本館一階にある産婦人科外来は独特の造りになっていた。中央に衝立《ついたて》で区切られた広い待合室があり、患者はそれぞれ番号をうたれた診察室の前の区画で待たねばならない。患者のプライバシーに配慮した構造だ。
寛順もやはり九時からの診察になっていたが、待つ場所は違った。舞子のいる区画には、三十代後半と思われる黒人夫婦がいた。男性のほうはちゃんとスーツを着こんでいる。スーツにネクタイという正装を久しぶりに見た気がした。女性の首と手首、そして何本かの指を飾っているのは金鎖と指輪だ。舞子はさり気なく女性の腹に眼をやる。膨らんでいるが、それが単なる肥満か妊娠によるものかは判別しにくい。
黒人夫婦は診察室の上の緑ランプがついたのを確かめて、中にはいった。
どんな診察を受けるのか、不安が胸をよぎる。産婦人科は、明生と行ったあの一回きりしか経験がない。もともと病気には無縁だった。風邪は何回かひいたが、市販の薬で治った。怪我《けが》もしなかった。
注射も嫌だ。
一度だけ献血をしたときも針を刺されるのが恐かった。明生と一緒でなければしていない。ちょうど公園の桜が満開で、その下の小さな広場に献血車が停まっていたのだ。献血すると何かいいことがあると、明生が誘った。血液を牛乳瓶二本分取られると聞いて尻込《しりご》みした。取られた分すぐ新しいのができる。若いのだからと明生が言った。それでも迷いながら桜の花を眺め上げた。すると奇妙にも、何か自分の血も余っているような気がしてきたのだ。
明生と一緒に献血車にはいった。明生はちゃんと献血カードを持っていて、それを見ると何回も献血をした記録があった。
「すごい」
舞子が驚くのを、明生はニヤニヤしながら見ていた。
「舞子と会ったのは、献血した翌日。だから献血が縁結びの神様」
明生が笑いながら言ったのは、献血がすんで二人一緒に車から出てきたときだ。貰《もら》った缶ジュースを、公園のベンチに坐《すわ》って飲んだ。
黒人夫婦が出て来たあと、診察室の緑ランプがつく。立ち上がって扉をノックし、中にはいった。小部屋があり、黒人の看護婦が舞子の名前と部屋の鍵《かぎ》を確かめる。
「おしっこはしていませんね」
彼女が訊《き》いた。朝しただけだと答える。
身長と体重が手際よく測定される。仰臥《ぎようが》位で血圧を測る。テレビのリモコンのような器具のボタンを押し、次は採血だ。針は刺されたままで、シリンダーが全部で六回変わった。
奥の扉を看護婦が開け、白衣を着た男性が迎え入れた。鼻髭《はなひげ》をたくわえた東洋人を前にして、舞子はユゲットの言葉を思い出していた。
「こんにちは。北園舞子です」
自分から日本語で名乗る。
「ドクター・ツムラ。今日からあなたの主治医です」
顔はどこからみても日本人なのに、アクセントは外国人並みだ。
「よろしくお願いします」
ユゲットに教えていた日本語がそのまま口をついて出る。ツムラ医師は椅子《いす》を勧めた。丸椅子ではなく、応接室にあるような肘《ひじ》かけのついた椅子だ。
「日本語が思いつかないときは、英語を混じえます。構いませんか。その代わり、北園さんは日本語のみで話して結構です。分からなかったら訊き返します」
真面目な表情で言う。通常の日本人とどこか違うのは、曖昧《あいまい》な表情がないことだ。真剣な表情と愛想の良い表情ははっきりしていて、その中間がない。
「ブラジルに来て何日目ですか」
「三日目です。でも、もう一ヵ月も二ヵ月もここにいるような気がします」
「無理もありません。百パーセント違う国ですから。でも気に入りそうですか」
「気に入りました。友達もできたし」
「それは良かった。住む土地が好きになるのが、健康のもとです」
彼は机に向かい、キイボードを叩《たた》いた。画面に横文字が浮かび出る。
「これまでの病気は?」
「ありません」
「長く飲んだ薬もありませんか」
「ないです。風邪をひいたときも、市販の薬を一日飲めば治りました」
「生理が始まった年齢は」
「小学五年、十一歳です」
「その後、ずっと規則的にありますね」
「はい」
「最後の生理は?」
「ブラジルに立つ前に終わりました。十月十日です」
「その前の生理は」
「確か九月一日から九月七日です」
舞子の返答を聞きながら、ツムラ医師はキイボードに指を走らせる。自分に関するデータのすべてがコンピューターの中に打ち込まれていくのだと、舞子は思う。もしかすると、パパイア好きであることも、そこにちゃんと記録されているのかもしれない。
「これまでに妊娠の経験は」
「ありません」
主治医は頷《うなず》き、机の上にあるボタンを押した。診察室にはいってきた黒人看護婦が舞子をカーテンの向こう側に連れていき、衣服を脱ぐように命じた。
恥ずかしさが一瞬こみあげたが、黒人看護婦の丁重な応対がそれを救った。ブラジャーもはずし、上半身裸になると、白いガウンを肩からかけてくれた。パンツを脱ぎ、パンティも脱衣籠に入れる。
産婦人科用らしい診察台と普通の診察台が並んで置かれ、それぞれにテレビのモニターのような器具が設置されている。看護婦は平たい診察台の方に舞子を誘導する。
舞子が横になると、看護婦がガウンの前をはだけさせ、腹部にゼリーのようなものを塗った。ツムラ医師が姿を見せ、脇《わき》に腰をおろす。
「まず超音波で腹部の検査をしておきます。全然痛くありません」
ぎこちない日本語だが、優しさは充分に伝わった。
いつの間にか羞恥心《しゆうちしん》は消えていた。
露出した下腹部にゼリー状の液体が塗られ、その上を金属質の器具が走る。
「冷たいですが、少しの辛抱です」
ツムラ医師が、目をモニターの画面に釘付《くぎづ》けにしたままで言う。
舞子も顎《あご》を上げて画面を眺める。白黒の波模様だけで、何が何やらさっぱり分からない。
「肝臓も脾臓《ひぞう》も胆のうも、子宮も異常ないです」
ツムラ医師は途中で何回かボタンを押した。そのあとティッシュで、腹についたゼリーを丁重にぬぐう。
「診察は終わりです。服を着て下さい」
言い残して衝立の向こうに消えた。看護婦が器具を整理し、隣にいる舞子に笑顔を見せる。恐いことなんかなかったでしょうという表情だ。
「北園さん、どうぞ坐って下さい」
衣服を着て元の場所に行くと、待っていたようにツムラ医師が椅子《いす》を勧めた。
「これから毎朝、目覚めたときに体温表をつけて下さい。やったことはありますか」
「ないです」
「体温計はこれです。口の中に入れます。つけるのはこの表です」
机の上にあった表を渡す。「ボールペンはありますね」
「あります」
細かいところまで気のつく医師だと舞子は感心する。
「他に何か質問は?」
「次の診察はいつでしょうか」
「それはこちらから連絡します。データが揃《そろ》った頃に。他には」
「ユゲットも主治医は先生ですね」
「ユゲット? ああ、ミズ・マゾー。会いましたか」
「友達になりました」
「それはいい。他には?」
「ありません」
「じゃ、またこの次に」
主治医は体温計と表を紙袋に入れて、舞子に手渡す。ドアを開けてくれたのも彼だ。看護婦と一緒に笑顔で見送った。
緊張が安心感に変わっているのに気づく。診察、それも産婦人科の診察は心身ともに疲れるものだと覚悟していたが、杞憂《きゆう》だった。
外来の正面玄関の方に足を向ける。色違いの大理石を組み合わせた像の前に立って、しばらく眺めた。
外の駐車場には陽光がふり注いでいた。
駐車場の向こう側は、竹垣で境され、長屋風の平屋が並んでいる。病院職員用の住宅だろうか。通路は舗装されておらず、赤土がむき出しになっていた。洗濯場のような所で、黒人女性が三人、話をしながら働いている。空地に何本もロープが張られ、シーツが数十枚干されていた。女たちは舞子の方に訝《いぶか》るような視線を向けた。
ヤシ林の脇に粗末なサッカー場が作られている。普通の半分以下の広さで、ネットは破れたままだ。芝生の上に作られた患者用のテニスコートと比べると、手入れの差は歴然としている。
ヤシ林の先に橙色《だいだいいろ》の屋根が見えていた。平屋だがかなりの広さだ。ヤシの木陰にベンチがあり、赤ん坊を抱いた母親や老婆が腰かけている。服装や肌の色からして近くの住民に違いない。舞子が近づくと、物珍しげに顔を上げ、何か呟《つぶや》く。〈こんにちは〉という意味のボン・ヂーアだと分かり、舞子も口に出して言った。
その平屋が病院付属の診療所のようだった。近在の貧しい住民用に無料診療を施しているのだと、ユゲットから聞いていた。
開けられた窓から中が見える。風通しが良いので内部は涼しそうだ。三十人ほどが椅子に腰かけて待っている。子供と高齢者の姿が目立った。
白衣を着た褐色の肌の看護婦が、足腰の不自由な老人を支えて歩かせている。老人の右足が異様に大きくなっていた。
大理石像の飾られた本館や、リゾート風の病室とは、比較にならない質素な診療所だ。しかし住民にとっては恵みの雨にも等しい存在なのだろう。患者は何時間待たされても構わないという表情で、待合室にたむろしていた。
診療所の前に駐車場はない。乗用車どころか自転車さえも置かれていなかった。患者は歩いて来るのだろう。アフリカの診療所には、数日がかりで山野を越えて受診しにくる病人がいるというが、ここも同じなのかもしれない。いかにもブラジルらしいと舞子は思う。
豊かさと貧しさが、ブラジルでは上下の隔りなく共存している。そこには、豊かさは善、貧困は悪といった価値観はない。豊かさと貧しさは、いわばビフテキとお茶漬けがともに料理として存在を誇っているように、横並びなのだ。貧しいからうなだれ、金持だから胸を張るといった態度は、ブラジルでは希薄だ。その証拠に、ヤシの木陰で憩う患者さえ堂々としているではないか。
ブラジルに来て三日目なのに、自分でも不思議なほどくつろいでいた。何かを追い求めている飢餓感がない。たかが三日でこういう変化が起こったとしたら、一ヵ月後、二ヵ月後にはどこまで自分が変わるのか、そら恐ろしくもなる。
生温《なまぬる》い風が吹き始め、そのあと風はひやりとした感触に変わる。遠くで雷のような音が鳴った。スコールかもしれないと感じたとき、照明をおとしたように周囲が暗くなる。木陰にいた老人や女性たちが診療所の軒下に居場所を移すのを見て、舞子もそれにならう。小走りで病院まで戻るには遅過ぎる気がした。
案の定、一分もしないうちに、樹木の葉に雨滴が当たり出した。豆を撒《ま》くような音が、あたり一面に響き渡る。
ヤシ林の下はまだ雨が漏らない。背の高い黒人が裸足《はだし》のまま、ゆっくりと樹木の下を横切り、近づいてくる。スコールなど我関せずという顔つきだ。
「ジャポネーザ?」
舞子の横にいた少年が突然言った。日本人かの意味だと分かって頷く。まだブラジル語のイエスもノーも知らないのだと思い知った。
「セナ、ホンダ」
「セナ、ホンダ?」
少年の目をのぞき込みながら、舞子は繰り返す。
「スィン。セナ、ホンダ」
少年は笑みを顔中に広げ、ハンドルを握る仕草をしてみせた。舞子はやっとF1レーサーの名前だと思い知る。ロベリオもセナの名を口にしたが、彼が乗っていたレーシングカーがホンダとは初耳だ。
「セナ、ブラジル」
舞子が言う。
「スィン、セナ・エ・ブラジェーロ」
少年は二度繰り返し、自分もブラジル人だというように胸を張った。周囲にいた村人も二人のやりとりを笑って眺めていたが、そのうちのひとりが、大きな仕草を混じえて何か説明し始める。まだ四十歳前だと思われる顔つきなのに、上の前歯が全部欠けていた。
自分たちは向こうの村の住人だ、あなたは病院の患者か、と尋ねていることに舞子はようやく思い至る。舞子も負けずに、英語でホスピタルを連発した。やりとりのなかで、病院がオスピターウと言うのだと分かった。学校で習った単語と違って、実際のやりとりで知った単語はもう忘れようもなかった。
今度は、男の横にいた太った女性が、どこが悪いのかと言うように、身体の部位を手で触れてみせた。舞子は返事に困り、仕方なく腹を指で示す。まさか、赤ん坊が生まれるのだとは言えない。まだ腹は少しも大きくなっていない。
女はふーんと納得し、白い歯を見せて笑う。あそこの病院におれば、どんな病気だって大丈夫だというように、まくしたてた。
逆に、あなた方はどこが悪いのか舞子は訊《き》いてみたかったが、単語のひとつも思い浮かばない。
病気談議が終わると、最初の少年が何か一心に言い始める。指を目に当てている仕草からすれば、「見たか?」という意味なのかもしれないが、何を見たのかが分からない。少年はとうとうたまりかね、雨に濡《ぬ》れるのも構わず、小枝を拾って地面に絵を画き出した。
走り書きではなく、念入りに線を一本一本引く。亀の形が地面に描かれた。舞子がははんと頷いたあとも、少年は小枝を手放さず、亀の甲羅の模様までも丁寧に画き入れた。
「タルタルーガ」
「タルタルーガ?」
少年が顔を上げて言った単語をそのまま口にすると、周囲の連中がそうだそうだとはやしたてた。先刻の女性が再び身振りを加えて、説明する。どうやらその亀が村の中にいるのだと、舞子は理解した。病院の近くの浜に海亀が産卵をしに来ることは聞かされていた。だから部屋の鍵《かぎ》には亀のデザインが使われているのだ。
村人がその亀を捕らえて飼っているのだろうか。
少年は自分の描いた絵が見事に通じたのを知り、思いついたようにまた枝を手にした。今度は他の連中も何事かと見守る。
何か塔のような建物だ。この辺に残されている遺跡かなと舞子は思ったが、少年が塔のてっぺんの所にサーチライトのような線を描くのを見て、納得する。しかし灯台を意味する英語は知らなかった。
舞子が頷《うなず》くのを確かめて、少年はなおも描き続ける。軒が大きくせり出しているとはいえ、地面のある所は雨が降り込む。少年は上半身を濡らしながら、木の枝の絵筆を振るう。
万年筆を立てたような灯台の下に、普通の造りの家が描かれる。教会かなという予測ははずれて、屋根の上に十字架はとうとう描かれなかった。家は全部で三軒、庭に丸い円ができ上がる。池かなと舞子は思った。少年はその円の中に、先程の亀の絵と同じものを小さく二匹三匹と描き込んだ。
「ムゼーウ」
少年が言う。
「ムゼーウ?」
「スィン、ムゼーウ、ムゼーウ」
周りを取り囲む人たちの何人かが口を揃える。ミュージアムのことかと、舞子はようやく勘をひらめかせた。なるほど、灯台の下に亀のムゼーウがあるのだ。ブラジル人がセナを誇りにしていたように、村人たちも自分の村にある海亀の博物館を誇りにしているのだ。
雨が小降りになり、絵を描きやめた少年が、今度はどこか控え目に何かしゃべり出す。
どうやら、興味があるなら博物館に案内してやろうかと言っているらしかった。舞子は思案する。間もなく昼食時だ。姿を見せなければ、寛順《カンスン》やユゲットが心配するだろう。
腕時計を示しながら、用事があると日本語で言うと、少年は納得した。
「ダミアン」
少年は自分の胸を指でさす。
「ダミアン?」
「スィン、メウ・ノーメ・エ・ダミアン」
名乗っているのに違いなかった。
「マイコ」
舞子も同じように言う。少年は分かったと頷き、マイコ、マイコと口にした。
スコールの去ったあとの大地は、草木の色も空気もすがすがしい。黒い雲が垂れこめていた空に、ほころびが生じ、もう青空がのぞいている。
手を振って少年たちと別れた。
「チャウ」「アテー・ローゴ」
患者たちが口々に言い、手を振る。
どこか気持が軽くなっていた。病院の中だけで生活するのとは違って、地元の村人たちとの接触には泥臭い刺激があった。
ダミアンと口の中で言ってみる。十四、五歳だろうから、日本なら中学生だ。日本の少年のような、背伸びしたよそよそしさがない。児童をそのまま大きくした素直さが、雨をものともせずに地面に絵を描き続けたひたむきさに表われていた。
自分だったら、ひとりの異国からの旅人に、あそこまで熱心に自分の村のことを知らせる気になどならないだろう。言葉が通じないと判れば、もうそれで説明を諦《あきら》めてしまうに違いない。所詮《しよせん》日本では、その程度の人と人とのつながりなのだ。
ブラジルでは、行きずりの人間でも興味を抱く。決しておしつけがましい接近の仕方ではなく、相手に興味があるとみたら、とことんそこに自分の時間を注いでくれる気がする。ここでは、見知らぬ者同士が見えないものでつながれている。
どうせ病院に何ヵ月も滞在するのなら、この国のこと、病院の外の生活も知りたかった。できればポルトガル語も覚えてみたい。英語と同じく、ポルトガル語だって体当たりしているうちに扉は開くはずだ。
草の上で、馬が三頭、黙々と草を食《は》んでいる。手綱はつけられておらず、放し飼いに等しかった。白色と栗毛と黒馬と色合が違うので、どこかサーカス用の飾り物の印象がある。同じサラブレッドでも競走馬のような鋭さは感じさせない。いつも二頭か三頭でいるところをみると、乗馬のレッスンを希望する患者はあまりいないのだろう。いつか寛順やユゲットと一緒に乗ってみたかった。
芝生の中の通路から、万国旗を掲げたポールが見えた。二十数本のポールに各国の旗が垂れ、そのなかに確かに日本、フランス、韓国の旗がある。おそらく日本人は自分ひとりだろうから、あの旗は自分の身代わりだ。
閉ざされた門の脇《わき》に制服の警備員が二人立っていた。ひとりはトランシーバーを耳に当てたままで、舞子の方をじっと見つめた。もっと国旗を眺めていたかったが、不審な人物と思われそうで、病棟の方に向かった。
スコールのあとの涼しさはもう影をひそめ、直射日光が肌に突きささる。いちいち陽焼けを気にする用心深さももうどこか薄らぎ始めていた。
ユゲットはプールサイドの木陰で本を読んでいた。舞子が声をかけると、手を上げて応じる。
「何の本?」
「ブラジル人の作家。よく読まれているというので買ったの。もちろんフランス語訳」
ユゲットは文庫本より少し大きめの本を見せた。フランス語の題名を見ても、何のことか分からない。
「羊飼いの話。スペインが舞台だけど、どこにでも通用しそうな話。人はそれぞれ運命という宝物をもっているって」
「宝物?」
「そう。その人の本来の運命は宝物なのですって。ところが、たいていの人はそれに気づかずに、自分の運命からはずれたところで生きてしまう」
「宝物でない人生を?」
「そう」
ユゲットはどこか不安げに頷く。
「恐い話」
舞子も思わず口にする。自分が辿《たど》っている道が本来の宝物でないニセの道だとすれば、それ以上恐い話はない。
「宝物の運命とそうでない生き方と、どうやって見分けるの?」
舞子はユゲットの横の木椅子に坐《すわ》りながら訊《き》く。
「それはこれからの楽しみ。読み終えたら教えてあげるわ」
プールの中で歓声が上がっていた。今日のチームは妊婦ばかりのようだ。やや膨らんだお腹をした女性から、臨月間近と思われる体型の母親まで、十数人が二手に分かれてボールを奪いあっている。反対側の陣地から思い切って投げたボールが見事にゴールにはいり、全員が手を叩《たた》いた。
「妊婦が動き回るというのは良いことらしいの。でも地上だと足に負担がかかり過ぎるので、水の中がちょうどいいって。動かないと身体の感覚が鈍くなるでしょう。お産のとき、どこに力を入れていいか判らなくなる。だって、あれはおしっこでもなく、うんこでもなく、微妙なところを通って出てくるから、勝手が分からないものね」
ユゲットは身振りを混じえて大真面目にしゃべった。
「さっき、馬を見た。午後からでも乗ってみたいわ」
「わたしはもう駄目。お腹の中の赤ちゃんのことを考えると。本当に、乗るなら今のうちよ」
ユゲットが残念そうに言う態度には余裕が感じられた。妊《みごも》ったという点では、舞子よりはずっと先輩なのだ。
寛順が野外チェスの横で手を振っている。白いTシャツ、赤のショートパンツ、そして赤い麦藁《むぎわら》帽子のようなものを頭にかぶっている。夏のファッション雑誌に載せてもいい現代的な美しさだ。その恰好《かつこう》で診察を受けたはずはないので、一度宿舎に戻ったのだろう。
「売店に行ったら、帽子があったので買っちゃった」
カフェテラスに三人で坐ったとき、寛順は帽子をとってみせる。形は日本の麦藁帽子のつばをせばめ、もっと平たくした恰好で、粗い編み方になっている。赤味がかった橙色《だいだいいろ》で染められ、目の粗さが目立たない。湿気の多い日本でなら誰も買わないだろうが、この乾いた暑さのなかでは、原色がよく映える。
「寛順の主治医はどんな人?」
舞子は訊いた。
「ドイツ系のブラジル人。両親も祖父母もドイツ人だというから、純粋のドイツ人と同じだわ。口からドイツ語が漏れないのがおかしいくらい。英語も上手だった。年齢は、そうね、三十代半ば。舞子の先生は」
「わたしのほうは日系三世で、ユゲットと同じ先生」
「そうだったの」
ユゲットが言った。「じゃ日本語で話ができたのね」
「大体の話は通じた」
「舞子もコンピューターのデータを見た?」
寛順が訊いた。
「よく知らないけど、わたしの返事は、みんなコンピューターの中に入れていたみたい」
「もちろんそうだけど、その前にわたしたちのことはみんな、あのコンピューターに記録されているの。家族や生まれ育った環境、もしかしたら好きな食べ物や、性格まで。わたしがそれとなく尋ねたら、彼は否定も肯定もしなかった」
「カンスンの推理は正しいわ。この病院は情報のお城なの。患者に関するすべての情報は漏れなくコンピューターにはいっている。わたしは部屋の冷蔵庫を開けるたびに思うのだけど、飲むのはいつもエヴィアンばかり。それもちゃんとデータになっているはずよ」
「とすると、舞子」
寛順が笑顔を向ける。「あなたのパパイア好きもコンピューターにはいっている」
「寛順のその帽子だって、そうよ。赤の麦藁を買ったって。ショートパンツも赤だから、色は赤を好むって」
「残念でした。本当に好きなのはブルーよ。でも赤もまあまあ」
舞子は先刻、診療所に出かけていったことまで報告されてはいないか気になった。
「この病院で、遺伝子診断もされていると言ったでしょう。その情報を患者さんが知りたいのはもちろんだけど、その他にも知りたい人はまだいるの。誰だか分かる?」
ユゲットが問いかける。
「遺伝子診断というと、将来、病気になるかどうか、ある程度予想がつくのね」
寛順が確かめる。
「そう。具体的にはどんな病気かは知らないけれど」
「だったら、知りたがるのは恋人、または許婚者《フイアンセ》じゃないかしら」
寛順がちょっと考える表情をした。「これから結婚する相手が、変な遺伝子をもっていないかどうか、調べたがる」
「わざわざそんなことするかしら」
舞子は首を捻《ひね》る。「わたしならしない」
「舞子、わたしだってしないと思うわ。でも世の中にはそういう人はたくさんいる」
寛順は意見を求めるようにユゲットを見た。
「そうね。人間てみんな好奇心のかたまり。だって、みんな自分の将来を知りたくて、占い師のもとに行きたがるじゃない。パリにもモンマルトルにそういう通りがあるわ。水晶の玉の上に手をかざした占い師が、あなたが結婚しようと思っている相手は、四十歳前に死んでしまう。それが嫌なら、結婚はやめなさい、結婚をするのなら、それを覚悟で、とか言われるのよ」
「そんな占い師のところには最初から行きたくない」
舞子は思わず言ってしまう。
「嫌でしょう。ところが人間というのは、未来を知りたがるものなの」
ユゲットは自信たっぷりに言う。「遺伝子の診断は、占い師の予想よりもはっきりしているから、もっとすごい」
「確かに、遺伝子の有無で、将来その人が病気になるかどうか判るのだったら」
寛順が改めて納得する。
「仮に病気にならないとしても、世の中にはいろいろなことが起こるわ。火事や地震、事故。遺伝以外のことも重大よ」
舞子は苦しまぎれに言う。
「でも未知のものを少しでも減らそうとするのは、正常な気持の働きよ。たぶん、舞子だって本心は知りたがっていると思う。でも別の健全な理性が、それにブレーキをかけているのよ」
寛順がたしなめる。
「理性とは別に、知っておくほうが絶対に得になることもある」
ユゲットが謎《なぞ》をかけるように言う。
「何、それ?」
「遺伝子診断で、自分が将来発病すると判れば、若いうちに高額の保険にはいっておける。韓国や日本ではどうか知らないけれど、フランスでは自由に保険を選べるわ。そうすれば将来病気になっても、自分の負担は軽くて済む。情報はお金よ。自分の身体《からだ》に関する情報も、早く掴《つか》んだ者が勝ち」
「医学情報がビジネス」
寛順が感心したように言い、グァラナのストローに口をつけた。
午前中のスコールが幻だったかのように、太陽が輝いている。芝生の向こうにあるチェスの駒《こま》が、すべてを溶かすような日射しの下で、じっと動かない。
「午後は、二人で馬に乗るといいわ。乗馬の練習をするなら今のうち」
深刻な話を打ち切るように、ユゲットが言った。
「陽焼け止めクリームはたっぷり塗らないとね」
寛順が舞子に念を押した。