小さな丸テーブルを二つくっつけ、パラソルで日陰をつくってみたが、四人分の大きさはない。ツムラ医師とサカガミの坐《すわ》っている場所は強い日射しが降りそそぐ。それでも二人は心地良さそうに目を細めていた。
ツムラ医師は黄色いシャツに白いショートパンツ、サカガミは膝《ひざ》までのジーンズにTシャツを着ている。シャツの絵柄は十匹ほどの子亀で、彼の大きな身体《からだ》にはどこか不釣り合いだ。
テーブルにはヤシの実が四つ並び、それぞれ開けた穴に二本ずつストローがはいっている。一気に飲んでしまうのが惜しくて、舞子はまだふた口くらいしか吸っていない。
「やっぱり来てよかった」
寛順が砂浜を眺めながら言った。「あのままサルヴァドールからサンパウロに行き、帰国していたら、何か重大な落とし物をしたようで悔いが残った」
両手いっぱいに四個のヤシの実を抱えて来たダミアンは、気を利かしてか、小屋の方に下がって母親と何か話している。
村の中のペンションに着いたのは昼過ぎで、昼食は国道沿いのシュラスカリアでとっていた。部屋でひと休みしたあと着替えをして浜に出て来たのだ。
教会の前の広場を通って朽ちかけた木舟の傍まで来たとき、浜の方角から子供の声がした。〈マイコ〉とその声は確かに叫んでいた。
黒人の少年が砂を蹴散《けち》らしながら走って来るのが見えた。ダミアンだった。学校は午前の部だったのだろう。
「ボーア・タールヂ」
ダミアンは満面に笑みを浮かべて、四人に手をさし出す。舞子も寛順も彼の手を握りしめた。
ダミアンの目に涙が溢《あふ》れてくるのを見て、舞子も胸が熱くなる。なんとか涙をこらえた。
「ダミアンの店は赤いパラソルがある所。レイチ・デ・ココがおいしかった」
舞子は言った。足は自然に店の方に向いていた。
ダミアンは四人のためにテーブルを寄せ、やっぱりあれが飲みたいかと言うように、ヤシの木に連なっている実を指さした。
「スィン、レイチ・デ・ココ、クァートロ」
舞子は指を四本立てた。
「舞子さん、立派なポルトガル語」
ツムラ医師が冷やかした。
「数字だけはユゲットが教えてくれた。ウン、ドイス、トゥレース、クァトロ、シンコ──」
寛順も一緒になって十まで数えたあと、黙ってしまった。サルヴァドールに行くマイクロバスの中で騒いでいたユゲットの姿が頭に蘇《よみがえ》っていた。
「可哀相なユゲット」
寛順がぽつりと言い、四人とも黙り込んで海を見やった。
風はなく波も静かだ。湾内の漁船は全部出払って一艘《いつそう》も残っていない。渚《なぎさ》から百メートルほどの沖合いで、腰かけ筏《いかだ》に乗った男が釣糸を垂れていた。
この位置からはフォルテ・ビーチ病院は見えない。弓なりになった砂浜を灯台とは反対側に歩き、突き出した浜を越せば見えてくるはずだ。
病院は閉鎖にならず、理事長と院長が代わっただけで診療は続いている。
遺伝子診断の冷凍血バンクについては、新聞が大きく取り上げていた。ツムラ医師が持って来た新聞のなかに英字紙があり、そこでも事件はトップを飾っていた。寛順が解説してくれたが、記事に〈|未来の日記《フユーチヤー・ダイアリ》〉という言葉があった。血液中の遺伝子には、まだ未解読の情報が膨大な量含まれている。何百万人分の冷凍血液でDNAのデータバンクを作っておくのは、その人間の未来の情報まで保持するのと同じだという。〈未来の日記〉は、医学の進歩とともに次々と頁が開かれていく。しかもその内容は保険会社だけが知る場合もあるし、逆に特定の個人が誰よりも先に知りたい場合もある。いずれも、情報は金銭に結びつく。いわば頁をめくるたびに、札束が舞い込む。冷凍血のバンクはそのまま金庫と言い換えてもいいくらいだ、という記事だった。
フォルテ・ビーチ病院が糾弾されたのは、そうした先端医学とビジネスを結びつけた行為と、もうひとつ、脱税行為だった。個人の遺伝子情報を保険会社に売り込む行為は、ブラジルでは犯罪にならない。禁止する法律がないからだ。だからその行為は、法律のある合衆国の保険会社との取り引きのみ、有罪とみなされた。従ってブラジルの法律で罰されたのは、保険会社や個人との契約で得た年間一千万レアル、円にして十億円の収入を届けなかった行為だけだった。病院の創設が三年前であり、当初からそうしたビジネスは行われており、二十五億円近い収入を得ていた計算になる。課徴金も含めて脱税額は十億円になったが、病院側はそれを即金で支払い、理事長と病院長が責任をとって辞職していた。
しかし一連の新聞報道も、フォルテ・ビーチ病院が犯したもうひとつの犯罪については、まだ何もふれていない。検察と警察当局がまだ事実を一切公表していないからだ。全容が明らかになるまで、報道機関には情報を流さない方針をとったのだと、デ・アルメイダから説明を受けた。
白髪の紳士も、右手に入墨をしていたジョアナも、クラウスが内偵した建物の番人のレオも、まだ行方が分かっていない。建物からごっそり持ち出されたナチス・ドイツの遺物にしても、行方は杳《よう》として知れないのだ。
警察は辞職した理事長を訊問《じんもん》し続けているが、黙秘のまま捜査は進展していない。
ロベリオが殺された理由も明らかにされていない。ジルヴィー・ライヒェルの自殺はそれほどの傷手だったのだ。
各国の警察と連絡をとりながら、ブラジル警察は必死の捜査を続けている。
惜しみ惜しみ飲んだつもりのレイチ・デ・ココがなくなっていた。まだ飲み足りない気がした。
サカガミが小屋の方に向かって手を上げた。ダミアンを呼び何か注文する。
他の小屋のテーブルに客はひとりもいない。手持ちぶさたの店の主たちは笑顔で舞子たちの様子を眺めていた。
「カンスンというのは漢字でどう書くのですか」
サカガミが訊《き》いた。舞子はポシェットに入れていたボールペンとメモ帳を寛順に渡す。
「なつかしいボールペン」
ペリカンの形をしたボールペンを寛順が受け取り、メモ帳の頁に大きく自分の名前を書く。それにハングルも添える。
「両方とも読めない」
サカガミは頭をかく。
「漢字が読めないのは、ぼくも同じだ」
ツムラ医師が言う。「舞子さんとの筆談も、恥ずかしいけれど平仮名だった」
舞子の視線は、寛順が握りしめているボールペンに注がれていた。それだけが明生の思い出の品で、他には何ひとつない。自分の頭のなかにある思い出以外は──。
ダミアンがトレイに四個のグラスを載せて運んで来る。
「カイピリーニャ。ぼくが勝手に注文したのです」
サカガミが言う。「こんな野外で飲むのにはもってこいですよ」
四人でグラスを持ち上げる。
氷と一緒に青いレモンのぶつ切りがはいっていて、冷たさと酸っぱさが舌に快い。
「舞子さんが何を考えていたか分かります。考えないように言うほうが無茶ですよね」
ツムラ医師の問いかけに舞子は力のない微笑を返す。実際、何百、何千回そのことを考えたか分からない。
何故、自分と明生のカップルだけが彼らの標的にされなければならなかったのか。どうして明生が殺されなければいけなかったのか。しかも事の始まりは寺の境内で起こったのだ。それは寛順にしても同じだった。二人で遊びに来たところを彼らの組織が目をつけ、用意周到に恋人を交通事故に見せかけて死亡させる。残った片割れを誘って、脳の生理機構に操作をかけ、白昼夢の状態に置く。そのまま自分たちの本拠地に送り込んで、受精させる。女性たちは最愛の恋人が生きていると信じ切っているから、喜々として受精に応じる。そしてその歓喜のなかで、因縁の赤ん坊を出産するのだ。
そのあとどうするつもりだったのか、舞子と寛順はツムラ医師に問いただしたことがある。訊かずにはおれなかった。
「おそらく、そのまま最愛の人との間に生まれた子供として育てていくでしょう。もちろん、あなたたちはどこかに半監禁されたままでです。外部との接触は断たれていますから、白昼夢の状態は決して醒《さ》めない。その代わり、二、三日に一度のあのホログラムの中での体験は続行されているはずです。そこで、最愛の人との出会いと生活は続きます。そのうち夢が現実におき代わっていくかもしれません──」
「仮にわたしたちが白昼夢から醒めたとしたら?」
寛順が訊いた。
「そのときはもう不必要なものとして、処分されたと思います」
舞子も寛順も返す言葉が見つからなかった。
この怒りと悲しみをどこにぶつけたらいいのだろう。いや怒りなら、時の経過とともに薄れていきそうな気がする。しかし悲しみのほうは、時間とは全く関係がないのだ。十年たとうが五十年たとうが、悲しみは減らない。舞子と寛順は肩を寄せ合ってさめざめと泣いた。
しばらくしてツムラ医師が口を開いた。
「仏教の本で読んだのですが、人の知性というのは悲しみによって力をもつというのです。ぼくも初めは何のことかなと思っていたのですが、自分がいざその立場に追いやられて、何となく実感することができました」
ツムラ医師の目がそのとき、すっと赤味を帯びたのを舞子は覚えている。「知性は悲しみによって力をもつ──。どうしてそうなるのか考えてみました。悲しみによって人は自分自身、そして自分と他人の関係がよく見えてくるのです。つまり悲しみがなければ、自分の足元も、身の回りも、天上のことも見えてこないのです。その意味で悲しみは、人が生きていくうえでの大切な道しるべになるような気がします」
言い終わったツムラ医師は目をしばたく。
もしかしたらこのツムラ医師も、自分と同じような悲しみを体験したことがあるのかもしれない。舞子はそんな気がした。
「これからはあなたたちのことを、寛順、舞子と呼びます。ブラジルではみんな親しくなるとファーストネームで呼び合うのです」
サカガミが陽気な声で言う。「ですからぼくはアントニオでツムラはリカルド」
「アントニオとリカルド」
寛順がおずおずと口にする。
「そうそう、アントニオとリカルド。舞子も口で言ってみて」
「アントニオ。リカルド」
サカガミとツムラ医師を交互に見て言う。奇妙な感じだが、その瞬間年齢の差や職業の違いが消え去り、幼なじみのような雰囲気になる。
「ぼくたちが寛順と舞子を故郷まで送り届けます。まず寛順は韓国、そのあと舞子は日本」
サカガミが言った。
「わたしも寛順の住む村を一度見てみたい」
舞子の頭に村の光景が浮かび上がる。「寛順の村には大きなブランコがあるのです。何十メートルもある大木の枝からぶら下がったブランコ」
「それはすごい」
サカガミとツムラが声をあげる。「そんなブランコ、漕《こ》ぐと気持いいだろうな」
「駄目なんです。女性しか乗れません」
そっ気なく寛順が答える。
「どうして」
サカガミが不満気な顔をする。
「三百年前からそうなんです。どうしてかは知りません」
「じゃ、寛順の村にはいるときは、カツラをかぶり、スカートをはいていく。それなら誰も文句は言わないでしょう。カーニバルで何度も女装したことがある」
舞子と寛順はまじまじとサカガミの顔を眺める。長い髪のカツラをかぶせ、おしろいと口紅をつければ、目鼻立ちのはっきりした美人にはなる。しかし問題は仁王様のように大きな身体《からだ》だ。ブラジルでは中年女性として通用するかもしれないが、韓国では無理だろう。
「やっぱり駄目です」
「それなら寛順と舞子が乗るのを見させてもらう。どのくらい高いブランコだろうか」
サカガミが顔を巡らせてヤシの木を見やった。「あのくらい?」
「そうです」
寛順の返答に舞子もびっくりする。想像していたよりもずっと高いのだ。
「まるで天からぶらさがっている感じがするでしょうね」
ツムラ医師が言った。「旅行にはダミアンも連れて行こうか。喜ぶよきっと」
思いがけない提案だった。舞子と寛順は顔を見合わせる。
「賛成」
声をあげたのは寛順だ。自分の故郷にダミアンがいる光景を思い描いたのだろう。
「そのあとは日本にも連れて行く」
ツムラ医師が舞子に顔を向ける。
「わたしも賛成」
「よし決まった。ダミアン」
サカガミが手を上げてダミアンを呼ぶ。駆け寄った彼に、サカガミとツムラ医師がポルトガル語で話しかける。ダミアンの顔が当惑から喜びに変わり、舞子と寛順の顔を眺めた。
「でもいちおうお母さんの許しを貰《もら》わないとね」
寛順が英語で言ったのをサカガミがポルトガル語に直す。ダミアンはまた小屋の方に駆けて行く。
「驚くだろうな。彼はサルヴァドールにも行ったことがないと思うよ。それが飛行機に乗って、いっぺんに外国旅行」
サカガミが目を細め、小屋の様子をうかがう。ダミアンはしばらく母親とやりとりをしていたが、また走って来た。許可は出たというように早口で報告する。
「それは良かった。一週間くらいしたら出発だ」
サカガミのポルトガル語をツムラ医師が日本語に直す。にこにこしたダミアンの表情を見ていると、どんな旅なのか実感しているとは思えない。サルヴァドールあたりまで旅行するくらいに考えているのかもしれない。海亀博物館の中に地図があったのを舞子は思い出す。海亀がどのあたりまで回遊するかを示した図だ。あれを見ながら説明すれば、ダミアンも理解してくれるだろう。
「ムゼーウ」
舞子が言い、メモ帳にペリカンのボールペンで海亀の絵を描く。ちょうどスコールの日にダミアンが地面に描いてくれた絵だ。
「すぐそこに海亀博物館があるのです。そこに掛かっている地図を見せれば、ダミアンもどこに旅行するのか分かります」
「そうか」
サカガミがまたポルトガル語でしゃべり出す。ダミアンが白い歯を見せて舞子に笑いかける。博物館のことをよく覚えていてくれたという顔つきだ。
「行ってみようか」
サカガミが二十ヘアウ札を一枚取り出し、おつりはいらないと言うようにダミアンに握らせる。小屋まで持って行くと、母親がこちらに向かって手を振る。息子の旅行を実感していないのは彼女のほうかもしれなかった。
カイピリーニャのせいで、波の音が遠くなっている。聞こえるのは自分たちの会話の声だけだ。
「舞子さん、今夜海亀が上陸するそうです。ダミアンが案内すると言っています。みんなで行ってみますか」
ツムラ医師が誘った。
海亀の産卵なら何回見てもよかった。ユゲットと一緒のときは浜にたたずむ海亀ばかり見つめていた。今度は海亀と星空の両方を眺めてみよう。
明生と満天の星を見上げたとき、あのなかに自分たちだけの星座があるのだと言われた。それももう一度探してみるのだ。
「わたし、またブラジルに戻って来そうな気がする」
寛順がぽつりと言った。
「わたしも」
舞子が答える。日本に帰ったとしても、ずっとひとりで暮し続ける自信は、自分の気持のどこを探してもない。
明生がブラジルにやって来たはずはないのに、思い出は日本でよりもこのブラジルのほうが濃厚なのだ。寛順も同じ気持なのかもしれない。
ピュアな心を──。明生がいつも口にしていた言葉を思い出す。
ブラジルなら、ピュアな生活を送れそうな気がする。あの忙しく、あわただしい、誰もが目に見えないものに追い立てられている日本だと、ピュアな心などどこかに吹き飛ばされそうだ。ブラジルは、ヤシ林と海、ダミアンのいる村、不思議な魅力をもつサルヴァドールの街を頭に思い描くだけで、胸の内が澄んでくる。
ツムラ医師がポルトガル語で何かダミアンに言う。
ダミアンの目が輝く。舞子と寛順に話しかけるが、内容は分からない。
「韓国と日本に旅行したあと、また一緒にブラジルに戻って来るのだね、と尋ねている」
サカガミが日本語に通訳する。
「スィン」
舞子と寛順が同時に答える。
ダミアンがまた叫ぶ。
「ちょうど海亀がこの浜に戻ってくるように──」
今度はツムラ医師が通訳する。
その通りだ。舞子がダミアンに笑いかける。
「エウ・ゴスト・ド・ブラズィル」
舞子がポルトガル語の文章を口にする。辞書にあった文句の丸暗記だ。
ダミアンの顔がまた輝く。
「わたしはブラジルが好きです、という意味」
サカガミが寛順に説明する。
「エウ・ゴスト・ド・ブラズィル」
寛順までが舞子の真似をし、最後には全員が同じ文句を口にした。まるで語学のレッスンだ。
「ブラジレイラ、ブラジレイロ」
歌うようにダミアンがひとりずつ指さしていく。
「ダミアンによると、これからは五人ともみんなブラジル人だって」
ツムラ医師が言った。