病院の受付はホテルのレセプションそっくりだった。カウンターの向こうの係員たちも白衣を着ていない。舞子は寛順《カンスン》に教えられながら、一枚の書類に名前と生年月日、国籍とパスポートの番号、有効期間を記入した。男の係員が部屋の鍵《かぎ》をロベリオに渡す。ロベリオが待ち受けていた黒人少年に合図する。少年は寛順と舞子の旅行ケースを手押し車に乗せ、運び始めた。
「病室はこっち」
ロベリオが言った。少年が消えた方向とは反対なので、舞子は迷った。
「大丈夫。こちらが近道なんだから」
ロベリオは軽快な足取りで歩き出す。受付のあった場所は、三つに分かれた棟の中央部分にあたっていた。後方の廊下は六階建の白亜のビルまで延び、正面で左右に分かれる廊下は、二階建の回廊のような長く連なる病棟につながっていた。
ロベリオは二階への階段を上がる。廊下の床は橙色のタイル張りで、海側に部屋が並び、右側には窓ガラスがはめられておらず、吹きさらしだ。芝生の中の花壇に赤い花が咲き乱れている。
すぐ横を歩いていた寛順が悲鳴を上げた。
「猫、いやネズミでもないし」
窓辺に蔦《つた》がからみつき、よく見ると灰色の動物が四、五匹、枝の上で動かずにいた。長い尾は猫に似ているが、小さな顔は猿のようでもある。
「猿だって」
ロベリオの説明に寛順は納得する。
居室の近くまで猿がやってくるとは驚きだ。何から何まで、常識が裏切られる思いがする。
二十室ほどをやりすごして、ロベリオは〈A227〉の前で立ち止まる。ドアの前に寛順の旅行ケースが置かれている。すぐ隣の228号が舞子の部屋で、荷物はもう運ばれていた。
「夕食までは自由時間、詳しい規則については、部屋の中に案内書があるので、読んでおくように。分からないことがあれば、受付に電話して、俺を呼んでくれ」
ロベリオは言って、二人に部屋の鍵を渡した。寛順と別々に部屋に入る。
部屋は前室と後室、テラスから成っていた。前室は洗面台と衣裳《いしよう》ダンス、冷蔵庫、バスタブにシャワーのある浴室、トイレがついており、六畳くらいの広さは優にある。後室は十畳ほどで、広めのベッド、椅子《いす》と机、大きな長椅子に低いテーブルが置かれている。壁にエアーコンディショナー用のスイッチがあり、あらかじめONにされていたためか、涼しかった。
テラスに通じる仕切りはガラス戸と網戸、鎧戸《よろいど》の三重になっていた。観音開きの鎧戸を閉めると、外光から完全に遮断される。
舞子が気に入ったのはベランダと、そこからの眺めだ。四畳半くらいの広さしかないが、屋根はそれよりも二メートル近く外に張り出して、深々とした日陰をつくっている。籐《とう》製の椅子と、やはり籐製の丸い足のせが置かれ、麻布でできた白いハンモックが吊《つ》られていた。
足のせの上に立って、まるで小舟をひきよせるようにハンモックの端をつかみ、身体《からだ》をゆっくりその中に入れた。曲がった身体がハンモックにおさまる。宙吊りになった浮遊感が快い。
頭を巡らすと、庭が一望できた。すぐ傍にヤシの葉が見える。頭上高く仰ぐのと違って、近くでみると一枚の葉の大きさに目を見張りたくなる。三メートルくらいの葉脈に、七、八十センチはある葉が両側に櫛《くし》の歯のようについている。ヤシの葉を四、五枚重ねるだけで、小屋の屋根は葺《ふ》けそうな感じだ。
ハンモックから出て手摺《てすり》の傍に立つ。庭の向こうに海が望めた。右側の方は河口になっているらしく、カヌーが二隻、草の上に裏返しにされていた。
電話が鳴る。部屋にはいって受話器をとった。
「舞子さん、行ってもいい?」
寛順の声がした。
「どうぞ、どうぞ」
机の上にあったパンフレットも横文字なので読む気にならない。寛順が説明してくれれば助かる。
「すごい所」
寛順がはいってくるなり言う。「食事は三食ともレストランに行けば食べられる。飲み物は冷蔵庫の中の物を好きなだけ飲める。翌日にはちゃんと中味を補充してくれるって。クリーニングは、袋に入れておくと、翌日にはでき上がりだと書いてあった」
「病院というより、リゾート地のホテルね」
「ホテル以上。いろんなレジャーもあるの。乗馬やサーフィン、カヌー、遠足、ダンス、チェス、アーチェリー」
寛順はベランダに出て、遠くを指さす。
カヌーが裏返しになっている原っぱの先に、枯草の壁のようなものが作られ、その手前にヤシの葉で葺かれた東屋《あずまや》がある。どうやらそこがアーチェリー場のようだ。
「ちっとも病院臭くない。よほど身体を動かさないと、一ヵ月もすると十キロは肉がついてしまう」
寛順が困った顔をする。
「せいぜい動くわ」
言ったものの、疲れがいっぺんに来た感じがする。椅子に坐《すわ》った身体は容易に動かない。
「スコールよ、きっと」
外を眺めていた寛順が言った。
海の方角がまたたく間に暗くなっていた。小鳥が木から木へと目まぐるしく移る。まるで雨宿りする場所を探しているようだ。先客があれば、その葉陰を追い立てられて別の避難所に移動する。
たちまち雨の音がし始める。ヤシの葉を太い雨脚が叩《たた》く。数分前の日照りが信じられない。幸い軒が張り出しているため、ベランダまで雨しぶきは吹き込まない。にわかに周囲の空気がひんやりとしてくる。
寛順も呆気《あつけ》にとられて雨を眺めている。
どこに隠れていたのか、雀の倍くらいの大きさの鳥が、ヤシの葉の上に姿を現す。濡《ぬ》れるのも構わず、横すべりに移動しながら、くちばしを葉のへりで磨くような動作を繰り返す。
雨はそのあと土砂降りになり、二人は部屋の中に退散した。
雨の音で会話も聞きとりにくく、大きな声で話し合う。
十分くらいして音が小さくなり、またベランダに出た。
雨脚がまばらになっていた。やがて陽が射し始め、雨滴はヤシの葉先から垂れ落ちるものだけになる。
海の上の空はもう青一色になっている。舞台照明のような変わり身の速さだ。芝生が緑色の輝きを取り戻し、ヤシの葉先で水滴が光る。
「これだと、畑も水撒《みずま》きしなくていいわね」
寛順が感心したように言った。
「ほんと、人間もシャワー代わりに利用できる」
裸になって外に出、石けんを塗っていれば、スコールですべてが洗い流されるはずだ。
再び鳥の声が聞こえ出す。姿は見えないが、少なくとも三、四種類はいる。そのうちのひとつは蝉《せみ》のように、長く尾をひく鳴き方をする。ひょっとしたら、鳥ではなく大きな昆虫か、猿の一種なのかもしれなかった。
「さっき、ベッドに横になっている間に夢をみたの」
寛順が言った。
「何の夢?」
「ほら飛行機の中で話をしたでしょう。わたしの村のブランコ。そのブランコに乗っている夢。ほんの二、三分眠っている間の夢。自分が少女に戻っていた」
その夢のなかに、他にも誰か村人が出ていたのかもしれない。恋人が傍にいなかったのか訊《き》いてみたい気がしたが、やめた。
「舞子さんがいてくれて、本当に良かった。これがひとりだと、どんなに心細かったか」
舞子と同じようなことを寛順が言う。
「お互いさま」
「ずっと一緒よ」
「ずっと一緒。お願いします」
舞子は頭を下げる。
「お腹すいた。まだ夕食は早過ぎるかしら」
腕時計を見る。五時過ぎだ。ちょうど日本との時差は十二時間くらいだから、そろそろ朝食かなという時刻に相当する。
「そうね。どんなところか、見物しながら行ってみようか。その前に着替えをしなくちゃ。一時間後、ドアの前に集合でどうかしら」
「はい承知しました」
舞子はおどけながら答える。
旅行ケースの中味を取り出して、棚の上に置いた。
着替えといっても、下着の他はTシャツが四枚、巻きスカート一枚とショートパンツが二枚、それにスパッツくらいしか持ってきていない。白いTシャツにピンクのショートパンツ、白いズックを今夜のために選ぶ。夜だから少しはおめかしをしたほうがいいと思い、白のヘアバンドを用意した。
軽くシャワーを浴びた。湯の出方も申し分ない。
鏡に映った鼻の頭が赤くなっている。そういえば、腕も陽焼けしていて、半袖《はんそで》シャツの跡が判るほどだ。この分でいくと、Tシャツの形は何日もしないうちに肌に刻まれるに違いない。
仕方ないわよね、と舞子は鏡の中の自分に言いかける。こんなに日射しの強い国で、太陽から逃げることばかり考えていては、せっかくの滞在が台無しになる。それよりは陽焼けなんか気にしないで動き回ったほうが得策だ。
ベランダの戸を閉め、部屋を出る。小さなポーチを肩から吊るした。寛順の部屋の前には、竹籠《たけかご》の中にミネラルウォーターの瓶が一本置かれている。さっそく寛順が飲んだのだろう。舞子はまだ冷蔵庫の中までは確かめていなかった。添乗員をしていただけあって、寛順は旅慣れしている。
寛順は赤いTシャツに黒いショートパンツ、赤いシューズだ。舞子には絶対できない色の組み合わせだが、寛順にはよく似合っている。
「舞子さん、鍵はちゃんと首にかけたほうがいいわ。ペンダント代わりよ。これで何もかもがタダになるのだから」
言われて舞子は、ポーチから鍵を取り出し、首にかけ直す。金色の鎖に、亀のマークのはいった飾り板がついていて、ペンダントにしてもおかしくないデザインだ。
廊下に出ていた猿は姿を消していた。玄関近くにいたはずの馬が中庭に移動し、二頭が三頭に増えている。
受付の前に人だかりがしていた。いずれも老人で、長逗留《ながとうりゆう》するらしく、黒人のポーターに大きな旅行ケースを運ばせている。
回廊が海の方に向けて張り出し、途中に掲示板があった。
「毎日のスケジュールが書かれている。サンバの踊り、カヌー、乗馬、ウィンドサーフィンと、盛りだくさん」
寛順が説明する。ポルトガル語、英語、ドイツ語の三通りで表示されているらしかった。
「どうしてドイツ語かしら」
「ドイツからの入院患者が多いのかもしれない。ほら金持の国だから、療養しながらのバカンスよ」
回廊の途中に売店があり、ひとつは絵葉書や小さな土産物、もうひとつの店はTシャツや帽子、サンダルなどを並べていた。値段の表示はR$というブラジル価格で、そのまま一ドルと思えば良いと寛順が教えてくれた。そうするとTシャツの値段も千五百円から二千円程度で、日本と比べても決して安くはない。
レストランには照明がついていたが、一本の長い竹が腰の高さで入口を塞《ふさ》いでいる。
「六時半からだって。あと十分くらい」
寛順が腕時計を見る。遅い夕食が普通なのか、待っている者はいない。プールの脇《わき》で寝そべったり、カフェテラスで飲み物を飲んでいる客が目立つ。
「海岸まで出てみようか」
舞子が誘った。プールの横の通路を抜けると、芝生の間を砂まじりの小径《こみち》が海の方に延びていた。
「あれは何?」
寛順が立ち止まる。芝生の中央に、白と黒の彫像のようなものが二十個ほど立っている。近づいてみて、それが野外のチェス盤だと判った。大理石で市松模様が作られていた。馬の頭に似た白と黒の駒《こま》は、それだけで芝生の飾り物になっている。
海岸沿いに寝椅子《ねいす》のような木造りのベンチが置かれていた。ヤシの葉で葺《ふ》いた一本柱の屋根が影をつくり、何組かのカップルがその下に寝そべっていた。
見渡す限りの長い海岸線だった。砂浜の幅は二、三十メートルで、左側はヤシの林が大きな弧を描いて張り出し、右側は草地と浜が四、五キロ先まで続いている。
風はなく、波はゆるやかなうねりで陸地目がけて迫ってくる。遠くから海面がめくり上がり、砂浜に行きつく前に、たまりかねたように反転する。白い波頭があちこちで生まれては消える。
「これが大西洋だわね」
髪をかき上げながら寛順が感慨深げに言った。「この向こうはヨーロッパとアフリカ」
そうした感慨は、島影がひとつもないので、一層切実に伝わってくる。海水を隔てただけで、欧州大陸やアフリカ大陸と向かいあっているのだ。
右手の方から黒人が砂浜を歩いてくる。釣竿《つりざお》とビクを手にしていた。二人の方には故意に視線を送らず、まっすぐ前を見て歩く。三十歳くらいだろうか、橙色《だいだいいろ》のTシャツに白のショートパンツを身につけ、裸足《はだし》で歩く姿勢が半分シルエットになる。
左のヤシの木陰から、紺色の制服を着た警備員が出てきた。耳にトランシーバーを当てている。漁師の歩く姿をじっと見据えながら、トランシーバーに応答していた。
「私有地だから、一応見張りだけはしっかりしているのね」
舞子は感心する。ベランダに出ていたときも、雨が上がったあと、やはり同じような制服の警備員が、ゆっくり中庭を横切っていくのを目撃していた。
敷地内で見かける滞在者はほとんどすべてが白人なのに対して、警備員やポーター、受付の係員、掃除人はすべて黒人か褐色の肌をした者ばかりだ。
「あーあ、お腹すいた」
舞子は背伸びして言う。「どれだけでも、はいりそう」
「行きましょう」
寛順が笑って同意する。まだ暗くないのに、庭園のあちこちにある水銀灯がともる。レストランやカフェテラスは白熱灯の照明で、どこか室内が赤っぽい。
レストラン前の竹のバーが取り払われ、入口にショートパンツにTシャツの女性が陣取っていた。テニスの審判員が腰かけるような高い椅子に坐り、手にノートを持っている。
寛順がペンダントの鍵《かぎ》を見せると、彼女は愛想良くノートに印をつけた。舞子もそれにならう。
「コンバンワ」
その混血の女性が両手を合わせ、日本語で言いかけた。舞子は驚きながらも同じ挨拶《あいさつ》を返す。誰か日本人が日本語を教えたのだろう。とはいえ、合掌だけは日本風ではなく、東南アジアのやり方だ。
レストランは広く、バイキング形式になっていた。
ひと目見ただけで、食べ物の豊富さに圧倒される。手前のテーブルには、五、六種のジュース類がガラス容器に入れられ、その奥には果物類が並ぶ。マンゴー、パパイア、スイカ、メロン、バナナと、色彩はジュース類に劣らず多様だ。パンの種類も多く、チーズパンのようなものからケーキ風なものまで、やはり六種類くらい、竹製のバスケットに入れられていた。メインになる料理もさまざまだ。それぞれにポルトガル語の名称と英語による説明が加えられ、百グラムあたりのカロリーが表示されている。
舞子は前菜にサラミと二種類のハムを選び、白い民族|衣裳《いしよう》を着た女性が目の前で揚げてくれるバナナを皿に受け、柱のそばのテーブルについた。寛順も皿に魚と野菜の煮込み、ソーセージをのせて、向かい側の椅子に坐《すわ》る。
「選ぶのが大変。舞子さん、飲み物は?」
「あのピンク色のがいい」
舞子は何か分からないながらも指さす。黄色や赤のジュースよりは良さそうな気がしたからだ。
「じゃ、取ってくる」
寛順が二つのコップを手にして戻って来る。
ピンク色の飲み物はスイカの生ジュースだ。寛順はメロンジュースにしていた。
「毎日こんなじゃ、先が思いやられる」
寛順はそれでも嬉《うれ》しそうに言う。
塩気がきいた生ハムは、甘い揚げバナナと口の中でほどよく調和した。
座席が埋まり始めていた。アルコール類だけは給仕に注文するようになっているらしく、水割りや生ビールを入れたグラスを白い制服の給仕が手際良く運ぶ。
「そのバナナ、おいしい?」
寛順が訊《き》く。
「おいしい」
舞子はナイフで一切れ分けてやり、寛順の皿に入れる。寛順はさっそく口にして、満足気に頷《うなず》く。
「普通のバナナじゃないわね。野菜としてのバナナかもしれない」
「野菜バナナ?」
確かにバナナの産地であれば、幾種類ものバナナがあっていいのかもしれない。煮ておいしいバナナ、揚げ物用のバナナ、サラダ向きのバナナという具合にだ。
前菜を食ベ終えて、二人で交互に新たに皿を満たしに立った。八十センチくらいの長さの魚がそのままの姿で煮込まれ、切り目を入れられている。久しぶりに魚を口にするような気がして、舞子は手を伸ばす。赤ピーマンと一緒に煮た肉もおいしそうだった。ピンポン玉大のチーズパンを二個、プチパンを一個取る。次の飲み物はオレンジジュースにした。
寛順はバナナの揚げ物と、ギョウザを大きくしたような白っぽい食べ物を取って来る。
もう席の八割ほどが埋まっている。五十歳以上の年配者と若い女性が多く、三十歳四十歳代はほとんどいない。YWCAと老人会を一緒にしたような年齢配分だ。
七時になって生演奏が始まった。
レストランの片隅が舞台になっていて、四人が楽器をかなで、六十がらみの男性が静かに歌い出す。ボサノバだろう、語りかけるような歌い方だ。舞台の上方にある棚には、人の顔をした土着の木彫が飾ってあるが、そのどぎつい形相と、繊細な洗練された歌声が全く対照的だ。
「病気になっても、こんなところで養生すれば治りが早いわ。食べ物も何種類もあって、食欲も出る」
舞子の言い草に寛順も頷く。
「ブラジルの食べ物に慣れない患者でも、これくらい何種類も用意されると、どれか好きなものに出会える」
「わたし、初めから慣れないものなんてないわ」
「舞子さんはそうね、きっと」
「デザートにパパイアがあったでしょう。最後にあれを食べてみたい」
「はいはい、わたしもおつきあいします」
寛順は笑う。実のところ、舞子はバナナの葉の上に並べられていたパパイアがなくなりはしないかと、さっきから気になっていたのだ。客のなかには、主菜をはぶいて、初めから果物類をどっさり皿に盛って席につく者もいた。
ナプキンをテーブルに置いて、二人一緒にパパイアを取りに行く。大きな皿に三切れを並べ、隙間《すきま》にスイカを二切れのせた。寛順はパパイア、マンゴー、スイカ、メロンをそれぞれ一切れずつ取る。
スイカは日本のものと比べて色が薄く、甘味も少なかった。しかし、パパイアは期待を裏切らなかった。ナイフで切り目を入れて、皮の近くの果肉まで残さず食べた。
「こんなにいっぱい食べられるなんて夢のよう」
舞子はしみじみと言う。
「メロンもマンゴーもいい味」
寛順は言ったが、舞子にとってはパパイアさえあれば充分だ。
「こんなに何個も食べている人なんていないわね」
「大丈夫、誰も笑いはしない」
バンドの演奏が〈ベサメムーチョ〉に変わっていた。記憶にある熱情的な歌い方とは違って、静かな声だ。抑揚も少なく、スローテンポで悲しげに歌う。
歌詞の意味は分からないが、亡き人を恋うる歌のようにも聞こえる。
「こんなベサメムーチョは初めて」
寛順が顔を上げ、舞台の方を見やる。「お酒でも飲みたい感じ」
「でも、お酒がはいると、涙が出そう」
伴奏のバイオリンもギターもチェロも、ゆったりと腕と手を動かしている。
レストランを出る時には、席のほとんどが満席で、入口で待っている患者も三、四人いた。
チェック係の女性は日本語ではなくポルトガル語を口にした。舞子の耳には〈ボーア・ノイチ〉という音に聞こえた。
「グッド・ナイトという意味」
寛順が言った。
プールサイドの照明に、水面が青白く光っている。昼間の熱気がいつの間にかおさまり、海に向けて吹く風も、首筋に心地よい。
舞子は寛順を誘って、ヤシの樹の傍にある小さなテーブルに席をとる。
席につくと、カフェテラスのウェイターがロウソク入りのランプを持って来た。寛順が英語で何か言うと、彼は一度店の中にひっこみ、厚紙に書いたメニューを手渡す。
「舞子さん、ビールもカクテルもあるけど、何にする?」
メニューを見ながら寛順が訊く。
「何かここの土地のものがいい」
寛順が舞子の言葉を伝える。ウェイターは黒い手を伸ばしてメニューの中のひとつを指さす。それでいい、と舞子は頷く。
「どんなものがくるかしら」
寛順がテーブルに肘《ひじ》をついて言う。
「たぶん、強いお酒」
「ヤシの実から作った?」
「それともパパイアから作ったアルコール」
「メニューにはカイプ何とかと書いてあったけど」
星が満天に出ていた。右側が欠けた月は陸地寄りにあった。星の位置がバラバラだと感じたのは、見慣れた星座がないせいだと気づく。
「南十字星はどれかしら」
「わたしも知らない」
寛順はぐるりと空を見回した。「星を眺めているとよけい迷路にはいり込んだ気持にさせられる。一種の星酔いかしら」
「でも月だけは同じね」
かすかに海の音がしていた。隣のテーブルに坐った白人女性三人の会話が、なぜか波の音によく似合った。
ウェイターが注文のグラスを二個テーブルに置き、舞子たちの鍵番号を確かめる。
「カイピリーニャ」
寛順が飲み物の名を訊いたとき、ウェイターは白い歯をほころばせて答えた。
透明な液体の中に氷とレモンのぶつ切りがはいり、大きめのストローがさしてある。
「これは強い」
ストローに口をつけた寛順が驚いて言う。
なるほど辛口で、舌にピリッと刺激があり、苦味のある香りもする。これまでに飲んだどのアルコールとも似ていない。
「でも飲みつけると癖になりそう」
舞子はもう頭の片隅が酔い始めているような気がする。
隣のテーブルの女性たちが口にしているのはビールらしい。真赤なガウンを羽織った女性が舞子たちの飲み物をチラリと見やり、視線が合ったとき笑顔をつくった。〈おいしいでしょう〉とでも言いたげな表情だ。
「もう日本を離れて一年も経ったような気がする。何もかもが、新しいものずくめだから」
「わたしも。自分が変わっていくのが分かる。場所の移動で、時間の長さも変わるのよ。地球の裏側に来たので、自分も裏返しになったような気がする」
「裏返し?」
思わず舞子も口にする。革袋をそっくりひっくり返した恰好《かつこう》が頭に浮かぶ。なるほど、言い得て妙だ。革袋そのものの成分は少しも変わっていないが、今まで日の当たらなかったところが表面に出て、新鮮な日光を浴び、逆に表立ったところが陰に隠されてしまっている。
「別な自分がこれから少しずつ現れて来そう。これまで知らなかった自分」
寛順はストローでひと口飲み、大きな深呼吸をした。
「そうよね。そうでなくちゃ」
「舞子さん、何があっても、助け合っていきましょう」
「お願いします」
舞子は頭を下げる。
本当は指切りゲンマンでもしたいところだが、韓国にそういう風習があるかどうかも知らず、子供じみた気もしてやめた。
カイピリーニャの酔いは独特だ。強いアルコールのくせに、身体《からだ》は火照《ほて》ってこない。身体の内側を冷やすと同時に、酔いは頭を澄んだ状態にする。空から雲を吹き払うように、雑念がどこかに吹き飛び、今ここでの気分だけを味わいたくなるのだ。
レストランでの演奏は終わっていた。音楽の代わりに波の音だけが聞こえる。
「眠くなった」
ベッドに横になれば三十秒で眠れそうだ。
「わたしも。戻ろうか。初日からあまり夜更かししないほうがいいわよね」
テーブルを立って、回廊を歩く。芝生の上を散歩する人影が見えた。六階建の病院の本館が木立の向こうに光の塔のように立っている。ほとんどの窓に明かりがついていた。
それに比べて、二階建の滞在棟のほうは、薄暗くひっそりとしている。
「明日の朝は何時にしようかしら」
部屋の前で寛順が訊いた。腕時計を見ると九時少し前だ。九時間たっぷり眠ったとして、七時少し前には起きられるだろう。
「七時半」
「はい。おやすみ、舞子さん」
「おやすみなさい」
部屋にはいって明かりをつける。
ドアの下に白い紙が置かれていた。英語でタイプ打ちされた文章だ。宛名はミズ・M・キタゾノになっている。明日の午前九時、本館五階に来て欲しいとの大よその文面は、二、三度読んでいるうちにつかめた。
その瞬間、舞子は自分が単なる物見遊山の旅行者ではなく、目的をもった患者である事実を改めてかみしめた。