レースのカーテンから朝の日射しがはいり込んでいる。部屋には午前中だけしか陽が射さない。十畳ひと間のワンルームに、セミダブルのベッドとソファー、木製の本箱と食器棚、ビニールの衣裳《いしよう》ダンス、丸テーブルに籐《とう》の椅子《いす》二脚があるだけだ。三階建の建物自体は築二十年以上になるそうだが、中にいる限り新築同然だ。ローンを組み、奮発して購入したのが、ベッドとランプだった。
ランプは土台が白大理石で、ステンレスの細い軸がそこから二メートルほど立ち上がり、ゆるやかなカーブを描いて、半球型のプラスチックの笠《かさ》が、ちょうど大きな花のように垂れて床面を照らしてくれる。六万円もしたが、デパートでそれを見たとき一時間もその場から立ち去れず、とうとう十二回の分割払いで買った。勤めから帰って来て、まずそのランプをつける。服を着替えながら、どっしりとした大理石、鋼鉄のしなり、大きな花弁のような笠をうっとりしながら見つめる。あるじの帰りを待ち受けてくれるペットと同じなのかもしれない。
明生も、そのランプとベッドが気に入っていた。部屋を暗くして、ランプの微灯だけをつけ、ベッドに仰臥した姿勢で、
「ベッドとランプ、そして舞子と、この三つでぼくは王侯貴族になったみたいな気がする。大理石づくりの部屋にカーペットを敷きつめ、豪華な寝台、きれいなお姫様。ここは宮殿だ」
と言った。
実際、白いシーツにくるまれ、ほんのりと明るいランプに照らされて、素肌になった明生の身体を眺め上げていると、舞子も同じ気持になる。ここは宮殿の一室、窓を開けると遠くまで庭園が広がり、遠くの芝生の上で、鹿がじっと耳を立てている。
明生の写真はガラスの額に入れて、ベッド脇《わき》の台に置いていた。二枚のガラスで写真を挟みこみ、L字型をした黒い鉄の棒で支えるシンプルなデザインだ。二千円か三千円しかしなかったが、単純な造形が良かった。ごてごてした額縁の中に明生を押し込めるよりも、よほどいい。
明生は笑っている。九州を旅行したときのもので、何泊めかに吹上浜《ふきあげはま》のホテルに寄った。朝食を食べたあと、連れ立って海の方に行った。松林を抜けても海はまだ遠く、砂浜を手をつないで歩いていた。スポーツシューズが、細かい砂にとられてのめり込む。砂浜の陰になって海は見えず、風の合い間をぬって潮騒《しおさい》が届くのみだった。
「靴は脱いだほうがいいね、ここは」
明生は裸足《はだし》になる。舞子もスパッツだったのでストッキングははいていない。白いズック靴を脱いだ。二人とも靴はそこに置いておくつもりだ。
「靴は揃《そろ》えておかないほうがいいよ」
舞子が下駄箱にしまうように、きれいな砂の上に靴を置くと、明生が注意した。
「どうして」
「二人とも波にさらわれたら、靴を見て、人は自殺だと思う」
なるほど。
「でもわたし、自分のはやっぱり揃えておく。代わりに、明生さんのをいい加減にする」
舞子は明生の靴をいろいろ置き変えてみたあと、片方を裏返しにし、もう一方を海の方角とは斜めになるようにした。
「参ったなあ」
明生が笑う。「これじゃ、まるで淑女と酔っぱらいのカップルになってしまう」
「いいの。誰も自殺と思わないから」
また手をつないで砂の坂に立ち向かった。足の裏で崩れる砂の感触が快い。下の方からマッサージを受けているようだ。
滑りながらも、明生に引っ張られるようにして登りつめると、眼前に白い浜と海が開けた。日本にもこんな砂丘があるのかと思うほどの浜の広さだった。明生は握っていた手を放して、何か叫ぶ。一気に駆け下ったあと舞子の方を向く。舞子も走り出す。最後のところで倒れそうになり、そのまま明生の広げた腕にとびこむ。すっと身体《からだ》が宙に浮き、アイスダンスのように一回転させられてから、地上におろされた。
波打ち際まで、さらに五十メートルくらい歩いただろうか。きめ細かい砂の上に、いくつもの白い波の帯ができていた。風にその泡が飛ばされる。
「塩が泡になったものだよ、きっと」
明生が手で掬《すく》い、口で味わう。「うん、塩の花だ」
明生の口のまわりが、白い髭《ひげ》をつけたようになっておかしい。それを言うと、明生は顎《あご》にもわざと泡をつけた。
「海辺に辿《たど》りついた浦島太郎だ」
笑いながら、背を曲げて杖《つえ》をつく恰好をする。「舞子は、竜宮城から連れて帰ったお姫様」
「じゃ、わたしもお婆ちゃんになろう」
「駄目」
明生から制されたが、舞子はもう手で泡をつかみとっていた。しかしお婆ちゃんのメーキャップってどうするのだろうかと、一瞬迷う。
「玉手箱のわたしもお婆ちゃん」
泡は両方の眉《まゆ》につけた。もうひと掬いを頭にも塗りつける。
「そのままそのまま、外人の舞子になった」
明生はズボンのポケットからインスタントカメラを出して構える。「駄目駄目、いくら腰をかがめてもお婆ちゃんにはならない。はい胸を張って、海の方を見て」
注文をつけて、何ポーズも撮る。泡はいつの間にか風に吹き飛ばされてしまった。
そのときの胸をつき出した写真は、化粧品会社のモデルに似てなくもない。少し横向きにカメラを見おろしながら笑っている。
写真は、明生の写真と背中合わせにガラスに挟んでいるが、自分のを表側にしたことはない。
「明生、ちゃんと見ている?」
舞子は起き上がりながら言う。
バスルームでパジャマを脱ぎ、裸身で鏡の前に立つ。明生はそんなとき、不意に後方に現れることがあった。いつの間にか肖像写真のように二人が鏡に映っているのだ。明生が裸のときもあった。きちんとしたスーツ姿のときもある。青いスーツの前に立つ自分の裸って、エロチックだなと思った瞬間、後ろからぎゅっと抱きしめられ、明生の腕が舞子の乳房に触れた。
振り向いて、そのまま明生の胸によりかかったが、あのスーツの生地の感触と、日なたの匂《にお》いはまだ生々しく記憶している。
「明生、ちゃんと見るのよ」
あなたがいつくしんだ身体は、まだそのままにしてあるのだから。──舞子は口の中で言ってみる。
あなたが思うとき、その人はいつでも立ち現れるのです。辺留無戸はそう言った。事故の前は四六時中一緒にいることはできなかったが、確かに今では、明生のことを想像しない時などないので、常時一緒にいられるのだ。
会社勤めも苦にはならない。以前は会うのも会社がひけてからだ。今は違う。会社にも明生と一緒に行ける。パソコンで書類を完成させているときも、コピーをしているときも、お茶をいれているときも、明生と一緒なのだ。
〈明生さんにもお茶を入れてやりましょうか〉
給湯場でお湯を沸かしながら、舞子は言ってみる。
〈でも今日はまだ駄目、今度きれいな湯呑《ゆの》みを買ってくるから〉
それでも、湯呑みをすするとき、〈明生も少し飲んでみて〉と数分間そのままにして、その間他の仕事を片付ける。〈おいしかった。そう、じゃ今度はわたしの番〉そう呟《つぶや》きながら、熱い茶を口に入れる。
五十万婆さんがほとんど一時間おきに化粧バッグを取り出して、おしろいを塗り直したり、リップラインをかきなおす仕草も、大して気にはならない。
〈ほら明生、あれがよく話していたひと。さっき鏡で自分の顔を眺めていたと思ったら、今は爪研《つめと》ぎよ。さすがにマニキュアは匂《にお》いがするから塗り重ねないけど〉
舞子は上役たちもじっくり観察して、明生とひそひそ話をする。
〈サラ金から電話がかかってきたら、居ないことにしてくれと言っているあの係長。競馬にのめり込んで借金だらけなの。次のボーナス分も含めて、うちの会社に六百万円近い借金があるのじゃないかしら。その他、電話が頻繁にかかってくるサラ金も二、三ヵ所あるから、全体の借金はそうね、二千万近いのじゃないかって、課長たちは噂《うわさ》をしている〉
〈そんな風には見えないって。そうね、外見だけで人は分からないっていう見本かもしれない。口はうまいし、愛嬌《あいきよう》もいい。太っ腹なところを見せるために、時々、昼御飯も四、五人分おごってやる。でもね、ひとりでいるときの顔って、ぞっとするくらい暗いの。あるとき、彼が駅に向かって歩いているのを反対側の歩道から見たことがあるわ。声をかけることもできなかった。野良犬を思い出しちゃった。どこにも食べ物が見つからずに、首をうなだれて道を辿っている痩《や》せ犬〉
〈課長は社長に忠告しているらしいわ。このままでいると、いつか会社の金をごっそり使い込むかもしれない。どうにかするなら今ですと何度か言ったそうだけど、人が良いのか、ケチなのか、社長はなかなか決断がつかない。それも会社に借金があるからなの。クビにしてしまえば、その借金がフイになる恐れがある。雇っていれば、ボーナス毎に少しずつ返済されるからなの。でもね。またいつか、どさっと借金して、会社への負債も増えていくわ、きっと〉
〈コピーを何十枚か頼まれたときなど、やりかけの仕事があっても今はすぐに席を立つの。椅子から離れて、何歩か移動するのだって、良い運動になる。いつか明生が教えてくれたわね。坐《すわ》り続けるよりも、カロリーを消費する機会を与えてくれたのだから、むしろ感謝しないといけないって〉
〈部長からタバコを切らした、すまない買って来てくれないか、と言われても、嫌な顔をしなくてすむ。少なくとも三階の階段を登り降りしなくてはいけないし、自動販売機まで五十メートルは歩く。これだっていい運動だし、気分転換になるわ〉
明生の言ったことが、この頃になってようやく分かるようになった。聞き流していたことが、次々と蘇《よみがえ》ってくる。明生の言葉が脳のどこかに残っていて、芽が出るように今になって意識にのぼってくる。
昼休みになると、外勤の人は別にして、内勤者も、たいてい外に出ていく。弁当持参の五十万婆さんと舞子だけが、その場に残ることが多い。
弁当も、明生が好きな物を入れるようにしている。明生と知り合ってから、弁当を作ってやったのはたったの三度。レンタカーでドライブしたとき、舞子が弁当をこしらえた。難しい海苔巻《のりまき》よりは稲荷《いなり》ずしが好きなので内心ほっとした。お握りは、中にこんぶの佃煮《つくだに》を入れ、海苔で包むのを好んだ。これも大して手がかからない。おかずは、ウィンナー、トリの唐揚げ、卵焼き。ピンク色のカマボコには切り目を入れて、ワサビを少しだけ挟み込んだ。
明生が思いがけず喜んだのは、花見に行ったときだ。シートとポータブルのガスコンロは明生が持って来た。それらを大きな紙袋に入れ、さらにフライパンも持たせた。これでは花見ではなくて、貧乏人の家出のよう。ない荷物は布団だけじゃないかなと、明生は笑った。舞子は舞子のほうで、かなり重いバスケットを運んだ。
小高い丘は一面が桜の木で覆われていて、電球を連ねた照明が、樹木を結びつけるようにして帯状になっている。平たい場所はもう花見の一団が占拠するか、青いシートが敷いてあるかで、舞子たちが腰をおろしたのは、小さな桜の傍の、少し斜めになった場所だった。
「大丈夫よ、ワインとコンロを立てる所だけ水平なら」
坐りにくくてごめんという明生を舞子は慰め、てきぱきとバスケットの中味をとり出していく。
十メートルばかり離れた所にいる一団は、二十人ほどの男女混合で、真中に炭火焼きのセットを置き、あとは買って来た弁当と一リットル入りのビール数本で賑《にぎ》わっている。
一段上の平地にも別な団体が陣取り、こちらは子供もいて、どうやら親戚《しんせき》同士か、隣組が誘いあって来ている様子だ。コンロなどはなく、それぞれが自作の弁当を持ち寄り、ビールや清酒、ジュースなど、入り乱れて飲み合い、子供は大人たちの間をぬってはしゃぎ回っている。
コンロに火をつけ、フライパンを置く。バターをひく。その間に、明生が赤ワインを開ける。上等のものではなく、安売り酒屋の店先にあった一本四百八十円の代物だ。
熱くなったフライパンの中に、アサリを入れる。泥抜きは充分にすませていた。
「うまそうだ」
明生が唾《つば》を呑《の》みこみながら言う。焼鳥屋にはいって明生が必ず頼む料理が、湯豆腐とアサリのバター焼き、そして少し懐に余裕があれば、最初にナマコの酢の物だった。
「はい次はワイン」
舞子の指示で、明生がワインをアサリの上にふりかけ、さらに刻んだネギとタマネギも入れて、蓋《ふた》をする。
「用意万端だね」
明生が感心する。明生を驚かすつもりで、バスケットの中味は秘密にしていた。
「お弁当もどうぞ」
重箱二つをシートの上に並べる。卵焼き、ウィンナー、手羽先の唐揚げ、ワサビ入りのカマボコ、キュウリ入りチクワ、小さな赤カブ、枝豆と、色合も美しく詰め込んでいた。
「乾杯」
明生がついでくれたコップを当てあって、ぐっとワインをひと呑みする。チクワを頬《ほお》ばって桜を眺める。頭上にも桜、下の方の広場にも桜だ。
横にいた会社のグループがこちらを時々眺めているのに気がつく。どうやらコンロとフライパンがもの珍しいようだ。
「できたわよ」
舞子は陽気に言い、蓋を取る。バターとネギの匂いが食欲をそそる。口を開いたアサリは、大きな身をさらけ出している。小さな貝ジャクシで、紙皿につぎ分けた。
おいしそう、来年からわたしたちもあれにしない?
そんな声が舞子の耳にはいる。彼女たちにも分けてあげたいが、明生の食べっぷりを見ていると、ひとりで全部たいらげる勢いだ。
「桜にアサリとはね。そしてワイン。実にいい」
明生は手づかみでアサリを口に入れては殻を出し、ワインを傾ける。桜など後回しでもよさそうな目をしている。
ペーパータオルでフライパンを拭《ふ》き上げて、またバターをおとす。
「まだあるの?」
「あるのよ。今夜は焼鳥屋の出張なんだから」
舞子は店主よろしくまたワインをひと呑みして、フライパンの中にエビとイカを入れる。塩|胡椒《こしよう》をふりかけて蓋をする。こんなのは料理というほどのものではないのに、会社員の一団は男性までも、次は何が出てくるかうかがうような視線を投げかける。
イカだけを先に出して、また別の紙皿に盛る。
「うまい」
明生が舌鼓《したつづみ》を打つ。「小さい時から、夜店のイカ焼きを食べたくてね。でも、一度冷凍してあるところを見て不潔な気がして、買う気がしない。これは舞子の手料理だから心配ない」
「さあ、どうだか」
舞子は自分もイカをかじってみる。大丈夫だ。固くなってはいない。
「これなら白ワインが良かったかな。ぐっと冷やしたのを」
「桜にはやっぱりレッドワインよ。白は寂しい」
舞子はグラスのワインと桜の色を比べてみる。紙コップではなくて、わざわざワイングラスを持参した甲斐《かい》があった。
エビは殻を手でむかねばならない。おしぼりはビニール袋に入れて持ってきている。明生に渡すと、「用意周到、完全武装だ」とあきれ返る。
本当はいつも何か忘れる性質なのだが、花見の日取りが決まってから、頭のなかで予行練習をし、必要なものはその都度メモしておいたのだ。
下の広場ではカラオケが始まっている。周囲に配慮してか、音量はそこそこに絞っているのでさして喧《やかま》しくはない。額の禿《は》げ上がった男性が古い演歌を歌っている。
ワインが身体全体にいき渡って、良い気分になる。明かりに照らし出された桜がきれいだ。時折ヒラヒラと花びらが落ちてくる。
「満開の寸前だね」
あらかた食べ終えた明生が言った。アサリもエビもなくなり、皿にはイカが少し残っているだけだ。
「来年も来れるかしら」
舞子は思わず口にする。明生と桜、そしておいしい弁当、あとは少しのワイン。一年に一度それさえあれば、あとの日々がどんなに辛《つら》くっても、幸せな一年になる。
「来れるよ。来年もさ来年も、十年後だって、二十年後だって」
二本目のワインを真剣な手つきで開けながら明生が答える。
二十年後といえば、もうおばさんだ。三十年後になれば、おばあさんの入口に立っている。
「でも、場所は変わるかもしれないな。奈良や東京、あるいは仙台になるかも」
「場所は違ってもいい。桜の季節になったら、毎年、出かけましょう。ね」
「いいよ」
明生とまたグラスをつき合わせる。誕生日の祝いよりも、桜の祝いのほうがいい。齢を数えなくていい分、気楽だ。
そうだ、今夜桜見に行ってみよう。明生も来るだろう。舞子は身仕度をしてアパートを出る。
地下街のワイン店でシャンパンを一本買った。シャンパングラスは二個、ハンドバッグに忍ばせていた。デパートの地下食品売場で、ブリチーズを買う。
足は市内電車の方に向いていた。五時過ぎだが土曜日なので、電車は混んでいない。
終点の蛾眉《がび》山下で降りた。乗客は大半が花見に行くらしく、参道に人の列ができていた。門前の店はまだ閉まっていない。
参道奥の石段は照明がつけられ、あたかも天に登っていく階段のようだ。舞子はシャンパンを揺らさないように、胸元にかかえこむ。
石段を登りつめると、庭もライトアップされていた。夜に訪れるのは初めてで、どこか勝手が違う。空中庭園を歩くような感じがした。
桜が植えられているのは西側のゆるやかな斜面で、人もそこに群れている。
境内なので禁じられているのか、カラオケの音も響かず、人混みの割には静かだ。適当な間隔でビニールを敷き、持参の弁当を広げている。
人ひとり坐れる石が空いていた。舞子はそこにハンカチを敷いて腰をおろす。明生から教えられた通り、しばらくシャンパンの瓶は立てておく。いつか明生は、栓を抜いたシャンパンの瓶をテーブルの上に置き、ナイフの先でコンコンと瓶の腹を叩《たた》いて見せた。音がするたびに、細かい泡がどこからともなく生じて上に昇っていき、まるで手品のようだった。
芝生の上に陣取った花見客が不思議そうにこちらを見る。シャンパンが珍しいのだろうか。
チーズはもう一枚のハンカチにのせ、膝《ひざ》の上に置く。シャンパンの栓の抜き方も明生流だ。針金をほどき、左手で栓全体を包み込むようにし、右手で瓶の底をがっちりつかむ。左手は固定し、右手でつかんだ瓶を静かに回転させるのだ。コルクが指一本の幅だけ抜けたあと、今度は左手だけを使う。こねているうちに、内部の圧力でコルクがもち上がり、ほんの小さな音をたてて抜ける。そのあとも瓶を動かしてはいけない。斜めにしたまましばらく待つと、泡が溢《あふ》れ出るようなことにはならない。
「ほら、あなたが言った通りにできたわ」
舞子はシャンパングラスを傾けて、静かにつぐ。グラスの底から、小さな泡が浮き上がる。
それを眺めるのが好きだ。シャンパンをすぐ飲むなんて、もったいない。琥珀《こはく》色の液体の中から際限なく生まれ出てくる泡。まるで深海の泡を瓶の中に封じ込めていたようだろう? じっと眺めていると、不思議な気持になる。──明生は言った。
舞子もグラスを目の高さにもち上げて、泡の動きをみつめる。
「じゃ、乾杯」
グラスをかかげて、唇にもっていく。
眼を上げると、前方の山肌に滝が見えた。白い帯を垂らしたように、イリュミネーションに照らし出されている。昼間は山肌の奥に隠されていたのが、今は桜とともに山の主役になっている。耳を澄ますと、滝の音がかすかに聞き分けられた。
夜の滝をこうやって明生と二人で見るのは初めてだ。花見客も、滝を眺めやった目で、頭上の桜を静かに鑑賞する。
チーズをナイフで薄く切り分け、口に入れる。シャンパンのかすかな刺激を、チーズが柔らかく鎮めてくれる。
「明生さん、何か話して」
舞子は言うが、明生は笑っているだけだ。桜を眺め、滝に眼をやる。二人一緒にいればもう何もいらないといった横顔だ。
明生がしゃべってくれなくても幸せだ。話を聞いてくれる明生がいればいいのだ。
ここにあなたと初めて来たとき、滝の傍まで行こうかと誘われたけど、二の足を踏んだ。少し踵《かかと》の高い靴で、スカートだったから、坂を登り下りする自信がなかった。
遠くから眺めて美しく、近寄るとアラが見えてがっかりするものは多いけど、滝は違うとあなたは言った。近くにあると思った滝は、山の中にはいってしまうと、なかなかすぐには行きつけない。目を遮る杉林にはいり、岩のころがる地面を這《は》いつくばりながら歩き続ける。滝の音は少しずつ大きくなってくるのに、姿はまだ見えない。
林をぬけ切った瞬間、轟音《ごうおん》とともに目の前が開ける。眼を上げると頭上はるか上まで水の柱だ。もう少し近づく。水しぶきがかかり、風の具合で虹《にじ》ができる。音には全くリズムがない。棒のようにまっすぐな音だ。落ちる水にもリズムがない。全く同じ量の水がのべつまくなしに落下してくる。
たぶん、そのリズムのなさに、見る者は圧倒されるのだろう。あなたはそう言った。
切れめのない水、切れめのない音が、こうやって百年、千年、いや一万年も前からここにあり続けているのだと思ったとたん、時間が消えてしまう。滝を前にして、昔と今が一枚の紙のようにくっついてしまう。見る者は、時間を奪われたかたちで、滝と対峙《たいじ》するのだとあなたは言った。
だからよけい、行くのがそら恐ろしくなって、そんな重大な体験など、今はしたくない。こうやってあなたと境内を歩くだけで充分、とわたしは答えた。
なぜそんな風に考えたのか、今なら分かる。明生と一緒にいるのに、時間が消えてしまうなんて、そんなもったいないことに耐えられなかった。時間が、棒みたいになることが嫌だった。
でも、今度はあなたと一緒に滝の傍まで行ってみよう。一時間でも二時間でも、そこに立ち尽くすわ。水しぶきがかかっても、肩を寄せ合いながら。
「マイコさんではないですか」
後ろから、聞き覚えのある声が言った。
辺留無戸《ヘルムート》が立っていた。作務衣《さむえ》が暗がりに溶けこみ、顔だけが赤く光っている。
「庵《いおり》にはいって、お茶でもいかがです」
笑った眼が、舞子の前のシャンパンの空瓶に行き、また舞子の顔に戻る。酔ったのが判ったかなと舞子は頬《ほお》に手をあてる。熱くなっていた。
立ち上がるとき、足がふらついたが、そのあとは大丈夫だ。シャンパングラスを持ち出したりして、大がかりな花見なのに、辺留無戸は何も言わずに、片付けるのを手伝ってくれる。
「ちょうど良かった。今夜は大事な話があるのです」
辺留無戸が押し殺した声で言った。
折戸からはいり、石庭に面した座敷に坐《すわ》る。
月の明かりはさして強くないのに、ちりばめられた石が、妙に浮き上がって見えた。石の内部に青白い照明を埋め込んだような光り方だ。
左マンジに箒《ほうき》の目を入れられた砂が波に見えてしまう。
酔っているせいだろうかと舞子が首をかしげたとき辺留無戸が茶を運んできた。
「砂の下から青い照明をあてているのです」
辺留無戸が言った。
「石にも?」
「床の下から、水平にビームを当てています」
ほろ苦い緑茶が、酔いを醒《さ》ましてくれそうな気がした。
「さっき言われたお話とは何でしょう?」
舞子は背筋を伸ばして訊《き》く。
「あの人の子供は欲しくありませんか」
微笑を浮かべる口元とは裏腹に、眼は鋭く舞子をとらえていた。
あの人が誰を指しているかは分かった。子供というのは、自分と明生の赤ん坊のことなのだ。
「欲しいです」
つい先刻までは、そんなことは考えてもみなかった。ありえないことだと思っていたのだ。
「欲しいでしょうね。さっき二人の姿を見ていてそう思いました」
「見ていたのですか」
辺留無戸は頷《うなず》く。今度は目も笑っている。
「彼も喜びますよ、きっと」
辺留無戸は茶碗《ちやわん》を手にとり、ゆっくりひと口飲んでから、視線を石庭に向けた。