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受精09

时间: 2020-09-30    进入日语论坛
核心提示:9 患者や白衣の医師がエレベーターから降りてくる。 東洋人が珍しいのか、ムームーのような派手な衣裳《いしよう》を着た太っ
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 患者や白衣の医師がエレベーターから降りてくる。
 東洋人が珍しいのか、ムームーのような派手な衣裳《いしよう》を着た太った中年女性が舞子の方を眺め、眼が合うと「こんにちは」と言うように口ごもった。
 そうだ、お早う、今日は、ありがとうくらいはポルトガル語で覚えておこうと舞子は思う。
 エレベーターは三基並んでいて、どれが先行するか判る仕組みだ。黒人の看護婦と一緒に、上りのエレベーターに乗り込む。看護婦の問いかけに、舞子は「フォース、プリーズ」と答える。五階を四階と言うのは寛順から教えられていた。看護婦が分かったというように微笑してボタンを押してくれる。「サンキュー」という言葉も自然に口から出た。
 看護婦は四階で降りた。扉が閉まり、舞子はひとりになった空間の中で深呼吸をした。
 エレベーターが停止して扉が開く。足を踏み入れたのは、深い緑色の絨毯《じゆうたん》で覆われた床だった。右側に大理石の彫刻、前方にガラス戸で仕切られた広い廊下が見えた。
 その手前に大理石像がある。母と子の座像で、若い母親が椅子《いす》に坐《すわ》り、膝《ひざ》に抱いた赤ん坊に乳房を与えようとしている。子供の愛くるしい顔を眺めおろす母親の表情が、喜びに満ちた優しさをたたえている。赤ん坊に話しかける母親の声が聞こえてきそうで、舞子はしばらくそこにたたずんだ。
 本当にブラジルまで来ていた。ようやくその実感が湧《わ》く。
 今朝は鳥の声で目が覚めた。ピーピーと笛を吹くような鳴き声に、別な鳥の太い声も混じっていた。鎧戸《よろいど》がベランダからの光を遮断しているので部屋は真暗だ。舞子は慌てて明かりをつけ、デジタル時計の数字を読んだ。六時半だった。
 前の夜、化粧を落としてパジャマに着替えるとき、もう眠気が襲ってきた。時計を目覚しに設定しなければいけないと思いながらも、英語の説明が面倒臭く、諦《あきら》めるのと寝入ってしまったのが同時だ。
 何の夢をみたかも思い出さない。気がつくと森の中にいて鳥の声を聞きながら、木の葉から漏れ射す朝の光を見上げていた。あれ、どこに自分はいるのだろうと思ったときに目が覚めた。
 起き上がって網戸を手前に引く。鐙戸を押しやったとき、外の光が待ち構えていたように射し込み、ベランダの手摺《てすり》にいた小鳥が飛び立った。
 潮の香りはしない。森の匂《にお》いがした。空はまだ完全に青味を帯びていないが、今日も晴れ渡りそうな明るさを秘めていた。
 アーチェリー場の手前を、灰青色の制服を着た黒人が大きな歩調で歩いていく。夜の間も、警備員たちは敷地内を巡回していたのだろう。
 シャワーを浴びるとき、ついでに髪も洗った。ドライヤーをかけなくても、タオルで拭《ふ》きとるだけですみそうなくらい、空気が乾燥していた。裸でいても寒さは感じない。衣服をつけるとき、午前中の面接を思い出し、ブラウスとキュロットスカートを選んだ。乳液をすり込み、陽焼け止めクリームを首筋や腕に塗る。
 赤くなった鼻の先はパウダーで目立たなくした。
 七時半に部屋のブザーが鳴った。戸を開けると、上から下まで白ずくめの寛順が立っていた。ヘアバンド、イアリングも白で、腰のポーチだけが淡いブルーだ。
「昨夜《ゆうべ》、寛順のところにはメモがはいっていなかった?」
 舞子が訊《き》いた。
「あった。今日の午後、面接があるの。一時から」
「わたしは九時。やっぱり本館の五階?」
「そう。五階の二号室」
「なんだか急に病人にされたような気がする」
「面接だけ向こうの病棟に行くのだから、病人と思う必要なんかない」
 寛順は鷹揚《おうよう》に言った。
 プールに浮いた木の葉を、黒人の掃除人が柄の長い網ですくいとっている。その向こうの芝生の上では、初老の男が松葉かきのようなもので草の上を掃き、時折それを上に向け、黄色くなった樹木の葉を一枚一枚地上に落としていた。
「オハヨウゴザイマス」
 レストランの入口に陣取った女性が、前夜と同じように胸の前で両手を合わせた。舞子も同じ言葉で応じた。寛順はどこで覚えたのかポルトガル語だ。
 白い民族衣裳を着たウェイトレスが庭寄りのテーブルを勧めてくれた。
 彼女は白い歯を見せて笑い、窓の外を指さした。通路|脇《わき》の石の上にパパイアが三切れ置かれ、子猫大の猿が六、七匹かじりついている。前日見たのと同じ種類の猿だった。
「カメラを持ってくればよかった」
 寛順が口惜しがった。尾が身体の長さくらいはあり、蛇のように動く。群から少し離れたところに、ひと回り小さい猿がいて、口に怪我《けが》をしていた。パパイアを食べたそうにしているが、恐がって近づけない。猫のように悲しげに鳴くだけだ。
 他の客も猿に気がつき、眺めている。そのうちのひとりがパパイアを取ってきて、傷ついた猿の前に置いた。すると、今まで他のパパイアに食いついていた猿が一斉に新しいパパイアにとりつき、ひ弱な猿はそこでもはじき出された。
 黒人の掃除人も、仕方ないという表情で眺めている。結局、傷ついた猿は、他の猿が食べ残したパパイアに口をつけ、一心にかじりつく。もうどんなに脅されても逃げないという覚悟がうかがわれた。元気な猿たちは、それを無視して木立の方に移動した。
「さあ、わたしたちも食べましょう」
 どこかほっとしたように寛順が言った。
 夕食と違って料理の品数は少ないが、パンやシリアルの種類は減っておらず、ベーコンと卵はコックが注文に応じて焼いてくれた。クロワッサンとプチパン、それに丸いチーズパンを取った。牛乳とオレンジジュース、野菜サラダも忘れずにトレイにのせてテーブルに戻った。果物のコーナーには前夜と同じように、パパイアやスイカ、メロンが並べられていた。
 ウェイトレスが来て、コーヒーにするか紅茶にするかを訊き、小さめのカップについでくれた。前の夜、眠れなくなるのを懸念して飲まなかったから、初めてのコーヒーだ。
 真黒なコーヒーに、黄色味を帯びた固形の砂糖を入れた。コーヒーの強い苦さが、精製されない砂糖の荒々しい甘さと見事に溶けあっていた。
「午前中、舞子が病院に行っている間、わたしは何かレッスンに参加してみよう。ダンスか乗馬か」
 寛順が言った。
「馬に乗ったことあるの?」
「ない。たぶん、昨日見たあの馬よ。おとなしそうだったでしょう。どうせ、指導員がつくはずだから」
「わたしも乗りたい。二人一緒のときにしない?」
「じゃ、しばらく乗らないでおく。他のもので暇をつぶしておくわ」
 寛順が立ち上がり、舞子も続く。近代的な造りの本館は、舞子たちの部屋とは反対側にあった。
 回廊が本館と滞在棟を結んでいた。天井も壁も白一色に統一され、所々に大理石の彫刻が設置されていた。水瓶を担ぐ女性や、踊り子、あるいは女性兵士といった、ほとんどが等身大の女性像だ。
 中程に、頭部にヴェールをかぶせられた裸婦の座像があった。あたかも本物の布をかぶったように、若い女性の顔がこちらを向いている。目鼻立ちは隠されたままだ。上半身は裸体で、右手で乳房を隠し、肩まで垂れるヴェールの他は、腰布が身体を覆っているだけだ。
「これは囚人か、奴隷よ」
 寛順が台座に眼をやった。像の左手は縄がゆわえつけられ、石に打ち込まれた金輪に固定されていた。
 囚《とら》われ人だとすれば、顔を隠しているヴェールがよけい残酷に見えてくる。顔だけがヴェールに覆われているだけでなく、運命も目隠しにあっているのと同じだ。ヴェールの下の目は、そんな自分の運命にあらがうように、果敢に上の方を凝視していた。
 舞子は後ろ髪をひかれる思いでその場を離れた。
 通路を抜けると本館の一階に出た。外来の待合ロビーになっているらしく、高い天井から三角柱の電光掲示板が吊《つ》り下がっていて、診療科と担当医、診療室の番号が、どの方角からも分かった。
 受付と薬剤部、検査部門の前にそれぞれソファーが置かれ、既に患者が待機していた。百人近い患者数なのに混雑しているように見えないのは、充分すぎるスペースとバランス良く置かれている大理石彫刻と観葉植物のせいだろう。車椅子で移動する患者の顔や、頭に包帯を巻いている女性の顔にも苦痛の表情はうかがわれない。
 患者の大半が白人で、ピンクがかった白衣を着た看護婦や医師のなかに、有色人種が何人か見られた。
「この病院にはお金持が集まっているのだわ、きっと。近くのリゾート地に泊まりながら、外来の治療を受けるのかもしれない。ヴァカンスと治療が一緒にできるから、病人にとっては理想郷」
 寛順の指摘の正しさは、正面玄関を出て、広い駐車場を眺めてみてはっきりした。車の半分はメルセデス・ベンツの高級車だった。
 玄関ホールに白一色ではない彫像があった。
 女性が花束を右手にかかげ、人を誘っている像だが、左肩から胸、腰にまとっている布に色がついていた。舞子は近づいて像に手を触れ、声をあげそうになる。衣服の部分だけは、緑がかった色違いの大理石だ。
「白の大理石と色つきの大理石をつなぎ合わせたのでしょうね」
 寛順も感心した。「でもどこでつないでいるのか全く判らないわ。色つきの大理石で洋服を作って、白の大理石の肌の上に着せたよう」
 緑がかった大理石の複雑な模様が、そのまま衣服の柄になっている。左肩にかけられた布は左の乳房だけを覆い、裾《すそ》の方は石とは思えない軽やかさで、風になびいていた。
「そろそろ時間」
 見とれていると寛順が言った。「わたしは十二時頃プールの傍にいる。終わったら来てね」
 寛順とはそこで別れた。
 
「ミズ・マイコ・キタゾノ?」
 ガラスでできた自動扉が開き、中から出てきた中年の婦人が訊いた。金髪を後ろに束ね、薄化粧にルージュだけをひいている。じっとこちらに見入る瞳《ひとみ》の色が、ブラウスの青とほとんど同じだった。
「イエス」
 思わず答えた。英語が口をついて出たことに満足する。
「ドクター・ジルヴィー・ライヒェル」
 中年女性は自分の名前のあとに何か続けたが、舞子には身ぶりだけの分しか伝わらない。
 案内された部屋は薄暗く、調度品が少ない。壁に掛けられている絵は、水滴を画面一杯に描いている。同じ画家のものを日本の美術館で見た記憶があった。
「長い旅をよく耐えました」
 ソファーに向かい合って坐《すわ》ったとき、ジルヴィーが言った。不思議によく分かる英語になっていた。
「ミズ・キタゾノは選ばれた人です。この病院であなたは、さらに選ばれた人間になります」
 ジルヴィーの眼がじっとこちらを見つめる。口に出して答えなくても、気持を汲《く》み取るような視線だ。
「受精《コンセプシヨン》の前に準備期間が必要です」
 コンセプションの意味が分からないと思った瞬間、ジルヴィーはその単語の説明をした。
「いいですね、心身ともに最高の状態に達したときに受精が成立します。わたしの面接も、そのためのものです」
 それから大事なことがもうひとつ、とジルヴィーは続ける。
「ここで体験したことは、わたしが解禁するまでは誰にも言ってはいけません。せっかく昇りつめた最高の状態が、その瞬間壊れてしまいます」
 ジルヴィーの唇が動くのを舞子はじっと見つめる。唇から漏れ出る英語が、まるで日本語のように頭のなかにはいってくる。
「分かりました」
 舞子は答えていた。
「行きましょうか」
 ジルヴィーが舞子の手を取る。患者を誘導する看護婦のような動作だった。
 彼女のあとに続いて、ぶ厚い絨毯《じゆうたん》の上を歩く。両方に部屋があり、やはり大理石像が左右交互に置かれている。すべてが母子像だ。
 右から四番目の扉を彼女は開け、舞子を招き入れる。紫がかった薄明かりのなかで、椅子《いす》に坐らせられた。部屋の奥行きが分からず、じっとしていると、ジルヴィーが扉を閉めた。
「マイコさん、しばらくぶりです」
 独特の訛《なま》りのある日本語が天井から降りてくる。辺留無戸《ヘルムート》の声だった。
「そのまま立ち上がって、前方に進みなさい。いつものように装置をのぞき込むのです」
 声が半ば命令調に言う。
 舞子は立ち上がり、一歩二歩と進む。
 双眼鏡のような穴に両眼を当てる。光が激しく点滅し、その間に赤い左マンジの模様がとらえられた。
 目を離すと不透明ガラスの扉が左右に開き、更に一歩前に出たとき、背後で扉が閉じた。
 その瞬間、眼前が明るくなり、立ち現れたのは、記憶に残っている光景そのものだった。
 大きな火炉の中で火が燃え盛り、辺留無戸が経文を唱えながら、小さな札を次々と投げ込んでいる。踊るように形を変える炎に、舞子の眼は吸い寄せられる。辺留無戸の唱える低い声が耳に快い。
 さまざまな迷い、辺留無戸がかつて言った言葉によれば、罪と汚れが、炎と呪文《じゆもん》によって浄められるというのは、おそらく本当なのだ。火を見つめ、経文を唱える声を聞いていると、身も心も澄みきっていく。
 舞子は眉山寺《びざんじ》の境内に立った雪の日を思い出す。一面の銀世界のなかで椿の花が一、二点、血のしたたりのように咲いていた。
 古い御堂が境内の奥にぽつんと建っており、舞子は足跡ひとつない雪を踏みながら、近づいたのだ。何かそこに仏像が安置されているような気がし、もしそうなら、安らかな顔に手を合わせてみたいと思った。
 外の寒気から逃れるようにして御堂にはいった瞬間、静けさとは反対の熱気にまず圧倒された。低く、しかし力強い呪文が堂内に満ち、炎から放たれる熱気が、冷えきった身体《からだ》に突き刺さる。
 舞子は立ちすくむ。不動明王の像が炎の向こうからこちらを見据えていた。予想していた静謐《せいひつ》な表情の仏像とは正反対の怒りの形相に初めは後ずさりした。ところが次の瞬間、その怒りの感情が、こちらの気持にすんなりとはいり込んできたのだ。悲しみにうちひしがれているとばかり自分では思っていたのだが、実はそうではなかった。怒りが悲しみの裏にべっとりと張りついていたのだ。不動明王がその悲しみのヴェールをはぎとり、裏にある怒りを掴《つか》み出していた。
 怒りの形相を眺めている両眼から涙が溢《あふ》れ出してきた。一体、わたしが何をしたというのだろう。明生が何をしたというのか。あのとき、心の底から天を恨んだ。この世をあらしめているものを恨んだ。この世にあるすべてに、呪《のろ》いの言葉を投げかけた。呪いながら何度も何度も泣いた。もう涙は涸《か》れてしまっていたはずなのに、不動明王の怒りに誘われた涙は違っていた。怒りを洗い流す涙だった。
 新たな涙を流し終え、再び不動明王の顔を凝視したとき、初めの怒りの形相の陰に微笑が感じられた。お前の怒りは充分分かった。もう泣く必要はない。──そう言っているように見えたのだ。
 今、辺留無戸の向かい側に立って、こちらを睨《にら》んでいる不動明王も同じ表情をしている。怒りの下に透けて見えるのは、如来像の優しげな顔だ。
 ──会わせて下さい。明生さんに。
 舞子は辺留無戸の背中ごしに、不動明王に語りかける。その願いに応えるかのように、炎がひときわ高くなり、読経の声が強まった。
 炎は人の怒りを燃えつくすもの、読経はその怒りを慰めるもの。いつか辺留無戸が語ってきかせた言葉が蘇《よみがえ》る。
 どのくらい時間が経ったか。読経が止み、炎が少しずつ勢いをなくしていく。
「マイコさん、もう一歩先に進んで下さい」
 背を向けたままで辺留無戸が言った。
 言われた通りに、舞子は一歩、祭壇に近づく。すると眼前にあった祭壇も不動明王も一瞬にして消え、暗闇《くらやみ》に戻る。音もしない。まるで奈落《ならく》の底につき落とされたような錯覚にかられる。自分の身体さえも、周囲の暗がりに溶けこんでしまっている。
 少しずつ目の前に光が射し込んでくる。
 黄色がかった壁、その前に広がる白砂利と灰色の石が視野にはいってくる。さらに明るさが増すと、手前に縁側と障子がはっきりと形を成し、すぐ右側の畳の上に辺留無戸が正座をしていた。微笑しながら舞子を見やった。
「マイコさん、旅はどうでしたか」
 返事を待つかのように口をつぐむ。
「楽しみました。ここでの生活も楽しんでいます。まだ始まったばかりですけど」
 自分の発する声が、微妙にどこかに反響する。それに反して辺留無戸の声は直接耳に届く。
「それは良かった。マイコさんが、きっと気に入ってくれると思っていました。何もかもが日本とは違うでしょう。いろいろな人間が一緒に生きている国、松林の代わりにヤシの生い繁る海岸」
「ここで知り合った韓国の友達が、まるで自分が裏返しになったようだと言いました」
「裏返し? ハハハ、それは面白い」
 辺留無戸は口元に皺《しわ》を寄せて微笑する。深く納得したときの癖だ。
「表にあった自分が裏になって、裏に隠されていた自分が表になるような──」
「それはいいことです。自分の隅々まで知ることになる」
 辺留無戸は深々と頷《うなず》く。「ほらマイコさん、この庭を眺めて下さい」
 辺留無戸はゆっくり顔を石庭の方に向けた。
 玉砂利と壁の対比が美しい。自然を模しながら、自然とは反対の極にある人工的な美しさだ。
「気持がなごみます。ブラジルにいて、日本の庭に接することができるなんて」
「私はいつでもここにいます。マイコさん、もう一歩前に進んで下さい」
 辺留無戸の言葉に従って、舞子はおずおずと右足を踏み出す。縁側と辺留無戸の姿が消え、石庭が次第に薄らいでいき、再び闇が周囲を包んだ。
 舞子は暗闇の中に立ちながら、期待に胸を膨らませる。この不安定な気分は、以前にも経験していた。何か快いことが待ちかまえている予兆が、身体を少しずつ染めあげてくる。もう時間に身を任せていればいい。
 周囲が少しずつ明るくなっていく。透明な曲面の仕切りでできた迷路が、眼の前に立ち現れる。足元も透明で、まるで氷の上を歩いている感じがした。
 天井は暗く、どのくらい高いのか判らない。
 ──いつもと同じに、通路に沿って進んで下さい。
 辺留無戸の声がどこからか響いてきた。
 舞子はゆっくり歩く。通い慣れた道のような気がする。何度か曲がるうちに、迷路の中央付近に到達した。
 ガラスでできた寝台も、かつて見たのと同じだった。
 ──さあ、もう分かっているでしょう。そこに横たわるのです。
 辺留無戸が命じるままに、寝台に上がった。四角いガラスの枕《まくら》に頭をのせる。
 天井に眼が向く。寝台の上方だけが、井戸の底を逆さにしたように、どこまでも高く突き抜け、その奥に小さな光がいくつも点滅していた。
 目を閉じた瞬間、頭の一部をフードが覆う。身体全体から力が抜けていく。
 ──そう。それでいい。以前の要領通り──。
 辺留無戸の嬉《うれ》しそうな声が耳に届く。
 
 海岸に立っていた。足元を波が洗うと、粉のように細かい砂が足裏で動いた。青い海が陽光を反射している。右にも左にも弓なりに広がる砂浜は、遠くにひとつ人影があるだけで、他に動くものといえば波だけだ。
 人影がまっすぐこちらに近づいてくる。顔の輪郭がはっきりする前から、舞子はそれが誰だか判っていた。彼が手を上げる。舞子も右手を上げて振る。間違いなく明生だ。
 お互いの顔が見分けられるようになると、もう胸が張り裂けそうになる。明生は近づくなり舞子の腰に手を回して抱き上げた。一回転二回転、よろけてそのまま二人とも砂の上に倒れ込む。
「やっぱり、来ていたのね」
「いつも舞子のいる所にぼくはいる。会いたかった」
 明生は舞子の唇を口で塞《ふさ》ぐ。
 紛れもない明生の身体だ。舞子は明生の背中を手で確かめる。
「泳ごう」
「でも用意してきていないわ」
「水着がなくても平気。上着だけ脱げばいいのだから。この土地の若者はみんなそう」
 明生はTシャツとジーンズを脱ぎ、シューズの上に重ねる。舞子も下着だけになる。ブラジャーもはずした。スリップの下はパンティだけだ。恥ずかしくはない。砂浜には二人しかいない。海も浜もひとり占めできるのだ。
 手をつないで波の中に足を踏み出す。渚《なぎさ》から眺めていたときと比べて、波は思っていた以上に高い。うねりがくるたびに身体が揺れ、舞子は明生の手を固く握りしめる。
「プールで一緒に泳いだのを思い出す。舞子は覚えているかい」
 明生が顔を向けた。
「覚えている。でも、プールでは手なんかつなげなかった。並んで泳ぐか、明生のあとについて泳ぐか」
「ぼくが舞子の後ろを泳いだこともある」
「海は初めてね」
「初めて。しかも大西洋だ」
 足が立たなくなって、舞子は平泳ぎになる。明生もそれにならった。波のうねりは泳ぎを妨げるほどではなかったが、波と波の間にはいった瞬間、岸も水平線も見えなくなる。波でつくられた溝のなかに、二人だけ残されたようだ。長い溝のなかに埋もれて立ち泳ぎをし、明生と向かい合う。しばらくすると今度は波の頂上に押し上げられ、左右に視野が広がる。一方は島影ひとつない水平線、他方は延々と続く砂浜。浜の向こうにヤシの緑が帯状に連なっている。
 再び波の間におさまったとき、明生の姿がないのに気がつく。「明生」と思わず呼んだ。こんなところにひとりぼっちなんていやだ。泣きたくなる。「明生、どこ」
 本当に泣きべそをかき始めた瞬間、明生の頭がすぐ傍にぽっかり浮き出る。
「だめよ、びっくりさせちゃ」
「大西洋の素もぐり」
 明生は片手で立ち泳ぎをしながら、手のひらの中の小さな石を見せる。
「こんな石がいっぱいある」
 明生は石を捨てて泳ぎ出す。
「置いていったら、駄目」
 舞子も後を追う。平泳ぎでひとしきり進んだあと、明生が振り返った。岸がさらに遠のいていた。
 舞子は急に不安になる。このまま黙っていれば、明生はどんどん沖へ行ってしまいそうな気配だ。岸に戻るつもりなんかなさそうにも思える。
「明生、恐い」
 後ろから呼びかける。明生は泳ぎをやめ、振り返る。波のせいで、明生が舞子を見おろす恰好《かつこう》になる。明生は笑ったままで答えない。今度は舞子のほうが高くなり、波の谷間にはいった明生を眺めおろす。シーソーゲームの感覚が、よけい舞子を不安にさせた。
「岸に戻ろうよ」
 舞子が泣きそうになりながら言ったとき、明生がすっと近づいた。
「じゃ、ぼくの背中に乗るかい。親亀の上に子亀が乗るように」
 明生が平泳ぎの姿勢で誘う。明生の傍にいられるならどんな泳ぎになってもいい。
 舞子は明生の肩に手をかける。すぐに波が襲ってきて、二人とも頭から海水をかぶる。それでも舞子は手を放さない。
 明生は力強く腕を動かす。沈みそうになっても懸命に泳ぐ。舞子を背負っているので、足は自由にならない。二つめの波は何とか乗り越えられた。そのあと要領が分かり、波の頂点に立ったあと、坂を下るように二人が一体となって一心に泳ぐ。明生が腕で漕《こ》ぎ、舞子が足で蹴《け》るのだ。
 ぴったり密接した身体《からだ》が快い。抱きついた腕の下で、明生の肩甲骨が逞《たくま》しく盛り上がり、伸縮を繰り返す。何度かまた波をかぶったが、もう恐くなかった。明生にしがみつくことで、奇妙な安堵《あんど》感が生まれていた。
 波が来る毎に渚が近づき、もう足が立ちそうになる。それでも明生が泳ぎ続けるので、舞子も身体を預ける。最後はもつれあって渚に打ち上げられた。
「途中で溺《おぼ》れるかと思った」
 肩で息をしながら明生が言う。
「わたしはもう安心だと、大船に乗った気持」
「途中で舞子が手を放すかと思ったけど、最後までくっついているので必死だった」
 スリップの下に透けて見える肌が気になって、舞子は腕組みをする。
 浜に人影は見えない。立ち上がって深みまで行き、身体についた砂を洗いおとした。
 衣服を脱ぎ捨てた場所が、波打ち際から遠ざかっていた。引き潮なのだろう。衣服を手に取り、裸足《はだし》のまま砂浜の奥まで行く。タオルがなく、ハンカチで肌を拭《ふ》いた。濡《ぬ》れたハンカチを明生が絞って、自分の身体をぬぐう。
 靴の上に腰かけているうちに、明生の身体は乾き始めている。舞子のスリップも、三十分も風にさらしていれば乾きそうだ。
「本当に嬉しい。明生と一緒で」
 舞子は、こみ上げる嬉しさをそのまま口にした。
「ぼくたちだけの海、ぼくたちだけの砂浜。好きなときに、二人でここに来ることができる」
 明生は同意を求めるように、舞子に顔を向ける。
 舞子は目を閉じる。明生がキスをしてくれるのを待ち受けた。明生の唇を感じたとき、身体から潮が引くように力が抜け出す。
 乳房にも明生の唇があたる。忘れかけていた感覚が蘇《よみがえ》る。
「会いたかった」
「わたしも」
 感激で胸が張り裂けそうだ。明生の存在を確かめたくて、胸元にある明生の頭を両手でとらえた。明生の舌のなかで乳首が固くうち震える。
 明生の手が舞子の身体を愛撫《あいぶ》する。喜びは二重奏になり、明生がかなでる調べを目を閉じて聴いた。風の音も波の音も消えて、快い身体の調べだけが鼓膜に響いてくる。
「抱くよ」
 明生が耳元で囁《ささや》く。「抱いて」舞子は答えた。
 もう身体全体が明生を迎え入れていた。明生との接点を局部に感じ、その接点が波紋のように拡がっていく。明生の唇がうなじを這《は》い、耳たぶに達し、また乳首に戻る。
 舞子はのけぞりつつ、両手で明生の身体をまた確かめる。筋肉質の背中、そしてなつかしい臀部《でんぶ》のふくらみに爪《つめ》を立てる。
 明生は舞子の名を呼びながら動きをやめない。やめて欲しくはなかった。舞子は明生の臀部をさらに激しく抱え込みながら、オーガスムが湧《わ》きあがってくるのを感じた。波のようなうねりで、次第に身体が浮き上がり、頂点に達したあと、またゆっくりと谷間に沈むが、それは次のより高い波の訪れまでの序曲にすぎない。
 明生が激しい息づかいの下で、舞子の名を呼び続ける。二つの肉体がひとつの塊となって、波とともにせり上がっていく。
 それは先刻海の中にいた時の感覚にそっくりだった。岸に近づくにつれて波は高くなり、明生に重ねた舞子の身体は、白しぶきをたてる最後の波とともに、渚に打ち上げられる。
 明生の身体を感じながら、舞子は波の音を聞いていた。時折、鳥の声が混じる。海鳥の声ではなく、ベランダで耳にした鳥の鳴き声だ。
 首筋を風が撫《な》で、日陰が移動していく。足先に日の光を感じる。
 満ち足りたひとつの肉体。感覚のすみずみまでが、充分の酸素を与えられたように潤っている。
 舞子は目を開ける。自分の身体だけに柔らかい光があたり、周囲は薄暗い。身体も乾き、衣服の乱れもなかった。
 渚に横たわっていた身体が、いつの間にかここに運ばれていたような錯覚がする。明生の身体を抱きしめたときの感触、明生の声を聞いた聴覚、そして明生とともにオーガスムに達したときの悦《よろこ》びが、太い芯棒《しんぼう》のように身体をつき通している。
 満ち足りた気分で舞子は寝台からおりる。立ち上がった瞬間、足を踏み出す方向だけがほんのり明るくなる。月光に照らされた道のようだ。明るさに従ってゆっくり歩いた。
 最後の扉が開くと、石庭の見える座敷が眼前に広がっていた。辺留無戸の姿はなかった。舞子はしばらくそこにたたずみ、石庭を眺めやる。
 赤い壁、左マンジを形どった玉砂利、散在する石。
 二十分もそこに立っていただろうか。読経の声が低く耳に届いて、舞子はわずかに位置を変える。その瞬間、目の前の光景が御堂に入れ替わっていた。
 辺留無戸が背中を向けたまま、読経をしている。像は、目を見開いて怒りの表情で舞子を睨《にら》みつけていた。
「それではまた明日、同じ時刻に」
 読経が途絶えたとき、辺留無戸が言った。
 舞子は彼の背中に向かって深く頷《うなず》く。
 辺留無戸の読経の声が一段と高くなる。不動明王の像が次第に遠ざかっていき、周囲が暗くなる。
 眼の前に扉があり、踏み出すと左右に開いた。
 明るい廊下に出た。赤ん坊を顔の高さまで抱き上げている婦人像が、向かい側に置かれていた。赤ん坊は笑いながら、小さな手を広げ、母親のほうは頬《ほお》に口づけをしようとする。ほほえましい情景だ。
 ジルヴィーが部屋から出て来て舞子の肩を抱く。
「ミズ・キタゾノ、大成功でしたよ」
 彼女の声が耳元でささやいた。
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