3
話が少し横道にそれましたが、こうした都合のいい男女同権論の根本的な混乱というのは、どこから来ているのでしょうか。
それは男と女とを全く同じ種類とみなす考えから由来しているのです。
男と女とを同じ次元におき、女が男のようになること[#「女が男のようになること」に傍点]を男女同権だと錯誤《さくご》している点です。あるいは男が女のようになることを男女同権と思っている点です。
そんなことはわかっているとお思いでしょうが、この錯誤が戦後の進歩的女性や一部の文化人によって大いに唱えられたのではないでしょうか。かつて小学生の男子に料理や針仕事も教えるという滑稽《こつけい》な教育が行なわれましたが、それらはこのまちがった男女同権論から生れたのかもしれません。
男女は同権です。しかし同権といえば誤解をまねきますから、もっと正しく表現して男女分権と言ったほうがいいのです。
男の能力と女の能力、男性の資質と女性の資質はちがう。これは性《セツクス》がちがうように先天的なものです。男には男の仕事があるし、女には女の仕事がある。男には女に及ばぬもの、できぬことが幾つもある。出産、育児、家庭、やさしさ、平和主義、そして愛、これらは男が女に劣る点です。
しかし論理、体力、闘争、判断力等々では、たしかに男のほうが女より強い。そうした違いには勿論一部の例外はあてはまりましょう。なるほど男より立派な論理学者となった女性もいるし、男より体力のつよいプロレス女性もいる。しかし皆が皆、この一部になることはできない。一部の女性をもって全女性を考えることは論理のまちがいです。
だから男と女とがその能力の資質のちがいをみとめあうこと、これが本当の男女同権論の出発点です。男にできぬことを女がやり、女にできぬことを男がやり、互いの資性を尊重しあうことが本当の男女同権論というべきです。いや、男女分権論というほうが正しい。しかし、正当な分権論は同権論と同じです。ヴァイオリンだけではコンチェルトはできぬ。ピアノの伴奏がいります。ヴァイオリンの人とピアノの人は楽器は別ですが、同じ権利をもっている。だれだって、このことはわかる。
しかしこの平明な理屈がなぜ今日まで男女同権論に正確に適用されていなかったのか。男と同じになることを女の進歩と考えるエセ男女同権論が日本にはびこったのか、ぼくはよくわかりません。ぼくはこの原稿を書くに際し、もう一度、戦後の日本の女性の手によって書かれた「男女同権」に関するエッセイを読みましたが、そこには驚くべき錯誤が堂々と語られていたのです。
これはあきらかにまちがいだ。そしてこの錯誤はきわめて明瞭なのにかかわらず、今日なお、これを混同した不平、不満を若い女性の口からぼくはよく聞くのです。
このエッセイは読者のみなさんの心を傷つけましたか。反発を感じられましたか。感想をいただければありがたいと思います。