いっさいのヴェールを剥いであんたたち正直に答えて頂きたい。一体、一人の女性ともう一人の女性との間に心の底からの友情、愛情が成立するものか。拙者、時代遅れのせいか、女と女とは二匹の犬のごとく、顔をつきあわせれば、ただちに敵意をもちあうと長いこと考えてまいりましてな。(マア、無茶苦茶ダワノ声シキリナリ)たとえ、口では、
「まあ、奥さま、おきれいな」
「奥さまこそ、おうつくしいわ」
などと友情ごっこをやってみせても、心中、なにがこの女がきれいなもんかとあんたたち、御経験あるでしょうが……ほら。(女性侮辱ダワノ声シキリナリ)ましてだ。姑と嫁との間に友情、愛情なんて存在するもんか。姑というのは嫁を憎むから姑だ。可愛い息子を自分から取った嫁をあんた、もう一人の女が愛せるもんかね。嫁というものは姑を邪魔ものと思いこそすれ、自分の実の母親と同じように愛せるもんかね。嫁と姑とは古今、東西、革命が起ろうと互いに憎みあう関係で、これを変えろというのは猫にワンとなけ、犬にニャアとなけと命ずるにひとしいワ。
だからこそ、現代の婦人雑誌にのっているような「可愛いウチのお嫁さん」「頼りになる私のお姑さま」などという山田ウメさん、木村トメ子さんの文章は偽善[#「偽善」に傍点]という二文字で覆われているのであります。偽善という言葉が大袈裟ならば、少なくとも世間体ちゅうか、虚栄心ちゅうか、あるいは功利的な感情で真実を避けて語っとるんだなア。木村トメ子さんは女として当然、心にもっている姑への嫌悪感をかくし、山田ウメさんは女として当然感ずる嫁への敵意に眼をつむり、「友情ごっこ」という芝居を毎日、演じているにちがいない。そして「友情ごっこ」は「ごっこ」である以上、決して真実のもんではないんですなア。いつかは破れるもんなんですワ。
なぜこういう「友情ごっこ」が最近、はやってきたか。そりゃ簡単だ。家族制度が戦前と異なり崩壊した日本の家庭では、姑の権力はもう落ち目だからな。落ち目の人間は相手にペコペコするがな。そうせねば姑は三度の御飯もたべさせてもらえません。だから今までとはガラリとちがい「うちの嫁はいい嫁さん」友好外交に転じたわけだ。嫁は嫁で、女中をやとうのは高い近頃だし、さりとて赤ん坊のお守りをしていれば自分は亭主と映画一つ行けぬから、姑を赤ん坊のお守りに使うのが一番いい。だから、あんた、姑は嫁に、
「二人で映画にでも行っておいでよ」
「姑さまって、理解あるのね」
こういう氷砂糖のような会話が交されるわけだ。しかし心の底でお互いそう思っているわけではない。「あなたおキレイね」「あなたこそおキレイだわ」の会話と本質的にちがいはないのであります。