娘であることの価値
一週に二度、ぼくは二つの学校で女子学生に接している。接していると言ってもぼくは本来の教師ではなく外来講師という資格である。
外来講師というのは実に割りのあわぬ職業で、研究室は勿論のこと、学校に往復する電車賃さえ与えられない。先日、徹夜で仕事をした時などは、さすがに混みあった電車に乗るのがくるしくタクシーで学校を往復するから、このタクシー代だけで当日の日給は全部、すっとぶということになる。
考えてみれば精力の浪費にすぎぬ仕事なのに、ぼくが今日まで退職しないのは、どうやら理由があるようだ。一つはぼくは子供の時から妹コンプレックス——つまり妹がほしくてたまらなかったのだが、この希望が自分の妹にひとしい女子学生諸君によって充たされているらしいのである。授業が終ったあと彼女たちに珈琲を奢り、彼女たちの恋人の話やアルバイトの話などを聞いていると、何ともいえぬ兄貴愛? がこみあげてくるのである。まして彼女たちから、「アア、あたしも先生みたいなアニキがほしいなあ」などと言われると、もういけません、嬉しくて嬉しくて恋愛の相談にものり、アルバイトの世話などに力を入れ始めるのだ。
本来の教師でないぼくも、一年間教えている女子学生たちは次第に顔をおぼえ、名前も知り、一緒に雑談などしあうようになると情も移ってくる。新学期の四月、あたらしい連中にむかい合った時は向うもこっちもとり澄ましているから、それほどではないが半年ほどすると、親しみも増してくる。彼女たちも彼女たちで、折角アルバイトで儲けた給料の一部をさいて、小さな贈物などしてくれる。夏休みの旅行先からコケシ人形や絵葉書を送ってくれる。こういう点は男子学生の方が薄情で、女子学生の方が妹らしくてよろしい。
もっとも「教える」という点になると、男子学生にくらべて女子学生には、色々むつかしい問題が起きてくる。これはぼくの行く学校の性格にもよるのだが、ぼくの女子学生の大部分は卒業後、恋愛し人の妻になるのであって、研究室に残って学問にうちこむということはまずない。あるいは社会のしかるべき職場に進出しようということもまずない。そのような女子学生はみな東大を始めとする一流大学に行っているのであって、ぼくの学校の彼女たちは正直なところ「遊ぶことの方が勉強よりスキ」であり、「ムツカしい学問などあまり興味もない」お嬢さんたちなのである。
そういう女子学生にサルトルは何年に生れ、いかなる作品を書きというようなことは教えても不毛なのである。彼女たちは男子学生にくらべて、懸命にノートをとるふりこそしているが、そのノートの下に『挽歌』や『ジェームス・ディーン物語』がかくされていることを、ぼくは知っている。そしてそれはそれでいいのだと考えている。なぜなら、もし自分に本当の妹がいたとしても、ぼくはハイデッガーやサルトルなどを偉そうに論ずる彼女よりは、映画や山登りの好きな彼女の方を本当と思うからなのだ。だからぼくは彼女たちに一年の間に一冊の小説を丹念に読むという授業をしている。それは小説を一年かかって一冊だけ一字一句もおろそかにせず読んでいるうち、彼女たちはいつのまにか「小説の読みかた」がどんなにむつかしいものであるかわかるようになってくる。そしてその小説が彼女たちの生活にもいろいろな影響を与え、心にしみこむにちがいない。このほうがサルトルが何年に生れたかよりも、ぼくの女子学生にとってはるかに有益なのではないか。そう思ってこうした授業方法をとっているわけだ。
話が横道にそれたが、ぼくの見た限り現代の女子学生は世間一般が考えているように、芯《しん》からアプレ・ゲールの娘たちでもなければ、むつかしい議論を信じている才女でもない。ぼくは彼女たちの心は昔と変らぬ「娘」であり「女」であると思っている。週刊誌などが好んでとりあげる「現代女子学生はドライである」という考えは、彼女たちを知らぬも甚だしいものであって、女子学生は今も昔も心はそう変ってはいない。
そこで今日は不当に世間から歪められて見られているわが妹たちを擁護すべく、一人の兄貴として筆をとった次第である。