熊本の大学総長が女子学生の入学禁止を宣言したために、物議をかもしている。男女同権を無視したやり方だという批判を、主として女性側から、ぼくも、しばしば聞くのである。
「これじゃ、戦前に逆もどりよ」
「そうよ。逆コースもはなはだしいわ」
戦争が終るまでは、日本は特別の条件がなければ、女性は一部の大学を除いては大学に進学できなかった。もちろん、目白の女子大や東京女子大はあったが、当時のあれは大学ではなく、カレッジだった。女性たちが戦後、獲得したものの一つに進学の同権がある。女性も、また大学に入れるようになったのです。
ところでぼくも、その女性たちが大学に進学した戦後最初の大学生でありました。慶応の三田の校舎や廊下に、急に春がきてパッと花がひらいたように女子学生が現われて、
「あのオ……二〇二番教室、どこでしょうか」
と聞かれた時なんかの胸のトキメキ、今でも忘れない。もっとも、その時はまだ女子学生の数など少なくて、今みたいに、文学部の三分の二が彼女たちによって占められているということはなかった。だから、彼女たちが鉛筆でも落そうものなら、五、六人の男子学生がバッタのように駆け寄り、
「あッ、ひろいます、ひろいます」
「いや、ぼくがひろう」
「バカな。オレが先にひろうんだ」
こういう状態であった。女子学生一人に男子学生十人が、金魚のウンコのようにゾロゾロついて歩いたもんだけれどな。
しかし、いちばん困ったのは便所。いままで男子学生しかいなかった大学だから、女子用の便所がない。女子学生一人が便所を使用中だと、われわれは中に入ることはできず、戸の前で足ぶみなんかやっている。
「ウーウ、洩《も》りそうだ」
「ウーウ、まだか。長いなあ。早くしてくれんかいな。たまらん。我慢できん」
彼女は中で悠々《ゆうゆう》と用を足し、こちらの苦痛も知らぬ顔、鏡に向って化粧なんかなおしている。
「ひゃア、もうダメだ。我慢の限界だ」
「すみません。こいつ、もう洩らしはじめたんです。出てください」
「あら、ごめんあそばせ」
そんな悲劇が毎日、三田で行われていたのである。
しかし、あのころの女子学生は、まだ普遍的でなかったから美人が少なかった。たいてい、スケソウダラのような顔をしていた。だが、スケソウダラでも希少価値があったから、われわれにはチューリップに見え、ヒヤシンスに見え、天使に見えたのである。
それに女子学生は、われわれにとって都合がよかった。だいたい、当時の女子学生はケチであったから、授業料はらった以上、学校をサボるのは損だという経済観念、ケチ根性から講義を休まない。だから試験前にノートを借りるには、もってこいなのである。
「松井さん。ノート貸してください」
「あら、遠藤さん。またノートをとってないの。しかたのない人ねえ」
「そんなこと言うなよ。君は美人だな。ミス・ケイオウだ」
お世辞、言ってノート借りてきて、いざ写そうとすると、ところどころ、ワケのわからんことが書いてある。
「十九世紀の文学はエート、二十世紀のそれとちがってゴホン、感覚的であり浪漫的でありエート、ゴホンその技法においても……」
写しながら、このエート、ゴホンはなんの意味か、さっぱりわからん。
「松井さん。このエート、ゴホンはフランス語、英語」
「え? そんなこと書いてある?」
「書いてあるよ、ほれ」
彼女、それ見て顔赤くした。顔赤くするのも無理はない。彼女は教授の言葉を、男子学生のように理解してノートをとるのではない。まるで筆記機械のように一言一言、そのまま筆記したものだから、教授が言葉につまって、
「エート」
というとエートと書く。教授が咳《せき》をして、
「ゴホン」
というとゴホンと書く。そこでエート、ゴホンがあちこちに交《まじ》ったわけである。
女性共通の「ものの見方」
あれから二十年、もうこんな女子学生はおらん。彼女たちはスケソウダラではなく、ほんとうにチューリップみたいに美しい。エート、ゴホンを書くほど糞真面目《くそまじめ》ではない。要領がよすぎるほど要領がいい。
だが彼女たちは、要領がよすぎるほど要領がよくなり、糞真面目でなくなったから、大学の教師にとって教えにくくなったことは確かだ。彼女たちは勉強のために勉強するより、「試験」のために勉強する。試験がすめば、ケロリと習ったことは忘れる。実用的な語学などには熱心だが、実用的でない学問には無関心である。しかし学問とは、すぐに実用的ではないからこそ学問なのであるから、学問を実用化に結びつけ、そうでなければ死学問だという現実主義的な女房感覚[#「女房感覚」に傍点]の女子学生は、大学教師にとってやりきれないほど腹が立つ。
ぼく自身、大学で教えているので、女子学生からうける教師の被害は、いくぶん理解できるのである。なんといっても、いちばん困るのは、女子学生が多いと講義の水準を下げねばならぬということだ。
男子学生なら、こんな遠慮はいらない。わからなければ叱りつけ、どなってもわからせる。なぜなら、彼は社会でその知識を活用して生きていくと思うからである。しかし女子学生の大半は、人がなんと言おうと、「お嫁にいくため」の条件として大学に来るか、いわゆる「御教養のため」に大学に来ているのであるから、彼女たちを叱りつけ、どなるだけ損だ。こちらの声帯も痛む。
そのうえ、
「エコヒイキばかりして」
「周作先生なんて大嫌い」
そんなことを言われるのは損である。ぼくは損なことはしたくない。
彼女たちのために水準を下げれば、男子学生に気の毒である。教養のために彼らは大学に来ているとは限らない。学問のために来ている連中もいるのだ。
ということを、ある大学出の若い奥さんに話したら、その考えは間違っていると叱られました。
「なぜ」
「なぜって、なぜあなたは、そんなに男女の学生の知的水準を区別するの」
「だって、事実がそうだもの。見ればハッキリする。男子学生のほうが女子学生より、ほんとうの学問的な意味で優れている。全部が全部、そうとは言えんが」
「でも、彼らを教師は同格に扱うべきだわ。女子学生を甘やかさず、男子学生と同じように叱り、どなり、それでもできなければ堂々と落せばいいのよ。そのくらいの勇気を教師は持たなくちゃあ」
しかし、学習院で、仏文科の鈴木力衛教授が女子学生を落第させたとき、彼女と彼女の母親のものすごい非難をうけたことは、世間のだれでも知っている。こんなバカらしいことが通用するぐらいなら、熊本大学の総長の言うように、女子学生を大学から締め出すべきだと思うのは、ぼくだけではあるまい。