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受精20

时间: 2020-09-30    进入日语论坛
核心提示:20 舞子は隣室の扉を叩《たた》いた。寛順と連絡をとるには電話をかければすむのだが、盗聴されているとも限らない。いやそれど
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20
 
 舞子は隣室の扉を叩《たた》いた。寛順と連絡をとるには電話をかければすむのだが、盗聴されているとも限らない。いやそれどころか、各部屋に隠しカメラが設置されている可能性だってある。
「誰?」
 寛順が英語で訊いたので、舞子は小さく日本語で答える。ドアが薄目に開き、寛順はチェーンをはずした。
 舞子が夕食に誘うと、寛順は頷き、ポーチを手にして出てきた。
「ずっと部屋にいたの?」
 寛順が訊いた。
「ベッドにころがっていたら、いつの間にか眠っていたの」
「お昼も食べなかったのね」
「お昼は、ドクター・ツムラに招ばれたの。日系人の主治医。日本料理とブラジル料理をミックスしたような料理をごちそうになった」
「電話をかけても出ないから、ちょっと心配したわ」
「ごめんなさい、急な誘いだったから」
 歩きながら話すのが一番安全のような気がする。夕食の時間にはまだ間があり、二人は海辺の方に足を向けた。
 アーチェリー場で、男二人、女性ひとりが的に向かっていた。女性の矢は三本、標的に刺さっているが、男たちの矢は標的の周囲にだらしなく垂れ下がっている。
 男たちがぐっと弓を引く。ひとりが放った矢は、勢い余って壁を越えて見えなくなる。別の男の矢は足元にぽとりと落ちた。指導員の青年が首を振り、矢の持ち方を教え直している。
「寛順の主治医はドイツ系ブラジル人だったわね」
「そう。ドクター・ヴァイガント。いかにもドイツ系という感じの美男子」
 寛順は幾分皮肉っぽく答える。ああいうタイプの美男子は好みでないという気持が読みとれた。
「ドクター・ツムラがバーバラの死体の傍に駆けつけたとき、彼がもう来ていたらしい」
「どうして?」
「偶然現場近くを通りかかって、大きな音がしたので来てみると、女性が倒れていた。そんなふうにドクター・ツムラには説明したらしいわ。自殺に間違いないという態度だったので、ドクター・ツムラも病理解剖を要求しなかったって」
「何か変ね」
 寛順は首をかしげる。
「それからもうひとつ。バーバラのデータはすべてコンピューターから消えているそうよ。ドクター・ツムラも驚いていた」
「ありそうなことね。舞子はドクター・ツムラに何か言った?」
「言わない。話を聞くだけにしておいた」
「いいわね。わたしたちは何も知らないことになっている。ただ、じっと観察するだけ。決して誰にも言ってはいけない。ユゲットにも主治医にもよ」
 寛順が思いつめた表情で念をおす。
 海辺の椅子には数組が寝そべっていた。本を読んでいる者、水着のままうつぶせになり、夕陽で日光浴をしている者、上体を起こしてじっと海を見つめているカップル。──いつもと変わらない静かな光景だ。
 釣り人が二人、海に出ている。漁を終えたのか、丸木|筏《いかだ》の腰かけに跨《また》がり、櫂《かい》を漕《こ》ぎ始めた。
「バーバラは、誰か頼りになる人を探していたのよ」
 寛順が低い声で言った。
「どうして分かったの」
 舞子の問いには答えず、寛順は砂浜の方にゆっくり下り始める。舞子もあとに続いた。ヤシの木陰にいた警備員がじっとこちらに眼を向けている。
「いつかユゲットが言ったでしょう。バーバラが野外チェスをしていたと」
「ひとりでチェスの駒《こま》を動かしていたことね。覚えているわ」
「わたしもチェスをしてみたの」
「チェスできるの?」
「駒が何種類あるかも知らない」
 寛順が笑いながら首を振る。「だから、誰も見ていないときに、ひとつずつ駒を動かした。意外と重かったわ」
 寛順は後ろを振り返って、さり気なく警備員の様子をうかがう。
「チェスの駒は大理石でできていて、中は小さな空洞になっている。黒のキングの中に、紙片が隠されていた」
 抑揚を欠く口調だった。舞子は立ち止まって、寛順の顔を見る。
「木切れを斜めにして押さえつけ、簡単には落ちないようにしていたのよ。多分書いたのはバーバラだと思う。署名はなかったけど、女文字の英語」
「誰かに宛《あ》てた手紙なの?」
「それが誰かは判らない。もしかしたら、不特定の人に宛てたのかもしれない」
 寛順は文面の内容を口にしたくない様子だ。
「まるで遺書ね。その手紙、持っている?」
 舞子の問いに、寛順は重々しくかぶりを振った。
「午後になって、また元の場所に戻したわ。黒のキングの位置も、前と同じ所。だから何ひとつ状況は変わっていない。もしバーバラが誰かに連絡をとっていたとしたら、きっとその本人が姿を現すはず。わたしたちはじっとそれを観察しておけばいい」
「手紙の内容はどこかに書き写しておいたのでしょう?」
「何回か読んで、頭に入れただけ。舞子、何にも証拠を残さないのが大切。これだけは忘れないように」
 寛順は足元から小さな貝殻を拾い上げ、砂を払った。「バーバラがどうして殺されなければならなかったか、その手紙から見当はつくわ」
 何気ない動作とは裏腹の深刻味が、その口ぶりから伝わってくる。「だから、その内容を知ったわたしも、考え方によってはバーバラと同じ立場に置かれたの。分かる? わたしの言いたいこと」
 真剣な眼に見つめられ、舞子は深々と頷《うなず》く。
「行きましょう。ガードマンがこちらを見ているわ」
 寛順がヤシの木を見やって話を切り上げる。
 戻りながら、舞子は不安になる。寛順までがバーバラのあとを追う行為に走っていた。一体自分はどうすればいいのか。
 手紙の内容を寛順から聞き出しておけば、二人で運命は分けあえる。いや、訊いても寛順は言ってくれないだろう。
 それともチェスの駒から紙片をこっそり取り出してみるべきか。それも駄目だ。せっかくの寛順の心遣いが無駄になる。
 海辺の長椅子にいた患者たちがほとんど姿を消していた。レストランの方に戻った。
 入口にいたジョアナが奥を指さした。ユゲットは舞台から離れたテーブルにひとりで坐《すわ》っていた。舞子と寛順に気がつき、嬉《うれ》しそうに顎《あご》をしゃくる。
「今夜は何か有名な歌手が特別出演するそうなの。それでいつもより客が多いでしょう」
 ユゲットが言った。道理で、舞台に近い席はすべて埋まっている。
 食べ物を皿によそって席に戻ったとき、演奏が始まった。騒がしかった室内が静まり返る。いつもなら、楽器が鳴り始めても、テーブルの会話はそのまま続けられるのだが、どこか違う。
 ボサノバ風の一曲が終わったとき、舞台の後ろから、黒っぽい薄衣をまとった女性が姿を現した。拍手がおこる。すぐに歌い出した声は澄んで深味があり、最初のフレーズから観客の耳を捕らえた。
 三十代の半ばだろうか。白人で均整のとれた身体つきをしている。ゆるやかに上体を動かすだけで表情はあまり変えない。
「歌詞は少し理解できる」
 ユゲットが言った。「恋人よ、わたしはあなたについていく。月の夜にあなたの足跡を追いながら。恋人よ、わたしはあなたについていく。風の日にあなたの歌声を聞きながら。大体そんな意味──」
 なるほど、どこか繰り返しの多い曲だ。愛の唄《うた》だと分かれば、目を閉じ、歌声を耳にするだけで情景が浮かぶ。燃えつきるような華々しい愛ではない。静かだが、決して途切れないような、強靭《きようじん》な愛だ。
 舞子は正面にいる寛順が涙を浮かべているのに気がつく。ユゲットもそれを見て、大丈夫かというように覗き込んだ。
「何でもないわ。歌声を聞いていて、妙に悲しくなってしまった」
 寛順は笑いながら、涙をハンカチでぬぐう。レストランの客すべてが、私語をやめて聴き入っていた。中音のなめらかな声が観客の間を通り抜けていく。暗い海岸までも、その声は届いているかもしれない。ヤシの木の下に寝そべり、海上の星を眺めながら聴くのが、最もふさわしい曲なのかもしれなかった。
 寛順の涙を見て、舞子はつい先刻、彼女が漏らしたチェスの駒の秘密を思い浮かべる。その手紙に書かれていた内容が、寛順の気持を揺さぶっていたのではないのか。歌はそこに最後の数滴を加えて激情を誘ったのだ。
「ハースは入院になったそうよ。明日、ホテルを引きあげて、病院の本館に入院してくる。さっきホテルのほうに電話したら、そう言っていた」
 ユゲットが思い出したように口にする。
「部屋の電話を使ったの?」
 舞子が訊《き》く。
「待合ロビーの公衆電話から。カンスンが注意して以来、もう部屋の電話は使わないことにしているの」
 寛順はいくらか平静さを取り戻し、ユゲットの言葉を聞いている。
 次の曲に移っていた。テンポの速い軽快な歌だ。ユゲットも数瞬歌詞を聞きとろうとしていたが、首を振って諦《あきら》める。
 舞子は自分で勝手に想像する。サルヴァドールの石畳が舞台だ。おそらくはまだ陽が沈んでしまわない夕刻時だろう。男の子が手作りの楽器をもち出して演奏を始める。もちろん即興だ。そこへ別な男の子も加わって、歩道にあったバケツを叩き出す。時々合いの手を入れて叫ぶ。ブルンブルンと手製の楽器を鳴らしながら、最初の男の子が歌い出す。陽が落ちてしまわないうちに、一日の最後を歌って踊ろう。一日の悲しみと疲れは、すべて歌と踊りで洗い流してしまうのだ。そうすればまた新しい明日が生まれる──。
 そのうち、近くに住む女の子たちも姿を現して、足でリズムを取り始める。足を交叉《こうさ》させ、腰を震わせ、腕も曲げて、即興の踊りになっていく。男の子二人の傍で、女の子三人が踊る。窓から眺める大人たち。誰もが見とれている。生まれたての歌と踊りに、街全体が拍手を送る。
「舞子」
 寛順が低い声で呼びかけていた。夢から引き出されたように、舞子はまばたきをする。
「ステージ前のテーブルにいる男性、どこかで見かけなかった?」
 寛順は顔だけで方向を示した。舞子は椅子《いす》をずらして舞台を見やる。
「男二人に女性ひとりのテーブル。白髪頭の小柄な男。横顔が見えるでしょう?」
 四人がけのテーブルだが、坐っているのは三人で、舞台の側だけ、椅子ははずされていた。金髪の女性は肩を出した赤いローブを身につけている。その左側の大柄な男性も金髪で三十代半ばだろうか。寛順が注意を促した男は、確かに舞子も覚えていた。
 最初に出会ったのはソウルの空港ではなかったか。ラウンジでトランジットを待っていたときに一緒だった。サンパウロで乗り換えたサルヴァドール行きのプロペラ機にも乗り込んできた。最後に別れたのはサルヴァドールに到着してからだ。寛順と舞子がロベリオの車を待つ間に、彼はタクシーでどこかに走り去った。
「ソウルからサルヴァドールまで一緒だった」
 舞子は男から目を離さずに答える。一見学者風ではある。大学で古典か古代史でも教えているといっても通用しそうな風貌《ふうぼう》だ。同席しているカップルのほうは、金回りの良い若手実業家という身だしなみをしていて、彼とはどこか釣り合いがとれていない。テーブルの上の皿は既に片づけられ、ウィスキーとワインのグラスだけが置かれていた。三人とも歌に聞き入り、曲が終わったときに短い会話を交わした。
「やっぱりソウルからわざわざこの病院に入院しにきたのかしら」
「まさか。サルヴァドールに住んでいて、ここの病院の名声を頼って来院したのじゃないかしら」
 寛順が答える。「それにしても偶然ね。むこうも変だと思っているかもしれない。さっき、ちらっとこちらを見ていたから」
「あの人なら、患者じゃないわ」
 寛順と舞子のやりとりを聞いていたユゲットが言った。「たぶん、この病院の経営者のひとり。前にも病院で見かけたことがある。医師や看護婦とも顔見知りのようだし」
「ここのお偉いさんが、どうしてソウルまで行く用事があったのかしら」
 舞子は首をかしげる。
「ソウルとは限らないわ。東京や大阪の可能性だってある。ソウルは単なるトランジットだともみなせるから」
 寛順が言った。
 歌が変わる。ほとんどの客が食事を終えて、レストランというよりライブハウスの雰囲気になっていた。
 白髪の男は金髪のカップルとの会話をやめ、じっと歌に耳を傾けている。寂しげな曲だ。
「これも簡単な歌詞」
 ユゲットが小さな声でいった。「波を眺めていると、私の胸も波になる。寄せては返し、あなたのことばかり思い出す。昼も夜も──」
 確かに切ないメロディーだ。小さなリズムが寄り合わさって大きなリズムとなり、それがどこか波のうねりを連想させる。
 本当に愛は波だ。いつも途切れることなく、胸に打ち寄せる。渚《なぎさ》が乾く暇もなく、次の思いが押し寄せて渚を潤していく。
 ユゲットは歌詞を追いながら耳をそばだてている。寛順のほうは、何か考えるようにして舞台に眼をやっていた。
 さらに二曲歌って舞台は終わった。アンコールはなく、客の半分は満足した様子で席を立った。白髪の男と金髪のカップルも立ち上がる。
「やっぱりこちらを見たわ」
 ユゲットがさり気なく言う。「あなたたちのことを気にしているのは確かね」
 再びレストランが静かになったところで、舞子たちはそこを出、カフェテラスに場所を移した。ヤシの木の下ではなく、一番端のテーブルが空いていた。カフェテラスの照明はそこまで届かない。テーブルに置かれているガラス瓶入りのロウソクが、小さな炎を揺らす。
 注文をとりに来たウェイターに、寛順はカイピリーニャ、舞子とユゲットはグァラナを頼んだ。
 暗さに慣れてくると、海の方角の陰影が目にはいるようになる。
「こんな夜だと、眠ってしまうのがもったいない。かといってテレビを見るのも、惜しい。好きなだけ星の下にいたい」
 ユゲットが深呼吸をするようにして言う。「最初ここに来たときは、陽の輝く昼間のほうが好きだったの。陽に焼けるのも構わず、海辺を歩きまわったわ。でも、二ヵ月を過ぎる頃から、日没後の時間が好きになった。多分、あなたたちが来てくれたおかげもあるけど」
「わたしは初めから宵の口が好きだった。だってアルコールの時間が始まるでしょう」
 早くもカイピリーニャのグラスを口にもっていきながら寛順が答える。「舞子は?」
「夜は恐い。ほら、お芝居を見ていて場面が終わって舞台が暗くなるでしょう。何か不安で、恐い気持になってしまう。舞台が明るくなると、ほっとする。それと同じ」
 舞子は庭の奥にあるチェスの駒の並びに眼をやった。この距離からは、黒白の見分けがかろうじてつくだけで、どれが黒のキングかは判別できない。
「ユゲット」
 寛順が訊いた。「コンピューターを自由に扱える部屋があると聞いたけど、どこにあるか知っている?」
「本館の二階にあるわ。五、六台並んでいて、誰でも使える。わたしなんか診察の帰りにちょっと立ち寄って、インターネットで出版情報を見る。パリにフナックという大きな本屋があるの。そこを呼び出せば、フランスでどんな新刊が出ているか分かるので便利。出版社によっては、中味まで宣伝している所もあって、わざわざ本を注文しなくてもいいくらい」
 ユゲットの返事に寛順は何か思案するように頷いた。
「マイコも日本が恋しくなったらアクセスしてみるといい」
 ユゲットが言った。
「日本にいるとき、ずっとコンピューターの画面ばかり眺めていたの。ここまで来て、また画面の前に坐《すわ》る気はしないわ。寛順は違うかもしれないわね。韓国のいろんなリゾート地を呼び出して楽しめる」
「以前はやったけどね」
 寛順は目下の目的はそうではないとでも言いたげに、かぶりを振った。
「わたしがこの病院に来て感じたのは、失われたものが戻ったということ。それが具体的には何か分からなかったけど、カンスンがコンピューターの話をしたので、なるほどと思った。要するに、視覚以外の感覚が復活して、活力を取り戻したのよ」
 ユゲットは二人の顔を交互に見る。「マイコと同じで、わたしも働きづめのときは目ばかり使っていた。耳や鼻や舌、触覚は眠っていたのも同然。いや眠っていたのではなくて、麻酔でもかけられたように眠らされていたの。ところが、ここに来て、耳や鼻、舌と皮膚が本来の力を発揮し出した。目はぼんやり開いているだけでよくなってしまった」
 なるほど、舞子は自分が漠然ととらえていた感覚を見事に言い当てられた気になる。ユゲットは続けた。
「さっきの演奏がそうよ。どちらかと言えば、目は休んでいた。耳が歌声を聴き、皮膚で夕闇《ゆうやみ》の大気を感じ、鼻は潮の匂《にお》いを、そして舌はブラジル料理を大いに味わっていた。今だってそう、薄明かりの中で、目はほとんど半睡状態よ。働いているのは耳と鼻と、皮膚と舌──」
 舞子は明生と並んで横たわった海辺を思い起こす。
 あのとき、目は眩《まぶ》しくて開けていられなかった。肌の感触で明生の皮膚、陽の輝き、砂の温もり、そして海風を感じたのだ。耳には、潮騒《しおさい》にのって明生の声が優しく届いた。そして明生が上体をもたげて口づけをしてくれたとき、この嗅覚《きゆうかく》で明生の微かな体臭を感じ、舌は明生の舌とからまってひとつになったのだ。
 その間、目は何を見ていたのだろう。何も見ていなかった。強いて言えば、単に残像だけを余韻として保っていただけだ。海と合流する河口、岬に点在する白い別荘、そして湾内の鏡のような海面が、目の底に焼きついていた。目はその残像を蝉の脱け殻のように置き捨てて、うたた寝をしていたに過ぎない。
 コンピューターの画面の前だと、それとは全く反対のことが起こる。指先はキイボードに触れているが、あれは別に指先でなくてもいいのかもしれない。棒切れにだって務まる単純な作業だ。いや、画面の前に坐るのだって、人間でなくてもいいはずだ。目だけがあれば、もう充分用を足せる。
「こんな生活をしたあとだと、もうコンピューターの前には坐れないかもしれない」
 舞子は正直な感想を述べる。
「わたしも、フランスに戻ったら、なるべくあんな化物とは無縁な所で働きたい」
 半ば興醒《きようざ》めした調子でユゲットが同意する。
「別にわたしがコンピューターの禁断症状に陥ったというわけではないの」
 寛順がやんわりと制する。「少しだけ、調べたいことがあるの。明日、行ってみるわ」
 寛順はカイピリーニャのグラスを口にもっていく。
 舞子は寛順が野外チェスの方を見やるかどうか、さり気なくうかがう。しかしその素振りはなかった。おいしそうにレモン入りのピンガを少しずつ口に運ぶだけだ。
「今日、わたしの主治医が面白いこと話してくれた」
 寛順が舞子の顔を見る。「例の金髪の典型的なドイツ人」
「カンスンはそのドクターを好きでないわね」
 ユゲットが横槍《よこやり》を入れる。「言い方で分かるわ」
「彼が変な質問をしたの。あなたはひと月のうちで性欲が特に激しくなるときがあるかと、訊いたの」
「いくら主治医だって、不躾《ぶしつけ》な質問だわ」
 ユゲットが眉《まゆ》をひそめる。
「でも、医学的な質問だという顔をしているので、わにしも真面目に、性欲に変化を感じたことはないと答えたわ。そうするとまた身を乗り出してきて、例えば生理前とか、排卵日の前後でも変化はないのかと、また訊《き》くの。ありませんと答えた」
「本人は医学的な調査のつもりね」
「いや、案外医学調査のふりをして、下心は別にあるのかもしれない」
 ユゲットが軽蔑《けいべつ》をこめて言う。
「すると彼、満足したように、やっぱりそうか、とボールペンを置いて向き直った。チンパンジーと人間は九十八パーセントの遺伝子が共通しているのに、性行動だけが際立って違っていると言うの」
「いよいよ失礼ね。わたしたちをチンパンジーと比べようっていうのね」
 ユゲットが怒りながらも、寛順に先を促した。
「チンパンジーには発情期があって、お尻《しり》が赤くなるのに、人間にはそれがない。それが第一の違い。第二の違いは、チンパンジーが公然と性行動をするのに、人間の性行動はプライベートな場所でのみ行われる──」
「ま、それはそうだわね」
 ユゲットが不満気に頷《うなず》く。舞子は自分が口を出せるような話ではないので、黙るしかない。
「特に発情期がなくて、いつでも密かに性行動ができるのはどうしてだろうか、と主治医がわたしに訊くの。冷やかしではなくて、真剣な顔でよ」
「何と答えたの?」
「答えようがないわ。すると彼はニヤリと笑って、二つの要因が考えられるはずだと言うの。ひとつはそれによって、男同士の争いが軽減される。チンパンジーだと、発情期のメスを巡ってオスが戦い、優位に立ったオスがそのメスを選ぶ。逆に人間では発情期が隠されているので、男性間の戦いはおこらず、連続的な性行動が組織のつながりをより密接にすることができる。むしろ、女性が男性を選ぶ結果になる。しかも一夫一妻制だから、それから先が女性の腕の見せどころらしい。性行動の本来の目的は、強い子孫を残すことだわね」
 寛順から確認を求められて、舞子は慌てて頷く。
「単純に言えばね」
「ところが一夫一妻だと、単純に事は運ばない。強い子孫を残せそうな男性は、経済的に余裕がなかったりするでしょう。そのとき、いつも秘密の裡《うち》に性行動ができるという条件が威力を発揮する」
 寛順は思わせぶりに一呼吸おいた。「もちろん、あくまでもドクター金髪の意見よ。通常の性行動は財力のあるパートナーと行い、強い子孫を残す本当の性行動は、パートナー以外と行う、というように使い分けができる。そうすると、強いパートナーの子供が財力のあるパートナーに育てられて、理想的な育児ができるでしょう」
「ふーん」
 ユゲットが不満気な嘆息を漏らす。
「アメリカとイギリスで生まれてくる赤ん坊の五パーセントから三十パーセントが、婚外性交によるものらしいわ」
「そんなに多いの?」
 舞子も驚く。
「ドクター金髪は面白いデータを披露してくれた。不妊症の女性が人工受精のドナーの選択をする場合、どの要素を重要視するかというと、健康、体力、知力、外観になるけど、普通に生活を共にするパートナーは性格の良さが第一にくるらしい」
「それは分かるわね」
 ユゲットが半ば納得する。「でも変な研究」
「まあ、あの主治医に似つかわしい研究テーマのような気もする」
 寛順は皮肉な表情を見せた。
「でもねカンスン、そのドクター金髪の理論でいけば、女性が排卵の前後で選ぶパートナーが本当にその遺伝子を子孫として残したい男、逆に一番妊娠しにくい生理中に選ぶ相手は、単なるお遊びか、生計をたてやすくするための便宜的な男ということになるわね」
 ユゲットが意見を求めるように舞子と寛順の顔を見た。「だから、カンスンにいつ頃性欲が高まるか訊いたのじゃない?」
「わたしはそんなこと考えたこともない」
 舞子は正直に首を振る。
「無意識の問題なんだと思うけど、本当にそんな女性がいるかなあ」
 ユゲットも首をかしげた。
「あのドクター、性欲のパターンで、女性の性格も判るのだと言っていた。ユゲットの言ったことと関係するかもしれない。わたしは自分の性欲に大した変化はないと答えたけど、それが自覚できる人もいるって」
「わたしは、どちらかというと生理の直前かしら」
 ユゲットが神妙な顔になる。
「その微妙なところも計算に入れると、排卵日前後に性欲が高くなる女性と、ユゲットのように生理と重なって性欲が増す女性、そして三番目は排卵日と生理日の両方に高くなる女性と三つの種類が考えられるわね。そんな目でみてみると、わたしなんか、どちらかというと三番目にあたるかなと思ったりもする」
 寛順が言った。
「わたしは生理と生理の間だから、排卵日かもしれない」
 舞子は明生との関係を思い浮かべながら答える。排卵日の付近で抱かれたときのほうが感じやすいとは、どことなく自覚していた。
「じゃ、わたしたちだけでその三つのパターンが揃《そろ》ったわけね。ドクター金髪が聞けば大喜びするわ」
 ユゲットが笑う。「で、そのパターン分けによる性格判断というのは?」
「舞子のように排卵日の前後に性欲があがるのは、貞節で辛抱強く、どんなに貧乏しても子供を育てていくタイプ。だって、本能が求める男性と、意識的に好きな男性が一致しているでしょう。そこへいくとユゲットのように生理前に高くなるのは子育て向きではなくて、好みの男性に魅《ひ》かれる享楽派。悪く思わないでね。あくまでもドクター金髪の仮説から想定した結論だから」
「分かっている。それで、カンスンのように両方あるのは?」
 ユゲットが苦笑しながら訊いた。
「物事を打算的に考えるタイプ。つまり世渡り上手というのかしら。自分では当たっているとは思わないけど」
「わたしだって当たっているとは思わない」
 ユゲットも否定する。「どうせ、男性がやりそうな研究だと思うわ。手前勝手な解釈よ」
「じゃ、女性が避妊薬のピルを飲み出したら、その解釈も通用しなくなるわね。いつだって女性の側で妊娠を調節できるわけだから。それに、もう女性だって働いて生活をたてられるから、子育てにあたって、男性に頼らなくてもいいでしょう。そうなると、寛順の主治医の仮説も変わらざるをえなくなる」
 舞子は言う。
「なるほど。彼が得意になってしゃべるのを一方的に聞かされるだけだったけど、舞子のような考え方もできるわね。今度会ったとき、反論してやるわ。彼は産婦人科医のくせに、女性をどこか実験動物とみなしているようなところがある」
「そんな主治医には理性で対抗するに限る、理屈には理屈よ」
 ユゲットが腕時計をロウソクに近づけて時刻を見る。カフェテラスの客も半分くらいに減っていた。
 席を立つ。
 風が出ていた。どこか冷たさを含んだ重い風だ。夜のうちにスコールが来るのかもしれない。
 滞在棟の階段の前でユゲットと別れた。
「舞子、さっきコンピューターのことを訊いたでしょう」
 風から声を守るように寛順が耳元で言った。「それについてはバーバラが書いていたのよ。どうやって病院のコンピューターにアクセスすればいいかも。わたしが思うに、バーバラはコンピューターには相当詳しい人だったのじゃないかしら。叔父《おじ》によると、システムエンジニアだったと言うし」
「それで、寛順は自分で操作してみるつもり?」
 舞子はまたしても胸の動悸《どうき》を感じる。
「やってみるわ。でも大丈夫。コンピューターというのは、姿を隠しながらどこまでもアクセスできるから。じゃ」
 戸の前で寛順は小さく手を上げる。「おやすみ」
「おやすみ」
 舞子は鍵《かぎ》を入れて扉を開ける。暗い部屋にはいるときはいつも中に誰かがはいっていそうな気がする。照明をつけ、部屋の隅々まで明るくして、トイレやタンスの中まで調べないと気持が落ち着かない。
 バルコニーの明かりがついていた。部屋を出る時、そこだけ消し忘れていたのだろう。舞子はハンモックの横に立って外を眺める。星が見えないのは、雲が出始めている証拠だ。漁船も浮かばない海は、暗闇《くらやみ》の中に完全に消え去っている。庭の所々にある外灯の周囲だけがほの明るく、樹木と芝生の緑を浮かび上がらせていた。
 部屋の戻りがけにプランターに眼をやった。ベゴニアの脇《わき》に植えていた食虫植物は、青々とした葉を広げている。湿地の縁に群生していたときよりも、ひと回り大きくなったような気もする。
 三個垂れ下がった壺《つぼ》のひとつに、蜂に似た虫がひっかかっていた。壺の中に上半身を突っ込み、抜けられなくなって死んでいる。しゃがんでよく見ると、もう頭の一部が溶け出していた。
 バルコニーの明かりを消し、網戸と鎧戸《よろいど》を閉める。風だけははいるように、一番内側のガラス戸は開けたままにしておいた。
 睡気が襲ってきていた。ベッドにはいるなり眠りにつけそうだった。
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