拙者はさきほど、姑のイジワルとは、姑と嫁との「友情ごっこ」なる偽善[#「偽善」に傍点]をあばくものだと申しました。そうです。イジワルはすべて人間関係の偽善をとりのぞき、その本質を示すものなのである。たとえば、姑のイジワルは姑嫁の本来の本質関係をはっきりみせてくれるものなのであります。
フランスに有名な作家で批評家のアンドレ・モロワ先生という方がいらっしゃいます。河盛好蔵先生の御本を読んでおりますとモロワはユーモアとエスプリとを次のように定義づけているそうです。
「エスプリとは高みから人間を批評することであり、ユーモアとは自分を劣等者の位置において人間を批評することである」
おわかりかの。平たく申しますとだ、ユーモアとはこっちが道化役、劣等者の立場になって権力者や威張っているものの弱点欠点をマネをしたり誇張したりしてからかう「イジワル精神」のことである。エスプリとは高い地点から一刀両断、人間を鋭く批評する「イジワル精神」である。
だから、いずれにしろイジワルというのは批評とつながるのである。批評である以上、それは真実をつくということになる。してみれば、あんたイジワルとは他人に真実を示してやることになるのではないかの。
嫁に渋柿くわせた姑、湯のない湯ぶねに入れた話、それらの姑こそまさしく、真実をついていたのです。姑はそれによって「鬼婆」だの「糞婆」だのという世の非難を受けたのでありますが、そもそも、世の非難よりも真実をつくという行為のほうがはるかに高いのです。
今日、姑が嫁に猫なで声を出し、嫁が姑をいいお姑さまと呼ぶのは、それが民主的、文化的にみえるから誰もが出来るヤサしい行為である。しかし、猫も杓子《しやくし》もやるヤサしい行為とは原則的にロクなことはない。少なくとも風流ではありません。今のような世の中ならば、あなたたち姑は決然と嫁にイジワルをすべきです。そして彼女たちを泣かせながら漬物のつけ方を教えてやって下さい。頭に洗濯ばさみのような金具をつけて亭主を送り出すべきではないことを、しこんで下さい。そして畏くも勿体なくも亭主のおかげで雨露にもあたらず三度の食事も事かかないことを徹底させてやって下さい。嫁イジメ、姑のイジワルこそ、若い女性を女性本来の姿に戻し、日本古来の伝統に立ち戻らせる第一歩だと、拙者、信じて疑わんのである。(拍手ナシ)