夕食時には三人が揃《そろ》った。目の下にあったくまが消え、寛順の顔が輝いていた。舞子とユゲットが行った海岸を自分も是非見てみたいと言った。
「時間は山ほどある。面接と診察以外はすべて自由時間。それをいかに生き生きと過ごせるかが大切だって、ドクター・ツムラにいつも言われる。母親の喜びがお腹の子に伝わるのね。受精前も同じよ。ヒトの身体《からだ》って畑の土壌と同じだと彼は言うの」
ユゲットはしゃべりながら、肉の塊にナイフを入れ、器用にフォークの先につき刺す。しゃべっては食べる一連の動作が実に自然だ。舞子はそうはいかない。肉を切り分けるとなると、それに全神経を集中して耳がおろそかになる。
前日の夜と違って、さまざまな肉が焼かれていた。給仕がサーベルのように長い金串《かなぐし》に突き刺した肉を持って、テーブルをまわる。客の求めに応じて、注文の量だけ鋭い包丁で切りおとしてくれる。シュラスコだとユゲットが教えてくれた。
舞子はほんの少しと言ったのだが、愛想の良い給仕はそんなに少しではおいしくないといった顔をし、こぶし大の塊を切り取ってくれた。肉の種類も調味の仕方も違った串が六種類ばかりあったものの、そのうちのひとつでもう満腹になりそうだった。
寛順のほうは、給仕に肉よりは野菜が好きだからと断ったので、巨大な肉塊を免れている。
「確かに、卵子をつくるときも、母親が幸せか否かで質が変わってくるのではないかしら」
寛順は舞子の意見を求めるように顔を向けた。うんうんと同意したあと、
「ユゲットも、受精前になにか特別に幸せな状態におかれたの?」
と訊《き》いた。
「そうね」
ユゲットは考える顔つきになる。「本当に、ずっとハッピーな状態だった、今もそれが続いているけど」
どんな具合にハッピーだったのか知りたくて、舞子は話の続きを待つ。しかしユゲットは言いさしたまま、楽器の鳴り出した舞台の方に眼を向けた。
前夜と違って、ボーカルは褐色の肌をした女性だ。三十代半ばで、黒い髪を後ろで束ね、身体の線を強調する黄色いドレスを着ている。
エネルギッシュな歌唱を予想していたが、静かな演奏にのった歌は、囁《ささや》き声に近かった。この国では、声を張り上げる歌は存在しないのだろうか。
「レストランの客を眺めても、病人とはとても思えない人ばかりでしょう。若いカップルも多いし」
ユゲットが周囲を見回す。
「新婚客の多い韓国の済州島《チエジユド》のリゾートホテルそっくり」
寛順が応じる。
「この病院の産婦人科は、先端の医療技術をもっているから、世界中から患者が集まってくる。患者といっても、すべてが病人ではなく、健常人が大半だけど」
「まさかクローン人間づくりではないでしょうね」
寛順が冗談混じりで言う。
「ドクター・ツムラの話では、人工受精と胎児診断の技術がとびぬけているって」
「それで、海岸にある寝|椅子《いす》がいつもカップルで満員なのね。ひとりで行くのが遠慮される」
舞子が言う。
「その人たちの病室は、別の場所にバンガロー風に作ってある。一戸建になっていて、自分で料理も作れるらしいわ。家庭生活の延長でもあるし、こんなレストランで旅行気分も味わえる」
「人工受精もいろいろなやり方があるのでしょう」
寛順がいかにも興味津々といった顔をした。
「それはよりどりみどり。試験管の中で受精させるものから、精子を母体に注入して受精させる方法まで。胎児診断も同じ。卵子の段階でもう診断ができるっていうの。ほら、自分が遺伝的に何か欠陥があるとするでしょう。いくつかの卵子のうち、その欠陥のない卵子だけを選び出すのよ。選び出された卵子は、試験管の中で受精させてもいいし、体内に戻して受精を待ってもいい。選択が可能なの」
ユゲットの医学的な知識は、彼女が保険会社に勤めていたのと無関係ではないような気がした。
「男性のほうも選べるのね」
寛順が質問する。給仕人が新たにラムの肉塊を持って来たのを、三人とも断った。
「男性の場合は知らない。でもそれは受精卵で調節できるのではないかしら。受精卵を取り出して、四個に分裂させるでしょう。それを全部調べれば、男性のほうの悪い遺伝子が含まれているかどうかは判る。悪いのは捨てて、立派なのだけを子宮に戻してやればいい」
「そうすると、途中で人工中絶しなくてもすむ」
寛順が感心する。しかし舞子には、悪い遺伝子といっても、具体的にどういうものをさすのか想像がつかない。高校の担任の娘さんがダウン症ではあった。四十歳近くなって妊娠し、羊水|穿刺《せんし》で胎児診断をしたら、ダウン症の可能性が大だという結果が出たが、出産のほうを選んだという。そんな悩みはおくびにも出さない底抜けに明るい先生だった。
「胎児ができてからの診断で中絶すれば、両親は罪の意識を感じるでしょうね、当然」
舞子はユゲットに訊く。
「赤ん坊の形ができていると罪の意識があって、できていなければ罪の意識がないというのは、本当はいけないと思うの。でもね、実際はそうらしいわ。羊水に浮かぶ胎児の細胞より前の段階は、たぶん子宮の胎盤。その細胞でも診断はつく。そうすれば、まだ人間の形ができていないうちに、その胎盤を流してしまえばいいのだから──」
ユゲットは、考えるように言いやむ。
女性ボーカルの澄んだ声が、レストラン内に霧のように沁《し》み入っている。複雑なリズムを軽々と歌い上げていく。意味は分からないが、単調なフレーズが繰り返された。
「でも、ドクター・ツムラが言うには、受精卵が四つに分裂したうちのひとつを選び、あとの三個を捨てるのと、人の形をした胎児を葬り去るのとは、本質的に差がないって」
「それはそう、確かに。理論上は」
寛順は言い、手を頬《ほお》に当てた。
「でもね、わたしはたとえどんな胎児であっても、生んで育てていくわ」
きっぱりと言ったユゲットの声は、女性ボーカルの静かな歌声と重なりあって、舞子の耳の底に残った。たぶん自分もそうだろうと思う。
「ユゲットも検査は受けたのでしょう? どうだったの」
寛順が冷静に尋ねる。
「ドクター・ツムラはセ・ボンと言うだけ」
「セ・ボン?」
舞子はオウム返しに訊く。
「立派だというフランス語よ。わたしが彼に教えたら、反対に使われてしまった。この料理も、おいしいのでセ・ボン」
「セ・ボン」
寛順も一緒になって笑う。皿の上にあった西洋アザミを口に入れ、しごいて食べる。舞子も彼女の真似をして皿に盛ったのだが、塩味がするだけのもので、何枚か食べてもう興味を失っていた。
三人で交互にテーブルを立ち、デザートを選ぶ。パパイアがのった舞子の皿を見て、寛順が喜ぶ。
「マイコの主食は、ライスの代わりにパパイア」
「最初に食べ過ぎると、あとになって見るのも嫌になる。反対に、最初は嫌だったものが、だんだんおいしくなる。舌が慣れてくるのね」
そう答えるユゲットがデザートに選んだのは赤紫のジャムだ。パンにつけて食べるのではなく、スプーンでそのまま口にもっていく。
まだ味見をしていない食物が大半残っていることに舞子は思い至る。これまでは、知っているものから手をつけていたが、土地の食べ物も努めて味わっていこう。まだ滞在は長いのだ。
八時少し前にレストランを出た。まだ半分の椅子が客で埋まっていた。プールの横のカフェテラスに席をとろうとしたとき、小ホールの方に人が集まっているのに気がついた。
「時々、ショーがあるから、それかもしれない」
ユゲットが言った。
小ホールは円型の造りで、丸太のままの木を柱につかい、屋根を支える桟も木製だった。腰をおろすだけの段差が、半円型に舞台をとりまいている。
観客は思い思いに階段状の座席に腰をおろし、舞台を眺めている。肌の色の違う男性が八人、舞台に立っていた。
袖《そで》に置かれたスタンドマイクを使って、黒人女性が何かしゃべっている。演目の紹介だろうか。
八人の男性のうち五人が弓のような楽器を手にしていたが、舞子は小柄な男性がロベリオだと気づく。サルヴァドールの空港から病院まで付き添ってくれた職員だ。
「カポエイラ」
ユゲットが教えてくれる。「この地方の民族舞踊。踊りと武術を一緒にしたもの。ジュウドウやアイキドウと似ている」
ユゲットが合気道《あいきどう》まで知っているのには、舞子も恐れ入る。
男たちの服装は上半身裸で、下半身は柔道着を少し長くしたようなズボンをはいている。
弓の形をした楽器は、弦の下方にヤシの実を半分に切った共鳴箱がついている。断面を身体に押しつけたり、離したりして音に強弱をつけているものの、一本弦から出る音は単調だ。八人全員が時々かけ声を出す。同じリズムで同じかけ声が反復されるうちに、奇妙な一体感が聴衆にも伝わってくる。
やがて、楽器を持たない三人が、素手で空手のような型を披露し始めた。両手を前に突き出したり、上方に上げたりするが、不思議に音楽と同調している。空手と異なるのは、動きがゆるやかで丸みを帯びている点だ。|太極拳と《たいきよくけん》も似ているが、舞台の端から端まで大車輪のように転がっていくところには、踊りの要素も感じられる。
「弦楽器だけど、打楽器と同じね。素朴な楽器。これなら誰でも作れそう」
じっと眺めていた寛順が言う。弓は竹でできており、共鳴箱はヤシの実、爪《つめ》はどうみても、その辺にころがっている平らな石だ。音の高低は指では調節できない。
「武道と踊りと音楽の組み合わせとは、よく考えたわ」
舞子の正直な感想だ。農民たちは支配者から隠れて、武術の練習などできない。踊りだと偽れば、領主の目もくらますことができよう。それに音楽もつければ、もう怪しまれずにすむ。
「この音楽にはアフリカを感じない?」
ユゲットが寛順と舞子に訊く。「アフリカからサルヴァドールに連れて来られた黒人たちは、何とかして音の出る物を作ろうとした。竹とヤシの実と石、それが原料。動物の皮もいらない。そして掛け声。
ほらこのリズムにはアフリカの音が引き継がれている。遠い故郷を思い起こしながら、歌ったのよ。だから、力強いリズムの裏にもの悲しさがある」
ユゲットはじっと舞台に眼を注ぎ、耳を傾ける。その思いで聴けば、単調な掛け声は悲しげでもある。少なくとも喜びに満ちた声ではない。どちらかと言えば、耐え忍ぶ声だ。
今度ロベリオに会ったら、楽器を近くで見せてもらおうと舞子は思う。
踊り手の上半身に汗がふき出し、ロベリオたち演奏者の額にも汗がにじんでいる。曲は二十分も続いただろうか、歌い手が一斉に声を上げたところで踊りも音も止んだ。八人が足早に舞台の袖に引っ込み、アナウンスもないままにショーは終わった。
「ブラジルって不思議な国。とてつもないお金持がいるかと思えば、その傍にその日の暮らしにもこと欠く貧しい人がいるのね。その貧富の差に誰も驚かないの、皮膚の色がさまざまな人がいて驚かないのと、全く同じなのよね」
部屋に戻るときにユゲットが言った。
「それじゃ、またあした」
寛順にも挨拶《あいさつ》して自分の部屋にはいった。
ドアの下に、前夜と同じようにメモ紙が置かれていた。
〈明朝九時、最初の診察。本館一階、一〇八号室〉
英語の文字はそんなふうに読みとれた。