こういうことを書くと「いい気なもんだ」「甘ったれてやがる」という批判がどこからかあるような気がしてならない。しかし私のいうことが事実かどうかを知るためには、読者は御自分の亭主をしかと観察されるがよい。必ずや思い当られるであろう。
妻にたいして母親的感情への移行を行うのは日本の亭主の特徴であるが、この時、妻はかつての彼の母親と同じように良心となる。彼は何か悪いことをした時、多少とも妻の顔を思いうかべる。妻に知られてはならぬと思う。それは妻が彼にとって良心だからである。
勿論、その良心の意味は人それぞれによってちがう。ある人にとっては単純な社会的道徳の象徴であり、他の人にとってはもっと本質的な裁きの象徴にもなる。しかしそのいずれにしろ、多くの夫は母親をむかし泣かせた時と同じ悲哀を、妻を泣かせた時感ずるものである。
「俺はいい人間だ。俺は立派な男だ。俺は善い男だ」などと思っている男はこの世にはほとんどいない。いればそれはよほどのお目出たか、鈍感な男である。大半の亭主は「俺はわるい男だ」という気持を心のどこかに持っているはずである。そういうことを言うと、ビックリする細君がかなりおられると思うが、事実は事実だから仕方がない。夫というものはあなたたちが想像しておられる以上に自己にたいする嫌悪感を持ちあわせているものだ。(女にはそれがない。女はいつも自分にたいしてウヌぼれていられるからだ)ただ彼らはこの自己嫌悪となっている部分を、他人に——特に細君に指摘されれば、怒鳴ったりワメいたりするだろう。なぜなら自分でも知っている欠点や過ちを身近なものから攻撃されるほど人間にとって不快なことはないからだ。
にもかかわらず、おおむねの夫はいつも「俺はワルい男だ」と無意識のうちに感じている。自分のカセギが少ないため、子供に運動靴を買ってやれない時、彼は一人そう思う。会社で気がムシャクシャするからもらった給料で酒をのみ、夜ふけ、すっかり空になった月給袋をもって帰る時、そう思う。女房が病気なのに怒鳴りつけた時、そう思う。自分が立派で、正しい人間だなどと自信をもてる亭主は百人中、十人もいない。
だが何にたいして彼は自分のことを「悪い人間だ」と思うのか。女房にたいしてである。女房をこのような形で倖せにできないことが、彼を「悪い人間だ」とどこかで考えさせているはずだ。
私はよく夜ふけの渋谷で次のような光景をみることがある。終電車が発車する半時間ほど前、あのハチ公広場の片隅で、若い衆がオモチャを地面に並べて売っているのである。飛行機や自動車、ピョンピョンとぶ猿、いずれも買えばすぐ、こわれそうなオモチャであるが、この玩具を必ずといっていいほど七、八人のサラリーマンが手にとり、考えこみ、そして買っていくのである。
みなさん。大人の彼がなぜ、このオモチャを買うのかおわかりでしょうか。
子供のためだとお思いか。それもある。しかしそれだけではない。男の私にはよくわかる。彼は自分だけが飲屋で酒をのんでいる時、女房と子供がわびしく晩の食事をしているのを思いだし、何か自分がわるウい人間のような気がしてきたのである。そのうしろめたさ、寂しさが(大きく言えば良心の呵責が)彼をしてピョンピョン猿や自動車を買わせてしまうのだ。
そう書けば、そんなに男って純情で気が弱いものですかと笑われる奥さんたちもいられるかもしれない。だが余程、冷血な男でないかぎり亭主というものはそういうものなのだ。
それならば、そんなうしろめたさ、寂しさを感じるようなことをしなければいいじゃありませんか、とあなたたちはおっしゃるかもしれない。だがそのような考えを起されるのは、男のどうにもならぬ業《ごう》を御存じないからである。