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初めにおことわりしておきますが、このエッセイは女性の読者であるあなたたちにとって、読んで気持のよいものでないかもしれません。ある人は、途中まで読まれて顔をしかめられるかもしれませんし、ある人は、「まア」と声こそ出さね、心のなかで反発されるかも知れない。いわば、このエッセイは書き手であるぼくにとってあなたたちを憤慨《ふんがい》させるかもしれないという危険さで、極めてやりたくない損な原稿なんです。
ぼくだって男性ですから、女の子の気を損じたくない。遠藤周作さんという人は、女の気持をよくわかってくれるわと思ってもらったほうがありがたいし、うれしいにきまっている。それを百も承知でこんな損な原稿を書きだしたのは、一つには、ぼくのような考えがそろそろ発言されてもいい時期なんじゃないかと思ってきたからです。
もっとも、今言ったように、ぼく自身じゃこの損な役割は引受けたくなかった。できうれば、だれかえらい学者先生がそのうちに言いだしてくれるだろうと、待っていたんです。
だが今までのところ、誰も言いださない。特に進歩的学者先生は言いださない。なぜ言いださないかと言えば、彼等、髪をパラリと額におとし、憂鬱げな顔をして理屈をこねる連中は、女性の読者がおそろしいことを百も承知しているからだ。まかりまちがっても「女性よ、君たちは少し甘やかされている」などと言えば、彼女たちの柳眉《りゆうび》を逆立てさせ、怒らせ、そしてソッポむかれること必定である。だから言えない。そしてぼくだってイヤだが、皆が言わないからしかたない。
ところで皆が女性読者をコワがるのも無理もない。戦後、強くなったのは靴下と女だという言葉がありましたが、これは一面、男性の自己|揶揄《やゆ》でありながら半面、真実をついている。たしかに女性は戦後、美しくなったが、同時に強くもなった。これは現在、十代二十代の皆さんには本当かなと思われるかもしれませんが、ウソだと思われたら、お母さまや叔母さまに聞いてごらんなさい。お母さまや叔母さまの時代は、御存知のように女性には選挙権もなければ、大学に進学する権利もない。兵役もなければ(兵役は男だけの損な役割だ)、姦通《かんつう》罪においても男子ばかり特典があった。亭主に「オイ、コラ」と怒鳴られれば「ハイ、申し訳ございません」と頭をさげてあやまらねばならなかった。あなたたちのように男の子に荷物を持たせ、喫茶店ではコーヒーをおごらせ、平気のヘイザというわけにもいかなかった。
それが今日では男も女も一応は同権である。これは当然のことであると皆さんはお思いでしょう。しかし、女性にも選挙権があり、大学に進学できるまでには、日本の先覚女性がさまざまな形で闘ってきたことはお忘れになってはいけない。今日、当然とあなたたちが思っていらっしゃる権利をかちとるまでには、こうした偉い先輩たちの力がおおいにあるのです。
男女は同権であると今の女性たちは考えます。あたしたちは能力においても知識でも男性には決して劣らないわ。社会において男にまけず働くことができるのよ。選挙権、進学権、その他もろもろの基本的人権と社会的位置においては同格でなければならぬし、同格であるのは当然ですわ。こうお考えになるでしょう。
ぼくもそうだと思います。本当にそうだと思う。しかしそれは一つの条件を入れての話です。その条件についてはあとで述べるつもりです。
だがその前に別のことを考えてみましょう。さきほど女は強くなったと申しましたが一方では、民主主義の社会になった今日も、女性側の中には依然として男女同権が社会では実行されていないという声を、日常生活でぼくはよく聞くのです。
「なにが男女同権ですの。うちの職場じゃまだ女の子にお茶くみさせるんだわ」
「そうよ。うちじゃ五年つとめたって七年つとめたって、女性には責任ある仕事を与えてくれないわ。女には何もできないっていう考えが頭にあるからだわ」
こういう声をぼくは若い女性から非常によく聞く。彼女たちはその時、ぼくまでが横暴な男性であるかのような顔つきをする。そしてぼくは他の男性の責任までとらされて甚だ迷惑だ。
しかしちょっと、考えてみましょう。あなたが仮にどこかの会社の上役だったらどうします。客がくる。あなたは男子社員にお茶を持ってきてくれと本当に言いますか。ぼくならやはり給仕さんがいない時は女性社員に頼むでしょう。但し勿論、その時は「おい、お茶もってきてくれ」などとは言わない。「○○さん。お茶、運んでくれませんか」という言いかたはするが、とも角、女子社員にお茶くみをたのむ。ぼくはこれを非民主的とも封建的とも思わない。なぜか。お茶を武骨なきたない男の手で出されるより、あなたたち女性のやさしい優雅な手で出されるほうがオイシイし、また事務的な客にもなごやかな雰囲気を与えるからです。お茶くみは決して事務や机運びよりいやしい仕事でもなんでもないと思うからです。と同時に、机運びは力弱い女性にはたのまないで、男の社員にたのむでしょう。男の能力と女の能力は優劣があるのではなく、別の次元だからです。
次にあなたが会社に責任ある上役だったら、日本の現状で女性に課長や係長の役職を与えるでしょうか。
いやいや、あなたたちだって、この点、自信をもって同性を会社の重要なポストにおかないでしょう。なぜなら会社の仕事というものは、やはり他の仕事と同じように能力と共に年期と経験がものを言います。これはどう否定しようとしたって否定できない事実です。だがたいていの女性は、入社して五、六年もたたぬうちに結婚生活にはいるため退社してしまう。このことは上役にとってはやはり責任ある仕事を委せられぬ重大な理由になるのです。ところが男の社員の場合は多くの場合、その生涯を会社の運命や浮沈に賭けているのです。
だから彼等の間にははげしい競争心や嫉妬心も生れるかもしれませんが、友情も生じる。そして彼等が同じ職場の女性社員を(やがては他人の女房となって退社する女性社員を)生涯の同僚と見られなかったとしても、それはあながち冷たい仕打ちとは言えないでしょう。
こう考えてみると、お茶くみ問題といい、女性を男性よりも職場で差別する問題といい、一途に[#「一途に」に傍点]男性の横暴と言えない理由がみなさんにもわかっていただけると思う。
しかし問題は別なところにある。こういうことはぼくが何もわざわざ書かなくても聡明《そうめい》なあなたたち女性はみな御存知だ。御存知にもかかわらず、なぜ依然として女性のなかにはお茶くみや職場待遇の問題にからんで憤慨される人が絶えず、また、そういう不平をつぶやくのでしょうか。
それには根本的な理由があるとぼくは思う。その根本的な理由とは戦後以来、進歩的女性やそれに追従する一部の文化人が「男女同権」ということをまちがった形で唱えたからです。
男女同権という考えかたは平たく言えばこうです。男と女とは同じ能力もある、力量も資格もある。女はなにもできないと言って家庭に封じこめ、男だけが社会に出てデタラメ勝手なことをするのは許せん。それは男性の封建意識のあらわれだ。だから男と同じだけ女も扱われるべきだという考えです。