窓からの眺めだけが、唯一の慰めだった。
寛順《カンスン》と一緒に当分この家に滞在するように言われたとき、偶然の一致に舞子は驚いた。ユゲットと三人で訪れたあの急階段の傍にある建物だったからだ。デ・アルメイダ検事の縁戚《えんせき》にあたるという中年女性が、二人を三階の部屋に案内し、それぞれが過ごすことになる客室の窓を開けてくれた。
午後の日射しがはいり込み、眼下に長い石段が見え、その先に街並、そして遠くに大海原が広がっていたのだ。
ここなら生きていけそうだ──。舞子は一瞬そう思い、寛順の方を振り返った。呆然《ぼうぜん》としていた寛順だったが、舞子を見てかすかに頷く。思いは同じだったようだ。
家の持主はマリア・アリセ・デ・アルメイダと言い、年齢は五十歳くらいだろう。二十室はある建物に黒人の女中と二人で住んでいた。亡くなった夫が銀行家だったことだけは聞かされたが、夫人がどんな仕事をしているのかは分からず仕舞いだ。ここに来て一週間になるが、夫人がいつも家にいるわけではない。むしろいないときのほうが多く、昼間は一階の大きな食堂で寛順と向かい合い、女中のヴィオレッタの作ってくれる食事を口にする。朝食は七時半に、カフェ・コン・レイチとチーズパン、ハムエッグをヴィオレッタが三階の部屋まで運んでくれる。寛順の部屋に行ったり、寛順がトレイをこちらに運んで来たりで、テーブルでやはり二人一緒に食べた。夕食時だけが夫人と同席になる。
夫人は英語が上手で、どうやら若い頃合衆国で暮らしたことがあるようだ。舞子たちが理解しようとしまいとお構いなしにしゃべり、最後に自分で笑う。寛順も小さく笑い、舞子だけが分からずに取り残される。そんなときは寛順が日本語に直してくれる。その間夫人はじっとこちらの反応を見つめていて、舞子の顔がゆるむと、大きな目でウィンクし、満足したように頷くのだ。
食卓でのそんな笑い話をピアーダということも知らされた。
「食後のピアーダを出せるかどうかで、出世も決まるのよ」
夫人は片目をつぶる。「だから有能な人ほど何百何千というピアーダを頭の中に詰め込んでいる。ブラジル人が深刻な顔をして道を歩いていたら、まずピアーダを考えていると思っていい。食べて踊って寝て、起きたらピアーダを考える。──これがブラジル人の生活。あとは何にもなし」
そう言って、また笑う。
夫人は、舞子が日本人で寛順が韓国人であることなど頭にないようだ。国のことも訊《き》かないし、母国で何をしていたのかも質問してこない。まるで昔からブラジルに住んでいたかのような口のきき方をする。
「わたしの男友達に内科医がいるの」
あっけらかんとした口調で夫人が言ったのは昨日の夕食時だ。「最近亡くなった患者の話をしてくれた」
料理は、肉の腸詰めに豆料理が添えてあった。舞子も寛順もフォークを動かしながら、耳を澄ます。また笑い話かと思ったが、夫人は神妙な顔つきになっていた。
「黒人の年寄りの患者で、娘二人が連れて来たらしいの。腎臓《じんぞう》が悪くて血圧も高く、手の施しようがない状態だったらしい。娘の頼みで、それでも入院させてやった。入院はぜいたくだ、とその患者は最初ぶつぶつ言っていて、主治医や看護婦の質問にも、あまり答えなかった。あるとき、わたしの男友達が世間話をして、その老人がサクソホーンを吹いていたことが分かったの。どうやらバンドのサックス奏者で、元気な頃はサルヴァドールでも一流の店に出ていたらしい。実際いろんな店を知っていたと言うわ。わたしの男友達もマンドリンをやっていて、ダンス音楽には詳しいの。老人はそれ以来、彼が病室に行って気分を訊くと、ブッブッブーとハミングで答え出した。気分が悪いときは低音の悲しいメロディー、少し状態が良いときは軽快なハミングという具合にね」
夫人の話は早口の英語にもかかわらず、舞子の耳にすんなりはいってきた。夫人が適当な仕草に、自分流のハミングを加えたからだろう。
「そのうち脳梗塞《のうこうそく》が起こり、老人の容態が悪化して口がきけなくなった。もう危篤だというときに娘たちも病室に呼んで別れをさせたの。すると、患者がわたしの男友達に向かって、かすかに手を動かした。口はきけないけれども字は書けるかもしれないと思って、彼は鉛筆と紙を持ってこさせた──」
そこで夫人は言い澱《よど》む。ピアーダを話すいつもの様子とは正反対に、目が潤んでいた。
舞子も寛順もフォークを置いて耳を傾ける。夫人は続けた。
「老人は看護婦が支えるノートに、文字ではなく、五本の線を引いたの。そして震える手で、ゆっくり音符を書き入れた──。二十分以上かかって四小節を記入し終え、主治医に渡した。彼はその音符を見てピーンときた。古いショーロの曲の一節だったのよ。ショーロはサンバやボサノバより前のダンス音楽。〈これが最後の踊り〉という曲の最後の部分で、〈ありがとう、みんな、楽しかったよ〉という歌詞がついていたというの。もちろん、老人の娘たちは知らない曲よ」
夫人はまばたいて、少しばかり鼻を鳴らし、微笑した。「それから、わたしの男友達は急いで部屋に戻り、マンドリンを持ってきた。うろ覚えではあったけど、その曲を弾き始めた。老人は何度も何度も頷いたのですって。口がきけなくなっても、音楽は分かるのね」
その後、老人が息を引き取ったかどうかは寛順も舞子も訊かなかった。ただ、この夫人もその男友達もいい人だという思いが胸に残った。
この家に着いた翌日、日本に電話をした。ほぼ一ヵ月ぶりに舞子の声を聞いた母親は、大声をあげた。朝の十時にかけた電話だったから、日本は夜の十時だ。
「舞子、元気なんだね。どこも悪くないね。病気じゃないんだね」
母親は畳みかけるようにして訊いてきた。
「元気にしている」
それだけ答えると、自然に涙が出てきた。舞子が黙り込んだのに気がついて、母親も涙声になった。
「そっちは、いいところなんだね。こっちは暑いけど、ブラジルはもっと暑いのだろうね。食べ物で苦労はしていないかい」
「暑いけど、家の中は涼しい。食事もおいしい」
さり気なく答えた。
「なにしろ、地球の裏側なんだからね」
母親が溜息《ためいき》をつく。
「こっちを表にすれば、日本のほうが裏側よ」
「それはそう」
母親が笑った。もっと話したかったが、話せば話すほど涙が出てきそうだった。
寛順も電話をかけた。出たのは父親で、娘の声を聞いたなり、しばらく絶句していたらしい。
ツムラ医師は午後、毎日のように顔を見せた。サカガミを伴っていることもあれば、デ・アルメイダが一緒のときもあった。
この家に来て四日目、ツムラ医師は舞子を前にして静かな口調で切り出した。日本語だった。
「舞子さんはうすうす気がついていると思いますが、もうはっきりさせる時のようです」
舞子の顔を凝視しながらツムラ医師が言った。「実を言えば、ぼくは全く別なことを信じ込まされていたのです」
沈うつなツムラ医師の顔を眺め、舞子はどんなことでもこの耳で聞き届けてやろうと思った。息を整え、まっすぐツムラ医師を見つめる。
「ぼくがジルヴィーから言い渡された任務は、あなたに受精を行わせることだったのです」
「受精?」
「そうコンセプション」
ツムラ医師は英語を口にした。「いわゆる人工受精でした。そしてぼくが受け取った精子は、亡くなったあなたのご主人のものだと説明を受けたのです。もちろん冷凍精子です」
ツムラ医師の視線がじっとこちらに注がれる。
亡くなった夫、冷凍精子。──そんなものは知らない。明生は夫ではない。将来、夫になる男性だった。明生の冷凍精子があるはずはなかった。
「そしてジルヴィーからは、亡くなったあなたの夫について、一切本人に質問してはならない。心理的な傷口が大きくなるばかりで、取り返しがつかなくなると、念をおされていたのです」
ツムラ医師の日本語が途切れ途切れになる。日本語が拙《つたな》いのではない。言いにくいのだ。日本語の発音だけに限れば、ひと月前に初めて会ったときより何倍もうまくなっている。
「大切なのは、排卵日に合わせて、舞子さんの精神を最も良い状態にもっていき、確実に精子を送り込むことだと、言われました」
ツムラ医師はそこで言い澱む。
「ユゲットもそうやって妊娠したのですか」
舞子は訊いた。抑揚がなく、自分の声のような気がしない。
「全く同じです」
「その前のバーバラも?」
「同じです」
重々しくツムラ医師は顎《あご》をひく。「全く同じやり方でした。亡くなった夫、生前の冷凍精子、心身ともに最良の状態での受精、そして過去の不幸な出来事について一切口にしないこと──」
そんなものではなかった、と舞子は口ごもる。明生は生きていて、一緒になり、二人の愛の結晶をこの体内に宿すことができると信じていたのだ。舞子は目を見開き、唇をかみしめる。
フォルテ・ビーチ病院で気を失ってから、飛行機でサルヴァドールの大学病院に運ばれたのは、かすかに記憶に残っている。付き添っていたのは女性の医師で、舞子の意識がはっきりしそうになると、眠くなる注射をうたれた。大学病院でも、五日間強制的に眠らされた。あとでそれがインスリンの注射による持続睡眠だったのだと説明を受けた。血糖値を最低限にまで下げ、臨死体験をさせて、マインド・コントロールを解くのだという。実際、舞子は自分が透明な迷路の中で、ガラスの台の上に横たわっているのを目撃した。辺留無戸《ヘルムート》の背後で読経を聞いている自分の姿も見た。そして次の二日間で、中年の女性精神科医から、フォルテ・ビーチ病院五階のがらんどうになった部屋や廊下の写真を見せられた。すべてが幻影に過ぎないと分かったとき、舞子の頬《ほお》を冷たい涙が流れ落ちた。
「舞子さんや、ユゲット、バーバラの生き生きとした様子を見て、この受精は意義あることだと意を強くしました」
ツムラ医師が言う。「若くして夫を亡くした場合、立ち直れないほどの痛手を負うのが普通なのに、舞子さんたちは輝いている。やはり愛する人の子供を宿すという希望が、その痛手から立ち直らせ、勇気づけているのだと思いました」
「ユゲットもバーバラも、そうやって実際に妊娠したのですね」
「そうです。舞子さんも、その直前の状態にありました。ジルヴィーが命令したその日に逃げ出しましたから」
「寛順は?」
「ハンス・ヴァイガントが、最後の日に人工受精させているはずです」
「寛順も確かに妊娠しているのですね、ユゲットと同じように?」
「間違いなく」
ツムラ医師は暗然とし、「最も確実な方法を使いますから」とつけ加えた。
寛順は直接舞子には言わなかったが、目的の第一段階は果たしたような話しぶりだったのを舞子は思い出す。
「でも、誰の精子だったのですか」
質問が自然に口をついて出た。
「分かりません」
ゆっくりとツムラ医師は首を振る。「ただ冷凍精子そのものは、ぼくが病院から持ち出して、今サルヴァドールの大学病院に保管してもらっています。舞子さんの体内に注入予定だった分です。フォルテ・ビーチ病院を逃げ出したあと、精子さえあれば他の場所で人工受精してあげられると思っていました。あんなドサクサのときに受精を行って、もしうまくいかなければ、舞子さんの恨みを買うと考え、すべてが落ちついてから再度試みるつもりだったのです」
「寛順にはもう知らせたのでしょうか」
「まだです。これから大学病院に連れて行き、検査をします」
「妊娠の?」
舞子の問いにツムラ医師は頷《うなず》く。
「そのうえで、彼女には本当のところを告げます」
ツムラ医師の最後の声は震えていた。何という重い仕事だろうと舞子は思った。寛順も辛《つら》いだろうが、真実を告げなければならないツムラ医師も、鉛のような気持でいるはずだ。
「舞子さん」
ドアに手をかけて、ツムラ医師は振り返る。「ミズ・リーが病院から戻って来たら、しばらく一緒にいてやって下さい」
舞子は頷き、ドアを閉めた。やがてツムラ医師と寛順が部屋を出、階段を降りて行く音がした。
戻って来たのは五時少し前で、ツムラ医師にはサカガミも同行していた。寛順の目は泣き腫《は》らしたように赤くなり、付き添ってきた二人も肩を落としていた。
「舞子さん、頼みます」
小声でツムラ医師が言った。
「検査結果は?」
「プラスです」
口の中から石を吐き出すように答え、ツムラ医師はサカガミと連れ立って帰って行った。階段を降りる足取りさえも、力がなかった。
十分ほどして、舞子は寛順の部屋のドアを叩《たた》いた。弱々しい返事があった。
ベッドに横になっていると思った舞子の予想ははずれた。
寛順は、開け放った窓際に立ち、海を眺めていた。舞子が近づくと、寛順は背を向けたままで言った。
「舞子、大丈夫よ。わたし、死んだりはしない」
そこまで言うと急に涙声になった。「わたしが死んでしまうと、あの人も死んでしまう。わたしが生きている限り、あの人も生きている」
後ろを振り返り、舞子の肩に顔を押しつけて泣く。
「本当にそう。寛順の言う通り──」
舞子は答える。自分が生きている間、明生だって生きているのだ。脳裡《のうり》のうちで微笑し、声にならない言葉で話しかけてくれる。
海と反対側で陽が沈み、長い石段と家並が白さを失い、海が青黒くなっていく。肩を並べ、黙って外を眺めていた。
夕食の時間だとヴィオレッタが告げに来たのは、部屋の中が暗くなってからだった。
夫人はいなかった。寛順と二人だけで、野菜料理を食べた。食欲がなかった。皿の物が半分しか食べられていないのを見て、ヴィオレッタが悲しげな顔をした。
「おいしかった。でも全部はとても」
寛順が釈明して、ヴィオレッタはようやく表情をゆるめた。
この家に来てからは、エスプレッソ流の濃いコーヒーよりも、カフェ・コン・レイチが多くなっていた。夫人の好みでもあるのだろう。黙っていると、ヴィオレッタもそちらのほうを運んでくる。
夫人がいないので一緒に飲んだらどうかと寛順が勧めても、ヴィオレッタは首を振り、台所に引っ込む。
「オプリガーダ、ボーア・ノイチ」
彼女に言い置いて三階に上がる。
「舞子、わたし大丈夫よ」
ひとりになりたいのだというように、寛順が言った、舞子は頷き、ドアの前で別れた。
窓の外はもう真暗で、階段だけがイリュミネーションで金色に浮き上がっていた。船の上から眺めると、階段がまるで光の塔のように見えるのだと、夫人が言っていた。そうなると、さしずめ自分のいる部屋は、塔の上に立つ燭台《しよくだい》のようなものだ。
石段の下の方から、黒い犬が登って来るのが見えた。一段一段上がり、十段ぐらい毎に後ろを振り返る。あの時、老婆と一緒だった犬に違いなかった。今夜も、黒服を着た老婆に付き添っているのだろうか。犬が石段の中ほどまで来ても、下の方に老婆の姿は現れない。黒い犬は登りつめてしまうまで、律義に何回か後ろを振り返り、そのまま横の路地に消えた。
いつか、あの石段を下ってみようと思う。寛順と連れ立って、階段の下に広がる街を歩いてみるのだ。一日中歩き回り、夕陽に海が染まる頃、ゆっくり階段を登って帰路につく。一気に登るのではなく、黒犬のように、後ろを振り返り、景色を確かめつつ上がっていくのだ。
翌日の朝は、寛順からドアを叩かれて、目が覚めた。
寛順はもう腫《は》れぼったい顔はしていなかった。
「舞子の部屋で朝食を一緒にとっていい?」
ドアの間から覗くようにして訊《き》く。
「どうぞ、どうぞ」
中に招き入れて、舞子はそそくさと洗顔をすませた。
「ここの朝日は大好き」
寛順は窓を開け、新鮮な空気を入れる。ちょうど真正面の水平線上に太陽があった。海面が黄金色に光っている。
「生まれた村を思い出すの。朝日を眺めていると」
「大きなブランコのある村?」
「そう。田んぼの向こうから朝日が出るときも、緑の田がこんな色に染まる」
「いつか行ってみたい」
「どうぞ、どうぞ。一週間でも一ヵ月でも、好きなだけ、泊まっていい」
ヴィオレッタが運んで来たトーストとハムエッグ、パパイアにカフェ・コン・レイチを、一緒に食べる間、寛順は故郷の村の話をした。
ツムラ医師とデ・アルメイダが訪れたのは、朝食後一時間もしないうちだった。
「ミズ・キタゾノ。あなたのおかげで、バーバラ・ハースの件、立証できそうです」
デ・アルメイダが言った。
「あの食虫植物ですよ」
ツムラ医師が言い添える。「植物の体内で、血液成分のDNAが検出されたのです」
「彼女が滞在していた部屋から体毛を集め、やはりDNA鑑定をしたところ、ほぼ百パーセントの確率で一致しました。こうなれば、いくら病院の理事長が屋上からの飛び降り自殺だと主張しても、却って足元に火をつける結果になります」
デ・アルメイダは自信たっぷりに言う。「バーバラの死体を運んだ黒人の男たち三人、顔を見れば見分けがつきますか」
「ぼくが墜落現場に駆けつけたとき、ハンスと他に職員が三人いて、彼らがバーバラの死体を運んだ男かどうか判るとしめたものなのです」
舞子は寛順と顔を見合わせる。男たちの顔を眺めるよりも、血に染まったバーバラの遺体に視線を吸いつけられていたのだ。そのうえ、ブラジルに着いてすぐの頃だったので、黒人の容貌《ようぼう》に区別はつけにくかった。
「自信はありません」
寛順の返答に舞子も同調する。
「そうですか。ま、一段落すれば、念のため彼らの首実検をしてもらうことになります」
デ・アルメイダは、それでも落胆した様子は見せない。「もうひとつ、あなたたちが通っていたお寺は、現地の警察に依頼して捜査してもらっています。ミズ・リーのソノサ、ミズ・キタゾノのビザンジ、それから可哀相なことをしたミズ・マゾーの──」
「モレです」
舞子が言う。
「そうモレという村の教会」
「何か分かったのですか」
寛順が訊く。
「分かりつつあります。全体像は数日中に報告できると思います。それに──」
デ・アルメイダはツムラ医師の方を見やった。
「ジルヴィー・ライヒェルが逮捕されました」
ツムラ医師が代わりに告げる。
「あの人が」
寛順が小さく叫んだ。
「彼女、自分の家から逃げ出していなかったのです。あの朝、自宅に捜査員が行ったのですが、蛻《もぬけ》の殻と判断していました。そのあとずっと張り込んでいた刑事が、家から出て来た彼女を捕えたというわけです。地下室で生活していたようです。優に半年くらいはそこに潜伏できるくらいの準備をしていました。ドイツ人らしいやり方です。他に逃げている連中も、あるいはそういう潜伏の仕方をしている可能性があります。サルヴァドールから出て行かないで、市内のどこかに半年、一年とシェルター生活する方法です。いま彼女を追及しています」
デ・アルメイダの口ぶりは、これから越えねばならない困難を反映しているのか、重かった。「しかし──」
と彼は言葉を継いだ。
「この事件は、ブラジルが戦後遭遇した犯罪でも最大のものになるような気がします。戦後の警察組織が全力を挙げて取り組んだのが、ナチス・ドイツの残党狩りでした。彼らの相当数が南米に逃げて来ましたからね。もちろん手ぶらではありません。みあっただけの財貨と共にです。
戦争前の一九四〇年の時点で、ブラジルにはドイツ系住民が九十万人いました。もちろん南米では最大です。アルゼンチンのドイツ系住民でも二十万くらいだったのですから。ドイツ人学校にしても、ブラジル国内に千以上、千五百近くあったと聞いています。ナチス・ドイツにとっては、第二の祖国だったのです。戦争終結後、訴追を恐れて南米に渡ったナチス高官は五千人と言われています。しかしこの数字はたぶん過小評価されています。そのナチス残党狩りも、最後のナチと言われたメンゲレがアルゼンチンで逮捕されて幕が下りたのです。メンゲレは知っていますね」
舞子は首を振ったが、寛順が頷いた。
「ユダヤ人の双生児を使って残酷な実験を繰り返した医師でしょう。ヨーゼフ・メンゲレ」
「そうです」
「今度のことも、そのナチス・ドイツと関係があるのですか」
寛順の問いにデ・アルメイダは顎《あご》をひき、舞子の表情をうかがう。
「ミズ・キタゾノ。あなたが見たという入墨がありましたね。死んだロベリオ、そして病院職員のジョアナ、サンパウロの空港であなたたちを出迎えた男。もうひとり、最後の夜にレストランで見かけた白人男の入墨は、ワシの爪《つめ》がハーケン・クロイツを掴《つか》んでいた──。ナチス・ドイツの象徴です」
「あなたたちが例の奇妙な部屋にはいるとき、双眼鏡のようなものを覗き込んだと言ったでしょう」
ツムラ医師がデ・アルメイダの言葉を継いだ。「舞子さんが左マンジだと言っていたあの印です。あれはハーケン・クロイツそのもの。ナチス・ドイツの旗印です」
「あなたたちをブラジルに送った人物を思い出して下さい。何という名前でした?」
デ・アルメイダが訊く。
「辺留無戸。日本語の上手なドイツ人でした」
「ミズ・リーは?」
「ドイツ国籍の老師《ロサ》でした」
「年齢は?」
「七十歳そこそこ」
「辺留無戸もです」
舞子が答える。
「あなたたちが病院で見かけた白髪の老人も、同じ年配でしょう。ミズ・マゾーが通っていた教会の神父もドイツ人です」
ツムラ医師が言った。「フォルテ・ビーチ病院の理事長もドイツ系ブラジル人でやはり七十歳。彼と話したことがありますが、ヒトラーと会ったと言っていました。ベルリンが陥落する直前です。ヒトラー・ユーゲントの一員だったのです。あなたたちが会った僧や白髪の老人も、多分ユーゲントの一員なのでしょう。自殺直前のヒトラーと謁見できたのですから、エリート中のエリートです。当時、十五、六歳のはずですから、計算も合います」
「数年前まで世界中の警察が探し続けてきたのは、ナチス・ドイツの重要人物たちばかりで、ユーゲントの連中は全く眼中になかったのです。ロスアンジェルスのヴィーゼンタール・センターというのは知っていますか」
デ・アルメイダの問いに舞子も寛順もかぶりを振る。
「ナチスの戦犯を追及するためにユダヤ人が作ったホロコースト研究所です。そこに問い合わせても、戦犯リストにはユーゲント所属の人物はひとりも載っていない。当然です。彼らは全員若く、実際の戦闘やホロコーストには部分的にしか関与していないのですから。
要するに、ヒトラーはユーゲント団員たちにナチス・ドイツの将来を託したことになります。つまり、若い芽を温存し、そのための物質的な援助も当然考慮していたはずです」
「あと少し待って下さい。時間とともに、すべてがはっきりしてくるはずです」
ツムラ医師が言った。
そういうナチス・ドイツの残党と自分たちがどんなふうに関係しているのか、舞子は理解できない。
デ・アルメイダもツムラ医師も、まだ真相の一部だけしか判明していないのだと言うが、本当はもっと知っているのかもしれない。寛順と自分に衝撃を与えないために、事実を小出しにしているのだ──。
二人を見送りながら、舞子はそんなふうに思った。
その日は昼の間中ベッドに横になり、天井ばかり眺めていた。食堂で寛順と昼食をとったときも、あまり口はきかず、黙々と食べ、カフェ・コン・レイチを飲んだ。
「わたし、舞子が一緒にいなかったら、とっくの昔に気がおかしくなっていた」
部屋の前で別れるとき、寛順が唐突に言った。どう答えていいかも分からず、舞子は微笑を返したのみだ。
考えれば考えるほど、深い泥沼の底に引き込まれていきそうだ。何故ナチス・ドイツと自分がつながりを持たなければいけないのだろう。自分が一体何をしでかしたというのだ。寛順と同じように、つきつめて考えると、精神の均衡が揺らいでくる。
「クラウス・ハースとおっしゃる方が玄関にお見えです。ミズ・リーとミズ・キタゾノに会いたいと言っています」
ヴィオレッタが告げたのは、夕食を終えかけたときだった。
「ここへお通し」
デ・アルメイダ夫人が言った。ヴィオレッタはすぐ戻って来た。
「お客様はお邪魔する訳にはいかない、ほんのちょっとだけ玄関口で会えればいいとおっしゃっています」
「わたしたち行ってみます。知り合いですからご心配なく」
寛順が夫人に言った。
玄関の外にクラウスが待っていた。
「あんたたちがここにいると聞いてやって来た。礼を言いたかったんだ」
クラウスは神妙な顔をした。
「少し外に出てみない?」
舞子は寛順を誘ってみる。クラウスがいれば、夕方の街も大丈夫だろう。イリュミネーションに照らされる石段まで行ってみたかった。
寛順が夫人に三十分くらいで戻って来ると伝えに行く。
「もっと早く来ても良かったのだが、こんな邸宅にはおいそれとは来れない」
クラウスは建物を見上げて言った。「しかし、あんたたちに礼を言わなきゃと思ってね。バーバラのことだよ」
日頃のぞんざいな口のきき方がしんみりとした口調に変わっている。
「本当にあの人、可哀相だった」
そんな感慨が舞子の口をついて出る。「生きているうちに知り合えておけば、いい友達になれたような気がします」
「あんたが、バーバラの血を吸った植物を守っていたんだね」
「はい」
クラウスの言い方はどぎつかったが、真実には変わりがない。
「そしてあんたは、バーバラが書いたメモを見つけてくれた」
クラウスは寛順に顔を向ける。
「偶然ユゲットがバーバラのことを話してくれたからです」
「ユゲット。──彼女のことも聞いた。バーバラと同じになってしまって。奴《やつ》ら、何てことをするのだ。悪魔と同じだ」
クラウスが吐き出すように言う。「あんたたちも大変だったな」
三人とも黙って歩いた。
石段が金色に光っている。街灯で上から照らすのではなく、低い位置に照明を置き、石段そのものを浮かび上がらせるようになっている。
「ユゲットと三人でここに来たことがあるのです」
寛順が口を開く。
「石段に腰かけて、ずっと海を眺めていました」
舞子も言う。あのときは昼間だったが、いま海は見えない。しかし黄金色に輝く石段は舞台装置のようで、また違った趣きがある。
「あんたたち、ここを気に入ってくれたんだな。俺《おれ》もサルヴァドールに来た当初、このあたりはよく絵に描いたよ。この石段もね。下から眺め上げたり、上から海と街を眺め下ろしたり。あんたらが今住んでいる館も描いた」
クラウスは後ろを振り返る。
「わたしたち、あの三階の部屋にいるのです」
寛順が指さす。
「ああ、あの部屋の窓、覚えている。鎧戸《よろいど》が閉められていてね、ドーンピンクの色が美しかった」
「ドーンピンク?」
「夜明けの空の色さ。あんたら、中に住んでいるから外側の色は知らんだろうけど」
「外に出るのは今が初めてです」
寛順が答える。
クラウスを真中にして石段に腰をおろした。
「ユゲットと、こうしてしゃがんでいたとき、下の方から黒い犬と黒い服を着たおばあちゃんが上がって来ました」
舞子が言う。「つい三日前も、黒い犬が上がって来るのを窓から見ました」
「あの婆さん、亡くなった。十日ばかり前に。ひとり暮らしだった。犬も野良犬で、婆さんが可愛がっていた。犬のほうでは婆さんに飼われていたと思っていたのかもしれん」
「黒犬は石段を十段上がる毎に下の方を振り返っていました」
「婆さんを待っていたんだろう。いや、婆さんの姿が見えていたのかもしれん」
クラウスがしんみりと言う。
階段の下の街には、星を寄せ集めたように灯がともっていた。その向こうに暗い海が黒い帯になり、街の灯と夜空の星を分断している。
街中にいるのに音がしなかった。
「そろそろ帰らないと、女主人に心配をかける。今度は昼前に来るよ。例のレストランであんたらにごちそうする。あのフランス娘が一緒でないのが本当に残念だがね」
クラウスはこみ上げてくる激情を抑えるように歯をくいしばった。
翌日の午後、ツムラ医師とデ・アルメイダ、サカガミの三人が連れ立ってやって来た。
「ミズ・リーもここに来てもらっていいですね」
ツムラ医師が言い、サカガミが彼女を舞子の部屋に連れて来る。椅子《いす》も寛順の部屋から二脚運び入れた。
「ジルヴィーが自供を始めました」
真向いに坐《すわ》ったデ・アルメイダが重々しく口を開いた。「あなた方に直接関係する事柄です」
その先は任せたというように、デ・アルメイダはツムラ医師に視線を送る。
「彼女が自白し出したのも、こちらがある程度、事実を掴《つか》んだからです」
ツムラ医師が、舞子と寛順の反応をうかがうように言った。「ぼくが持ち出した冷凍精子があったでしょう。そのDNA解析をしたのです。一方で、国際警察機構を通じて、モスクワの戦勝記念公文書館に連絡をとりました。そこには、ヒトラーの頭蓋骨《ずがいこつ》をはじめとして、彼が地下|壕《ごう》で自殺した際についたソファーの血痕《けつこん》、その他の遺品が残されています」
「ヒトラーは青酸カリ自殺したと噂《うわさ》されていますが、真相は銃口を口に含み、引き金を引いた自殺です。当然頭蓋骨に穴があき、坐っていたソファーは血で染められました。遺体は部下によって一部焼かれましたが、あとになってソ連軍がすべてモスクワに持ち帰っていたのです。ソ連邦が崩壊するまで、その事実は隠され、やっと事実が公にされたのは六年前です」
サカガミが言い添え、真剣な眼を寛順と舞子に向けた。
「冷凍精子と頭蓋骨に付着していた成分のDNAは同じものでした」
ツムラ医師がおごそかに言う。
沈黙が来た。
舞子はツムラ医師の言葉の意味を、頭の中で反芻《はんすう》する。
デ・アルメイダの厳しい眼が寛順に注がれる。サカガミは顔を紅潮させ、ツムラ医師の顔は蒼白《そうはく》になっていた。
「ということは、わたしも、ユゲットもバーバラも、彼の精子で受精させられたのですか」
寛順が一語一語かみしめるように言った。
「そうです」
答えたのはツムラ医師だ。「ぼくがその精子でバーバラとユゲットを受精させ、ミズ・リーはヴァイガントが受精させた。ぼくは知らなかったが、ヴァイガントは知っていた。ジルヴィーが白状したことです」
「でも何故」
寛順がわなわなと唇を震わす。
「ヒトラーの血のはいった優秀な子孫をつくるためです」
デ・アルメイダが口を開く。「ジルヴィー・ライヒェルはそう言っていました。そのために、最良の女性を選び出したのだと」
「受精する母体も、最良の状態にしておく必要があったのです。ですから、あなたたちはそれぞれ最愛の人の子供を生むのだと信じ込まされた。ヒトラーの代わりを、あなたたちの最愛の人が務めたわけです。その心理状態を創り出すために、ジルヴィーがいたし、あの奇妙な仕掛けの部屋があった」
ツムラ医師の澄んだ目が寛順と舞子を睨《にら》みつける。
「人種の交配による優秀な子孫を残すことが、彼の遺言の中に書かれていたと言います。ヒトラー・ユーゲントの男たちはそれを忠実に守った」
デ・アルメイダが言い添える。「ジルヴィーはまだ吐きませんが、いずれ明らかになるはずです」
「ヒトラーの冷凍精子が残っていて、彼らがこういうことをしているところから判断すると、彼らはその精子を増殖させる技術も開発していると見ていいでしょう。一ミリリットルの精液の中に約一億の精子が含まれていますから、増殖技術さえ確立すればその容量を百万倍にすることも可能です。
ぼくが受け取った精液量は、ひとつのサンプルで十分の一ミリリットルでした。これが増殖技術で作られたものか、原液そのものか調べているところです」
「ユゲットの身体《からだ》があんなふうに傷つけられていたのは、そのためですね」
寛順の声が掠《かす》れている。自分の両手を下腹の上に重ねた。
「彼らは事実をあばかれたくなかったのでしょう。子宮の中の胎児を調べれば、遺伝子の半分ははっきりします」
ツムラ医師が答える。
「わたしが今、身体の中に宿しているのも、ユゲットと同じものですね」
抑揚のない声で寛順が訊く。サカガミが立ち上がり、彼女の傍に行く。寛順が気を失うのを恐れるように肩に手を置いた。
「半分は同じものです」
「ヒトラーの?」
ツムラ医師とデ・アルメイダが同時に頷《うなず》く。
「そんな」
寛順の目から涙がこぼれおちる。「どうしてわたしたちだけが──。何にも悪いことはしていないのに」
そうだ、その通りだ。舞子も思う。自分たちがどんなことをしたと言うのだ。一生懸命生きてきて、明生とめぐりあい、明生を一生懸命愛した。寛順も同じだろう。いやユゲットもバーバラもそうだ。それなのに。
舞子の目にも涙が溢《あふ》れる。冷たい凍りつくような涙が頬《ほお》をつたう。サカガミが寛順と舞子の間に立って、両手をそれぞれの肩にのせた。
「あなたたちにはもうひとつ知らせておくことがあります」
デ・アルメイダの表情がさらに険しくなっている。その傍でツムラ医師が口を一文字に結び、目を見開いた。寛順と舞子が耐えている苦しみを、自分が少しでも負ってやろうという気概に満ちた顔だ。
「ミズ・リーの通っていた寺に、あなたの言っていたドイツ人の僧はもういません。ミズ・キタゾノが通っていたのもお寺でしたね」
「眉山寺《びざんじ》です」
「そしてあなたが会った僧が──」
「辺留無戸」
口の中が渇き、舌がもつれた。
「そう、そのドイツ人も姿を消していた。現地の警察からの報告です」
デ・アルメイダが言い置いて、舞子と寛順の顔を見据えた。「そしてあなたたちがそれぞれ暝想《めいそう》した場所があったでしょう。透明な壁でできた迷路。それもなく、広いがらんとした部屋があるだけだそうです」
「二人とも、どこに行ってしまったのですか」
寛順が冷ややかな声で訊《き》く。
「寺の主には急用ができたので帰国すると告げてはいます。ドイツでの行く先を書き残していますが、実在の地名ではありません。五、六年その寺で修行を積み、自分の資金で庵《いおり》を造りたいというので、許可してやったのだと言います。寺主の話は事実でしょう」
「老師のハングルはほぼ完璧《かんぺき》でした」
それは辺留無戸の日本語にしても同じだ。五、六年日本にいたくらいでは、あそこまで上手にはなるまい。
「彼らが仏門にはいったのは三十年前、修行をして一時国外へ出、また戻ってきたそうですから、語学歴は修行歴と同じくらい長いようです」
「ユゲットの場合も同じですか」
寛順が毅然《きぜん》としてデ・アルメイダに問いかける。
「彼女がいたモレの町の教会も調べてもらいました。結果は同じです」
デ・アルメイダはアタッシェケースから書類を取り出して、内容を確かめる。「ヴェルナー神父というやはりドイツ人ですが、行方をくらましています」
デ・アルメイダはさらに書類を繰った。サカガミが自分の椅子に戻り、真剣な眼をその書類の方に向ける。
「そこで意外な事実が分かったのです。彼女の恋人はアラン・ポアンソーと言って、トレーラーの運転手でしたが、事故死しています。反対車線のトラックが中央線を越えてきたのを避けようとして、急ブレーキをかけ路肩から転落、病院に運び込まれたのですが、翌日、死亡しています」
デ・アルメイダが言い澱《よど》み、重苦しい沈黙が部屋の中を支配した。「加害者も独身の青年でしたが、その事故の二ヵ月後に自宅で急死しているのです」
デ・アルメイダは舞子の顔を見つめ、そのあとツムラ医師に視線を転じた。
「舞子さんの恋人も交通事故の被害者ですね」
ツムラ医師から訊かれ、舞子は明生の死を告げられたときの衝撃をまざまざと思い出す。〈昨日までの幸せはもう今日で終わったのだ〉と思った。病院に駆けつけたとき、明生の身体は霊安室に置かれていた。事故の様子は、彼の両親から聞かされた。白線だけで区切られた歩道を歩いていたとき、後ろから猛スピードで走ってきた乗用車にはね飛ばされ、ほとんど即死だったのだ。
「加害者は知っていますか」
「いいえ」
免許を取ったばかりの少年だったとは聞いたが、詳しいことは知らない。
「まだ二十歳前の工員ですが、今年になって死んでいます。ひとり暮らしのアパートでです。警察は突然死で処理しています。争ったあともないし、布団で寝ていてそのまま、息が絶えていたらしいのです。もちろん司法解剖されていますが、肺のうっ血と心臓が少し小さかったというだけで、死因ははっきりしていません。だから突然死です」
ツムラ医師はまだ何か言いたそうだったが、デ・アルメイダが言葉を継いだ。
「ミズ・リーの恋人を死なせた加害者は、不明のままですね」
「自転車に乗っているところを無灯火のトラックがはねました。ひき逃げでした」
静かに寛順が答える。
「現地の警察でも、まだ加害者は判っていないようです。しかし、私の判断からすれば、その加害者もどこかで死んでいるでしょう」
「加害者も殺されたということです」
それまで口をつぐんでいたサカガミが寛順に言った。
「どうして分かりますか」
寛順が問い返すのを、舞子はじっと眺める。舞子も同じ気持だ。何故加害者までが殺されなければならないのか。
「これは我々の推論ですが、ほぼ確実でしょう。いずれ調べていけば明白になります」
サカガミが低い声で言う。結論は任せたというように、ツムラ医師もデ・アルメイダも黙ったままだ。
「つまり、あなたたちの最愛の人は、交通事故死を装って殺されたということです」
「まさか」
寛順が小さな声をあげる。
舞子も信じられない。どうして明生が殺されなければならないのか。明生が何をしたというのか。そして自分たちが何をしでかしたというのか。
「あなたたち二人、そしてミズ・マゾーもミズ・ハースも、前以《まえもつ》て彼らに目をつけられていたのです。この計画を理想的に運ぶには、その最愛の人を消す必要があった。悲しみに包まれたあなたたちの気持は、錨《いかり》を失った小舟に等しくなります。どこにそれを引っ張っていこうが、彼らの意のままです。いやこれは、あなたがたが弱かったということではなく、誰でもそんな気持になるはずです」
自分も悲しみを抑えきれないという様子で、サカガミは顔を歪《ゆが》める。
寛順が泣いていた。舞子も涙がこみ上げてくる。サカガミが立ち上がり、後ろから二人の肩に手を置く。
「できれば恋人の死は嘘《うそ》であって欲しい。生きていて欲しいという思いを、彼らは利用したのです。そのくらいの心理操作は、脳生理学を使えば簡単でしょう」
ツムラ医師の声には憎しみがこもっている。「例のホログラムの部屋にはいる際、双眼鏡のような穴を覗《のぞ》き込んだと言ったでしょう。赤いハーケン・クロイツが何秒間か見えたと。あれが条件づけの信号だった可能性があります。見ることによって、脳機構にスイッチがはいるのです」
「そのあたりのことも、逮捕したジルヴィー・ライヒェルを問い詰めればはっきりすると思います」
デ・アルメイダが窓の方を見やって言った。「それまではここにいて、ゆっくり休養して下さい。いいですね。思いつめたり、早まったことは禁物です」
デ・アルメイダの言葉に合わせて、サカガミが舞子と寛順の肩を軽く叩《たた》く。
「私たちがついていることを忘れずに」
サカガミの低い声が力強く耳に届く。
「また来ます」
ツムラ医師が言い、立とうとしたとき、デ・アルメイダの腰で携帯電話が鳴った。
「デ・アルメイダだ」
ボタンを押してから答える。
「えっ」
デ・アルメイダの彫りの深い顔が一瞬凍りつく。
「いつだ。分かった。すぐ行く」
電話をしまい、椅子《いす》を立った。「ジルヴィー・ライヒェルが自殺を図った」