女の闘争性
正直な話、ぼくは女が男にくらべて賢く、知性的であるとはどうしても思えない。けれども、女は男より下等だとは一度も考えたことはない。
正直な話、ぼくは女が男にくらべて、たのもしくて、判断力や分別があるとはどうしても思えない。けれども女は男より仕様のない存在だとは一度も考えたことはない。女は男とは同じ面ではまことに愚鈍であるが、男のもたぬ立派さ、高尚さ、けだかさを別の面で所有している。
にもかかわらず、多く男性が日常生活のなかで一瞬ではあるが、女のスサマじさにぶつかることがある。そして、ああ、女っていやだなあと思う時がある。
たとえばそれは次のような時だ。
女が女の悪口を言う時である。男だってもちろん他の男の悪口を言う時がある。だが女が同性の悪口を言う時と男が同性の悪口を言う時には本質的にちがいがあるのだ。
男が同性の悪口を言う時はもちろん嫉妬心からくる場合もある。会社の仲間、同業者にたいし男は競争心からその悪口を言う時もある。しかし、それが全部ではない。男は別の感情から悪口を言う場合が多いものです。
だが、女がもう一人の女にたいする時は——男の眼からみると——先天的に嫉妬が発するのではないだろうか。
ぼくは昔、一匹の犬を飼っていたことがあったが、その犬は他の犬とぶつかると、相手に見さかいなしに歯をムキダシ、鼻のあたりに皺《しわ》を寄せて、ウーウ、ワンワン、はなはだ迷惑至極であった。この犬にとっては自分以外の犬はすべて「敵」としか見えなかったらしい。
この間、人と待ちあわせるために都内の某ホテルに出かけた。相手がまだ来ないのでエレベーター近くのロビーに腰をおろしながら、案内嬢の一挙一動をじっと見ていると、面白い気晴しになった。
この案内嬢、客がそばによると、まことに上品、しとやかに微笑をたたえて応対している。だが、その客が彼女に背中をむけて立ち去ろうとした瞬間から実に奇妙なことがはじまるのである。
彼女は男客なら、そのまま知らん顔をするが相手が女客の場合は、今までのしとやかな顔が突然、鬼のような表情に変り鋭い眼つきでじっと相手のうしろ姿を観察する。相手の頭の先から足の先まで調べているのである。
なんの恨みも憎しみの理由もない客に、ただ相手が自分と同じ女性であるというだけで、このような眼つきをすることは、男の場合断じてありえない。
ここからぼくがわかったことは、「女にとって他の女はすべて敵である」ということであった。女にとっては、自分以外の他の女性はたとえ、同僚であれ、クラスメイトであれ、いや姉妹であっても、無意識には敵[#「敵」に傍点]なのではないだろうか——そんな感じさえしてきたのである。
ヤドカリと殻——そのエゴイズム
何を言うの。ヒドいことを口にしないで頂戴と皆さんはおっしゃるにちがいない。読者から怒られることを知りながら、その怒られることを覚悟でものを書くには勇気がいる。ぼくはあまり勇気がないほうだが、しかし事実をウソだと言うことはできない。
ぼくはある日、友人と銀座のバアに行った。その友人はここが顔なじみらしくホステスたちと仲良く話をしている。その話を何気なく聞いているうちに、ぼくは一つの場面にぶつかった。以下、その会話である。
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友人「おや、今日はレイ子の奴、来てないのか」
ホステス「あの人、さっき、お客さんとお食事に行ったのよ。レイ子ちゃん、ここで売れっ子だから」
友人「あんな面《つら》でか」
ホステス「あら、あんな面ですって。綺麗じゃない? レイ子ちゃん」
友人「そういえば一寸、エリザベス・テーラーに似てるな。しかし、あいつ、自分の綺麗なことを鼻にかけるからね」
ホステス「あら、そうかしら。そうかもしれないわね。だから、こう言っちゃ何だけどお客さんも始めはいいけど、あとであの人に寄りつかなくなるのよ」
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ぼくはそのホステスのいかにも偽善的な物の言い方や、やがて露骨にレイ子という同僚を罵《ののし》りだすまでの表情をじっと観察していて、なるほど、これが女の心理だなと思った次第だった。
つまり、女とは同性には無関心か、嫉妬かのいずれかの感情しか持ちえないのではないか。言いかえれば女同士には真の意味の友情は男性間よりもなかなか持ちえないのではないだろうか。
だからぼくはかつて女子学生を教えていた頃から彼女たちの「仲よし」という関係を本気で信じたことはない。
女子学生たちの仲よしというのは実に奇妙なもので、講義中でも体を犬ころのようにすり合わせ、授業がすめば双生児のように手と手をつないで引きあげていく。ぼくが最も滑稽だと思ったのは一人が便所にいくと、その親友というのが、別に便意もないのに一緒にお手洗についていくことである。
「そんなに離れたくないのか」
「あたしたち一心同体なんです」
「いつまでそれが続くだろう」
「失礼ね。先生。あたしたちの友情は一生ですよ」
ウソつけ、とぼくはよくその時、心の中で思ったものであった。君たちは本当の友情をもてぬからベタベタ、くっつきあっているにすぎない。自分の心のたよりなさを、ひそかに知っているから、わざと友情ごっこをやっているにすぎない。
このぼくの予感ははずれたことはない。というのは卒業後の彼女たちをみると、ほとんどつきあっていない。卒業後しばらくはまだ「仲よしごっこ」は続いているが、一方に恋人ができるともうダメだ。友人より、女にとっては恋人のほうがはるかに大事になる。むかしの友人は段々、邪魔っけになり、時には仇敵になることさえある。
「むかしは、君たち、カタツムリとカイガラみたいだったな。もう手紙のやりとりもしていないのか」
「年始状ぐらい出しますわ。あたしも主人と子供のことで忙しくて手紙なんか出す暇がないんです」
こういう友人関係というものは男性にはあまりない。ぼくの場合を言えば、ぼくの友人たちは少なくとも十年来の交際で次第に友情をつくり上げていったものばかりである。だからぼくは女同士に友情というものが果して成立しうるのか疑問に思うのだ。
なぜだろう。ぼくはその点を考えてみる。そして結論はこうである。
女は男とちがって自分一人では、どうにもできぬ存在だからである。女は結局、自分で自分の運命をつくることができない。
女はいつも自分の運命を他[#「他」に傍点]に依存している。親や恋人や夫や子供によって自分の運命が変化する。だから、いわばヤドカリみたいな存在なのではないか。
「いいカラ(殻)にぶつかることによって幸福がきまる」という気持はどんな女の心にも存在している。口では男女同権などと言っても女は「いいカラ」にぶつかれば幸福、「つまらぬカラ」にぶつかれば不幸になるのだという感情が心をいつも支配しているのではないか。はっきり言ってしまえば、女は結局、自分に自信をもったことがないのではないか。そこから彼女のエゴイズムがはじまり、彼女が他の同性には無関心である理由があり、「いいカラ」を誰が見つけるかという嫉妬心が生じるのではないか。
この一文はおそらく多くの女性読者に反発を引きおこすだろう。そしてもしぼくの考えが間ちがっているならば、どうぞみなさん、どこが誤解か教えて下さい。御返事を頂ければ幸甚です。