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受精06

时间: 2020-09-30    进入日语论坛
核心提示:6 ロスアンジェルスでの給油には一時間半かかると機内アナウンスが言った。 夕食をとったあと眠ってしまった。前後不覚の眠り
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 ロスアンジェルスでの給油には一時間半かかると機内アナウンスが言った。
 夕食をとったあと眠ってしまった。前後不覚の眠りで、寛順から起こされたときには、自分がどこにいるのか一瞬判らなかった。
「舞子さん、朝食です」
 寛順が言った。慌てて腕時計を見ると、四時間ばかり寝た計算だった。
「もう朝食ですか」
 舞子は驚いて周囲を見渡す。ホステスがワゴンの上にミルクやジュースの類《たぐい》をのせて、給仕していた。
 オレンジジュースを貰《もら》ったとき、朝食には何が良いか、英語で訊《き》かれた。オムレツという単語だけが耳にはいったので、同じ単語を口にした。
 寛順の前に運ばれてきたのはミルクと粥《かゆ》だ。
「朝の粥はお腹にたまらないのよ」
 と言い、食後の飲み物にも人参茶を選んだ。
「ひと口飲んでみますか」
 舞子は寛順から勧められて口にもっていく。香りも味も独特で、いっぺんに眠気が醒《さ》めた気になった。以前、会社の同僚が韓国旅行の土産に人参ゼリーを買って来たが、それと同じ味だ。あのゼリーも小さな消しゴムくらいの大きさだったのに、身体が火照《ほて》り、夜も眠れなくなったのを覚えている。
 トランジットの待合室は、一般客とは別の一室が用意されていた。
 二人のいるところから三、四メートル離れたソファーには、飛行機のプレスティージ・クラスで一緒だった白髪の老紳士が坐っていた。雑誌から顔を上げたとき舞子と眼が合ったが、さり気なくスクリーンの方に顔の向きを変えた。
 化粧室に立ち、戻って来ると、寛順がコーヒーをついで待っていた。
「舞子さんは、砂糖もミルクも全部入れるのよね。わたしは半分ずつ」
 機内で観察していたのだろう、寛順が言った。
 舞子はスティックシュガーにしろ、容器入りのミルクにしろ、残すのがもったいない気がする。小さな容器を振って、中のミルクを全部出し切り、あきれられたこともあるほどだ。だから、努力しても体重が減らないのかもしれない。
 窓ガラス越しに、空港一階のロビーが見える。カートを引いて移動する女性客や、アタッシェケースを下げたビジネスマン、ただそこにたむろしているだけの黒人青年などを眺めていると、はるばる来たような、それでいてここが合衆国だとは実感できない妙な気分にかられる。
「ところで舞子さん、ブラジルのどこに行くの」
 同じように窓の向こうを眺めていた寛順が訊いた。
「サルヴァドールという所。サンパウロからまた飛行機を乗り換えなければならないそうなの」
「それは病院?」
「そうなの」
「じゃ、わたしと同じよ」
 寛順が声をあげる。「あなたがブラジルへひとりで行くと言ったから、もしかしたらと思ったの。良かった」
 安堵《あんど》したのはこちらだと舞子は思う。辺留無戸は韓国から同行する女性がいると言ったが、それが寛順だったのだ。彼女が一緒なら、どんなことがあっても恐くない。
「あなたが行ったのは、やっぱり禅寺?」
 舞子は訊いた。
「そう。順天から山の方にはいったところ。小さいけど、由緒のあるお寺」
 寛順は穏やかな横顔をみせながら答える。
「何度も通ったのね」
 舞子は確かめる。
「初めは死ぬつもりだったから、そこのお寺の上の方にある湖に行ったの。水にはいる覚悟はできていたわ。ちょうど四月だったかしら。松林の緑が目にしみて、湖の水は真青なの。たぶん、水の成分のせいね。一時間くらい岸辺にしゃがんで、これから水にはいろうというときに、後ろから呼びとめられた。頭を剃《そ》った白人の老僧で、お嬢さん、死ぬ前にそのわけを聞かせてくれないか、と言われた」
 寛順は当時を思い起こすように、ガラスの向こうの人混みをぼんやり眺めやる。
 ひょっとしたら、寛順の恋人は同郷の青年ではないのかと、舞子は思う。寛順がブランコに乗るのを遠くから見ていた少年、長じてからは、ブランコの傍の木陰で彼女と語らった青年ではなかったか。
 室内にアナウンスが始まる。サンパウロという地名だけが耳に聞きとれた。寛順が自分の搭乗券を取り出して確認する。
「舞子さん、わたしたちの飛行機よ。でも急がなくていい。早く行っても混んでいるだけ」
 寛順は落ちつきはらってコーヒーを口にもっていく。
「つらかったのね」
 何気なく呟《つぶや》いていた。どうして分かるのかと言うように寛順が顔を向ける。
「分かる。わたしもあなたと同じだから」
 言ったとき、舞子はほっとした気持になる。本来ならこんな話題になれば、また涙が出てくるものなのに、今は違う。微笑さえ口元に浮かべることができるのだ。
「そう。わたしたちって、思いも同じなのね。双生児のようなものかもしれないわ」
 寛順がどこか納得したように言った。
 二人並んで部屋を出る。搭乗口にはほんの数人しか残っていなかった。
「わたしが好きな人は金東振《キムドンジン》と言うの。ほらさっき話した村に生まれて、ずっとそこに住んでいた。長男だから、農業を継がなくてはいけなくて、高校にも行ったけど、お父さんが病気で入院してからは、学校もやめたの」
 寛順の恋人なら、訊かなくても想像がつく。たぶん明生と違ってがっしりとした野性的な男性だ。陽焼けした顔に、白い歯が光るような。
 機内のホステスが入れ替わっていた。ブラジル人も二人いて、韓国人ホステスがとりすましているのに比べ、愛嬌《あいきよう》がいい。アナウンスから日本語が消え、英語と韓国語、ポルトガル語だけになっている。
「高校を卒業したあと、わたしは釜山の旅行専門の学校に行ったから、会うのは月に一回くらいだったの。楽しみだった。彼には妹さんがひとりいて、わたしよりは三つ年下で、姉さんのように慕ってくれた。田植えや稲刈りのときは手伝うようになったわ。今までしたこともなかったので、最初は足手まとい。手取り足取り教えてもらい、学校を卒業する頃には、田植えも稲刈りもできるようになった」
「すごい」
 舞子は心底びっくりする。田植えも稲刈りも、人力でするのは古い写真でしか見たことがない。しかも、すれ違う男性が全員振り返るような美人の寛順が田んぼで働くなど、想像だにしにくい。
「すごくはないの」
「でも、泥ばかりの田んぼにはいるのでしょう」
「それはそう。膝下《ひざした》まで足が埋まる。でもね、一列植え終えたあとで、ふと顔を上げると、昔ながらの石の城壁に囲まれた村が見えるの。何だか自分が中世の女性になったような気がして、幸せな気分になるの」
 メニューを持ってきたホステスに、寛順は韓国語で礼を言い、続ける。「バスも自動車も、電気もない当時の生活は確かに不便。でもね、時間に追われる釜山の生活では味わえない、人間らしい営みがあったと思うの」
「分かる」
 舞子は頷《うなず》く。もう夕食なのか、ホステスが注文を訊く。メニューには英語とハングルでしか書いていない。
「わたしは寛順さんと同じでいい」
「じゃ、アペリティフもわたしと同じシャンパン」
 ホステスが運んできたシャンパンで寛順と乾杯する。
「さっきの話、もっと続けさせて」
「どうぞ、どうぞ」
「こんなこと、今まで誰にも話したことないの」
 寛順の日本語は旅行専門学校仕込みなのだろう。ほぼ完璧《かんぺき》だ。
「田植えが終わると、東振の一家三人と連れ立って、田んぼ道を村の門の方に向かうの。夕陽に古い門が輝いて、城壁も橙色《だいだいいろ》に染まって、またそこでも自分が十七世紀の村人になった気持にさせられる。門の上は楼閣なの。城壁も、幅が二メートルから三メートルはある。昔の兵士はその上を巡回していたのでしょうね。今は、白いパジ・チョゴリを着た村のお年寄りが寄り集まってキセルでタバコをすっている。それが下の道から見えてね。お爺《じい》さんたちも『親孝行の東振が帰ってきた』と言って、手をあげてくれる」
「もう日本では見られない風景よ」
 寛順は言わないが、そのとき、村の長老たちは寛順の方も見やって、似合いの二人だと思ったに違いない。
「門をはいると道が狭くなって、両側は野菜畑。大根や豆やホーレン草が植えられて、庭にはニワトリが放し飼い。家は昔ながらの藁葺《わらぶき》に土壁でしょう。足を洗って、お風呂《ふろ》を沸かし、その間にわたしたちは夕食の用意をする。もう東振のお母さんも妹も、わたしをお客さん扱いにはしない。そのほうが嬉《うれ》しいの。
 夕食といってもそんなにごちそうではないわ。豆腐のはいったお味噌汁《みそしる》にキムチが三、四種類、それにもやし入りのスープがつくくらいの質素なもの」
「質素じゃないわ」
 韓国料理は知らないが、キムチが三つも四つもあると聞いただけで、舞子は豪華なテーブルに思えてくる。
「一緒に食べて、そのあと彼が家まで送ってくれて。両親も、彼のことは公認だったの」
 ホステスが機内食を運んでくる。最初はマッシュルームのグラタンとサラダだ。野菜サラダに添えられたアンチョビの塩味がおいしい。
「秋になると、今度は稲刈り」
「寛順さんの稲刈りなんて、ピンとこない」
「本当にこの手で稲刈りしたのよ」
 寛順がフォークを持つ手を放して、自分の目の前にかざす。とても農婦の手には見えない。
「稲刈りが終わる頃にはカサカサになるでしょう?」
「お湯につけたらしみるくらい。でも、クリームをたっぷりすり込んでおけば、一、二週間で元通りになる。辛《つら》いのは腰のほうかしら。それと陽焼け」
「陽焼け止めクリームは?」
「それはもう必需品、それに幅広の麦藁《むぎわら》帽子に白いタオルで、素肌を全部隠すの。彼がわたしの恰好《かつこう》を見て、今年も北朝鮮の秘密部隊だねと冷やかすの。わたしだって初めの頃は陽焼けなんて、あまり気にしなかった。でもね、年毎に重装備になっていったの」
 それはそうだ。ハイティーンの頃は、海水浴でも大いに肌を焼いたものだ。明生と知り合ってから、褐色の肌とは縁がなくなった。肌に残った水着の跡が冬になっても消えないのを知り、こういう事が重なれば、ひと夏毎に黒くなるのではと心配になった。
「でもね、舞子さんも分かると思うけど、田植えにしろ、稲刈りにしろ、楽しいのは彼と一緒にいられることだったの」
「きっとそう」
 舞子は頷く。明生と一緒に働く機会はなかった。会社勤めをしていたとき、この職場に明生がいたらどんなに良かろうかと思った。同じフロア、あるいは同じビルにはいっている会社でもいい。そうすれば、朝の出勤時や昼休みに顔を合わせる機会も増える。働くのだって楽しみになったはずだ。
「彼って、破れた麦藁帽子をかぶり、シャツ一枚にジーンズなの。時々立ち上がって、わたしのほうに声をかけてくれる。真黒に焼けた顔に汗が玉のように光って、白い歯が見える。疲れもいっぺんに吹きとんだわ」
 メインディッシュはチキンで、ピーナッツを使ったソースがかけてある。まあまあの味だ。寛順がホステスを呼びとめて、二人のグラスにシャンパンをつぎ足させた。
「田んぼや畑で働くのが、デート代わりだったのね」
「本当にそうなの。今から考えると不思議。彼が釜山まで来ることもなかった。来てもたぶん気に入らないだろうと思って、誘いもしなかった。彼が釜山の地下鉄に乗り、繁華街を歩く姿など想像できなかったから」
「じゃ、寛順さんも、いずれはその村に帰る心づもりだったのね」
「農家の手伝いに慣れてくるにつれて、抵抗はなくなったの。釜山の生活が却ってシャボン玉のように感じられた。田舎ではお化粧も着飾ることもできないけど、太陽があって、風があって、植物があって、動物や昆虫もいる。小さい頃、ブランコに揺られながら、自分は将来をどう考えていたのかなって、思い返してみたの。そうすると、決して都会の生活を夢みていたのではないのね。友達は、デザイナーやエアーホステス、デパートの店員など、いろんな希望をもっているようだったけど、わたしはどこか違った。一度は都会に出るかもしれないけど、どうせ最後はこの土地に戻ってくる気がしていたの。
 街で子供を育てている自分の姿など、思い描くことはできないのに、あの村で子供と一緒に遊んでいる光景は浮かんでくる。畦道《あぜみち》でセリを摘んだり、ブランコに乗せたり、稲を刈ったあとの田んぼでかけっこをしたり」
 寛順はしみじみとした口調になっていた。
 舞子は自分が子育てをしている姿など、これまで考えてもみなかったことに気づく。あくまでも明生と二人だけの生活を夢みて、赤ん坊など二人の間には介在しなかったのだ。
 しかし今はどこか寛順に似た心境になっている。少なくとも街中では子供を育てたくない。少し足を延ばせば野原があり、水鳥の憩う水辺があるような所で暮らしてみたい。
「時々そうやって田舎に帰るのが楽しみで、釜山での仕事も続けられたの。街での生活に未練がなくなってきたのが、二十四歳のときだったかしら。韓国では、女性が二十五歳になっても独身だと、周囲からいろいろ言われるのよ。日本でもそう?」
「韓国ほどではないけど、家族は心配する。当の本人は平気でいても」
「そんなとき彼が、そろそろ釜山から帰ってきたらどうかと言ってくれたの。嬉しかったわ」
「プロポーズね」
「そう。とうとう彼のもとで一生暮らせるのだと思った」
「好きな故郷に両足をどっかりおろして」
「決して生活は豊かではないけど、食べ物は自分たちで作る。彼と一緒にいることが、豊かさといえば豊かさ」
「そうだわ、本当に」
 寛順が口にした言葉に舞子は感じ入る。欲しい物に囲まれての生活が豊かなのではなく、最愛の人と共に暮らせることこそが豊かさなのではないか。
「彼の両親も、わたしの両親も賛成してくれたの。彼のお母さんは心臓の持病があって、元気なうちに安心させておきたいという彼の考えも働いたのね。日取りを決めるまで、すんなり進んだ。わたしも勤め先の観光会社に辞表を出して、故郷に帰った。式の二週間前だったかしら。どうせ彼の家に住むのだから、大きな家財道具なんか必要でない。小さな化粧ダンスと鏡台を用意するだけでよかった。
 式はもちろん古いしきたりにのっとってやることに決まった。宮殿の部屋を使って式を挙げ、その前庭で明け方まで飲んで唄《うた》っての式よ。雨が降ったらテントを張ればすむことだし。村の人総出で、それも伝統|衣裳《いしよう》に身を包むから、地元のテレビ局も取材を村長に申し込みに来たくらい。村でそんな結婚式を挙げるのは数年ぶりとかで、みんな楽しみで張り切っていたわ」
 寛順はそこまで言って、急に黙り込む。
 食事は終わっていた。前の方の乗客のなかには早々に座席をリクライニングにして眠り始めている者もいる。
 舞子は何も言わずに待つ。不幸は結婚式のあとに起こったのだろうか。
「結婚式の前の日は雨だったわ。でも次の日は晴れるという天気予報だったから、みんな安心していた。結婚衣裳を頼んでいる家が隣村にあったの。もう六十近い縫い子さんだけど、腕が良くて、その付近の村で行われる式の服は、彼女が一手に引き受けているくらいなのよ。彼もパジ・チョゴリ、わたしもチマ・チョゴリを注文しておいた。それを彼が自転車でとりに行ってくれたのね。レインコートを着て、荷台には衣裳が濡《ぬ》れないように何重ものビニール袋をくくりつけてね」
 翌日結婚を控えた寛順の許婚者《いいなずけ》にとって、多少の雨なんか苦にもならなかったろう。いやむしろ、雨から晴天への転換こそ、二人の未来を祝福するようにも感じられるものだ。斜めに降りそそぐ雨の中を、力強くペダルを踏んで行く彼の姿は、思い浮かべるだけで胸が詰まる。
「あの人、暗くなる前には衣裳を届けるからと言っていたので、わたしは待っていたの。ところが夕食を終えても、彼は来ない。雨だから、ひょっとしたら明日の朝に延期したのか、いやそれなら電話してくるはずだと思っていた」
 寛順は苦しげに言葉を継ぐ。「電話が鳴ったのは七時半頃だったかしら。母が出て、そのまま倒れるように椅子《いす》に腰をおろしたの。びっくりした父が、代わりに受話器を耳にあてた。低い声で、分かりました、順天《スンチヨン》の羅州《ラジユ》病院ですね、といって受話器を置いたの。その瞬間、わたしはすべてを覚ったような気がしたわ。父が途切れ途切れに、東振が事故に遭って病院に運び込まれた、今から行くが、ついてくるか、と訊いた──」
 何というむごい仕打ちなのか。舞子は息を呑《の》み、寛順の青白い横顔を見つめる。
「電話をかけてくれたのは、彼の妹だったの。病院は車で三十分くらいのところにあって、父は車の中でも、あの病院は腕の良い医者が揃《そろ》っているので心配はいらないと励ましてくれた。病院に着くと集中治療室に案内された。気を確かに持たないといけないと、それだけを自分に言いきかせて、彼のベッドに近づいたの。頭を包帯で巻かれた彼がベッドに横たわっていて、わたしが傍に寄ったとき、彼のお母さんが、『ほら寛順さんが来てくれたよ』と耳元で叫んだの。その瞬間、彼は目を少し見開くようにして、大きな息をひとつしたわ。でもそれから胸がぴくりとも動かなくなって、お医者さんが人工呼吸器を取りつけた。わたしは、これで昨日までの幸せはもう終わりなんだと思った。
 それから隣の部屋に呼ばれて、主治医が頭の写真を壁にかけて、説明を始めた。もう脳全体が壊れて手術もできない、人工呼吸器をはずせばいずれは呼吸も停まる、と言ったの」
 舞子は明生の交通事故を想像する。あのときも、明生と一緒に自分も死んだのだと思った。
「父は悲しむ代わりに、一体誰が許婚者をこんな身体《からだ》にしたのだと、控え室にいた警官に問い詰めたわ。トラックが自転車をはねるのを遠くから見ていた通行人はいたらしい。でもトラックはそのまま無灯火で走り去って、あとになって警察が検問を敷いたときには、姿をどこかに隠してしまっていた。
 自転車はアメ細工のように曲がっていて、荷台の衣裳だけがビニールに包まれて、泥ひとつついていなかった」
「そんな──」
 舞子は絶句する。神の手はどこまで残酷な仕打ちをすればいいのか。寛順と許婚者が神に対して、どんな暴虐を働いたというのか。
「彼の胸だけは規則正しく上下していたわ。手も足も触れると温かい。彼のお母さんが、『東振、起きなさい。ほら寛順だよ』と泣きじゃくりながら呼びかけた。わたしも思わず彼の胸を揺すった。あんなに陽焼けして逞《たくま》しい胸も、なんだか脱け殻のようで、自分の力では動かないの。『お兄ちゃん、家に帰ろう』と叫んでいる彼の妹の声を聞きながら、わたしは、もし東振が明日まで生きていたら、予定通り結婚式をしようと決心した。婚礼衣裳が汚れもせずに残ったのは、彼の思いが神様に通じたのだという気がしたの」
「神様?」
 そんな不幸のどん底に突き落とされたときにも、寛順はまだ神様を信じていたのだろうか。
「わたしはキリスト教徒でもないし、仏教徒でもない。でもね、そう思ったの。わたしの両親も彼の母も納得してくれて、翌日、彼に真新しい青色のチョゴリと白のパジを着せてやった。わたしも薄桃色のチマと草色と赤のチョゴリを身につけた。村から長老がひとり来て、集中治療室の中で、結婚式を挙げたの。みんな泣いていたわ。父も母も、彼の母も妹も、村の長老も、遠くから眺めていたお医者さんも看護婦も涙を流していた。わたしはしっかり歯をくいしばって泣かなかった。だって、彼が泣いていないのにわたしが悲しむわけにはいかない。頭は包帯で巻かれ、口には人工呼吸器がつながれていたけど、彼の顔はずっと安らかだった。のぞき込むと、微笑《ほほえ》んでいるようにさえ見えた」
「彼も分かったのでしょうね、きっと」
 舞子の言葉に寛順は静かに頷く。
「式を挙げたあと、主治医の先生から呼ばれたわ。脳波をとってみたら、もう脳は活動していない、いわば脳死の状態になってしまったと言うの」
「脳死?」
 これまで新聞や雑誌で読んだ言葉ではあったが、目の前の生きた人間の口から聞いたのは初めてだ。舞子は寛順の整った口元を見つめる。
「それでわたし、どうしたらいいのか、主治医に尋ねた。すると、配偶者はあなたなのだから、どうするかはあなたが決めるのですと、言われた」
「人工呼吸器をはずせば、そのまま呼吸は停止するのね」
 舞子の声は掠《かす》れた。
「わたしは彼のお母さんにも相談した。機械で胸が膨らんでいる息子を見るのは辛《つら》い、とお母さんが言ったとき、もう決心したの。午前中に結婚式を挙げて、夕方には彼の呼吸は停まった。青い婚礼衣裳のままお棺に入れてあげた。故郷の家で一晩お通夜をした。本当ならその夜は、村の館の中庭で夜通しの宴会が続くはずだったのに、静かな悲しい夜になってしまった。わたしは結婚衣裳を喪服に着替える気にはならなかった。お棺の中の彼が婚礼の服を着ているのに、わたしが喪服なんか着られない。
 翌日の葬式のとき、空は予報通り真青に晴れ上がっていたわ。お棺の傍を歩きながら、わたしは空を見上げて、彼が身につけている衣裳とちょうど同じ青さだと思った。わたしが婚礼の衣裳を着ていたせいで、村の人もみんな結婚式用の衣裳を着てくれていたの。あの村ができて三百年か四百年になるかもしれないけど、結婚式の行列のまま、お墓のある山所《サンソ》に行ったのは初めてだったと思うわ」
 辛そうに話をしていた寛順の口調が静かになる。何度も何度もその場面を心の内で反芻《はんすう》しているうちに、波打つ情念が凪《な》いで澄んできたのだろう。
「そのときの婚礼衣裳は、トランクの中に入れて持ってきているのよ」
 沈黙のあと、明るい声で寛順が言った。
「そんな悲しみ、よく耐えることができたわね」
 後ろの座席からは軽い寝息が聞こえてくる。室内灯は完全には消えず、スクリーンには、カーチェイスの映画がまだ上映されていた。寛順は声を低めた。
「何週間も自分の部屋から出なかった。母も気を利かして、食事のときだけ呼んでくれた。食事中、両親や妹は何気ない会話を交わしてくれたけど、わたしにはテレビがしゃべっているようだった。食べ終わるとまた部屋に籠《こも》ったわ。時々妹が部屋をのぞきに来たけど、自殺しないかと心配になったのだと思う。
 でもね、人間の悲しみというのは、いつかはほんの少しだけど小さくなる。もちろん消えるものでは決してないけど──」
 舞子は頷く。そう絶対に消えることなんかありえない。しかし、どん底の悲しみは、月日がたつと少しは目減りがして、底上げされるものだ。
「自分が死んでしまえば、彼を覚えている人間がひとり少なくなる。──そう考えることで、死ぬのにブレーキがかかったような気がする。友人が手紙をくれて、早くもとの仕事に復帰するのが一番の健康法よと勧めてくれた。何もしないと、余計暗い穴から出られなくなると言うの。そうかもしれないと思った。でも釜山のあの騒々しさと忙しさを考えると、どうしても足がそちらに向かないの。
 二週間が過ぎ、一ヵ月が過ぎた頃、ふと松湖寺《ソノサ》が頭に蘇《よみがえ》ったの。そこの湖は彼と三回ほど訪れたことがあった。一度は順天までバスで出て、そこからまた一時間バスに揺られて着いたし、あとの二回は、彼が農業用の小型トラックで連れて行ってくれた。
 その湖を見てみたい気がしたの。前に彼と行った通りに、バスで出かけたわ。不思議なものね。ガタガタ揺れるバスの運転手は、村から順天までも、順天から松湖寺までも、二年前と同じ人だった。座席は空いていて、わたしの坐《すわ》っている隣に彼がいないだけ」
 舞子にも身に沁《し》みる辛さだ。あるべきところに彼がいない寂しさ。こんな面白いことがあったのよと、今度彼に会ったら話そうと反射的に考えたあと、不在に気がつくのだ。
「わたしは窓の外を眺めながら、心の内で彼に話しかけていた。田んぼや畑の作物も同じで、遠くの山の形も同じ、この辺の土は赤いので、稲作よりは果樹のほうがいいかもしれないと彼は言っていた。そんなことを思い出しているうちに涙が溢《あふ》れてきたの。窓からはいる風を顔にあてて、そのままにしていたわ」
「そうやって着いたのが、さっき言った湖なのね」
「不思議だったわ」
 寛順は舞子の方を見やる。もう悲しみを振り切った顔だ。
「湖の縁に立ったとき、この水の中にはいっていったら死ねて、彼と会えるのではないかという気がしたの。靴を脱いで立ち上がったとき、後ろから声をかけられたのよ」
「寺のお坊さんね」
 何故かそんな気がした。
「外国|訛《なま》りのある韓国語で、せっかくここまで来たのだから、お堂に詣でてみる気はないかと訊《き》かれた。別に断る理由もなかった。美しい仏様を拝んでから、水の中にはいってもいいのではないかと思ったの」
「どんな仏様だった?」
「そのお寺の敷地は山の南斜面全体に広がっているの。お坊さんが案内してくれたお堂は湖の水が湧《わ》き出ている岩盤の横に建てられていた。八角形のお堂で、中には木造の仏像があったの。それが息を呑《の》むほど美しかったわ」
「どんな形の仏像?」
 舞子は自分が眉山寺《びざんじ》で見た不動明王像を思い浮かべた。雪景色のなかで、仏像の背後にある火焔《かえん》がこの世のものとも思えないくらいに赤かった。
「ロダンの考える人に似た仏像。右手を頬《ほお》に当てて瞑想《めいそう》にふけっている──」
 半跏思惟《はんかしい》像といわれるものかもしれない。舞子も美術の教科書で見たことがある。
「坐った高さが一メートルくらいで、色は塗られていなくて、かすかに木目が浮き出ていた。窓を通してはいってくる湖の光が、仏像の表面に当たって、揺れるのよ。光の揺れ具合で、仏像の表情が変化する。微笑したかと思うと、深く考え込む顔になったり、悲しみの表情になったり。わたしはその前に立ったまま、時のたつのも忘れていた」
 自分が眉山寺の不動明王像の前に立ったときは、内側からつき上げられる衝撃を感じた。消えかけた炎が、新たな風によって力を取り戻し、再び燃え上がるような力だ。寛順は、それとは反対の静謐《せいひつ》な慰めを受けたのだろうか。
「眺めているうちに、悲しみのなかにも安らぎがあるのかもしれないという気がしてきたの。人が生きているというのは、変化のないただ一色に塗りつぶされた時間を過ごすのではない。その時その時、一瞬一瞬を揺らぎながら生きていくのだと思ったわ。死んでしまえば、その揺らぎは消えてしまう。一面の暗黒になってしまう。そう思った瞬間、それまで石のように重かった心が、ふと軽くなった。
 そしたら、後ろにいた老僧が、どうです、気に入られたのだったら、しばらくこの寺のなかで過ごしていかれませんか、と言ったの。びっくりしたわ。長く滞在するつもりでお寺に来たわけではなかったから。老僧は、来るのはいつでもいい、寝泊まりする僧庵《そうあん》は好きなときに使える、家族の人たちとゆっくり話し合って来なさいと言ってくれた」
 スクリーンの画面は飛行場だ。イヤホーンをつけていないので音は全く聞こえないが、四輪駆動のジープに追跡されて、小型乗用車が逃げ回っている。時折、運転席のヒロインの顔が大写しになった。
「いったん家に帰って、一週間ほど松湖寺に行くと両親に告げたときは、尼さんになるのかと驚かれた。でもそうでないと知ったとき、両親はむしろ安心して許してくれた。山寺での合宿に参加するような荷作りをして、父が車で送ってくれた。もちろん山門の下で別れたけど、わたしが暗い顔はしていなかったので、父は何か肩の荷をおろしたような顔をして帰って行ったわ」
 松湖寺での滞在中に、寛順は恋人と再会することができたのだ。
「その僧庵はどんなだった?」
 舞子は自分の場合と比較したくなる。
「僧庵は木造で質素なつくりだったけど、岩屋は不思議な所だった。湖の傍の岩山をくりぬき、天井も床も壁も木で覆ってあったわ。でもそれに青や赤、緑の極彩色がほどこされていた。韓国の寺院はみんなそうなの。そんな色彩の中を突き進むと、瞑想の寝台があった。そこに東振が、青い婚礼衣裳を着て、頭には冠をつけて待っていてくれた。彼の声も聞け、彼の身体にも触れることができたのよ」
 寛順の顔がかすかに赤味を帯びる。潤んだ目で舞子を凝視した。
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