「こんな所に住む子供は、学校にはどうやって行くのかしら」
舞子が訊くと、明生は残念そうに首を振った。
「学校なんて行かない。日本の考え方でブラジルを見てはいけないよ。学校に行きたければ、学校の近くに住むしかない」
「じゃあ、読み書きは?」
不安になったのは舞子のほうだ。
「親が教えない限り、覚えない。でも、その親が知らない可能性もあるし」
明生は車のスピードをゆるめる。山中の道は未舗装で、車の轍《わだち》がいくつも残っていた。
舞子は、今しがた見た道端の家を思い出す。幹線道路からはずれて三十分ほどの間に、人家を目にしたのは二軒だけで、その二軒さえも、人の足でなら二、三十分は離れているだろう。屋根には、テレビのアンテナどころか、家の傍に電柱さえなかった。それでいて、道路|脇《わき》にはテニスコートくらいの広さのサッカー場があり、両サイドのゴールによれよれの網が張られていた。子供用の遊び場だろう。
「この間、サルヴァドールに行ったと言っていたね。街を歩いていて、本屋を見かけたかい?」
「ううん。気づかなかった。新聞売りのスタンドみたいなのはあったけど」
「そんなものさ。新聞や雑誌は、土産物屋が片手間に売っている。しかし、本格的な本屋は、あの街全体で二軒か三軒しかない。それだけ需要が少ないからさ。市民にとって大切なのは、文字よりリズムかもしれない」
「リズム?」
「そう、サンバとかボサノバとか」
明生はハンドルを握ったまま、上体を動かす。
「サンバの歌詞も簡単で、繰り返しが多い。複雑な意味はリズムでつける」
「リズムが言葉ね」
「そうそう」
明生の返事に、ひょっとしたらサッカーもリズムと同じように、ブラジルの言葉ではないかと思う。どんな辺ぴな場所にも手作りのサッカー場はあるのだから。
読み書きは余計な装飾品なのかもしれない。ブラジルの人々が身を飾るのに幾重にも重なった布地は必要でないのと同様、生きていくのに読み書きはいらないのだ。
現に今の自分がそうだった。日本語の本も新聞も身のまわりにはないし、手紙も書かない。目に見える仕草、耳に届く言語だけが、判断の材料だ。その分、精神がシンプルになり、感覚が研ぎ澄まされていくような気がする。
でこぼこ道が下り坂になり、途中から海が見え始めた。
川が海に注ぐ岸辺に十軒ほどの集落があり、木陰に、古びた乗用車と小型トラックが停まっていた、明生は車をその横につける。小さな村なのに、川べりに教会が建てられている。
砂浜は川向こうにあって、こちら側の浜には漁船が係留されていた。男たちが網を広げて、破れた箇所をつくろっている。
さてどうしたものか迷っていると、二人の少年が近づいて来た。ポルトガル語は理解できないが、どうやら向こう岸まで行くなら、舟で渡してやると言っているらしかった。
「クァント」
明生が訊くと、年長のほうの少年が親指を一本突き出した。明生は仕草で、二人で一ヘアウなのか、ひとりで一ヘアウなのか確かめる。どうやら、片道ひとり一ヘアウらしい。往復二人で四ヘアイスだ。明生は値切らずに妥協する。
小舟には櫓《やぐら》も櫂《かい》もついておらず、少年は砂浜に突き刺していた竹竿《たけざお》を持ってきた。
明生と舞子を乗せると、小さい男の子は舳先《へさき》に坐《すわ》り、竿を腕にかかえた。年長の少年が膝《ひざ》まで水に浸って、舟を押し、はずみをつけて飛び乗る。竹竿を受け取って、川床に突き立てる。
川の流れはかなり急で、舳先を川上に向けながら移動する。船頭が少年二人でも、危い感じはしない。堂々たる竿さばきだ。
渡り終えると、少年はまた舟を降りて押し、砂浜に舳先を乗り上げさせた。明生が二ヘアイス支払う。少年たちは、帰りは手を上げて呼んでくれと言い残し、対岸に戻って行った。
浜の中央に、屋根も壁も葦《あし》でつくった小屋が一軒あった。
明生と舞子は小屋の陰で、水着に着替えた。
砂浜からは対岸の集落と、そこから海に突き出した岬が眺められた。岬は樹木で覆われ、所々に別荘らしい白っぽい建物が見える。陸地づたいよりも、海路で行き来するしかないような場所だ。
海には舟も出ていない。見渡す限り、海にはいっているのは二人だけだ。
遠浅だった。明生と並んで沖の方に進んでいく。
川から流れてくるところだけ海の色が薄く、水も冷たい。足元の砂は細かく、歩きやすかった。
「このままだと、岬まで歩けそう」
明生が舞子の手を取る。胸元までの水深はどこまで歩いても、深くならない。
「こんなきれいな川、初めてだわ」
舞子は、身体《からだ》を浸している水が、何十キロ何百キロも山奥からはるばる下ってきたことを思う。そんな川がこの河口でようやく旅を終え、海と混ざり合っているのだ。それも、こんなに美しく、静かな形で。
水の感触で、海水中の川の流れが判る。
「本当だ。塩の味がしない」
指をしゃぶってみて、明生が言った。
「ここで川と海が一緒になるなんて、いい気分」
舞子は周囲を見渡す。岬と集落と、今しがた舟で渡った川、そして長々と続く砂浜、葦小屋、また海。
「どんな所にも教会があるんだね」
明生が川の傍の小さな教会を眺めやる。屋根の上の十字架がなければ、ただの小屋と間違うような質素な造りだ。
明生と一緒なら、こんな村で一生を終えてもいいと舞子は思う。
「もうここまで来ると、海だね」
また海水の味をみて明生が言った。
足元の砂が次第に盛り上がり、浅くなっていく。岸からは百メートル近く離れているのに、まだ腰までの深さしかない。
岬に点在する別荘のたたずまいが、一層はっきりしてくる。平屋だけでなく、三階建の大きなものもある。緑の中で白い屋根と壁が宝石のように美しい。ひとつひとつの別荘は道でつながっている気配はなく、海岸にある個々の船着場から上がっていくしかないようだ。サルヴァドールの金持たちが、週末だけ海路で訪れてくるのだろう。
さらに進むと浅瀬がなくなり、そこで二人は引き返した。
岸辺に向かい出すと、川の流れが障壁になった。流れからはずれると進みやすくなったものの、水深は胸まできて、それから先は泳ぐしかなかった。明生の手を放し、平泳ぎになる。
ほとんど波がない。葦小屋の方を目ざして、ゆっくり泳ぐ。広大な湾の中で、動いているのは舞子と明生だけだった。
明生の足がつくようになると、舞子はその肩に手をおいて、足だけを動かす。浅くなるに従い、明生が膝を曲げて背を低くする。
最後には、明生も身体を平らにして泳ぐ。ちょうど鯉のぼりが重なってなびいている形になった。
突然、明生が身体を沈め、舞子は支えを失い、慌てて水をかく。後ろにまわった明生から今度は逆に肩に手をかけられた。たまらず、舞子の身体は沈んでしまい、足で立つしかなかった。
海から上がる。細かい砂に二人の足跡をつける。
「舞子の足は、現地の人たちの足に似ている」
足跡を眺めて明生が言う。明生が扁平足《へんぺいそく》なのは知っていた。土踏まずの部分もべったりと足跡がつき、逆三角形の上に、五本の指がのっている形になる。一方舞子のは、踵《かかと》と足先を外側の弧が結びつけるだけの形になっている。
「でも舞子の足跡も、こっちの住民とは絶対区別がつく。五本の足の指が、扉のように開いているのが現地の人たち。足の指でしっかり砂をつかんでいる。そこへいくと、ぼくたちのは、ただ足を大地の上にのせているだけ」
渚《なぎさ》から少しでも遠ざかると、熱い砂の上に足を長く置いておけなくなる。明生は小刻みに足をたぐり、葦小屋の方に駆け出す。舞子も走った。
小屋が日陰をつくっていた。バスタオルを二枚広げて坐る。海から吹いて来る風が、濡《ぬ》れた肌を撫《な》でていく。
「ここまで来れたとはね」
明生が嬉《うれ》しそうに言う。「本当に地球の反対側」
「ひとりだけでは来れなかった。明生が一緒だったから」
仰向けになった明生の顔を、上から見下ろす。明生は眩《まぶ》しげに目を細めた。
明生の乱れた髪を指で撫でつけてやる。普段は無雑作にしている髪型だが、濡れてオールバックになったときの感じも、舞子は気に入っていた。額が広くなり、どこか肉感的で鋭い印象を与える。水の中にはいっていたときは目立たなかった唇の色も、赤味を増している。その唇の形も舞子は好きだ。
明生の胸に手のひらを置く。見覚えのある形で胸毛が生えている。触れると快いくらいの柔らかい毛だ。珍しがって指先で撫でてみたこともある。それを明生は面白がった。男の身体はどこの部分でも、舞子には初めてであり、まして手でさわったことなどなかったから、たとえは良くないが新品の自動車と同じだったのだ。
胸元に顔をつけたまま、まどろんだこともある。柔らかさと堅固さが一緒になった胸板は温《ぬく》もりがあり、鼓動まで聞こえる。
「この中にはいってしまいたい」
胸の中に身体ごとはいってしまえば、もう離れることもない。そう言うたび、明生は舞子を力いっぱい抱きしめて、「ほらひとつになった」と叫ぶ。舞子が息苦しくなるまで放さないのだ。
「シャム双生児だったらいいのに」
舞子が言うと、
「不便だろうなあ」
気のすすまない明生の返事が返ってくる。「坂道になると、舞子は歩かないから、ぼくが荷物を背負って歩く恰好になってしまう。ぼくがじっとして本を読みたいときでも、舞子はどこかきれいな店に行って、ケーキを食べたがる」
「そういうときは、お店まで行って、明生は本を読み、わたしはケーキをゆっくり食べればいい。明生が勉強してくれれば、わたしは何もしなくていい。楽だわ」
「じゃ、お尻《しり》のところで、つなげてもらうことにしよう」
「お尻は嫌。だって明生の顔が見えない」
「じゃ、肩と肩は?」
「そしたら、抱き合えない。いつも同じ方向しか見られないし」
舞子は首を振る。
「だったら、お腹とお腹をくっつけてもらうしかない」
「ずっとお互い、見つめ合える。でも移動するときはどうするの」
「それは自由さ。ダンスと一緒だから、足を揃《そろ》えさえすれば、前後左右、どこにでも行ける」
舞子はテレビで見た社交ダンスの競技を思い浮かべる。あんなにリズムがぴったり合えば良いが、合わなければ悲惨だ。
「もうひとつ心配なのは、いつも同じものを食べなければいけなくなること。舞子がうどんで、ぼくがそばにしたいことだってあるだろう。ぴったり向かい合っていたら、それもできない。真中に置いた大きな丼からそれぞれが箸《はし》でかきこむしかない」
明生も、大変だという顔をする。
「そのときは明生が右を向いてそばを食べ、わたしは左を向いてうどんを食べる」
「いずれにしても大仕事で大変」
「大変だけど、離れなくていい」
舞子は意地になって言い張る。
砂浜の上を滑るようにして風が吹きぬける。肌がもうすべすべに乾いていた。
舞子は明生に身体を寄せ、手を握りしめる。真青な空が目にはいる。どこにも雲がない。動くものさえ見えない。時が止まったような、このままで一日、ひと月、一年と過ぎ去ってもいいような感覚にとらわれる。
目を覚まして立ち上がる。ガラスのベッドも周囲の透明な壁も、今までのように気にはならない。迷路の中もすんなりと歩けて、扉の前に立てた。
開いた扉の向こうに、辺留無戸《ヘルムート》が姿を現す。坐ったままの姿勢で舞子の方を直視した。
「万事、うまくいっています。何も心配しなくていい。マイコさんのほうで気になることは?」
独特の口調で訊く。
「ありません」
バーバラのことが頭をよぎったのを抑えた。ジルヴィーとの面接でも、そう答えた。彼女の前に出ると何もかも話したくなるのだが、その一点だけには封をしていた。
〈もうすぐです。もう、あなたの準備は整っています。身も心も〉
ジルヴィーは満足気に言った。
辺留無戸の肩越しに石庭が眺められる。何と異質な風景だろう。ブラジルの海、砂浜、樹木に慣れた目には、まるで箱庭だ。隅々まで計算し尽くされた人工物。しかしだからといって小さくはない。数学の無限大の記号のようだ。記号自体は単なる印だが、人間の頭の中でそれは無限大になる。石庭も、実体は石と砂と壁に過ぎないのに、見る人の観念のなかに本物以上の自然が立ち現れる。
辺留無戸は僧衣の襟元に手をあてて居住いを正し、次の間に移動した。
不動明王の前に坐《すわ》り、背中を向けたまま祈り始める。不動明王の怒りの形相が、辺留無戸の声色に従って微妙に変化する。燭台《しよくだい》のロウソクの炎が揺れ、明暗の動きで、不動明王の顔貌《がんぼう》が変化する。あるときは泣くように怒り、あるときは強圧的な怒りを示す。
舞子は十分ほど辺留無戸の読経を聞き、不動明王の姿を眺め続けた。ブラジルにいながら日本にもいる。──その不思議さが何の違和感もなく受け入れられた。
廊下に並ぶ大理石の彫像の白さが眩《まぶ》しい。母親が抱く赤ん坊も白玉のように光っている。
ジルヴィーに見送られて部屋を出た。
エレベーターで一階まで降りた。
レストランに行く渡り廊下でも、両側の大理石像をひとつずつ眺める。やはり一番|魅《ひ》かれるのは、ヴェールをかぶった奴隷像だ。これだけは、大理石を割ったらそこにこの女性が隠されていたというような新鮮さを失っていない。
ヴェールをかぶされているのは何故だろうか。奴隷の顔が醜いからだろうか。いや、透けて見える表情はむしろ美しい。奴隷に目隠しをしているのだろうか。それならヴェールは用をなさない。薄いヴェールを透かして、周りの動きは、おぼろげながら分かってしまう。
多分、商品にヴェールをかぶせることによって、買い手側の興味をつのらせるのだ。
それを知ってか知らずか、ヴェールの女性は、膝《ひざ》を折った姿勢で上体を起こし、右手で乳房を隠しながら、耳だけをそばだてている。あたりの雑踏から聞こえてくる会話に耳を澄ますように。彼女が祈るのはただひとつ。情けのある主人に売られることだろう。そんな憫《あわ》れさが全身に漂っている。
通路を行き来する他の滞在客たちは、おしなべて像に無関心だ。像よりも立ち止まっている舞子を不思議がり、頭から足先まで眺めやって通り過ぎる。
プール脇《わき》の寝椅子《ねいす》にユゲットの姿が見える。つば広の帽子をかぶり、膨らんだ腹を持て余すようにして、本を読んでいた。
舞子が横の椅子に腰をおろすと、帽子を上にずらして視線を向けた。
「この本を読むのも三度目。こんなことならぶ厚いのを十冊くらい持ってきておけばよかった」
文庫本よりは縦長で、紙の質も悪い。表紙には安手の色で、運河のある街が描かれていた。
「表紙からしてスパイ小説」
「まあ、そんなところ。舞台はベニスで、時代は十七世紀。運河の底を走る潜水艦が大活躍する話」
「そんな時代に潜水艦があったの?」
「ありはしないわ。どうせ読み物だからそうなっている。でも、空気抜きの穴があって、逃げるときは、水の中にじっと潜んでいられるの。だから、貴族の館に忍び込んで、お姫様をさらって、その潜水艦で逃走ができる。読んでいると、何だか自分が魚になったみたい。いつの間にか、魚の目でベニスの街を見ている。不思議な感覚だわ」
ユゲットは本を閉じる。
「寛順は?」
「部屋じゃないかしら。彼女が来たら何か食べよう。朝、お腹いっぱい食べたばかりなのに、もうお腹がすく。不思議よ」
「健康な証拠」
舞子は寝椅子の上で、大きく背伸びをする。目の前のプールでひと泳ぎしたいくらいに力は余っていたが、水の中にはいるのは明生とだけと心決めしていた。
「来たわ、カンスンが」
ユゲットが手を上げる。寛順は、上下とも白ずくめで、肩から吊《つ》るしているポーチだけが真赤だ。
「クラウスに会った」
傍に寄るなり、寛順が小声で言った。
「どこで」
「外来の待合室でよ」
「彼も気がついたの?」
「あの人が合図したから判った。それだけで、話はしなかった」
「じゃ、入院になるかどうかはまだはっきりしないわね」
カフェテラスのテーブルに移動する。口に入れるのはいつものエッグサンドだ。
「彼にはこちらから連絡をしてはいけないのだったわね」
ユゲットが言う。
「いずれユゲットのところに電話を入れると言っていたわ」
舞子はサルヴァドールでの会話を思い出しながら答える。
「そのときも部屋の電話では、さしさわりのない話だけすべきよ」
寛順が補足した。
「わたしがここに来た当初、バーバラはよくサンバのグループにはいっていた」
ユゲットがカフェテラス横の広場を見やった。夕方になると、毎日サンバのレッスンが開かれ、ジョアナの指導で十数名の滞在客が身体《からだ》を動かしていた。通りかかった舞子もはいらないかと手招きされ、思い切って加わった。まだ明るいうちに腰を蝉のように震わすのは恥ずかしかったが、終わる頃には慣れた。
「あの人、背が高かったから、不器用なのが却って目立つの。自分の手足を持て余しているみたいで。ところがメキメキ上手になって、一ヵ月もすると、周囲が見とれるくらいになった。はっとするような美人でしょう。レッスンを受ける患者に男性が増えたのもその頃よ。見ているのも楽しいけど、彼女の傍で踊れるのはもっと楽しいと思ったのじゃないかしら。そのうちお腹が大きくなってやめたけど。あの頃の明るい顔からは、何かに悩んでいるなんて少しも感じられなかった」
ユゲットがしんみりと言った。
昼食のあと、寛順とユゲットが診察を受けに行っている間に、舞子は村の方に初めて足を向けた。診療所の前には、相変わらず人の列ができていた。木陰で胸をはだけ、赤ん坊に乳をふくませている女性がこちらを見て笑った。前にここに来た際に会ったのだろうが、黒人女性の顔は覚えにくい。頭に巻いた黄色い布が鮮やかだ。舞子は笑顔を返しただけで行き過ぎた。
日射しが強く、サルヴァドールの土産店で買った麦藁《むぎわら》帽子が役に立っていた。前の方のひさしが大きく、周囲のピンクの紐《ひも》が素敵なので、三ヘアイスだったのをクラウスに半分まで値切ってもらった。百六十円か七十円の品物には絶対見えない。
診療所から十分も歩かないうちに、村の入口に行きつく。橙色《だいだいいろ》の瓦《かわら》で葺《ふ》いた家は、ほとんどが平屋か二階建だ。一般住宅の間に土産物店や民宿じみたホテルもあるところからすると、観光客も訪れるのだろう。それもリゾートホテルに滞在できるような金持ではなく、一般市民でも手が届くような観光地に違いない。
道は二手に分かれ、大きいほうの道が海の方角に向かっていた。外を歩いている村人はいない。開け放たれた家の入口には暖簾《のれん》のような布がおろされ、隙間《すきま》から薄暗い奥が見える。
小さな広場に、オンボロバスが一台、客も運転手もいないままに停車していた。停留所らしい屋根の下に木製のベンチが置かれていたが、そこにも人はいない。
広場の隅に、にわかづくりの屋台があった。すり切れたテープの音楽はそこから出ていた。
舞子が中を覗いたとき、店番の青年と眼が合う。
「ボーア・タールヂ」と黒人青年は戸惑ったように口ごもった。
二階建の家の前で、褐色の肌の中年男性が、ひとりでセメントをこねていた。レンガを敷いて通路を作るのだろうが、急ぐでもなく、休むでもなく、ゆったりした動きだ。
Tシャツや帽子を吊るした店の横が、彫刻の土産物店だった。壁に木彫の仮面を掛け、軒下にニス仕上げをした彫刻を置いている。いずれも流木か、掘り出した木の根をそのまま加工した作品だ。中央にある像は、足を広げ、大きな舌を出して苦しみの表情をしている。木の股《また》をうまく利用して人体に変化させていた。
木彫屋から三、四軒先にある比較的大きな建物は、倉庫のような外観をしていたが、小さな窓から子供の声が聞こえてきた。子供たちの声の合間に、大人の声もする。舞子は不意に幼稚園での体験を思い浮かべた。先生が黒板に平仮名を書き、園児は一斉にそれを読むのだ。
しかし学校にしては校門も運動場もない。
子供の声を耳にしながら道を辿《たど》ると、海辺に出た。
小さな教会が建てられていた。四角いステンドグラスの窓と十字架がなければ、漁具置き場と見間違うくらいの簡素な建物だ。
半壊した船が砂浜に引き上げられ、放置されていた。痩《や》せた老人が舟の影に椅子を置き、海を見つめている。
右側に弓なりになった浜があり、パラソルと椅子が並べられていた。椅子もパラソルも色分けされ、奥に並んだ十数軒の小屋に所属しているのだろう。
何か飲もうと思って近寄っていくと、手前の小屋から、黒人の少年が飛び出して来た。黄色いTシャツに黒い半ズボンをはいているが裸足《はだし》だ。
ダミアンだった。
「ボーア・タールヂ、ダミアン」
舞子が言うと、少年はニッと白い歯を見せた。手をとって、砂浜の方に案内し、黄色に塗られた椅子に坐らせる。
ダミアンが手真似で何か飲まないか訊《き》く。舞子はスィンと答え、ストローで飲む仕草をしてみせた。
ダミアンは頷《うなず》き、ヤシの葉葺きの小屋に駆け込む。
それぞれの小屋は同じ造りで、カウンターの向こうにコップを並べた棚があり、その下に流しが置かれているようだ。ダミアンがはいった小屋では、褐色の肌をした女性が立ち働いていた。
ダミアンはヤシの実を一個かかえて来て、テーブルに置く。表面が濡《ぬ》れていて冷たい。なたで切ったような穴が一ヵ所開けられ、太めのストローが突っ込まれていた。
「レイチ・デ・ココ」
「レイチ・デ・ココ」
ダミアンの口調を真似る。
渇いた喉《のど》を、かすかに甘味のあるその液体が潤す。
「サボローゾ?」
おいしいか? というようにダミアンが目を輝かす。「サボローゾ」と舞子も同じ言葉を繰り返す。ダミアンは安心したように頷いた。
浜から離れた所にある漁船に、男たちが乗り込んでいた。小舟で近寄って乗り移り、五人ばかり乗ったところで、錨《いかり》を手動で巻き上げ、エンジンをかけた。
「ペースカ」
遠ざかる船を指さして、ダミアンが言う。意味はどうにか見当がつく。
ヤシの汁は惜しみ惜しみ飲んだつもりだったが、すぐになくなった。
「クァント?」
舞子がウェストポーチの口を開けながら訊くと、ダミアンは首を振る。自分のおごりだとでも言いたげだ。舞子は逆に首を振り、二ヘアイス取り出してダミアンに押しつける。ダミアンは駄目だと拒絶し、その代わりこっちに来てみろと小屋の方に誘った。
女性は遠くから見たよりも年配で、三十歳を越したくらいだろうか。笑って、おいしかったかと訊いた。
英語が全く通じず、彼女がダミアンの母であるかどうかもはっきり判らない。物珍しげに小屋の中を眺めていると、壁にたてかけてある弓の形の楽器が目にとまる。いつか小ホールでロベリオたちが弾いていたものだ。
ダミアンが楽器を手に取り、演奏してみせる。
弦が一本しかないので、単調な音だ。おわんの形をした共鳴具を身体に当てたり離したりして、音色を変える。メロディーよりもリズムをとる楽器のようだ。
ダミアンは終始真剣な顔をくずさない。それに聴き入る店の女主人も真顔だ。
もうこれで全部だというように、ダミアンは最後の音を響かせて、楽器を身体から離した。
「オブリガーダ」
舞子は礼を言う。たったひとりの聴衆のために弾いてくれたのが嬉《うれ》しい。
ダミアンが女主人と言葉を交わすとき、〈マンィ〉という語を聞いたような気がした。
「この人はダミアンのお母さんか?」
英語で何度もマザーと発音するうちに、ダミアンは意味がとれたようだった。マザーマザーと何度か言って頷いた。
そう言えば、顔が似ていなくもないが、どちらかと言えば母親のほうが肌色は褐色に近い。ダミアンのほうはもっと黒い色だ。
他の小屋の店主たちも、珍しい客が来ているという顔つきで、こちらを眺めている。
舞子はダミアンの母にも代金をさし出したが、首を振って受けとらなかった。
ダミアンがついて来いと言う。どうやら以前地面に描いてみせた海亀を見せてくれるつもりらしかった。
勇んで砂の上を歩くダミアンに、横の店の黒人青年が声をかける。ダミアンは立ち止まり、エスコートするように遅れがちな舞子の方に手をさし伸ばした。
半壊した船をやりすごして浜の先まで行くと、白い灯台が姿を現す。病院の売店で見た絵葉書に写っていた灯台だ。
灯台の下が海亀の博物館になっていた。日本のように大がかりなものではない。小さな看板がかかり、平屋が三軒並んでいるだけの施設だ。入場料もいらなかった。
売店があり、プリント絵柄のTシャツやキイホルダー、布製帽子が並べられている。太った女性が二人、店の中でおしゃべりをしていた。ダミアンと舞子に気がつき、声をかける。
「マイコ」
おばさん二人を無視して、ダミアンが舞子の手を引っ張る。
屋根だけある建物の中に、三つの水槽が作られていた。その中の二つに海水が注ぎ込まれ、中に小さな亀が飼われていた。
手前の水槽にいるのは子亀で、中央の水槽には、うちわ大の亀が二十匹ほど泳いでいる。普通の石亀と違って、泳ぎがうまい。
空の水槽を掃除していた黒人にダミアンが話しかける。男は水槽から出て、セメント造りの建物の方へ歩いた。木の扉を鍵《かぎ》で開けて、中の明かりをつける。
外から見たよりは広い室内だ。陳列ケースが並び、中央に大きな水槽があった。
ダミアンが得意気に水槽を指さす。なるほど大きな海亀だ。直径一メートルくらいの甲羅をもつ海亀が二匹、水深の浅い所に身を横たえている。
ケースの中には剥製《はくせい》にされた海亀や、卵も展示されている。卵はいわゆる卵形ではなく、ピンポン玉そっくりだ。
壁のパネル写真は、産卵中の海亀の姿を大写しにしていた。明かりに照らし出されて、迷惑そうな表情のまま、目を見開いている。途中で逃げ出すわけにはいかないのだろう。観念した様子がうかがわれる。
ブラジルを中心にした地図があり、海亀の行動範囲が図示されていた。人工衛星の図も描かれている。おそらく発信装置をつけた海亀の動きを、人工衛星で追跡した成果なのだろう。南は南極近く、北はキューバの近く、東はアフリカ西海岸まで、赤い点が打たれていた。
ダミアンが、地図を眺めて舞子はどこから来たのか訊く。幸い地図の左隅に日本と韓国が描かれていた。
「ここ」
ひしゃげた形の日本列島を指で示したが、ダミアンは不可解な顔をする。舞子が日本人であるのは知っているのに、日本の正確な位置は分かっていないのだ。
「ジャパウン?」
「そう、ジャパウン」
舞子も口真似で答える。発音までもが耳慣れないため、自分の国という感じがしない。それでも、地図の端っこにある日本を指で何度も押した。
博物館から出ると、係の男が水槽に海水を入れ始めていた。
ダミアンとその男が何か話をしている。何か書く物を持っていないかと、ダミアンが手つきで訊く。ボールペンと手帳を出してやると、ダミアンは石の上に腰かけて、数字を書きつける。11と3だ。どうやら十一月三日のことらしい。数字の横に、小さく海亀の図を描く。お尻からは卵を産み出していた。
十一月三日が、海亀のやってくる日らしかった。おそらく満月か何かの夜だろう。ダミアンは、この日にこの砂浜に来るべきだと、その数字を〇で囲った。