女をしかることは山を動かすよりムツかしい。
スタンダールの恋愛論には、こういうケッサクな女の話が載っている。
その女は浮気をしている現場を、恋人に見付けられた。
普通ならばビックリ仰天、ひたすらにあやまるのに彼女は頑《がん》として首を振り、自分は浮気をしていないといい張る。
「だって、今、見たばかりじゃないか」
と唖然《あぜん》とした恋人がなじると、彼女は、
「あなたって不実な方ね。自分の見たことの方を、わたしのいうことより信じるのね」
と答えたのである。
このケッサクな話を読んだ時、私は女ってまさしくこうだ、とヒザをたたいたものである。
女と男の違い——それはいろいろとあるだろうが、男は時として自分の非を認めるが、女は、いつも、どんな時も自分が悪かったと決して思わないのである。恋人に浮気の現場を押えられながら、逆に、
「あなたって不実[#「不実」に傍点]な方ね。自分の見たことの方を、わたしのいうことより信じるのね」
という女は、かかる場合も決して自分が悪かったとは毫《ごう》も思っていないのである。
「ゴメンなさい」
と女は口先ではいう。しかしそれはあくまで口先であって、心底、自分が全く悪かったとは考えていない。
(そりゃ悪かったわ。でも、仕方なかったんですもの。必ずしも全部、わたしが悪いわけではないんだわ。そうよ)
これが女の本心なのである。セルフ・ジャステファイ、つまり自己正当化と自己弁解をたえずするのが女なのだ。
「こんな女にだれがした……」
という流行歌があったが、女は自分の非を必ず別のことになすりつける。そして自分を多少でも正当化する。
おそらくそれは女が本質的に自己独立ができないためであって、たえず他者依存で生きているからであろう。
「君、ちょっと、きなさい」
と課長がタイピストを呼ぶ。
「こんな間違った打ち方をしたら、だめじゃないか」
「スミません。でも、枚数が多かったもんですから」
最後の弁解は男ならほとんどしないが、女の子は付け加える。その場では付け加えなくても化粧室で同僚に、
「なによ。休む暇がないぐらい、仕事をまわしてくるんだもの。思いやりがなさすぎるわよ。うちの課長さん」
というのを忘れない。
百人の亭主は百人とも、女房にその点、手こずっている。どんな時でも素直に、
「ごめんなさい。わたしが悪うございました」
とはいわない。必ず弁解の一つか、二つは口にする。だから、亭主は余計にカッカするのである。
私の考えでは、女に全面的に非を認めさせようとすると、多くの場合、失敗する。
だから、いい加減であきらめた方が良い。女はそういうものだと思った方が良い。なまじ相手がクドクド弁解するのに腹を立てて、平手の一発でもくらわせようものなら、形勢逆転、
「まア、あなたって、女に暴力をふるうの」
今までの自分の非はタナに上げて、逆襲してくることは明らかだからだ。
「そうか。あんたのいうのも分かるが、しかし悪い部分もあるぞ」
その程度であきらめておく方が男として無難なのである。