隣の席の寛順はまだ眠っている。光線よけのアイマスクをかぶったまま、背もたれに寄りかかり、二つの唇がわずかに開いている。きれいな寝顔だ。
舞子は左側の窓のブラインドを半分だけ開ける。進行方向の左は東側にあたるはずだ。
地平線が黒く見えていた。その上はほんのりと橙色《だいだいいろ》がかっている。地球の夜明けなのだろう。もしかしたら、アマゾンの上空なのかもしれない。
黒い地平線上の色彩が少しずつ変化する。地平線のすぐ上は、目の覚めるような朱色だ。その上が橙色、さらに茜《あかね》色から黄色、青、群青《ぐんじよう》色という具合に、色が層をなしている。地球の反対側に来たのだという思いがした。
イヤホーンをセットしてみる。打楽器をバックにしたコーラスだ。明るく、踊りたくなるようなリズムで、マリア、マリアと繰り返される。愛する恋人への讃歌《さんか》なのだろうか。
地平線上の色彩がまた変化している。黄色の帯の部分が幅を広げ、やがてその下の橙の帯も次第に膨らみを増してくる。そのあと橙の中央に、筆で横一線で刷《は》いたような赤い線が出現する。太陽ではなかった。
機体の下に、薄く白い雲が張っているのが分かる。雲のさらに下はまだ黒灰色の世界だ。
黒い地平線に凹凸が生じ始めていた。山や谷といった地球そのものの地形だろう。それに呼応するように、黄色の帯の上の青味がかった部分が拡大し、黄と青の境界線が二つに分かれる。
その瞬間、大気が口を開けた恰好《かつこう》になり、太陽の光が射し始める。まだ力のある光ではなく、白と淡色の光だ。いや太陽の周囲にある大気の色彩かもしれない。
地球が大気に包まれている事実を見せつけられる思いがして、舞子の眼は倦《あ》かずに窓の外に釘付《くぎづ》けになる。
橙色の中に埋まっていた朱色の線が消えていくのと同時に、上方の青の帯がせり上がっていき、群青色を呑み込んでしまう。
いま薄い雲の下はただの黒灰色ではなく、確かに大地のひだが見分けられる。
そのときだ。地平線の一点にルビーのように赤くて丸い太陽が姿を現す。
「きれいだわ」
思わず叫んでいた。
「舞子さん、お早う」
寛順がアイマスクをはずしながら言った。
「見て。朝日よ。生まれて初めて、こんな美しい朝日を見るのは」
ブラインドを全部上げて、寛順のために、肩をずらしてやる。
「本当。きれいな赤」
もう一分もたっただろうか。太陽の上半分だけが地平線上に出ている。地上に光を与えるのが太陽の役割だというのが、よく理解できる。さらに二分ほどたったときに、太陽の下限がようやく地平線から離れた。空にはもう群青色がなく、地平線スレスレに存在していた橙色の帯も、薄い黄色に褪色《たいしよく》してしまった。
「こんなにして、毎日太陽が昇るのだとしたら、本当に感動するわ」
寛順が言う。
「わたしたちが知らないだけね。寝坊したり、街中にいたら、地平線なんか見えないし」
「真新しい太陽、そして真新しい地球」
寛順の声がすがすがしく耳に響く。
「あれは川なんだわ」
それまで雲が白く筋状になびいていたと思っていたのは、錯覚だった。網の目のように分かれた川が白く光っている。流れの間を埋めるのは深々とした樹林だ。
「アマゾンの支流だわ、きっと」
寛順が言った。
乗客のほとんどがもう目を覚ましている。
エアホステスが機敏に動いて、朝食を配る準備を始めた。
窓の外はもう暗くない。あれだけ朱色に染まっていた太陽が普通の白さになり、代わりに、川の表面が赤く照らし出されている。
アマゾンの川に棲《す》む魚たち、密林の動物たちに、ちょうど今、朝が訪れているのだ。
川のさざ波、密林の中の鳥や獣《けもの》の鳴き声が聞こえてきそうだ。
「いよいよ南米ね」
クロワッサンを頬《ほお》ばりながら寛順が言う。「こんなところまで来るとは思わなかった。そして舞子さんに会うなんて」
「わたしも同じ気持。でもよかった。寛順さんと一緒で」
ひとりだったら、夜も眠れなかったかもしれない。寛順が隣にいたからこそ、添乗員に守られた気分で、安心できたのだ。
ベーコンエッグにヨーグルト、濃いエスプレッソをとり終えたとき、機内アナウンスがあった。あと一時間でサンパウロ空港に到着するのだと、寛順が訳してくれた。
スクリーンに新しいプログラムが映写されている。隠し撮りの爆笑ものだ。言葉は理解できなくても、おとし所は分かった。
札束を入れたジュラルミンのケースを手押し車に積んで、銀行員が建物から出てくる。路上に停めた現金輪送車に積み込むが、そのうちの一個を道に落としたまま発車してしまう。残ったケースを不思議そうに眺める通行人。誰も持って行こうとしない。そのうち太った女性がそれを抱えて、建物内の銀行に運び入れる。
女性が写真を撮ってくれと言って、カメラを通行人の男性に渡す。女性は建物の前でポーズをとる。男は道路の端からカメラを構える。そこへ大きな看板をかかえた二人のペンキ屋が通りかかり、視野を遮ってしまう。仕方なく男は待つ。看板が行き過ぎたあと、女性も姿を消してしまっている。男は唖然《あぜん》として、手元のカメラを眺める。
乗客からも笑いが起こる。着陸前に笑わせておくのも、緊張をほぐすのには確かに効果的だ。
機体が傾いたとき、ブラジルの大地が眺められた。赤茶けた土地と深緑の森林が混じりあい、白い街が点在している。
機体が態勢をたて直すと、もう何も見えない。ぐんぐん高度が下がる。スクリーンに飛行場が映し出され、赤いランプに向かって近づいていく。
軽い衝撃とともに着陸した瞬間、後方の席で拍手が起こっていた。
滑走路からはずれて機体が滑らかに移動していく。大小の航空機があちこちに散らばっている。機体のマークは馴染《なじ》みのないものばかりだ。
「やっと着いた。まだ先があるけど、ひとまずこれで長旅は終わった」
寛順がほっとした顔を見せた。
舞子にとって寛順は添乗員と同じだ。ぴったりくっついて入国管理の前に並ぶ。係官は何も訊かずにパスポートを返してくれた。
心配になったのは荷物受け取りのときだ。寛順の白い旅行ケースはすぐに吐き出されてきた。その後も次々と荷物が現れ、乗客がそれを持って出ていくのに、舞子の荷物はいくら待っても出て来ない。ホール一杯に溢《あふ》れんばかりだった客も三分の二になり、半分になり、最後には十四、五人に減ってしまった。
「わたしの荷物はソウルで積み残されたのではないかしら」
「大丈夫よ。運悪く奥の方に入れられたのだわ」
寛順は悠然とワゴンに腰をおろした。
ピンクの紐《ひも》を巻きつけた紺色の旅行ケースが、ターンテーブルの上にとび出したのはその直後だ。
ワゴンに二人の荷物を乗せて出口の方に進む。申告する物などなく、検閲もなしに外に出られた。
「あそこよ」
寛順が言う。出迎えの人垣の中程に、厚紙を頭上にかざした黒人青年がいた。アルファベットで寛順と舞子の名前が書かれている。青年のほうでもこちらに気づいたらしく、笑顔で近づき、英語で話しかけた。
舞子は寛順にならい、さし出された青年のぶ厚い手を握った。自分の手が異様に白く見える。
青年はジョアンと名乗った。
「乗り換えのために別の航空会社のカウンターに行くのですって」
寛順が通訳してくれた。
ジョアンが押していくワゴンを追いながら、舞子はごった返す人の波に眼を走らせる。なるほど、ここは異国だ。白人や黒人、その中間の小麦色の肌をした人々、そして東洋人と、さまざまな人種が入り乱れている。
ジョアンは女性の係員のいるカウンターで陽気にしゃべり、二人のパスポートとチケットを提示している。空港使用料を払い、荷物も引き渡すと、戻ってきて英語を口にした。
「一時間ほど時間があるが、どうするかって」
寛順が訊《き》いた。
「喉《のど》が渇いたから、どこかで休まない?」
ジョアンが一緒なら、飲み物を注文するのも簡単だろう。どんな飲料水があるのかも興味があった。
ジョアンは分かったという顔をして歩き出す。滑走路の見えるセルフサーヴィスの店で、まず席を取った。カウンターにはジョアンだけが並んだ。すべてが任せっきりだ。
「暑いわ」
寛順がスーツの上着を脱ぐ。舞子も初めて気がつく。まるっきり温度が違う。ブラウスの上のカーディガンを脱いでも、まだ暑さを感じた。
ジョアンが持ってきたのは、緑色の瓶にはいった飲料水だ。〈グァラナ〉だと教えるとき、ジョアンの舌が、赤い口の中で別の生き物のように動いた。
「ガラナの実から作ったコーラのようなものだって」
寛順が言う。ほんのりと甘味がついている。コーラと比べてどこか気の抜けた味だ。
サルヴァドールに着いたら、向こうにも出迎えの案内人がいるのか、寛順が訊いた。
寛順の英語は分かりやすいが、ジョアンのは歌うような抑揚があって皆目理解できない。
ジョアンの右手の甲に、鳥の足の入墨があった。上手ではない絵柄だが、ワシの爪《つめ》のような形をしている。
「サルヴァドールの空港には係員がいるそうよ。そこからは車で二時間くらいのところらしいわ」
寛順はさらに目的地がどんな所かジョアンに問い質《ただ》した。
ジョアンは紙ナプキンを広げ、寛順からボールペンを借りて絵を画き始める。
どうやら海岸らしい。海辺にヤシの木が何本も立ち、その間に小屋が立てられている。奥の方に塔のようなものが描かれた。
「灯台?」
ジョアンは頷《うなず》く。その根元に、小さな生き物をつけ加える。
「亀?」
またジョアンが頷き、寛順に説明する。
「海亀が卵を産みに来る海岸らしい」
同じような海岸がいくつか日本にもあるのは、新聞で読んだ。砂浜を四輪駆動車が走って子亀をひき殺したり、卵をつぶしているという記事だった。
「やっぱり春かしら。だったら今は秋だから残念」
舞子の言葉を寛順が訳すと、ジョアンは人なつっこく笑う。
「舞子さん、わたしたちのところの秋は、ブラジルではちょうど春よ。産卵が見られるかもしれない」
ジョアンは腕と首を動かして、亀が砂の上を這《は》う仕草をしてみせる。
「良い所らしいわ。魚がいっぱいいて、お祭りもあって」
ジョアンはまた楽器を演奏するような真似をする。弦楽器をつまびく動作をし、低く唱《うた》ってみせる。
それではもう時間だという顔でジョアンが立ち上がる。ゲート前で別れるとき握手をした。黒い皮膚のなかで、青い入墨が土俗的な装飾品に見えた。
「とうとうお金は使わなかった」
寛順が言った。ジョアンが買って来てくれた飲料水にしても、どのくらいの値段か知らないままだ。
「お金の単位は何かしら」
「表示を見るとR$と書いてあった。でも何て読むのか、さっぱり分からない」
寛順が首を振る。
航空券の他に辺留無戸《ヘルムート》から二千ドルのトラベラーズチェックを渡されていた。寛順も同じだろう。
「サルヴァドールに着いたら、銀行で少し現地のお金に換えよう。そうしないと何だか、変な気持」
舞子の意見に寛順も同意する。
サルヴァドール行きのヴァリグ航空機は小さく、通路の左右に二列ずつ座席が並んでいた。中年の体格のよいホステスが、愛想良く出迎えてくれる。十分もしないうちに席は八割方埋まった。
後方を眺めたとき、舞子は白髪の老紳士がいるのに気がつく。ソウルの待合室でも、サンパウロまでの飛行機でも一緒だった客だ。ホステスのひとりを呼んで何か言いつけている。ポルトガル語らしかった。
制服の男が操縦席から出て来て、乗客の客を数え、また操縦席に消える。観光バスの運転手が、トイレ休憩のあと人数を確認するのとそっくりだ。
左前方には黒人女性と白人男性のカップルが坐《すわ》っている。太った中年男性が、若い黒人女性の小さな身体を包み込むようにして話をしている。荷物入れからバッグを取ってハンカチを出してやったり、スカーフを肩に巻いてやったり、まめな動きは映画のシーンのようだ。
機体が離陸して水平飛行になったとたん、三人のホステスが昼食を配り始めた。飲み物だけが注文のようだ。
「グァラナ」
舞子はジョアンが口にした単語を思い出して言ってみる。ホステスはにっこり頷き、ワゴンの下から緑色の瓶を取り出して、栓を開けた。寛順も同じ物を頼んだ。
湿度が低いのか、喉の渇きが早かった。
配られたトレイの上には、サラダとパン、パスタ、肉、ハムが盛られ、牛肉の塊は、それだけで食欲が満たされるほど大きい。すべてを半分だけ食べたところで満腹になった。寛順も、たて続けの食事にうんざりしたらしく、ハムとサラダだけを食べている。
他の乗客は旺盛《おうせい》な食欲だ。黒人女性の恋人は食べている間も、飲んでいる間も、小まめに彼女のほうに話しかける。にもかかわらず、いったいどうやって食べる時間をつくったのか、トレイの上の物はなくなっていた。
手持ちぶさたになると眠気が襲ってくる。快いまどろみのなかで、着陸準備のアナウンスを聞いた。窓際の寛順がじっと外を眺めている。機体が少しずつ降下していく。全部で三十数時間の旅だったが、日本を発ったのがもう何週間も前のような気がする。
「沼がたくさん見える」
寛順が言った。さらに高度が下がると、灌木《かんぼく》と草原、その間に散らばる泥地が視野にはいるようになった。
空港はサルヴァドールの街からはずれたところにあるのだろうが、それにしても荒地に等しい地帯だ。
着陸した時の衝撃はジャンボジェット機よりも大きかった。拍手は起こらない。外に見えるのは小型機ばかりだ。
タラップに出たとき、暑いと思った。日射しが強く、三十分日なたにいれば、間違いなく肌に火ぶくれが起こる。こういう気候で何よりも必要なのは陽焼け止めクリームと帽子だろうが、その二つとも旅行ケースの中だ。
空港ビルまで二百メートルくらいの距離をゆっくり歩いた。乗客の誰も急がない。舞子と寛順の足取りでさえ、前を行く男性を追い越しそうになる。
「とうとう着いた」
ほっとしたように言った寛順の目の下に、薄いクマができていた。気丈には見えたが、疲れは舞子と同じなのだ。
荷物の受け取りは、サンパウロほどには待たなくてすんだ。ワゴンに旅行ケースを二つ乗せて舞子が押した。
ロビーに出たとき、小柄な青年が近づいて来た。
「キタゾノ・マイコとリー・カンスンか」
小さなメモを見ながらたどたどしい英語で訊く。
そうだと答えると、男は舞子を押しのけるようにしてワゴンのハンドルを取った。
こちらだと男は顎《あご》をしゃくり、ワゴンを押す。男の右手の甲に入墨があるのに舞子は気がつく。サンパウロで会ったジョアンと同じ鳥の足の絵柄だ。
「両替をしたいわ」
寛順が英語で言うと、男は首を振った。
「ここはレートが悪い。両替なら病院でいくらでもできる」
そんな返答だった。
タクシー乗り場の後方で、男は広い駐車場に向かって手を上げた。道路向こうのどの車が応答したのかは判らない。
「俺《おれ》はロベリオ」
男は手をさし伸べて二人に言った。ジョアンと同じ年頃だろうが、ロベリオのほうが肌の色が褐色で、顔立ちも西洋風だ。待っている間も、ハミングし、ステップを踏むようにして足を動かした。
黒い大型のメルセデス・ベンツが三人の前に停まる。ロベリオはドアを開けて、舞子と寛順を後部座席に坐らせ、旅行ケースをトランクに押し込んだ。ワゴンを建物内に返しにいく間、黒人の運転手は携帯電話で何か連絡していた。
前方にタクシー乗り場があった。ソウルから一緒だった白髪の老紳士が列の中程に並んでいる。この暑さなのに老紳士はスーツを着込んだままだ。
ロベリオは助手席に戻るなり、カーステレオのスイッチを押した。
テンポの激しい音楽が聞こえ出す。打楽器のリズムとサクソホーンのメロディにのって、女性歌手が軽快に歌う。同じ歌詞の繰り返しを耳にしているうちに、こちらの身体《からだ》も浮き足立ってくる。
ロベリオが振り返り、いい音楽だろうというように片目をつぶる。自分も上体を動かし手でリズムをとる。
クーラーが効いて、半袖《はんそで》のブラウスだけでは寒いくらいだ。寛順はスーツの上着を羽織って、窓の外に眼をやっている。
「あれは竹でしょう」
信号で停まったとき、寛順が道端を指さした。舞子も身を乗り出して眺める。孟宗竹《もうそうちく》なみの太さの竹には違いないが、表面は黄色がかっている。ひと株ごとに何本も密集し、節も大きく、肉も厚そうだ。真直ぐではなく、弓なりにそりかえっている。
「竹には違いないけど、何か密林の竹のよう」
一瞬、舞子は京都の竹林を思い浮かべる。青い竹がすっくと立ち、石を投げれば、カーンと音がするような引き締まった空間。いま目の前にある竹は、群生すれば、昼なお暗く、足を踏み入れようにも隙間《すきま》がなく、投げられた石は鈍い音ではじき返されるだけだろう。
「ほんとうに地球の反対側」
寛順がポツリと言った。どこか不安気な表情だ。
「大丈夫よ。ずっと二人一緒なんだから」
舞子のほうが慰める立場になっていた。
交叉点《こうさてん》を過ぎて、車が速度を上げる。高速道路でもないのに、どの車もかなりのスピードだ。十分ほどして家並みが途絶え、赤土のむき出した大地が、道の両側に広がった。
「テラロッシャ」
ロベリオが言った。赤い大地の意味だと英語でつけ加える。
舗装が悪く、時々車は速度を下げて徐行する。
途中何度か小さな川を渡ったが、流れは澱《よど》んでいて、水草が茶色の水面を覆い、池のような外観を呈していた。
道端に物売りが店を出している。ヤシの葉やバナナの葉を上にかぶせただけの簡単な日よけを作り、台の上に果物を並べている。売り人は、黒人の老婆だったり、子供だったりした。
赤レンガを積み上げた家が畑の奥に見えている。
畑の作物は半ば黄色、干からびていて、手入れもいきとどいていない。家の窓の一部にはガラスがなく、庭に原色の洗濯物が風になびいていた。
交叉点はあっても、一度も信号機に出くわさない。それだけ車の往来が少なかった。
左側に別荘風の家が建ち並び、右側には砂浜がひらけているところで、車は最徐行になった。道路に、高さ五十センチほどの隆起が五メートル間隔で三本作られている。どの車もそこでは徐行を強いられる仕組みだ。
赤土の大地を抜けると、土の色が白に変わった。
「まさか塩ではないわよね」
舞子の質問を寛順が英語に直す。
「塩ではなくて砂」
ロベリオが後ろを振り向いて答える。何が物珍しいのだと言わんばかりの表情で、音楽に合わせて身体を揺すった。
白い土の拡がりの向こうに海岸が見え始める。日本なら、こういう場所には松が植えられているはずだが、ちょうど同じような恰好《かつこう》で、ヤシの木が生い繁っている。その間に、赤屋根に白壁の家が点在している。
水平線上に島影は全くなかった。
空だけが初夏の日本の空と似ていた。青く澄んだなかに、ふっくらした白雲が底を平らにし、重なりあいながら浮かんでいる。
「病院もこんな場所にあるらしいわ」
ロベリオと話をしていた寛順が言った。「でも近代的な大病院らしい」
舞子は出発前に見た一枚の写真を思い浮かべた。水平線の見える人気のない海岸で、ひとりの女性が柔軟体操のようなポーズをとり、その脇《わき》で幼児が砂遊びをしていた。あの写真が旅行の決意をさせたのだ。明生の子供が生めるなら、地球の反対側に旅するなんて平気、どうせ一度は死を覚悟した身だからと思った。
ヤシ林に縁取られた海を眼前にすると、あの写真が具体性を帯びてくる。これから訪れる海浜の病院で赤ん坊ができれば、写真のように砂浜の上に出て、波と戯《たわむ》れることができる。傍で明生も見守っていてくれるだろう。
前方に、青い制服の警官が二人立っているのが見えた。車は急に速度をゆるめる。警官が停車を命じたわけではなかった。運転手とロベリオがご苦労さんと言うように手を上げる。二人の警官は満足気に顎《あご》を引いて応じた。
農家らしい家が三軒、樹木の向こうにのぞいていた。前庭が畑になっていて、鶏が十数羽、土をつつき返していた。バナナ畑からひょっこり姿を現した女性は、巻きスカートにTシャツのみで、頭の上にタライのように大きい平べったい容器をのせている。裸足《はだし》だった。
二車線の直線道路はところどころアスファルトがめくれ、凹凸ができている。車は穴を巧妙に回避して百キロ近いスピードで走る。中央線など無いに等しい。前方に対向車が現れ、近づくと、双方とも左右に分かれてそのままの速度でやり過ごす。
「セナは知っているだろう」
ロベリオが訊いた。寛順も舞子も名前は耳にしていた。知っていると二人が頷《うなず》くと、世界一だったと、ロベリオは親指を立ててみせる。そのあとで、彼の死には、全ブラジル人が涙を流したのだと言った。
こういう悪路を走っていれば、普通の人間でも運転は上手になるかもしれないと、舞子は思う。ロベリオに言ってやりたかったが、寛順に通訳させるほどのこともなく、黙った。
ロベリオは寛順に向かって、まだセナの話を続けている。寛順の顔が時折、苦痛に歪《ゆが》む。おそらくセナの事故死を恋人の死と重ね合わせているのだ。寛順の涙だって、全ブラジル人がセナの死に対して流した涙に匹敵したはずだ。
舞子はたまらなくなり、窓外に眼をそらす。
道路標識にさまざまな言葉が書かれている。しかし地名らしい単語の他は、何ひとつ意味が理解できない。PRAIAという綴《つづ》りが四回、五回と出てきたとき、舞子はバッグからポルトガル語の辞書をとり出した。
「何だい、それは」
身体を後ろに向けて寛順と話をしていたロベリオが、舞子に訊いた。辞書を受け取ると、物珍しげに頁を繰る。いろいろな単語が載っているのに驚いた様子だ。
「で、分からなかったのは?」
言われて舞子はPRAIAを示す。
「ビーチ、ビーチ」
ロベリオは英語を口にした。
道路脇に比較的大きな村落が見え始める。赤い屋根|瓦《かわら》に土壁が多く、商店や食堂も混じっている。
「プライア・デ・オスピタウ」
ロベリオが言った。〈病院海岸〉という意味らしかった。
車は右折し、石畳の道路にはいる。古い道路なのか、車がやっと離合できるくらいの道幅いっぱいに、手のひら大の石が敷きつめられていた。
村落をひとつ過ぎると、左側に大きな沼地が出現し、石畳はそこで切れた。赤土混じりの道は未舗装で、両側にヤシ並木があった。
「着いたようね」
寛順が窓の外を示して言った。樹木の間に別荘のような建物が姿を見せていた。回廊のように長く延び、その向こうに近代的な五、六階建ビルがそびえている。
赤土道は沼の先端でトの字型に分岐し、車はゆっくり右折する。アスファルト舗装に変わり、車の揺れがおさまった。
道の先に、アールヌーボー風に装飾された鉄製の門扉があった。芝生の上で馬が二頭、草を食《は》んでいる。
門の脇の小さな守衛所に、黒人が四、五人たむろしていた。きちんと制服を着こんだ者もいれば、半ズボンに上半身裸の者もいる。
黒塗りの乗用車が停止すると、制服の黒人が運転手と言葉を交わし、右手を上げた。それを合図に、裸足に半ズボンの青年二人が鉄扉の向こう側まで走り、左右に開いてくれる。車はゆっくり再発進した。
「舞子さん、ほら、国旗が」
寛順が言ったのはそのときだ。右前方の芝生の上に二十数基の白いポールが立ち並び、その大部分に国旗が掲げられていた。イギリス、フランス、ドイツ、カナダ、スウェーデン、スイス、寛順の大韓民国、そして日の丸も星条旗の横にあった。
「わたしたちのためかしら」
舞子が訊く。
「たぶんね。歓迎のしるしよ、きっと」
寛順が答える。
車が通路の途中で停止していた。五、六メートル先に、犬くらいの大きさの黒白まだらの鳥がいた。七面鳥のように、顔の皮膚がただれて赤いが、とさかがない。脚には扇のような水かきがついている。顔を横に向けて、片眼で車の方を睨《にら》みつけていた。
「またスーの奴《やつ》だ」
ロベリオがいまいましげに叫ぶ。ドアを開けて外に出、鳥を抱きかかえて戻ってくる。ロベリオの膝《ひざ》の上に坐ると、鳥は満足そうに低く唸《うな》った。
「車に若い女性を乗せて戻ってくると、こいつは必ず、ここで車を停めやがる」
ロベリオが言った。