こうした〈純情型〉〈インテリ女性ぶり型〉〈ムード的虚無型〉の女子学生のほかに、勿論〈自称ドライ型〉にも時々、出会うことがある。
自称ドライ型で思いだすのは、T子という女子学生のことだ。この子は稀にみる美貌で、その美貌ゆえに他の女子学生よりはボーイ・フレンドも多いらしい。
「先生、あたし、絶対に損するような交際や恋愛はしません」
彼女のボーイ・フレンドの選びかたは(1)頭がいいか、(2)背が高いか、の二点を必須条件としていて、デートの間も自分を退屈させるような男の子は、すぐポイにするのだそうである。
「あたし、テニスをやろうと思う時は大学のテニスの選手とつきあうんです。むこうは一生懸命、教えてくれますし、彼と組んで試合をすればそれだけ得ですもの。テニスをおぼえれば彼と別れます」
こういうことをぼくに一生懸命話してくれるのだが、じっとその顔を観察していると、彼女とてやはり、根はよい娘なのである。ただ青春の生き方がジメジメしていませんという自慢を、ぼくに知らせたくて、偽悪的な心理になっているにすぎない。事実、このT子さんは卒業後、一人の青年に献身的な愛情を捧げている。
「昔の人生観とちがってきたじゃないか。チャッカリ主義はやめたのかな」
久しぶりに会ったので話をきくと、なかなかうがった返事をした。
「女って最後は結婚ですから、遊び友だちならばチャッカリ主義でもいいんですが、結婚の相手となると、やはり献身的になっちゃいます。あたしも女でしたのね」
「どうしてその人と結婚する気になったの?」
「彼は、今までの男の子とちがってあたしを黙殺《もくさつ》したんです。黙殺されるのが口惜しいからバタバタしているうち、彼に尽すことに嬉しさを感ずるようになりました」
つまり、女子学生時代のチャッカリ主義も、結婚の相手を見つけるまでの自己防禦の方法だったということになる。現代女子学生が、たとえドライだとしても、これは考え方によってはよいことであり、つまらぬ男にひっかかった昔の女性よりは、何か爽やかな気さえする。愛する男さえ見つかれば、彼女たちはドライやチャッカリを捨てることができるのだから、この連中も芯は「女」であるのだ。
女子学生の多くは今あげたような色々なタイプに属するが、結婚すれば普通の妻、普通の母親になっている。彼女たちがぼくの妹だったとしても、ぼくは現在のままにほったらかし、安心して眺めているだろう。これは彼女たちに五ヵ年も次々と接したぼくの結論である。少なくとも彼女たちの心の底にある「女」は外観とはほとんど関係がないのである。