十九歳から二十一歳ほどの女子学生になると少し生意気になり、少し危険になってくる。この連中は大きく分けると〈ムード的虚無型〉と〈インテリ女性ぶり型〉の二つになる。
〈インテリ女性ぶり型〉というのは——教室で、「質問はありませんか」
そう訊ねると手を四十五度ほどあげて、
「先生、このレシの女主人公の生き方ですが……」
小説と言わずにレシと外国語で言うのがミソであって、実に微笑ましい。
「この女性は、まだ社会的意識にめざめていないと思うんです。男性の横暴に屈服していると思うんです」
まるで昨日『婦人公論』を読んで、暗記してきたようなセリフを言いはじめるのである。彼女たちにあうとジイドの『狭き門』の女主人公アリサも、モーリアックの『テレーズ・デスケールー』の女性も、すべて社会的意識にめざめず、男性の横暴に屈服している結果になるから愉快である。
このタイプの女子学生はあまり化粧やおしゃれをしない。時にはわざわざお化粧をしないことを、男女同権のシンボルだと考えている節もある。
けれども、ぼくはこの女子学生たちが突然、「娘」に戻る場合を幾度か見た。それは彼女たちが恋愛をしたり、失恋をしたりした時だ。先月まで口紅一つつけることを軽蔑していたA嬢が、急にルージュをつけて教室に出てくれば、教師のぼくといえど何かを想像せずにはいられないのである。
「先生、相談があるんです。一度、会ってください」
夜中など一人、仕事をしていると突然、そんな電話がかかってくることもある。電話をかけてきたのは男性の社会的横暴をいつも教室で述べるKさんだ。
「相談って、恋人のこと?」
「ええ……そうなんです」
次の授業のあと、Kさんに喫茶室でその相談をうけることになるのだが、その時の彼女はもう男女同権や歴史的に虐げられた女性について議論をふっかけてくるKさんではない。
「先生、彼の心、どう考えたらいいんでしょうか」
「そんなこと言ったって、君、彼のことスキなんだろ」
「ハイ……好きです。好きなんです」
彼女は既に一人の娘である。恋をした一人の娘であって、ぼくはそのような彼女をなんとか慰めようとするわけだ。自分の昔の失敗談や恥ずかしい話をきかせてやり、少しでも笑わせてやろうとする。