エレベーターの中で腕時計を見ると十二時少し前になっていた。二時間近くを、明生と一緒に過ごした計算になる。身も心も満ち足りていた。明生がここに来ているのは確かだ。
回廊に大理石像が並んでいる。舞子は改めて、ひとつずつ鑑賞する。山菜摘みをする女性、水瓶を頭の上に担いだエプロン姿の女性、タンバリンを持つ踊り子、水浴びをする前だろうか、衣服を足元におとしてしまっている女性。そして舞子が一番気に入っているヴェールをかぶった女性像は、花籠《はなかご》を手にした娘の像の横にあった。
舞子は奇妙な事実に気がつく。大理石像は例外なく白人女性をモデルにしていて、身体つきと容貌《ようぼう》には、黒人や東洋人の特徴は何ひとつ見られない。ブラジルが人種の見本市と言われるくらいに、多民族が共存して暮らしているのとは対照的だ。この病院の所有者、あるいは内装を担当したデザイナーは、白人崇拝主義者なのだろうか。
同じ白人女性像でも、ヴェールの女性だけが際立っているのは、囚《とら》われ人という異常な事態にあるからだ。自分が魅《ひ》かれたのもそのせいなのかもしれない。これから毎日のようにこの像の前を通るに違いない。そのたびに、この囚われた女性像が自分を呼びとめるような気がしてくる。
廊下を抜けると、レストランの向こうにプールが見えた。肥満体の男女が水の中にはいり、水球に似たゲームをやっている。男女合わせて十人ほどで、白と青の帽子でチームを判別できる。泳いで移動する者はほとんどおらず、歩くか、投げるかだが、ボールは予期しない方角に飛んでいき、そのたびに嘆声が上がった。おそらく、肥満の治療として運動をさせているのだろう。端の方にいる女性は、水着からはみ出した二の腕が丸太のように太い。
プールサイドにあるカフェテラスも賑《にぎ》わっている。パラソルの下で寛順《カンスン》が手を上げた。白いワンピースを着た金髪の女性が一緒だ。
舞子が近づくと、彼女のほうが椅子《いす》を一脚用意してくれた。
「舞子、こちらはユゲット。フランスから来ているって」
寛順が紹介した。
舞子も片言の英語で自己紹介をする。ユゲットの英語は、寛順ほど流暢《りゆうちよう》ではなく、舞子も気おくれせずに英単語を並べることができた。
「ユゲットは一階の滞在棟にいるのですって」
寛順がゆっくりした英語で言う。もうユゲットの前では日本語を使わないつもりらしい。
ウェイターが注文を取りに来る。
「昼食にはサンドイッチがお薦め。中に挟んだハムと野菜がおいしい」
ユゲットが勧める。青灰色の瞳《ひとみ》がキビキビとよく動く。三人とも同じ物を頼み、飲み物を追加した。
「どのくらい、ここにいるのですか」
舞子の質問に、ユゲットは三本指を示した。日本人と違って、立てるのは小指と薬指を残した他の三本だ。
「だから、もうこの辺のことは大てい知っているって」
寛順が補足する。
「とっても面白い所。この近くの村も、サルヴァドールの町も」
ユゲットは休まずにしゃべる。「ここはポルトガルとアフリカを一緒にしたようなところ。わたしが戸惑ったくらいだから、あなたたち二人は、もっと驚いたでしょう?」
「昨日着いたばかりで、びっくりの連続」
「たった一日で、もう一ヵ月もいたような」
舞子も寛順に同調する。
サンドイッチは、焼いたトーストにハムと卵焼き、トマトとパパイアが挟まれていた。
オレンジジュースには氷が入れられて、渇いた喉《のど》に心地良い。
「運動を心がけていないと、太ってしまう」
ユゲットが言う。「でも、わたしはこれから太っていくだけ」
「あら、どうして」
ユゲットがどこか嬉《うれ》しそうな表情を見せたのを不思議に思って、舞子は訊《き》いた。
「お腹に赤ちゃんがいるの」
代わりに寛順が答えていた。
「今でも少し大きい」
ユゲットは椅子をずらして、自分の腹部を手で触れてみせる。ワンピースの上からではさして目立たないが、スリムな体型の彼女にしてはこころもち大きくなっているようにも感じられた。
「わたしもう行かなくちゃ」
寛順が腕時計を眺め、ジュースを口に入れる。「夕方、またここで会おうね。舞子は部屋に戻っているでしょう」
「うん、寛順の戻る頃には部屋にいる」
寛順が本館の方に行くのを、ユゲットと二人で見送った。プールの中でのゲームは終わり、中年の男女はプールサイドに上がっていた。座椅子の形をしたデッキに横になり、本を開いている女性もいたが、腹の周囲は二メートル近くあるに違いない。小山のように盛り上がっていた。
「あの人たち、ドイツや北欧から来ているのよ」
眼で示しながらユゲットが教えてくれる。
「やっぱり、肥満の治療?」
「そう。ひと月で十キロおとすというのが、この病院のうたい文句」
ユゲットが身振りを混じえて説明する。ひと月十キロだと半年で六十キロ、百キロある女性も、六ヵ月後には四十キロの均整のとれた身体になるのだ。西欧の金持たちがこの病院に殺到するのも分かる。
「じゃ、ひと夏ここで過ごせば、六十キロの人は五十キロ、七十キロの人は六十キロになるのね」
「そう。バカンスを楽しみながら十キロの肉をおとせる。毎年来る患者もいるそうよ」
「毎年来るとしたら、痩《や》せていくばかりじゃない?」
「そこよ、問題は」
ユゲットの目がいたずらっぽく輝く。「マイコはダイエットしたことないの?」
「したいけど、どうせできないから」
「したことがあるなら分かるはずよ。十キロ減らしても、十キロなんかすぐに元に戻ってしまう。ときにはおまけがつくこともある。だから、一年に一回ここに来て十キロ痩せて、国に帰ったら一生懸命頑張って、次のバカンスまで十キロのオーバーウェイトにとどめればいいのよ」
ユゲットの口にするブロークンな英語が楽々と耳にはいってくる。舞子も頭に浮かぶ英単語を臆《おく》せずに並べたてた。
「じゃ、あの大きな人たちも、また同じようになって戻ってくるのかしら」
「多分そうよ。確かめてはいないけど」
ユゲットは明るい笑い声をたてた。互いに片言の英語を口にしているだけなのに、思いが通じ合うのが不思議だ。人は同じような環境に置かれると、短い言葉や仕草のみで意思疎通ができるのかもしれない。飼育箱の中のハムスターたちが、言葉なしで仲良く生きているのと同じだ。
超近代的な病院とリゾートホテルを融合したような施設、目の前に広がる青い海、ヤシ林。そのなかに世界各地からやってきた富裕な患者たちが入れられている。いや泳がされている。
「わたしの担当医は日系三世よ」
ユゲットがぽつりと言った。「ドクター・ツムラ」
「この病院で診てもらっているお医者さん?」
産婦人科という英語が分からず、舞子は知識の範囲でなんとか単語を並べたてる。
「そう。サンパウロの医学部で勉強したって」
「いくつぐらい?」
「三十二歳だと言っていた。日本人って若くみえる。マイコだってそう。フランスに行けば、ハイティーンと間違えられるわ。きっと」
「ハイティーンなんて、ずっと昔」
舞子は答えながら、女子高の制服を思い出す。深緑の上着にチェックのスカートで、入学前から憧《あこが》れたスタイルだった。それがもう遠い昔のことに感じられる。
「そのドクター、日本語できるの?」
「知らない。わたし、日本語できないから。いや待って、グッバイがサヨナラ。あとはトヨタ、ニッサン、スシ、ハイク」
ユゲットは一生懸命、記憶の中から日本語を引き出す。こんな混じりっけのないフランス人の頭の中に、日本語の単語が詰まっていたなんて驚きだ。ただし俳句がアイクに聞こえる。
「今度の診察のとき、何か日本語で言ってみる。彼が日本語を知っていれば驚くわ。何がいいかしら」
「お願いします、はどうかしら」
「オネガイシマス? どんな意味?」
「診察室にはいるときに患者が言う言葉。相手の先生の反応が面白いわ、きっと」
「オネガイシマス、オネガイシマス」
ユゲットが口ずさむ。
「お願いします。何か頼みごとをするときには、いつでも使える」
「じゃ、シルヴプレと同じね。フランス語の」
「シルヴプレ」
舞子も真似をしてみるが、舌がもつれそうになる。ユゲットは顔を舞子の方に向けてゆっくり発音する。テレビ会話の講師そっくりだ。ユゲットの可愛い舌が上にまくれ上がり、丸まった唇が前に突き出る。
舞子の発音を五、六回直して、ユゲットはようやく満足する。日本語を覚えるのは大雑把《おおざつば》なくせにフランス語を教えるとなると厳格で手抜きがない。不公平のような気がしたが、最後に言ったシルヴプレは、ユゲットを大いに満足させた。
「少し散歩してみようか」
ユゲットが誘った。まだ海辺に立っただけで、病院の周辺はほとんど知らなかった。
朝、猿たちが戯れていた小径《こみち》に出た。アーチェリー場に、七、八人の男女のグループがいて、小柄な指導員から手ほどきを受けている。
「寛順はダンスのレッスンに出たいと言っていたわ」
「ダンスも何種類かあって、わたしがやってみたのはエアロビクスとサンバ」
「どちらが面白い?」
「サンバ。ステップが難しいけど」
ユゲットは立ち止まり、リズムを口ずさみながらステップを踏んだ。複雑な足の動きで、時折腰のひねりが加わる。舞子にはとうていできそうもないステップだ。
「先生はジョアナ、レストランの入口に腰かけている女性」
舞子に両手を合わせてオハヨウゴザイマス、コンバンワを言った混血の女性に違いない。彼女が先生ならいつか習ってみてもいい。
ヤシの木の陰に制服の警備員が立ち、トランシーバーを耳にあてていた。昨日よりは波の穏やかな海に、七、八人が遊んでいた。警備員は彼らの脱ぎ捨てた衣服を見張っている様子だ。
木製の座椅子《ざいす》が海に向かっていくつも並べられていた。背もたれの角度は調節できるらしく、寝そべっている者もあれば、安楽椅子のようにして本を読んでいる男性もいる。舞子は旅行ガイドと辞書以外の本を持って来なかったことを一瞬後悔した。日本語の本など、ここではとても手にはいらないだろう。となると、活字が恋しくなれば、辞書かガイドブックを隅から隅まで読むしかない。
しかし少なくとも今は本なんかいらない。大西洋のかなたから吹いてくるこの微風、汽笛さえも混じらないこの純粋な波音が自分の本なのだ。舞子は海に向かって胸をひろげ、深呼吸をする。
「どっちの方向にする?」
ユゲットが右と左の海岸をそれぞれ指示して訊いた。「こっちは長い海岸。こっちは村と灯台があるわ」
選ぶのはあなた、というようにユゲットは笑って見せる。ワンピースの腹部が、細身の身体《からだ》にしては心もち突き出している。
舞子は黙って右の方に手を上げた。村の方にはいずれ行ってみたいが、今はユゲットと二人だけで静かな海辺を歩いてみたい。
「だったら裸足《はだし》のほうがいいわ」
ユゲットはシューズを脱ぐ。舞子もそれにならった。草の上に二足を並べる。ヤシの木陰に立っていた警備員が、分かったというように頷《うなず》いた。
なるほど、細かい砂の上は裸足のほうが歩きやすく、快い。貝殻が全くないと思ったのは間違いで、砂の中に、砂よりも小さく砕かれた殻の破片が混じっていた。
後ろを振り返ると、ヤシの樹林のむこうに病院本館の白い建物がすっくと立っていた。コンクリートとガラスからできたその建築物以外に、ヤシ林から突き出している物は一切ない。二階建の滞在棟も、レストランなどのある建物群も、すべてヤシの樹海が包み込んでしまっている。
砂浜が河口で寸断されていた。病院の敷地の境界線になっている河だろう。深くはなさそうで、中洲《なかす》が二つできている。ユゲットは浅瀬を選んで舞子を誘導した。
流れはゆるやかで、膝下《ひざした》までの水深しかなく、まくりあげたパンツの裾《すそ》が少し濡《ぬ》れたくらいだ。二つの中洲の間で、子供が貝採りをしていた。姉弟だろうか、「ボーア・タールヂ」と声をかけたユゲットに顔を上げる。黒い肌にはめこまれた澄んだ目がキラキラ光る。弟のほうは舞子たちの見ている前で、さっそく貝を採ってみせる。川底に足を這《は》わせ、砂の下にある貝を探りあてて、得意顔で手で取り出す。アサリよりは大きな二枚貝が、ビニール袋に三、四十個入れられていた。
河口を渡りきると砂の色に白っぽさがなくなり、黄色味が増す。粒も小さく、足の裏の感触がさらに柔らかくなる。
前方の渚《なぎさ》を、白いものが覆っていた。細かい泡の集積は、広大な綿菓子のようだ。小さな塊から畳数枚分の広さのものまで、波打ち際に寄り集まっている。波がそれを移動させ、風が泡の先端をひきちぎっていく。海水を含んだ渚の泡は、わずかの風でも、すっと音もなく移動した。
「塩の花」
ユゲットが言った。
舞子は明生と訪れた九州の海岸を思い出す。規模こそ小さかったが同じような白い波頭が泡となって、花のように咲き乱れていた。明生は泡を口元にくっっけ、浦島太郎だとおどけてみせた。
ユゲットが一番深そうな泡の中に足を入れる。膝から下がすっぽり隠れて、雲の上に立っているようだ。舞子も真似をする。足にまつわりつく軽い泡が心地良い。渚は二、三十キロ先の小さな岬まで、すべて波の花で縁どられていた。
「どこかで休憩しようかしら」
ユゲットが砂浜の後方を指さす。砂浜に小さな断層ができ、その上は平たい台地になっている。
二人で砂の断層をよじ登る。足元の砂が崩れ落ち、何度かやり直して、ようやく登りきった。砂地に昼顔に似たつる草が這っている。ヤシの葉陰に腰をおろすと、前方に白い渚と島影ひとつない大海原が眺められた。
「お腹にあの人の子が宿っていると思うと、勇気がでてくるの」
金色の髪をかきあげて、ユゲットが言った。
「あのときは、もう自分も駄目かと思った。シャンソンの歌詞にあるのだけれど、また同じ朝がやってきて、同じように夜の来るのが不思議だった」
ユゲットがつる草の花を手のひらにのせる。きれいなピンク色だ。匂《にお》いがするのか鼻を近づけた。
「どうやって食事をしたのかも思い出せない。部屋のカーテンもおろし、明かりもつけずにいたわ。テレビだって見る気はしなかった。電話はいつもスイッチを切って留守の録音にしていた。でもね、アパルトマンの階段を上がる音がすると、アランじゃないかしらって、耳がそばだつの。じっとドアの内側で待ったわ。彼はノックを必ず三回したから、聞き分けがつくの。でも足音はそのまま四階の方に上がって行った。これが現実なのだと自分に言いきかす反面、そんなはずはないと、別な自分が否定する」
「本当にそう」
舞子は深々と頷く。現実か非現実か、二人の自分が言い争う状態は、体験者でないと理解できない。
「アランが事故に遭ったのは霧の深い日なの。トレーラーの運転手だったから、パリとリヨン、マルセイユの間のオートルートをいつも往復していた。運転は本当に好きだったの。どんなにムシャクシャする時でも運転台に坐《すわ》ると気が鎮まると言っていた。わたしも何度か助手席に乗せてもらったわ。アランの口癖は、わたしとトレーラーと仕事があれば、もう何もいらない。家がなくてもトレーラーの中で生活すればいい。子供ができたらトレーラーの中で育てると言うの。
でもね、わたしはそんなに車は好きではなかった。パリでは小さなシトロエンに乗っていたけど、バスと地下鉄の乗り継ぎが不便だから仕方なくそうしたのよ。小さな道から大きな道に出ると緊張して神経を使う。たまに環状線を走らなければならないときなど、もう嫌。みんなどうしてあんなにスイスイ運転できるのかと思う。わたしにはカーステレオも聞く余裕がない。もう必死でハンドルにしがみついているだけ。
アランはそんなわたしをなんとか教育したかったようよ。すぐ前の車ではなく、三台前の車から見ておくといい。できれば運転手の性別や年齢も確かめ、そのうえで運転の癖も観察して、性格も想像してみるべきだというの。嫌な運転の仕方だと思えば、その後ろにはつかずに車線を変更するか、後続車に前を譲るといいのだって。やっぱりプロなのね。そんな運転、わたしにはどんなに努力してもできなかった」
ユゲットはチラリと舞子の方を見やった。あなたはどう、と訊《き》きたげな視線だ。
「運転免許証は持っているけど、車がないからほとんど乗ったことはないの」
答えながら、舞子はユゲットが、アランを失った事故の話をあとへあとへと引き延ばしているような気がした。運転が好きで上手なアランが、いつか事故に遭遇してしまったのだ。
「これからもたぶん運転はしないと思うわ」
舞子は口にしていた。運転放棄の気持を、具体的に他人に表明したのは初めてだった。明生の事故のあと、もう運転なんかできそうもないと何度か思いながら、それについて改めて考えたことはなかったのだ。次の免許証の更新はしないと、舞子は今はっきりと思う。
「わたしももう車には乗らない」
ユゲットが言う。「夜の国道での事故。霧の中をトラックが中央線を越えて迫って来たの。急ブレーキをかけたトレーラーはジャックナイフみたいになった。アランが運び込まれた病院に着いたのが夜中の一時。パリから車をとばしながら、生きていて欲しいとそれだけ祈っていた。ムランという町の病院で、最初に脳外科の医師から頭の写真を見せられた。ああ、これは駄目だということかと血の気がひいたわ。
脳の写真がどうなっているかは、わたしには分からない。容器に入れたオムレツを床のうえに落とすと、オムレツが壊れてしまうでしょう。そんな具合にもうアランの脳がなっていると医師が言うの」
ユゲットは手のひらの上で花びらをそっと吹きやった。「そのあと病室に案内された。アランの頭は包帯がぐるぐる巻きで、口にも器具がつけられ、いろんな管が身体をとり囲んでいた。裸の胸は、確かにアランだった。でも、いくら呼びかけても、何も答えてくれない。不思議な気がしたわ。眠っているのなら、揺り動かせば目を覚ましてくれる。でもそうではないの。ただ、身体がそこにあるだけ。涙も出なかった。ぼんやりと坐って、アランの胸が機械仕掛けで上下するのを見つめていた。
アランの両親と妹さんがブルターニュから到着したのは、そのあと。アランは運転免許証の中にわたしの写真、移ったばかりの住所と電話番号のメモを入れていたのね。それでわたしにまず病院から連絡があったの。ご両親に電話を入れたのはわたしだった。お母さんはアランを見るなり気を失って、他の部屋に連れて行かれた。妹さんもお母さんに付き添って、お父さんだけがアランの傍に残った。
お父さんはもう医師から大体の話は聞いていたのか、わたしに向かって残念だとおっしゃった。息子はあなたを幸せにしてやると言っていた。自分もあなたと息子が幸せになるのを楽しみにしていた。あまりにも手放しで息子の幸せを期待していたので、神様が自分に試練を与えたのかもしれない。自分たち二人を許してくれ、と言われるの。わたしはもう泣くしかなかった。静かな涙なの。
アランを許さないなんて、お父さんを許さないなんて、そんなことありませんと、わたしは必死で答えた。でも、神様だけは許せない。わたしは胸の内で思った。いったいどういう理由で、わたしたちからアランを取り上げてしまったのか。わたしたちが一体何をしたというのですか」
ユゲットは海から吹いてくる風に顔を向けなおす。舞子は自分の足元に落ちたピンクの花びらを見つめるだけだ。
「結局、翌日、人工呼吸器をはずすのにお父さんが同意された。心臓や内臓、目の摘出にも、お父さんが署名した。アランがドナーカードを作っていたのは、わたしも知っている。わたしには強制しなかったけど、冗談ではよく言っていた。もしものときは、移植された人のところに行ってみてくれ。俺《おれ》の一部がそこで生きているから、慰みにはなるって。
でもね、とうとう行かなかった。行く気なんかしない。好きな人の存在なんて、その皮膚でも心臓でも目でもない。全体としての魂なの。たとえ身体がみんななくなったとしても、魂があればいいのよ。だから、アランの身体の一部がどんな人に移植されたか、わたしは知らない」
舞子はようやく顔を上げる。彼女の言うことは真実だ。亡き人の遺骨があったり、遺髪や爪《つめ》が家族のもとに届けられるが、それは何もないより少しましなだけで、生きているその人の代わりには絶対にならないのだ。そんな身体の部品よりも、むしろ愛する人の残した絵や文章のほうに、魂の存在は感じられる。
「ひと月くらいしてから思い出の場所に行った。アランが中学生の頃まで住んでいたモレという町があるの。パリの郊外よ。川に沿った古い町で、彼はそこの教会が大好きだった。教会は川の中洲《なかす》に、城砦《じようさい》のように建てられている。水かさが増しても平気なのね。両岸から石の橋で教会に渡るのだけれど、それだけでもう何か普段の生活から抜け出した気持になるのね。
礼拝堂は、ステンドグラスが上下に分かれているの。天井近くのと、床の上のと。上の方のステンドグラスには聖人たちの姿が描かれていて、下の方は村人たちの生活の図が表わされている。中にはいると本当に不思議な気持になる。下のステンドグラスは少し暗くて、明るさが微妙に変わるのよ。川面の反射光がガラスに当たるからなの。上の方のステンドグラスは、それに比べると明るくて、いかにも天上の国がそこにあるような気がしてくる。アランはそれが気に入っていたのね。そんなに信心深いほうではなかったけど、結婚式はその教会で挙げようと言っていた。
わたしはそこに週末毎に通ったわ。郊外バスに揺られて、麦畑の向こうにモレの町が現れ、もっと近づくと木立の陰に教会の屋根と尖塔《せんとう》が見えてくる。ほっとしたわ。アランの魂がそこに帰って来ていると思えてならなかった。週末に教会に行くために、月曜から金曜までを歯をくいしばって働いていたようなもの。教会を訪問できると思うと、仕事もなんとかこなせた」
ユゲットは、そのときの苦しみを想起するように、しばらく言い澱《よど》む。
先刻から浜の先にポツンと見えていた人影が、次第にはっきりしてくる。つばのある帽子をかぶり、橙色《だいだいいろ》のTシャツに白いショーツの男性だ。手にしているのは釣竿《つりざお》らしい。
「五、六回教会に通った時だったかしら。礼拝堂でたったひとり祈っているとき、神父さんから声をかけられたわ。ドイツ語|訛《なま》りがあった。もうかなりのお齢で、八十歳に近いようだけど、声は若々しく、背筋もピシッと伸びていて、わたしの顔にじっと見入るの。そして、あなたはずっと以前、男の人とここに何度か来ましたね。覚えていますよと言った。わたしは、急に胸が張り裂けそうになって、ワッと泣き出した。もう、神父さんがいるのも、礼拝堂であることも忘れて、声を出して泣いた。アランの事故があって以後、我を忘れて泣いたのはその時が初めてだった。それまでは悲しかったけど、泣けなかった。泣けばアランが悲しむようで、泣けなかった。我慢することをアランが望んでいるような気がしていたの。悲しみを自分で堰止《せきと》めていたのね。それが、神父さんのひとことで一気に噴き出した。その礼拝堂でなら、泣いてもいいと思った。
泣き尽くしたとき、神父さんはわたしの肩に手を置いて、ついて来なさい、あなたにふさわしい場所に案内してやると言われた。わたしは頷《うなず》いたわ。
川の中洲は中世の頃は本物の城砦《じようさい》になっていて、地下牢《ちかろう》や、船着場、倉庫などがあって、その一部を、領主が教会に造り変えていたのね。古い建物の部分は神父さんや修道僧などの居室に使われ、一般の市民は足を踏み入れられなかった。
神父さんについて行くと、なるほど、昔の城だけあって、階段や部屋が迷路のように連なっていた。石段を下って行き、長い通路を歩いた先で、ホールのような場所に出た。天井は高く、周囲の岩肌はいびつだけど人工的に削られて、いくつもの段差ができていた。
川の底の地下通路を経て、中世の石切り場に出たのだと、神父さんが教えてくれた。中洲の城を造るとき、そこの石を切り出して積み上げていったらしいの。
階段状になった壁のところどころに、黒っぽい四角の石が横に置かれてあった。神父さんはそれを指さして、教会創設当時からの歴代の神父、修道僧のお棺だと教えてくれた。棺の石材だけは、その土地の石ではないようで、もっときめが細かった。
そんな地下ホールの奥に、小さな祭壇が設けられていて、そこはもう別世界だった。ロウソクが何本もともされ、たぶん地上に開けられた窓からだろうけど、ひと筋の明かりがマリア像にふりかかっていた。ルネッサンスの画家たちがよく描いた聖母像があるでしょう。マリアがキリストを抱き、天上からの光が射し込んでいる絵。それとそっくりの光景が、実際に目の前に現れたのよ。わたしはあまりの荘厳さに、その場に立ち尽くしてしまったわ」
ユゲットはうっとりとした表情で言いさし、渚《なぎさ》を歩いていく黒人に眼をやった。釣竿を手にした黒人は、木陰にいる二人には当然気づいているはずだが、視線を合わせることもなく、まっすぐ前方を見たままだ。手にした網びくの中には小さな魚が何匹かはいっていた。
「神父さんは、ここが気に入ったなら、礼拝堂に来るたびに訪れていいとおっしゃった。嬉《うれ》しかった。毎日でも来たいと思った。だから、その町の近くの支店に転勤の希望を出したの。若い人はみんなパリに出たがっているから、逆に郊外への転勤は歓迎されるわ。ひと月後には転勤がかなって、そのモレの町に住み始めた。アランが少年時代までいた町だと思うと、元気が湧《わ》いてきた。教会にはほとんど毎日のように通ったわ。そして、神父さんの手引きで、アランと再会することができたの」
そうだったのだと舞子は納得する。自分もそうだったし、寛順も山の麓《ふもと》にある寺で恋人と会うことができた。
舞子はユゲットの腹に眼をやる。目立たないくらいに丸味を帯びている。満ち足りて、美しく輝くユゲットの顔。その横顔を眺めながら、自分も間もなく明生の子供を妊《みごも》ることができるのだと思う。