夫というものは多かれ少なかれ、妻を傷つけずにはいられぬ存在なのである。それは治せといったって治せるものではない。ちょうど男の子供というものが母に苦労をかけるか、傷つけるかによって「男の子」であるようなものだ。これは長い間の私の確信である。私だけではない。別のところで同じような例を出したが七、八年前イタリア映画で『道』という作品があった。ザンバーノという男がジェルソミーナという白痴の女を苛《いじ》める。女は一度は男から逃げだすが、やっぱり彼のところに戻ってくる。そして揚句の果て、彼に棄てられて冬のわびしい陽のあたる山で死んでいく。男は後になってそれを考え涙をながす。そんなスジであった。
私はこの『道』という映画は男と女との、どうしようもない関係の「道」を描いたものだと思う。時代は変っても世の中がどう変ろうとも、そして洋の東西を問わず男と女とはこのザンバーノとジェルソミーナのような関係だと考える。
夫は多かれ少なかれ妻を苛めたり傷つけずにはいられない。苛めたり傷つけると言っても、もちろんそれは撲ったり蹴ったりすることではない。夫婦それぞれに、それぞれのザンバーノとジェルソミーナの関係がある。幸福にしてやれないという苛め方、子供に喜びを与えてやれないという苛め方、浮気をせざるをえないという苛め方、百人百様いろいろあるのです。
それだから夫はいつも心の隅で「自分は悪い」と考えている。そこまで考えなくても「自分が善い」と思う亭主は数少ない。女房はその時、かつて泣いていた母親の姿と重なり、母親が象徴していた良心の代りとなる。
恐妻というのは細君に叱られたり怒鳴られたりヒステリーを起されたりすることにビクビクすることだけではない[#「だけではない」に傍点]。もちろん、細君のなかにあるこの狂暴な女の素顔にわれわれが怖れおののくことも大いにあるが、それだけではない。女房という良心にたいしてはなはだ申し訳ない私であるという、後ろめたい感じ、寂しい感じ、内部の呵責、それがつみ重なってあの恐妻という感情をつくりあげているのだ。買ってもらったばかりの洋服を喧嘩でズタズタにして一人、夕焼道を戻る時の男の子の心情——あれには母を恐れる気持があると言うならば、それに似ているのだ。
だからこれだけは世の細君たちも知って頂きたい。たとえあなたの亭主があなたを苛めたとしても、そのふりあげた手に痛みを感じているのだと。だから撲られたあなただけが痛いのではなく、撲ったあなたの亭主の心も痛いのだと。
その痛さのつみ重ねを私の先輩たちは「正月に食いすぎた餅が腹にたまっているあの重くるしい感じ」と言ったのである。
おそらくこれを読まれた女の読者は、私が何と男だけに都合のいい屁理屈を並べたのであろうかと言われるかもしれない。しかしそう考える人は失礼だが多分、まだ二十代の方たちか未婚の女性であろう。
人生を半ば以上すぎ、結婚生活の本当の年輪を経た読者ならば、私の意見にうなずかれるにちがいないと私は確信する。もしこの一文を読まれて腹をたてられた読者がいられたら、願わくは年上の女性に話して下さい。こういう考えは間違っているだろうかと。