返回首页
当前位置: 首页 »日语阅读 » 日本名家名篇 » 作品合集 » 正文

ぐうたら愛情学01

时间: 2020-10-09    进入日语论坛
核心提示:    1 二枚目半文化論などと書きますと、どうも大袈裟で照れ臭くなります。しかし他に適当な題名がないので一応この題でお
(单词翻译:双击或拖选)
     1
 
 二枚目半文化論などと書きますと、どうも大袈裟で照れ臭くなります。しかし他に適当な題名がないので一応この題でおしゃべりをすることにしました。気楽な気持で読んでください。
 まず、二枚目半[#「二枚目半」に傍点]という言葉ですが、これはつい最近、ある週刊雑誌が創りだした言葉です。お読みにならなかった方はキョトンとされるかもしれませんから、簡単に解説しておきましょう。
 近頃、映画界では今までのように非のうちどころのない美男スターではなく、何処にでもある顔だちの男優が若い女性の人気をえているでしょう。こう申しあげては失礼だが、たとえば大坂志郎氏だの、小林桂樹氏などがそれです。森繁さんだってある意味でそうだと言えないことはない。外国では、ダニエル・ジェランのような俳優をあげることができます。彼等は決して昔の岡田時彦や上原謙のようにハンサム中のハンサムではない。銀座や新宿を歩けばざらに出あうタイプの顔だちと言ってよいのです。それがかえって現在の若い娘さんから好感をもたれている。つまり二枚目[#「二枚目」に傍点]ではなく二枚目半[#「半」に傍点]なのです。
 その理由はなぜかと言えば幾つでも挙げられるでしょう。寸分スキのない顔だちの青年は女性にとって憧れの対象となっても、なにか縁遠さ、近よりがたさをおぼえさせ、時には警戒心や劣等感を起させる。「素晴らしいハンサムだわ。しかしあたしなんかとてもとても」と思う気の弱いお嬢さんもあれば、「美男子を鼻にかけてイヤらしいったら、ありはしない」と反発する女性もいる。女性だけではない。こうした美男子というのは同性の男性からもヒガまれるだけで必ずしも人生において得《とく》をするとは限らないのであります。
 ところが二枚目半となるとこんな冷たさ、警戒心を若い女性には与えない。まるでオフィスで一緒に働いている山下クンや田中クン、あるいは家庭にあって小遣ばかり妹にせびる兄貴のような親しみを感じさせるわけだ。「桂樹ちゃん。お茶のみに行かない?」「ヨシきた」そういう気やすさ、親愛感があの二枚目半のスターにはある。「あんな男性なら私の恋人にも見つかるかもしれないわ」。女性には大いに現実感を与え、また我々のような若い男性にも「小林桂樹がもてるなら俺だって何とかなるかもしれないぞ」という自信を植えつけるのです。
 これだけなら問題はない。これだけの話ならば映画雑誌の黄ページのお話だ。だが言うまでもなく映画スターという存在は考えようによっては、たんに銀幕の人気者だけではなく、ある時期時期の女性の趣向や感覚の反映です。戦争直後、三船敏郎のような俳優が若いファンの心をひいたのは、彼が戦後の不安定な世情にもビクともしないたくましい男とうつったからでしょう。今日、二枚目半のスターがもしお嬢さんたちの好感をさそっているとするならば、それ相応の社会的理由がその底にひそんでいるのかも知れない。ぼくが皆さんと一緒に考えたいのはまず、この問題です。
 そこでクドいようだが、もう一度、二枚目半の特性を考えてみましょう。二枚目半が今日、好意をもたれるのは第一に彼等が我々男女にとって縁遠い存在ではないからである。それは二枚目という我々凡人のなることのできない高嶺《たかね》の花ではなく、みんなも同じようになれる、誰もが恋人にもてる人間だからだ。
 第二には、二枚目半には二枚目にどことなく漂うあの偽善的な匂いがない。偽善的というと語弊がありますが、二枚目というのは顔だけではなく煙草の喫《す》い方、洋服の着こなしかた、すべてが完ぺきであり、完ぺきというものは人間にとって偽善的、独善的な匂いを感じさせるものです。「私は美男子。みなとちがいます」。極端に言えば二枚目は社会から離れた高い場所に坐っているようだ。彼等はぼくら凡人には憧憬やコンプレックスをもたせますが、同時にある無力感を与えてくれるとも言えましょう。
 この「縁遠くないこと」「独善的でないこと」「みんなもやれること」こういった一種の実現可能感が二枚目半の魅力です。そして今日、この二枚目半諸氏が映画で活躍しだしたという事実は同時に若い世代が他の領域——たとえば教養や実生活の面でも「みんなにもできる」「縁遠くない」「独善的でない」ものを求めだしているのではないだろうか——こう考えられるわけです。
 二つの例をもちだしてみましょう。ぼくはこれで足かけ五年ほどある女子短期大学に週一回でかけているのですが、時々、そこのお嬢さんたちがどんな本、どんな雑誌を読んでいるかたずねる時がある。名前はだしませんが五年前には婦人雑誌ではAというのが一番読まれていたようだ。そのAという雑誌はパリ直輸入のモード、華やかなグラビア、色とりどりに入れて大変うつくしい。それが五年後の今日、同じ質問を女子大生にしてみると思いがけなく人気が落ちている。
「ふしぎだね。昔はA誌が人気があったのだぜ」そうたずねると——、
「だってアレ、夢ばかり持たせて、作れないんですもの。モードだって何だって」という返事でした。彼女たちの希望によると、婦人雑誌のモードは夢を持たせてもらわねば困る。しかし役にたつ実現可能な夢でなければ不満だと言うのです。シャンゼリゼを自動車で通りすぎるパリ貴婦人には似合うが、満員電車の束京ではとても着こなせないモードなら意味がない。つまり高嶺の花で憧れだけ持たせる二枚目モードよ、さようならと彼女たちは言うのでした。
 彼女たちとの授業でも、この傾向は少しずつ現われてきた。ある日、ぼくはアンドレ・ジイドの『狭き門』を彼女たちに読んでもらい、その感想を出させたことがある。御承知のように、この本は一見アリサとジェロームのこの世ならぬ恋愛を描いた作品で昔の娘さんなら泪《なみだ》ながさんばかりに感激、陶酔した小説。これが今日の若いお嬢さんには思いがけなく人気がなかった。彼女たちは本能的にいわゆる純愛のもつ偽善性をかぎつけたのであります。「ジェロームという青年は女々《めめ》しいからキラい。アリサだって普通の女じゃないわ」。そういう意味の率直な批判を書いた答案が幾つもあった。勿論こうした二つの例だけから新しい世代の趣味や傾向に判断を与えることは危険でしょう。しかしぼくはこの些細《ささい》な経験の中にも「二枚目」ではなく「二枚目半」スターを応援する彼女たちの生活感覚がひそんでいるような気がする。現実から浮き上ったもの、独善的なもの、とりすましたものに対する嫌悪がそれです。やすやすとこの生活感覚がいいとか悪いとか言うのは差し控えたい。問題は彼女たちの気持がそうなった以上、その感覚から我々も良い面を学ぶことができないでしょうか。
轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%