さて、今日、お話いたしたいのは、こういううつくしげな姑や嫁の手記についてであります。もっと端的に申すならば、こういう手記にはどこまで真実性があるかということであります。いや、誤解をさけるためにこう言いなおしましょう。これらは別に婦人雑誌の編集部が読者に代って書いたのではなく、あるいは読者に強制して書かせたのではなく、山田ウメさんも木村トメ子さんも進んで自分の嫁のこと、姑のことを語ったにちがいないと思いますけれど——拙者のように世を捨てた老人には何か眉ツバのようなものを感じてならんのである。(会場、ザワメク)
静かにして頂きたい。静粛におねがい致します。
御覧のように拙者は、時代遅れの人間であります。時代遅れの人間でありますから若い頃から姑という者は嫁にイジワルをするもの、嫁というものは姑からイジワルをされるものという固定観念がぬけきれませんな。
若い頃、拙者の知っております姑なぞは、そりゃア、あんた、手のこんだイジワルをしたものでありますよ。
たとえばですな。冬の日、嫁というものは、一番最後に風呂に入るのが昔の日本家庭の習わしですが、嫁が裸になって風呂桶に足をつっこんでみると、湯が膝のあたりしか来ない。前に入った男たちがドンドン湯を使ったためであります。
そこで、仕方がないから可哀想な嫁さんは、こう、湯ぶねの中でガタガタ震えながら、あんた、手で湯をすくって肩や背中にかけたもんだ。(一同、シーントスル)
するとだねえ、姑はそれを知っとるんですよ。知っとって、わざと浴室の前までトコトコと猫背で近よりましてな、ジイッと聞き耳をたて、それからあんた、猫なで声で、
「文子さん、いいお湯かい」
すると嫁は哀しそうな声で、
「はい、お姑さま、おかげさまで、いい湯です」
「そうかい、そうかい。ゆっくり温まりなさいよ」
可哀想な文子さん。ゆっくり温まろうにも湯がないんだから温まれる筈はないのだ。(マアヒドイワ、ヒドイワ、ト言ウ声シキリナリ[#「声シキリナリ」に傍点])
こんな意地悪のされ方なんか序の口だったんですよ。渋柿を甘柿のなかにわざと一つ入れて、自分と息子は甘柿のほうを食べ、渋柿を嫁にわざとむいてやって、
「さあ、疲れたろ、柿でもお食べ」
渋柿を口に入れた嫁が思わず顔をしかめると、
「おや、マズいかね。どうせ、あたしがむいたものだからマズいだろうねえ」
こういうアリカタが拙者の若い頃の姑と嫁との関係でした。決して現代の山田ウメさん、木村トメ子さん語るところの「やさしいお姑《かあ》さま」「可愛い嫁」なんてもんじゃなかった。