》しそうでもない口調で言った。
「やっぱり」
 明生は低く答えた。舞子はその横顔をちらりと見る。何か考えている様子で、五、六歩行ってから口を開いた。
「嬉しいな。びっくりしたけど、こんなことって、初めから予感していたような気もする。一足す一が二になるくらい、当たりまえの理屈だしね。ぼくと舞子の結晶が、とうとうできたのだ。本当に、一足す一は二だった。舞子とぼくの足し算。素晴らしい足し算」
 何かをふっ切ったように、晴れ晴れした顔で舞子の目を覗《のぞ》き込む。
 その瞬間、舞子は明生を試した自分が嫌な人間に思えた。
「ごめん。嘘《うそ》言って」
 白状したとたん、涙がすっと溢《あふ》れてきて、明生にすがりつく恰好《かつこう》になった。明生は歩みを停め、舞子の身体を受けとめる。
「そうか。まだ足し算にはならなかったんだね。泣くことなんかない。辛《つら》い思いをさせちゃったね」
 肩をポンと叩《たた》いた。「でもいずれ、足し算ができるよ。楽しみが延びたと思えばいい」
 この人はいつでも自分と一緒になる気持でいるのだと、舞子はそのとき感じた。
 明生は舞子の涙をハンカチでぬぐう。産婦人科医院にはいる前の、糸のからまったような気持が、真直ぐになっている。もうこの人に自分の一生を預けるのだと、舞子は心のなかで言いきかせる。誰がなんといっても、この明生についていくのだ。たとえ明生が事故に遭って半身不随になっても、勤め先をクビになっても、自分が汗みどろになって、食べさせていってやる。
 並んで歩きながら、舞子は自分の気持を固めていた。
「何か食べようか」
 明生から言われて、急に空腹を感じた。「何が食べたい?」
「何でも、でもめん類はいや」
「どうして」
「分からないけど」
 こんな特別な日に、ツルツルと口の中にかき込んでしまう食事なんて味気ないというのが本心だ。
「新しく建ったビルの二階に中華料理店がある。行ってみようか。昼だから飲茶《ヤムチヤ》がバイキングになっている。看板に書いてあった。まだサーヴィス期間かもしれない」
 明生の手を握って歩きながら、甘いものが食べたくなる。杏仁《アンニン》豆腐もいいし、胡麻《ごま》団子やエビシュウマイもいい。今なら二人前くらい食べられそうだ。
 幸い料理店は開店セール中で、飲茶のバイキングが千二百円で食べられた。そのうえ、十二時前なので先客も少なく、ゆっくりと好きな料理を皿に載せられた。
「まるで曼荼羅《まんだら》のようだね」
 テーブルに向かい合って坐《すわ》ったとき、舞子の皿を見て明生が言った。「それも仏さんたちが窮屈そうに坐っている」
 自分では白い皿に、なるべく見た目がよくなるように、八種類くらいの料理を並べたつもりだったが、ひとつひとつを仏様に見立ててしまえば、様子は変わってくる。仏様の満員電車だ。
「お腹はどうせすぐに空くから平気」
 負け惜しみを言って、まず大好きな胡麻団子をひとつ口に入れる。そういえば一度、母とふたりで同じものを作ったことがあった。白玉粉を水で練り、あんこはできあいのものにたっぷりと砂糖を入れて甘くする。思ったよりも難しかったのが、平たくした粉の上に適量のあんこをのせて、破れないように球形をつくることだ。下手をすれば、中からあんこがはみ出してくる。そこを塞《ふさ》ごうとすると別のところが破れる。生地が手のひらにくっつくのにも困ったが、これはサラダオイルを手のひらに塗ることで解決した。
 出来上がった団子は大小さまざまで、母と笑いこけた。しかし量だけは多い。百個以上はできたのではなかったか。胡麻の上をころがして、油で揚げた。玉が浮きあがり、こんがりとキツネ色になれば完成だ。いくら好物でも百個は食べられそうもなく、隣近所におすそわけした。あとで、「あれはおいしかった。どこの店で買ったのか」と言った人もいたくらいだから、味は良かったのに違いない。
 シュウマイにも舌鼓《したつづみ》をうち、あっと言う間に五個を口の中にいれた。産婦人科の診察台にあがって緊張した分、空腹になったのだ。
 明生が目を丸くするのを尻目《しりめ》に、皿の上の曼荼羅を全部たいらげる。明生のほうは三個とった大学イモをまだ皿に残している。
「さあ、次は何にしようかな」
 舞子は宣言して立ち上がる。明生があきれたという顔をする。
 杏仁豆腐を小鉢についで、席に戻った。菱形《ひしがた》をした白いかけらが、新たな食欲をそそる。スプーンで口に入れて閉じると、舌がとろけそうだ。
「おいしい?」
 明生が訊《き》く。
「おいしい」
「本当においしそうだ」
 明生は笑う。
 食べ終わる頃に、ようやくテーブルが混んできていた。
「バイキングは舞子と来るに限る」
 勘定を済ませて外に出たとき明生が言った。「二人で三人前はたいらげるから」
「苦しい。二キロは太ったかもしれない」
「舞子の場合は少々太っても平気」
 明生は握っていた手を放して、あっという間に十歩ほど駆け出す。追っていきたいけど、足がいうことをきかない。
「ほら、いい形だよ。歩く姿もかわいい」
 黒っぽい服を着た中年女性が振り返って眺めるのにも構わず、明生がはやしたてる。
「馬鹿」
 少し駆けて追いつこうとしたが、明生は笑いながら後ろ向きのままで後ずさりする。後ろから自転車のべルを鳴らされてようやく立ち止まった。
「近くで見る舞子もいいけど、少し離れて眺める舞子も素敵」
 臆面《おくめん》もなく言われて、舞子は顔を赤くする。明生には妙な癖があって、二人きりのときよりも、電車の中や通りを歩くときに、周囲も気にせずに、おのろけを口にするのだ。
 明生はまた横に並び、舞子の手を握った。道は高台まで続いているらしい。こんなところがあるなんて舞子は知らなかった。道の両側は三、四メートルの高さはある夾竹桃《きようちくとう》で、今は青々とした葉を繁らせているだけだ。夏の盛りになれば、真紅かピンクの花をびっしりとつけるに違いない。強い日射しを照り返して、それは壮観だろう。白いブラウスに深いピンクのキュロット、そして白いシューズをはいて、明生と一緒にその頃もう一度来てみたい気がする。そのとき、明生も、白いパンツにバスケットシューズをはいているのだ。
 高台にはベンチがあって、海が見えた。海がこんなに近くにあるとは考えてもみなかった。白い客船が右の方からゆっくりと移動してくる。客船よりは半分くらいの大きさの黒い汽船が、反対方向から近づいていた。
「舞子は外国に行ったことは?」
「ない。明生さんはあるの」
「あることはある。でも本当に行きたい外国は、好きな人と一緒に行くためにとっておいたんだ。好きな人と見る初めての国、そのほうが感激もひとしお大きくなると思って」
「分からないでもない」
 舞子はフーンと鼻で小さな息をする。
「舞子が行きたい国は」
「いっぱいある。オーストラリアのコアラ、バリ島、スペインのアルハンブラ、ベニス、イギリスのネス湖、スイスのレマン湖、イタリアのナポリ、イスタンブール、それからエジプトのピラミッド、ペルーのインカ帝国の跡、イースター島」
「何だ何だそれは。キリがない」
「でもそのくらいかな」
「パリとかロンドンとかニューヨークは」
「それはどうだっていいの。どうしてか分からないけど」
「つかめたぞ」
 明生が声をあげる。「舞子が嫌いなのは寒い所と大都会」
「あらそうかしら」
「試しに、ストックホルムやオスロ、モスクワを思い浮かべてごらん」
 湖まで凍ったストックホルム、小川がスケートのコースみたいに凍りつくオスロ、防寒服に着ぶくれたモスクワ。女性雑誌で見たことがあるが、考えるだけで鳥肌がたってくる。
「ほら顔に出た」
「雪や寒さはそんなに嫌じゃないけど」
 舞子は反論してみる。
「それはたまたまの雪景色。年に一度か二度あるくらいの雪化粧が好きなだけ。何日もそこにいてくれといわれたら、舞子は逃げ出す」
 なるほど図星だ。確かに暑いところは好きだ。ブラウスとブラジャーが汗でじっとりするのはさすがに嫌だが、Tシャツが汗の重みで垂れ下がるくらい、夏の日照りの下を歩いても気にならないし、第一、熱い砂浜で寝そべって青い空を見上げるときなど、身も心も充電されていくような気がする。
「ぼくも暑いのが好きだな。いつか舞子と旅行するなら、南方の海。沖縄、与論島、石垣島、台湾、フィリピン、バリ島」
 明生が地名を口にするたびに、周囲の温度が上がっていくようだ。「でも、今日はここにしよう」
 坂道を下りかけてひょいと横道にそれる。石段があって、その途中に細長い塔のような建物があった。十二、三階の高さはあるだろう。ラブホテルにしては明るく、ヘルシーな感じがする。
 自動ドアの中は仕切りがあって、エレベーターも二基、互いのカップルが顔を合わせなくてもいい。
「最上階にしたよ」
 パネルで部屋を選んできた明生が、エレベーターの中で十二階を押す。せり上がってくる足元を見たとき、カーペットに〈トロピカル〉という文字が書かれているのに気がつく。ラブホテルの名前は〈熱帯〉なのだ。
「熱帯行きなのね」
 言うと、明生は黙って頷《うなず》く。なぜか真剣な表情だ。
 十二階の廊下にはバナナの木みたいな観葉植物が配置され、その向こうでルームナンバーが点滅している。
 明生がドアを開けて先にはいる。靴を脱ぎさらに奥のドアを押すと、ソファーにテーブル、スタンドバーの止まり木が見えた。左側の壁をおおうパネルには、ヤシの茂る海岸の写真が大映しになっている。
「思ったより広い。眺めもいいし」
 バスルームやベッドルームを見てきた明生が言った。カーテンを開けると、また海が見える。先ほど眺められた客船も貨物船も消えていて、小さな漁船が七、八隻、散らばっているだけだ。
「飲み物は? 何でもあるよ。パッションジュースにコーラ、強壮ドリンク、ビール」
「じゃ、シャワーを浴びてからビールがいいかな」
 喉《のど》はカラカラになっていたが、もう少しは我慢できる。喉が痛くなるくらい刺激的なビールのほうがおいしい。
「そうか、シャワーだけのほうがいいかもしれないね」
 鏡の前で衣服を脱いでいると、明生が言う。舞子の右腕にある小さなバンソウコウに気がついたのだ。採血の注射|痕《あと》上に看護婦が貼《は》りつけてくれたものだ。
 明生が温度を調節して、シャワーをかけてくれる。髪にしぶきがかからないようにするところなどはうまいものだ。
「はい回転」
 明生はまるで社交ダンスの練習のように言う。身体《からだ》が向かい合わせになった。
「そのまま、そのまま」
 明生はシャワーをとめ、ボディシャンプーを手のひらにつける。舞子の肩から胸元、下腹部に塗りこんでいく。背中は、自分から移動して後ろに回った。
「くすぐったい」
 舞子は悲鳴を上げる。
「だめだめ。動いちゃ」
 明生は腰から尻、そして脚に手のひらを滑らせていく。「もう一度、念入りに」
 また正面に戻って向かい合わせになる。明生の両の手のひらが舞子の乳房をゆっくりと揉《も》みしだく。立っていられなくなって、舞子は手を明生の肩にかけた。
 そのまま明生に抱きすくめられる。唇が合わさる。明生の手が背中をしっかりと押さえつけた。
「ベッドで待っていなさい」
 足の力が抜けかけたとき、明生が身体を離した。改めてシャワーをかけられて、浴室を送り出された。自分が子供になったような気がした。父親に身体を洗ってもらった女の子だ。
 バスタオルで肌をふき、鏡に見入る。化粧を落とした顔も、自分では気に入っている。眉《まゆ》はもともと墨など重ねなくても細くてくっきりしているし、ルージュを落とした唇もほんのりと血の気がさしている。
 タオルを巻きつけてベッドまで行き、素肌のままでシーツのなかに身を入れた。明生がもうすぐ来てくれると思うと、胸が苦しいくらいに嬉《うれ》しくなる。腹這《はらば》いになって、枕許《まくらもと》のボードを操作するうちに音楽が流れ出す。何回かボタンを押してテンポの遅いクラシックに変えた。
 目を閉じる。明生が浴室を出てくる様子が思い浮かぶ。
 すぐに来て欲しい。いやまだ来なくてもいい。どうせ来てくれるのだから、待つ時間が長くても、その時間には嬉しさが詰まっている。
 浴室のドアが開く音がする。予期した通り、ベッドが重みで沈み、空けておいた左側に明生の身体が横たわる。
 まだ目を閉じていた。
「舞子、好きだよ。いっぱい愛している」
 明生が耳元で言う。舞子は薄く目を開ける。明生が笑っていた。首筋に抱きついて唇を重ねる。さっき浴室で抱き合ったのと同じ姿勢が、今度は垂直から水平に変わっただけなのだと思う。水平が良いにきまっている。立っている必要なんかない。明生を抱きしめることだけに神経をつかっていられるからだ。
 明生の舌が首筋から乳房へと下がっていく。声が口から出てしまう。明生の名を呼びたくなる。明生がそこにいるのを確かめたくて、頭をしっかり両手で挟みこむ。
〈明生〉
 いったん声にすると、シャンパンのように、栓を開けられた口から、言葉にならない声が溢《あふ》れ出る。
〈もっともっと〉
 全身で明生を感じていたかった。身を捩《よじ》り、明生をきつく抱きしめる。吐息でさえ明生とひとつになり、動きさえも共振してしまう。
 もうこれ以上は待っていられない。
 両の脚を大きく広げた。自分が蝶になった気がする。左右の羽根を開いた極彩色の蝶だ。脚が宙に浮く。明生の名を呼ぶごとに身体が浮き上がっていく。脚を開いたままでベッドから浮遊する。
 脚が上方になり、頭の下の方になって半|宙吊《ちゆうづ》りの形だ。上方は澄みきった青空だ。雲ひとつかかっていない。首を捻《ひね》って下を見やる。海の青がある。砂浜が見える。どこだろう。
 明生の姿を探した。天空の一点、あるいは海原の縁辺に明生がいるのではないかと、頭を巡らす。しかし姿は見えない。
 明生は空に消え、海に同化したのだろうか。自分ひとりが空を飛んでいる。中世の画集で、こんな恰好《かつこう》の天使の姿を見たことがある。
 舞子は目を開ける。透明な台の上に仰臥《ぎようが》位で横たわっている自分に気がつく。足はぴったりと揃《そろ》えていた。衣服に乱れはない。
 立ち上がる。身体が軽い。充分に休息をとったあとの肉体のように、四肢のすみずみまで軽やかだ。
 出ていくとき、御堂の扉のような厚い仕切りはひとりでに開いた。その先に、ほの暗い和室があった。
「ごらんになりましたか」
 石庭を前にして辺留無戸が坐《すわ》っていた。
「わたしは眠っていたのでしょうか」
「眠っていたような気がしますか」
 辺留無戸が穏やかな顔を向ける。「眠りではなく、現実の世界です。眠りとはどこか違うでしょう」
 確かに夢とは違う。夢なら断片的で、すぐ消えるもろさがあるが、今しがた体験したことはずっしりした重みをもっている。
「いわば魂の世界。物や身体を、衣服みたいに脱ぎ捨てたあとの世界なのです。会えましたか」
「会えました」
 舞子は答える。「わたしが会いたい人に」
 胸が熱くなる。明生の顔、声、そして皮膚と皮膚が触れあった感触がまざまざと蘇《よみがえ》ってくる。
「その人も喜んでいるはずです。向こうからは、あなたのことはずっと見えていた。話しかけもしていたのに、あなたのほうが無視していた。今ようやく言葉を交わせたのです。もう彼を見失うことはありません」
「生きているのですね、彼は」
「もちろん」
 辺留無戸が力強く頷く。「あなたにそれが見えなかっただけ。彼には見えていた。一方通行のマジックミラーのようなものでした」
 明生が生きている。何と素晴らしいことだろう。明生を見ることができ、会話をすることができ、抱き合えるなんて。
 このまま静かに坐っていれば、明生とは別れなくてすむ。ここを立ち去ると、もう明生を感じられなくなるのではないか。
「もう大丈夫です。あなたが彼の存在を知ったからには、どこにいこうとも、彼はあなたについていきます」
 辺留無戸の柔和な顔に、うっすらと赤味がさした。心の内を読まれた気がして舞子は驚く。もしかしたら辺留無戸は、明生と自分が抱き合ったのも知っているのではないか。
「いつでも来なさい」
「週末ごとに、お邪魔していいでしょうか」
「もちろん。ずっとここに住んでも構いません」
「ずっとですか」
「そう。不動明王におつかえするのが務めです。堂内の掃除をしたり、食事をしたり、一日の決まった時間にお経の勉強をすればいいのです。今の勤めとさして変わらないかもしれません」
 辺留無戸は正座して膝《ひざ》を崩さず、舞子の返事を待つかのように、視線を石庭の方にそらした。
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