これがいよいよ最後です。十二回の間、重箱の隅をほじくるような思いで女性の悪口を書きつづけましたが、正直な話、こういう悪趣味なことは小生の本意とするところではないのです。天に唾《つば》するものは、自分の顔にその唾をうけるといいますが、女性の悪口を言う奴はどうせロクな男ではないことぐらい、百も承知しています。男だって我々同性からみてもいやになるような奴がザラにいます。それに自分自身も男としてさまざまの欠点をもっています。
編集部から、毎月責めたてられなければ、この労役からはやく逃《のが》れたかったのです。
ところでつい最近、あるテレビ局のニュース・ショーで、私の友人が女性一般の悪口を言いました。ところがたいへんだ。
彼が話し終らないうちに、局に電話がジャンジャンかかってきたのである。
「なんですか、あのイカナゴのような顔をした男は」
「そんなに女が馬鹿ならば、その女から御当人も生れたんじゃないですか。あんたの奥さんも女でしょう。何故、馬鹿な女を自分の奥さんにしたんですか。こんな男は一度もマシな女に会わなかったに違いないわ。気の毒ね」
その他諸※[#二の字点、unicode303b]の怒りにみちた電話、罵言《ばげん》でふくらんだ電話、軽蔑の電話、呪《のろ》いの電話が殺到し、さすがの局の面々も悲鳴をあげたと、後日、語ってくれましたが、私は、やはり女とは人を見る眼があるもんだとつくづく感じました。何故なら、そのテレビに出た私の友人は、女性視聴者の抗議電話の通り、いつも女にふられてばかりいる男であり、彼自身の告白によると「まだ一度もいい女にめぐりあったことがない」そうだからです。女性に噛みつく者は、あとがこわいということを、これで彼も身をもって知るに至ったでしょう。
しかし私は、その話を聞いたとき、我が友人も私同様ケシクリからんが、視聴者の女性も多少ケシクリからんではないかと思いました。つまり彼女たちにはユーモアがないのです。すぐムキになるのです。一|足《た》す一は何でも二なのです。
私の友人がたとえ女は馬鹿だ、けしからんと言ったとしても、それは朝のニュース・ショーのいわばお遊びのつもりであり、心の底からこの男が女性軽蔑、女性憎悪にかられていないことぐらい、そのふんい気をみただけですぐわかるはずです。これがわからないのはよほど鈍感か、ヒステリー性の女性であって、たとえそのふんい気がわからなくても、テレビ画面に出るこの男の人のよさそうな顔を見れば、いったい彼がどこまでユーモアをもってこういう発言をしているか、よみとれるはずです。
「お前、アホやな」
「どこまでマがヌケとるねん」
と友人に冗談半分に言いますが、それをムキになっておこる連中はまずいないでしょう。会話とか言葉は、そのふんい気で相手に伝達されるのであって、それを見ぬかないのでは、冗談一つ相手に言えたものではありません。だからテレビ局に電話をかけてきた女性の全部が全部そうだとはいいませんが、亀の子だわしのような顔になって食ってかかるところに、私は女の精神の貧弱さをみます。
もちろん、女というのは徳川夢声氏が言われたように「お産という深刻な仕事をする」ために、物事をナックル・ボールで受けとめることがなかなかむずかしいらしいですが、それでも訓練の如何《いかん》によって、人生の幅をもたせるユーモアを感じることができるはずです。私はそんなお婆ちゃん、そんな主婦、そんなお嬢さんをたくさん知っていますし、彼女たちのユーモアのセンスに敬意をはらっています。しかし同時に、多くの主婦の中に、どうも万事をストレート・ボールで受けとめる人がいて、これが男性を、夫を、しばしば照れくさくさせ、当惑させるのを見るとき、「おばはん、何もそうムキにならんでもええやないか」と軽くいなしたい衝動にかられます。
生活のリズムとして
おそらくテレビのニュース・ショーをみていた女性視聴者は私の友人の発言でおおいに自尊心を傷つけられたのでしょう。とすればなんとその自尊心の小さなことよ。あるいは、同性のために奮起せねばならぬという連帯意識にかられたのでしょう。とすればその連帯意識のなんと貧弱なことよ。
「ああまた、男がくだらんことを言っておる、ハハハハハ……」とニコニコニッコリ笑ってみすごす度量が何故ないのか。仮にここに石垣綾子なるおばはんがいて男性の悪口を言ったとする。しかし我々男性の大部分は、
「おばはん、また言っとるわ」
とニンマリニヤリと聞き流すことができるでしょう。もしここにひとりの男がいて、「けしからん、男性を馬鹿にしとる」さっそく受話器にとびついて局に電話をしたならば、我々はこの男の正義感を小児的なものとして、
「よせ、馬鹿馬鹿しい真似《まね》は」と軽くたしなめるでしょう。何故ならば、男がいなければ女は棲息《せいそく》できないし、女がいなければ男も棲息できないことぐらい、三歳の子どもでも知っているのですから。同じような欠点が我々にあることは百も承知している。承知のうえで言葉のピンポンをやっているのです。ピンポンはゲームです。あそびです。あそびを本気でとられてはこっちはポカンとせざるを得ない。おわかりかな。
こういうユーモアのなさが女性同士の生活に多くの摩擦を生じさせているようだ。
すべては心の余裕から
ユーモアがないというのは、心の余裕がないということです。私は教育ママの頭の中に、このユーモアのなさを感じます。心の余裕のなさを感じます。私は子どもの教育に熱心というひたむきな姿は、かえって人に照れくささを感じさせますし、子どもも迷惑です。もう少し子どもの人生を黄河のようにゆうゆうたるものとしてみてやる心の余裕をもたないかと思います。
「お隣の家はピアノを買ったのよ」
そう亭主にいうときの妻は、ひたむきはひたむきでしょうが、やはりユーモアがない。隣がピアノ[#「ピアノ」に傍点]を買おうが、こちらが褌《ふんどし》を買おうが、隣の娘がパンティ[#「パンティ」に傍点]をはこうが、こちらがみやこ腰巻き[#「みやこ腰巻き」に傍点]をつけようが、どうでもいいではないですか。
亭主のポケットにバアのマッチがはいっている。それだけでいやみをいう女房は「男を思うあまり」といえば聞えはいいが、やはり心に余裕がないからです。何故ならば嫉妬心というのは、たいていの場合、自分に自信のない場合におきるのであって、自分に自信がある場合は——胸に手をあてて考えてごらんなさい。嫉妬心は決しておきないでしょう。
いろいろ書きましたが、私の言いたいのは、この連載で腹をたてた人は一つ、人生や相手をゆとりある気持で見てください。遠藤周作は口ではあんなことは言うがほんとうはいい男だと思ってください。彼がああいうことを書いたのも、ことばのゲーム[#「ことばのゲーム」に傍点]であり、仕事だからだ。
「でも、かわいいとこあるわね」
「気が弱いのよ」
とおぼしめしください。けれども、ことばのゲームとはいえ、私もなかなかいいことを言ったでしょう。偉い人はどんな愚言もわがものとして精神を鍛練すると孔子さまもおっしゃいました。そんなこと孔子は言わなかったわという人は、まだ心にユーモアと余裕のない人!
私のつまらん文章も、賢い女性にはきっと役に立つだろうと願いつつ、またおめにかかる日まで、みなさんさようなら。